コラム
サハリン旅行記 2005.06.01-08
昨年、約束をしていた私の生まれ故郷ポロナイスク(敷香)でのコンサートをしてくれるとの事、感謝で一杯。
6/1いつもの通り36人乗りのプロペラ機に身を委ねる、乗客の殆どは日本人ビジネスマン。隣に座った土建屋さんはサハリンに新しい仕事を見つけに行くのだそうで、したたかなロシア人と
旨く商談が成立するかを不安に思いつつ自社の命運をになってサハリンに向かう姿は凄いなと思って話していました。空港には相変わらず指揮者始めホストファミリーのイザベラさんなどが迎えに来てくれていた。当夜は何事もなく食事と歓談で終わり、いつもながら油で炒めた食事に恐怖を感じた。孫のカーチャが顔を出したが14才172Cm昨年よりめっきり大人っぽく見えたが益々女らしさが漂い魅力的に成長していた。明日からモスクワと黒海に1カ月のバカンスに出かけるそうな。既に夏休み(6−8月の3ヶ月)に入っているそうです。翌日は朝から団員の楽器の修理やら相談、夕方からは練習が始まりました。バッハ=シャコンヌ難曲です。昨年よりメンバーも増え以外とスムースに練習が運び与えられた2時間は特に問題なく、指揮の約束事の確認(何拍子で振るかの確認です)。5名の1stヴァイオリンのアルペジオが全員完璧に近いほどに弾き込まれているのには流石と思いました。翌3日は早速ポロナイスクに向けて出発初めて乗る列車4名のコンパートメントは既に寝る準備が出来ていた。日本の昔の2段ベットの列車を思い出した。昭和40年頃修学旅行で生徒と東京方面に出かけたことを思い出してしまった。7時間の長旅、距離的には札幌ー函館間(3.5時間)を倍かけて走ることになる。車窓から見える風景は全くの原野を行くと言う感じでした。開発すればどれだけ有効利用が出来るのかは分からないが広大な土地だけは間違いなく有る。ポロナイスクに到着後市内で一軒しかないホテルにて遅い夕食を取ったが、夜はディスコに変身老若男女が楽しくボリューム一杯の音楽に合わせて踊っていた。ロシアのどんな小さな田舎町にもこの種のホールは有るそうで、娯楽の少ないことと民族性がこの踊りにうつつを抜かすエネルギーなのでしょう。昔はロシア民謡でした、今はアメリカのポピュラーソングでした。翌日は雨模様の中250名位のホールでゲネプロ本番です。聴衆は200名くらいでも1曲ごとに来る拍手は熱狂的なものでした。終演後にはサイン責めでした。嬉しいですね。日本では私などはそんな経験がありませんから。生まれ故郷でのコンサート親父がしていたペンダントをして指揮をしました。亡き父母は喜んでくれたでしょう63年ぶりに生まれ故郷ですから。鮭なら3年−4年で故郷へ私は63年ですから。街の雰囲気などは覚えてはいないが掃除も行き届いていなく、インフラ整備の遅れはロシアの課題でしょうか。日本時代の木造の廃屋が残ったままなのは何か複雑な気持ちでした。兄の話では70年前脳溢血で倒れた祖母を親父が東京からおんぶしてポロナイスクまで連れてきたとの話を聞きこの交通事情の中どうやって連れてきたのだろうと考え深いものが有る。食事はもっぱら彼等が言うにはスパゲッティだそうだがうどんにいかと蟹をまぶしてマヨネーズをかけて食べたら以外に美味しく私の特別料理をコックが作ってくれました。夜中の2時に列車に乗り打楽器奏者のゲンナジーと車窓から街を眺めながら歌を唄いもう2度と訪れることもないであろうポロナイスクを後にしてユジノに帰りました。
5日の朝は9時ユジノ着2時間ほど寝てチェロのブリッジや毛替えなど短時間に大量の仕事をする、指先が硬直してしまいイザベラが見かねて手のマッサージをしてくれた。昨年自作楽器をプレゼントしたアーニヤが食事を招待するとのことで辞退したが結局日本レストランで天丼をご馳走になった。エビなどは新鮮なのかとても美味しいのには驚いた。
