雪を思わせるような、真っ白い槿の花が咲く。
木々からは葉の擦れる音と、蝉の声。
空はどこまでも青い、夏の日だった
ただ、偶然かもしれなかったあの瞬間
じりじりと、真夏の太陽が容赦なく照りつける。
まるで刺されるような痛い感覚に、俺の頭は朦朧となった。
それに輪をかけるように、頭の中でジンジンと蝉の声が反響する。
…何も、こんな暑い日に鳴くことはないと思うんですがねェ
蝉に文句を言っても仕方のないことだと思いつつも、心の中で悪態をつく。
ただ蝉も限られた生を全うしようとしているだけなのだ。
夏は、植物も虫も、全てが生き急いでいるように見えた。
蝉の声が、先程よりも酷く頭に響く。
長時間日照りの中にいたせいか、体全体がいつもの倍の熱を持っているようで暑い。
昨日は深夜の巡察で、ほとんど睡眠時間を取れなかった。
加えて、今日のこの温度。
…ああ、世界が歪んで見える。
そう思った時、ふっと自分が宙に浮かんでいるような、そんな妙な感覚に陥った。
あるいは自分の体が自分のものではないような、唐突な浮遊感。
それからゆっくりと反転していく世界。
…俺は一体、どうなるんだろう?
ぐるぐると回り次第に不明瞭になっていく視界に最後に捕えたのは、
見たことのない黒髪の少女と青い空。
それから、その空に向かって咲いている、真っ白い槿の花だった。
…額に、ひんやりとした冷たい感触を感じる。
自分はどうやら目を閉じて寝ているらしい、と気がついたのは暫くしてからだった。
目を瞑ったまま、感覚を研ぎ澄まして周囲の様子を探る。
俺のすぐ近くに、人の気配を感じた。
土方さんか?一瞬そう思ったが、どうやらそうではないらしい。
彼のいつも吸っている煙草の匂いはしなかったし、それどころか花のような良い香りがした。
そして、畳に布が擦れる音。
ゆっくりと目を開けて、周囲の状況を確認しようとする。
闇しか映っていなかった視界に、眩しい光が飛び込んできた。
それと同時に、聞いたことのない女性の声も。
「気がつかれましたか?」
驚いて声のした方へ視線を向けると、一人の少女がこちらを心配そうに覗き込んでいた。
深い漆黒の髪に、日に透けるような白い肌。
何かに似ている、と思ったが、それを追及するより先に
自分の置かれている状況を把握する方が先だと思い、口を開く。
「俺は、なんでここに居るんでしょうか?」
慎重に体を起こすと、額から水に濡れた手ぬぐいがずり落ちてきた。
ああ、先程額に感じた冷たさはこれだったのか、と落ちた手ぬぐいを手に取る。
それはまだ水分を含んでいて、ズシリと重かった。
「私の目の前で、貴方が倒れられたんです。」
少女がにこりと口元に笑みをたたえる。
それと同時に彼女の瞳が、綺麗に弓を描くように細められた。
微笑んだ顔が何だか大人びて見えて、俺は少しだけドキドキした。
…倒れた、と彼女は言った。
まだぼんやりとした頭を抱えて、ゆっくりと記憶を辿ってみる。
そういえば巡察の途中で、妙な浮遊感に襲われたことを思い出した。
そして、奇妙に歪む世界の中で、最後に目にうつったものも。
すると、あの黒髪はこの少女のものだったのか。
ここまでの経緯を思い出し、それに気づいた。
「すいやせんでした。どうやら迷惑をかけちまったみたいで。」
目にかかる色素の薄い髪を指で払いながら、そっと彼女の方を見た。
少女はゆっくりと首を振ると
「いいえ。…どうやら、軽い貧血のようですね。」
今日は暑かったですから
そう言って、俺の手に持っていた手ぬぐいを取ると、氷水の入った桶に浸した。
カラカラと、氷が涼しげな音を立てて揺れる。
水に浸された彼女の手が青白く、陶器のように見えた。
「…そう言えば、お名前を伺っても宜しいでしょうか?」
濡れた手ぬぐいを軽く絞りながら彼女が聞く。
彼女の深い色をした瞳に目をやりながら、「沖田総悟です。」と自分の名を答える。
少女は一瞬だけ目を大きく開いて、「やっぱり、あの真選組の。」と感慨深げに言った。
…やっぱり?
