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2000.12.17より


山口多聞


 明治25年8月17日東京に生れ、同42年海軍兵学校40期に入学した。卒業後、第一次大戦に従軍し地中海でドイツ潜水艦と戦い、次いで水雷学校を卒業した。大正13年に海軍大学校に入り、駐米武官、軽巡洋艦「五十鈴」艦長を歴任した。
 昭和15年11月、第2航空戦隊司令官として旗艦「飛竜」に将旗を翻した。真珠湾攻撃に際しては、小型で航続距離の短い第2航空戦隊の2艦「蒼竜」「飛竜」を洋上補給の困難さから作戦参加に難色を示した南雲中将に詰め寄って作戦参加した逸話を持っている。
 攻撃目標の検討においても山口は港湾施設などの攻撃を主張したようであるが、結局米艦隊に一撃を加えて離脱する方針となった。
 真珠湾攻撃後、ウエーキ島攻略、ポートダーウィン攻撃、インド洋作戦と常に機動部隊の主力となって作戦を展開した。
 ミッドウェー海戦では、「赤城」「加賀」「蒼竜」が被弾した後、「飛竜」を指揮して米機動部隊に攻撃を敢行して「ヨークタウン」を屠ったが「飛竜」も命運が尽き山口は乗艦とともに波間に消えた。
 平時の訓練は大変厳しく、「人殺し多聞丸」とまで異名をとった山口ではあるが、気軽に兵に声を掛け談笑するなど闊達にして明敏な将器であったと言われる。真珠湾攻撃における第二次攻撃の意見具申や、ミッドウェーにおける「現装備のまま、直ちに発進すべし…」の意見具申は寸暇を争う航空戦の本質を理解していた数少ない指揮官であったと言える。
 山口の戦死の報に接した、アリューシャン攻略部隊の角田第4航空戦隊司令官は一学年下の山口を悼んで、「山口を機動部隊の指揮官にしてやりたかった、山口の下なら喜んで努める事ができたろうに…」と語ったと言われる。後述するが、空母部隊指揮官として指導力を発揮した角田少将が認めるほど、山口への指揮官としての期待は大きかったのである。