彼女の演奏を聴くことにして音楽院でモーツアルトの4番のコンチェルトなどを聴かせてもらう。自作の楽器が若い人に使われている喜びがひしひしと伝わってくる。そういえばロマン君に再度楽器をプレゼントする事を約束して今回それが実現できた。彼は最初贈った楽器がアルバイト中に暴漢に襲われて壊されたと聞き再度プレゼントする約束をしていたのを今回実現できた。彼は今ノボシビルスクで勉強中。苦労をしていると聞くとドイツで苦労をしている我が息子とダブってしまい2本目の楽器を提供することになってしまった。夜間の練習についで6日はホルムスクでのコンサート、この街は2度目である。1942年サハリンを離れて引き上げの時に引き揚げ船を待った街である。
この街の記憶は以外とある、一番の記憶は収容所の寮から眺めた風景である、船が港に入る日を待ちわびたこととどろんこ道を思い出す。今は割と綺麗な街になり新築中のビルも有って活気に溢れている感じだ。コンサートは音楽学校のホールで日曜の夕方にもかかわらず半分位の入り理由は晴天だとダーチャ(郊外の畑)に行く市民がおおいそうな。夜9時位まで明るいのだから仕方がないのだろう。コンサートを終えてユジノに帰ったのは0時頃、疲れたー。
7日コンサート最終日ユジノでは兵隊用の高級ホール700名収容のホールは満席、お客がいると力が入るのでしょうか。アンコールのカバレリアルスティカーナが終わるや凄い拍手、鳴りやまず。TVのインタビューや録画も撮ったそうで放送は何時なのでしょう。ディレクターはDVDにして送ると約束してくれたがロシア人の約束は当てにならない。8日帰国の日沢山の土産と修理の為のチェロを持たされて帰国、流石に大きな荷物を4個持って一人では無理。サハリン空港ではあらかじめの根回しが良かったのだろう、何のトラブルもなくあっけなく大量の荷物は通過。
女房に千歳まで迎えに来て貰って助かった。8日間のサハリン旅行も無事終わり6月なら寒くないだろうと思って出発した旅、最終2日間は寒かったな。来年は声がかかるか分からないが身体が許す限りサハリン通いは続けたいもです。私の生まれた故郷だから。肉体が滅んでも楽器が残ってくれることを願って自作楽器をプレゼントしていきたいものです。楽器が残るのは50年先か200年先までか?
サハリンでの1週間 2004.05.19-26
昨年の彼等(サハリンのユージノサハリンスクの弦楽合奏団)との約束で、5月19日から1週間の予定で出発、千歳空港から36人乗りプロペラ機で1時間半かけてサハリン空港に到着。
修理道具を含めて3個の荷物(20K位)をどう運ぼうかと心配していたが、空港ロビーに着いたら指揮者、ホストファミリーのお母さん、通訳など5名ほどの出迎えがあり、荷物運搬の不安は解消。
その日の夜、他の音楽学校の生徒、教員によるコンサートを、博物館(旧拓銀)へ聴きに行く。
レベル的には日本の大学生並で、取り立てて上手い人がいたわけでもなく、興味を引かれる物はなかった。
今日から1週間お世話になるチェロのイザベラさん宅に到着、彼女はドイツ語少々、英語も少々話せると言うことでお世話になることになったらしい。
昨年指揮者のズジャーラエフ氏の所での民泊では、ご夫婦揃って全く会話が通じず、互いに気まずい思いを何度もした経験から、意志の疎通の出来る人の所を御願いしておいた結果だった。
イザベラさんは、年齢多分67歳位の品の良いおばあちゃんで、5年前に旦那さんを亡くしたそうで、お孫さんが夜になると泊まりに来るとのこと。
旦那さんとの若いときの写真が壁の至る所に貼ってあり、若いときの彼女はバーグマンを思わせるような美女だった。
お孫さんのカーチャは未だ13歳だそうだが、これがまた可愛い子で人なつこく、何か人間の宝石を見るような感じの子だった。