彼女の言葉に、少し引っかかりを感じる。
そういえば自分は今、あの真選組の隊服を着ていない。
着ているのは普段着の着物だ。
はてな?と首を傾げると、少女はそれに気づいたのか慌てた様子で
「あ、あの…よくこの辺りを巡察していらっしゃるでしょう? だから、見覚えがあるなあって。」
そう言った。…心なしか、彼女の頬が少し赤いように感じる。
それから彼女ははっとして、また慌てたように視線をさ迷わせた。
「あ、あの、私はと申します。」
名乗り遅れてしまって申し訳ありません、と軽く頭を下げた。
さらり、と彼女の黒髪が揺れる。
頬は先程よりもほんのりと染まっていた。
…
心の中で彼女の名前を復唱した。
それは甘い響きのように胸の奥にまで広がる。
が氷水に浸けた手ぬぐいを、そっと俺に手渡した。
一瞬だけ触れた彼女の手は冷たく、白く透けるようだった。
そのひやり、とした感触に、自然と胸が高鳴る。
「もう少し、頭を冷やされた方が良いかもしれません。」
また、ふわりとが微笑む。
その笑顔に思わず頬が紅潮するのを感じて、俺は慌てて視線をそらした。
…視線の先に、庭が見える。
風通しを良くするためか、障子は開け放されて、そこから庭の景色が望めた。
比較的広い庭は、綺麗に整えられている。
こざっぱりとした庭の中で、一本の木が目に止まった。
青々と茂る葉に混じって、真っ白い花が咲き乱れている。
…この花は
じっとそれを凝視していると、気づいたのかも庭へと目を向けた。
「綺麗でしょう。槿の花です。」
は微笑むと、目を細めて言った。
の白い、少し赤味のかかった頬。
それから澄んだ、深い色の瞳。
…そうだ、この花に似ているのだ。
雪のように白く、けれども夏を鮮やかに彩るこの槿の花に。
じっと俺を見つめるの瞳を見て、俺は言った。
「ああ、綺麗ですねェ。」
…それが本当にあの槿の花に向けられた言葉かどうかは
俺自身もよく分からなかったけれども。
自分でも気がつかないうちに、自然と顔には笑みが広がっていた。
「本当に、もう大丈夫ですか?」
暮れかかった町並みが、太陽によって赤く照らし出される。
玄関まで見送りに来たも、ほんのりと赤く染まっていた。
「大丈夫でさァ。…今日はお世話になっちまって、本当にすいやせんでした。」
ぺこり、と頭を下げると、彼女はとんでもないという風に
「いえ、こちらこそ。大したお構いも出来なくって…。」
頭を軽く下げた。
随分と温度の下がった風が、木々を揺らす。
静かになった蝉の声を聞きながら、の風になびく黒髪を見つめた。
夏の夕暮れはひっそりと訪れて、あの日中の慌ただしさをゆっくりと治めていく。
胸の中に何故か淋しさに似たようなものを感じて、俺は戸惑った。
「お仕事の方、これからも頑張って下さいね。」
顔を上げたが、笑顔でそう言った。
体の中の熱が、じわり、と上昇する。
「…また、来ても良いですかィ。」
自分でも気がつかないうちに、自然と口から言葉が出ていた。
…この感情は、きっと
心の柔らかい、ずっと奥の部分に、そっと火が灯される。
それはゆっくりと燃え上がり、徐々に温度を増していく。
の白い頬が、夕陽と同じ色に染まった。
「…はい。」
の笑顔が、夕焼けの中で鮮やかに映える。
それは、あの槿の花のように。
俺の心を、そっと彩った。
ただ、偶然かもしれなかったあの瞬間。
全てが歪んで見える視界の中で、俺が捉えた真っ白な花。
それは今、雪のように消えることなく、ずっと咲き続ける。
永遠に。
○end○
←