13歳で身長167Cmすらりとした体型が30歳近くなるとビア樽のように太ってしまうのは食事のせいだろうと想像する。総じて食べることも有るが動物性の油の取りすぎだろうと思う。
町中で会う若い女性は本当に素晴らしい美女が沢山いる、と同時に太った中年の叔母さんも沢山いる。せいぜい25歳くらいまでが女の盛りだろうと思って町中の女性を眺めていた。
翌日から修理が始まった。持ち込まれる楽器は殆どが剥がれ、相談を受けるのは駒の高さ。何しろ何年間もメンテされていないので楽器は可哀想。練習時に見る楽器は相当酷いが、彼女らは恥ずかしいのか持ってこない。
例えばコンマスの楽器。2本の楽器を1本にした、いわゆるコンポジットヴァイオリン。それも粗悪品が2本だから良い音がするわけがない。選択した曲にアルビノーニ=アダージオ。ソロが沢山出てくるが、彼女の楽器から出てくる音はハーシーな苦しい音だった。楽器は替えたいのだろうが、月収入が300ドルでは無理と諦めてしまうのだろう。
これからサハリンは石油、ガスの輸出で、きっと豊かな島になり、彼女たちも数十万円の楽器を手にすることが出来るようになるだろうと思うし、そう願う。
毛替えが沢山十数本。毎日5−8時間働き、また練習も3−5時間。日頃グータラしている身には応えた。
曲目にレスピーギ=古代舞曲とアリアを選んだが彼女たちは良く練習していた。私の要求に何一つ異論を唱えることなく、もくもくと弾いてくれた。反応の良い訓練された団体な事が良く分かる。又ソプラノの曲を3曲予定していたが、確かに上手な歌手ではあるが、アベマリアを歌うには向かない(ドラマチック過ぎる)し、清楚な物を求めるにはほど遠い。諦めた。
城ヶ島の雨を突然求められ、楽譜をその場で渡されて「さあ棒を振れ」と言われて、これも困り果てた。手書きのスコア読みにくい歌詞が入っていないドラマチックすぎる歌唱。合わせるだけで精一杯だった。
彼女とは最後までフレンドリーになれずにコンサートは終わった。コンサートは音楽院ホール200の席は超満員、モスクワから政府のお偉方も招待されているそうな(紹介されたが上品な中年女性が2人)演奏は熱気に包まれて終わった。
私が何故指揮しているかを説明してくれると、会場はどよめきとも感嘆ともつかない雰囲気が伝わってきた。
コンサートも修理も無事終えたが、ヴァイオリン1本だけ直しきれずに持ち帰った。彼女曰く長年使っていた楽器だそうでバラバラになっていた。これは1週間では直せない。税関が無事通過するか心配していたが難なく通った。
昨年セカンドのトップを弾いていた女性は、楽器が割れたまま弾いていたので、持ち帰っての修理を申し出た。空港まで持ってきたが、ロシアからアンティーク物の持ち出しが禁じられており、場合に依っては取り上げられると聴き、間際で断念した。当然彼女の楽器は今回修理してあげたが、残念ながら本人には出産で逢えなかった。相当の美女だったので逢いたかったのに残念だった。
余談だが、ロシア税関のいい加減さと厳しさを披露。
帰りの空港での話。沢山のお土産を頂き、20Kで持ち込んだはずの荷物が28Kになり、8Kオーバーした分、日本円で1万円くらいだが払えと係りが言う。「ルーブル持ってない」と通訳を介して主張すると、顎で通過しても良いと指示する。日本ではあり得ないこと。
通訳の話では彼等の懐に入ってしまう金だそうな。ロシアは賄賂横行の世界旧ソ連時代からの悪習がまかり通っているそうだ。
もう一つ貰ったお土産(その時は、私は何が入っているか判らなかった)を、係官が荷物を開けろと主張する。私は怪しい物は持っていないと主張するが、認められず開ける羽目に。
修理道具の奧に潜んでいたお土産のガラスの置物がアンティーク物と間違われたようで、誤解が解け、一件落着。税関の厳しさといい加減さに驚いた。
滞在中も音楽学校の職員からパスポートを貸してくれと言われ何に使うのか聞いたら、警察に提示しなければならないそうな。要するに本人を音楽学校がちゃんと世話していることを申告しなければならないそうだ。この点は日本も見習ったら良いかも(不法入国の不良外人を阻止するには良いことかもしれない)。
今回もう一つ体験した、「バーニヤ(公衆浴場)」でのこと。
民宿中の叔母さんが毎日シャワーに入れと言うが、お湯の量も制限されるので、シャワーは毎晩断っていた。すると、「打楽器のゲンナジーさんと通訳の3人でパーニャへ行け」と言う。費用は学校が出してくれるからと言うので、向かえに来た彼と3人で出かける。
日本の公衆浴場を想像していったら、やけに静か。1時間貸し切りのサウナと小さな浴槽の有る(洗い場などはない)建物、何人で入っても1時間4000円ほどの風呂だそうです。
暫くぶりで風呂らしき物に入って少量の麦酒を飲んで帰りました。
翌日その話を練習中に団員に話して、「実はあなた方と入りたかった」と話したら、一人だけ付き合ったのにと言う女性がおりました。本当にでぶっちょのゲンナジーと入るよりはその女性と入りたかったです。お金持ちが家族で行く貸し切りサウナでした。
帰国の前日の晩、日本レストランでサヨナラパーティー。
2日前から油物の食事で弱っていた胃袋に、食事は流石入ってはいかない。折角のご馳走は駄目だったが、甘口のワインがとても美味しく、また指揮者のズラジャーエフ氏が、「来年は私の生まれ故郷ポロナイスク(敷香)に演奏旅行に行こう」と言ってくれたことは、私に取って最高のはなむけの言葉でした。
1週間の滞在無事終えて、千歳到着滞在中適切な通訳をしてくれた金龍哲さんに感謝しなければならない。北海道新聞の現地駐在員矢崎さんにも感謝しなくてはならない。彼は北海道新聞に大きな記事で私のサハリン滞在中の報告をしてくれたからです。
彼等への感謝を表すには、本年8月末彼等と札幌ちえりあホールでの合同演奏会の成功に全力を尽くすこと、チャイコフスキーの弦楽セレナーデを心を込めて指揮すること...、これが私に科せられた使命だと痛感した1週間でした。
システィーナ札幌室内合奏団指揮者
熊澤 厚樹


「ロシアサハリンを訪ねて」(2003.9.10)
2003年8月13日から17日までの4泊5日の旅行にでる。
この旅行は2年前の函館オケにサハリン合奏団が招かれたことから始まる。
サハリン合奏団は丁度指揮する合奏団システィーナと同じ規模。何時かはこの合奏団を指揮してみたいと函館で感じたこと。彼等との接触は、その後函館オケがサハリンを訪ねることに同行することにもある。
それは2002年9月である。終戦後55年ぶりに踏んだサハリンはやはり生まれ故郷の親近感がある。ヨーロッパは何度も訪ね確かに良い国だと思うが、それに反してサハリンは貧しい人々が暮らす島。
ユジノは確かに自然は残っているが、社会資本が全く整備されていない。おんぼろのアパート、トイレの不備、道路の未整備などあげれば、枚挙にいとまがない程疲弊している。でもそこが自分の生命誕生の地であることに本能的な郷愁を感じてしまう。
千歳空港を36人乗りのプロペラ機に身をゆだね無事サハリンにつくことを祈る。既に耐用年数がすぎたであろう飛行機は悲鳴のようなエンジン音をあげて離陸する1時間半後無事サハリン空港に到着。通関など相当時間がかかるのは係官がパソコンに打ち込むデータが遅いのが原因かなと思う。いずれも無愛想な女性係官だった。
ゲートを出ると何名かの団員が花束を持って迎えてくれた。言葉が通じたらなとつくづく思う。感謝。
そして、テレビ局がインタビューに今回の来訪についての抱負などを尋ねてきた。テレビ局まで関心を持ってくれる事に、我々の訪問は重大なことなんだと改めて認識した。
分散して、空港からズラジャーエフ夫婦が経営する音楽院のホールに向かい、最初の練習に入る。
ドボルザークの弦セレ良く弾けているが何か違和感が。そうだ、テンポが速すぎるのだ。よくぞこの早さで弾ききっているものと思った。
早速田島君がテンポについて指揮者に注文、全ての楽章を再構築する。田島、雅樹をソリストに演奏する四季を翌日に回す。
14日チェホフ劇場にて練習四季を練習するが、合奏団のメンバーは良く練習をしており、指揮者の私から注文はテンポの設定くらい。一部分バランスを整える程度。
ソリストの田島君は、再三止めて楽器の弾き方について模範演奏をしながら指示して行く。流石プロだと感心した。
練習の合間をぬって市長を表敬訪問。市長は市としてもこの合奏団に期待もし、経済的な援助もすると説明していた。市の歴史を書いた本のプレゼントがあり私には興味深いものだった。
夜は交流会。その盛り上がりは両楽団のメンバー共に最高潮に達した。本当に音楽に国境がないとは実感してみて本当に納得出来るものだ。言葉は殆ど通じないが。
15日も練習の予定だったが、午後からホルムスク(真岡)に2時間半の車での移動。そこで私は提案、午前の練習は中止して団員の疲労を軽減すべきと。指揮者も納得団員は大喜び変なところで感謝された。
ホルムスクへの道は以外と道路が整備されており、快適なドライブ。但し所々で中央線がないのは不安材料、でも無事到着。ホールは船員会館のようなところで、ユジノよりは音質的には良い感じだ。
満席の聴衆は1曲終わるごとに大変な拍手。そして四季にも、アンコール田島 雅樹両君のヘンデルパッサカリアは技巧的素晴らしい演奏だった。割れんばかりの拍手。
コンサート終了後には、何名かの聴衆から花やサインの求め、私にとっては始めての経験。
無事コンサートを終えて、56年前(1947)に北海道への帰国のために引き揚げ船を待った寮(女子校だそうな)が健在だったのが懐かしく、そこに立っていた。手を入れているのだろう、外観は綺麗に見えた。
56年前毎日どろどろの道を港まで歩いた記憶は鮮明に残っている。そして穴に板を敷いたトイレの記憶は恐怖として残っている。
ホルムスク(真岡)は子供の時の辛い生活を脳裏に残した街としてあるが、そこでコンサートが出来たことに何か因縁めいたものも感じられる。強烈な記憶を残した街だった。ユジノに夜遅くついた。
翌16日はユジノでのコンサート。ここでも満員の聴衆に迎えられ本当にハッピーなコンサートを終えることが出来た。テレビのインタビュー、北海道新聞の特派員のインタビューを受ける。
翌日は帰国の日午前中買い物をしてそそくさと空港に5人とも満足した気持ちをもってサハリンを離れた。
5日間ホームステイをさしてくれたズラジャーエフ夫妻、自分達のベッドを明け渡してくれた事、毎日美味しいご馳走を作ってくれた、音楽院の校長である奥さんに心から感謝の気持ちを捧げたい。また、よくしてくれた団員一人一人に感謝したい。
何時の日か彼等のおんぼろ楽器を修理調整に出かけようと思っている。2004年にはなんとか彼等と札幌で合同演奏会を催したい。その夢を実現すべくこれから活動することを自らに誓う。
「サハリン合奏団との出会い」(2002.10.07)
私は1940年サハリン生まれで7歳まで過ごしました。断片的ではありますが育ったユジノサハリンスクの街並みや山並みなどをかすかに脳裏に残っておりました。それにもまして引き上げ時の苦しさは鮮明に覚えております。でも一度は行ってみたいと思っておりました。それがひょんな事から訪ねる機会を得ることが出来たのです。
昨年函館のオーケストラがサハリンのユージノサハリンスクの弦楽合奏団を招待して合同演奏会を催しました。
函館オケとは創立当時からのつき合いですので何時も招待されておりサハリンオケとの合同演奏会の時も参加させて頂きました。コンサートは各の団体の演奏とチャイコフスキーの5番のシンフォニーの合同演奏でした。サハリン合奏団はヴァイオリン7、ヴィオラ2、チェロ4、コントラバス1それにフルート、オーボエ各1本という編成です。彼等にとって自国の作曲家チャイコフスキーの5番のシンフォニーを演奏することなどはこの編成ではとても無理だったのでしょう。とても感激しておりました。函館のメンバーもロシア人と演奏できたことに充分満足した演奏が出来たものと思います。次回はサハリンで会いましょうと言って分かれたのが、1年もしないうちに実現できることになったのです。
9月サハリンに招待されてこちらから出かけることになり、はからずも私にとっては55年ぶりのサハリンです。かねてからの夢が実現することになり心うきうきでした。
子供時代の状況を色々と思い出そうと懸命でしたが半世紀近い時間の流れはいかんともしがたいものです。しかし実際にサハリンの街に着いたとたんその街並みや自分が住んでいた近辺を思い出させてくれました。建物のほとんどは当時のものは残ってはいないのですが原っぱや山の様子などは子供の時のままでした。団体旅行ですから勝手に動くことは出来ませんでしたがその雰囲気を充分に感じ取れました。
団員との交流も昨年から続いておりその中でも18歳のロマン君というヴィオラ(本来はヴァイオリン)を弾いていた青年と片言英語で通訳なしで交流が出来、彼はサハリンの音楽院で勉強中だが楽器は持っていず、音楽院のを借りて練習をしていることを聴き私の作品をプレゼントすることにしました。彼はノボシビルスク(一番近い街の音楽大学があるシベリアの街)で勉強したいと言っておりました。その時は1ヶ月後に再会できるという話は一切なく、稚内まで迎えに行くから船でサハリンから是非私の楽器を見に来てくれるよう、そして気に入ったらプレゼントするよと話をしておりました。
今回図らずもサハリンオケが道内3カ所で演奏会をすることを聴き1月前にサハリンで約束したことが意外に早く実現することとなったのです。10月3日札幌のコンサートホールで演奏会があることを知り楽しみにしておりました。9月28日彼から日程などのファックスが入りました。こちらからは何度となく彼に会うべくサハリンにファックスを送るが全く通じません。結局はコンサート終了後控え室で再会することが出来ました。
彼とは約束通り我が家に来てもらい、作品を弾いてもらい、一番気に入ったヴァイオリンを選んでもらい、結局1本を決定、それをプレゼントすることになりました。私の作品は通常30万円で売っておりますが彼に弾いてもらい彼が一人前の演奏家になってくれるなら金に返られない事とプレゼントすることにしました。また私の作品が異国の生まれ故郷で弾かれることに意義を感じました。サハリンの一般労働者の給料が2−3万円とのことヴァイオリンを買うという余裕にはならないのでしょう。最近は市内に1軒ある楽器屋さんに韓国製のヴァイオリンが入ってきているが1000ドル(12万円)するそうです。
彼は団員の羨望の的になったようです。サハリンでは未だ楽器については未開発国家な様です。市内には日本と同じくらい物資が溢れておりました。買える人とそうでない人がハッキリしていることは確かなようです。サハリンは石油、天然ガスなどの開発によりこれからは好景気が期待できるのでしょう。オーケストラのメンバーもその恩恵を受けて欲しいものと痛感しました。
来年夏は私一人でサハリンを訪ねもう少しゆっくりと見学したいと思っています。出来れば生まれたポロナイスク(サハリン中部、2歳まで過ごした)も訪ねてみたい。サハリン合奏団も指揮出来るチャンスがあればと考えております。
丁度私の指揮する札幌の弦楽合奏団と同じくらいの編成なので。
今回は生まれ故郷サハリン物語でした。
「ヴァイオリンの魅力と謎」2002.04
オーケストラに欠かせない楽器、楽器の女王とも言われるヴァイオリン。16世紀末に発明されて以来およそ四百年もの間その形も構造も殆ど変化していない楽器。
そして17世紀に作られた木製の道具たるヴァイオリンが三百年後の今も現役として使用され更に古いもの程高価で素晴らしい音を出すという真に不思議な楽器ヴァイオリン。
同じ形をしたものが数万円から購入でき一億円を出しても買えないというこんなに価格の幅がある謎につつまれた楽器ヴァイオリン。
そんな不思議なヴァイオリンに魅せられて30年余、銘器を鑑賞したり、銘器の演奏を聴いたり、自分で弾いたり、分解したのを見たり。でもその謎は益々不可解、自分で制作してみたら少しでも解決するのではと日夜努力してもやはり不思議のベールを剥ぐことができずにいる現在ですが皆様の楽器選択の参考に少しでも役立てればと思いつつこの稿を書いております。
そもそもヴァイオリン発祥の地はドイツともイタリアとも言われながら未だその論争の決着はついていないらしい。とにかく16世紀後半には現在の形になったことは間違いない様です。17世紀末から18世紀にかけて北イタリアのクレモナ市にたくさんの名工が誕生しました。例えばアマティ、ストラディバリ、グワルネリ、ベルゴンツィ等々。
その他のイタリアの諸都市にも同時代に楽器制作者は誕生します。ドイツにはスタイナー、クロッツ等々に。フランスには、ルポー、ヴィヨーム等々。イギリスにもウルクハート、フォスター、バンク、クラスケ等々、ヨーロッパ各地でも有名な作家が出現しました。日本では1888年に鈴木ヴァイオリンの初代の政吉が第一号を作ったのが最初です。一時期大量生産による工場製の楽器(ラベルだけは名工のもの)がヨーロッパ各地で作られ世の中に出まわりました。
我々素人にはなかなかラベルだけでは本物と偽物の区別がつかず種々なトラブルの原因になっている様です。現代もヨーロッパ各地でも日本国内でも先祖から受け継いだ技術と材料で手作りの楽器をコツコツと作っています。皆17〜18世紀の制作家に追いつき追い越せと努力しています。しかしこのハイテク、コンピューターの現代でもなかなかその域に達し得ない様です。細工など技術面でも過去の名工とひけを取らない作品もたくさんある様ですが音の面ではなかなか到達し得ない様です。その秘密はニスにあるのではないかと言う人もいますが、私の経験でもニスを塗らない白木の状態の方が音量的には良い様です。ニスは単にヴァイオリンの保護と美観のためにある様です。
それでは何故現代のストラディバリが出現しないのかという疑問は容易に解決し得ない問題ではありますがその一つの理由として考えられるものに北材のエイジングが考えられます。表板は松、裏板、横板、そしてネックは楓で出来ているヴァイオリンは数十年、数百年の長期間の自然乾燥と弾かれることによる振動が音響的に好結果を生むことになるのではないでしょうか。何億、何千万はもとより数百万の楽器をも買えない私達にとって、何をポイントに楽器を選択するかということになりますが、17〜18世紀の名工の作品は絵画や陶磁器同様希少価値や骨董的価値が加わった値段ですので名前はなくても(有名でなくても)ある程度の細工であり少なくても30年以上経た作品を入手するのが後悔をしない買い方だと思います。現代作家のものでも数十年も自然乾燥した材料で作った楽器を購入すべきと思います。山から切り出して数年しか経っていない材料で作った楽器は外見的には美しくても音的にはヴァイオリンとして勝ちのないものの様に思えます。そういう楽器はなり出すのに数十年もかかるのではないかと思います。
最後に楽器選択のポイントをある本から引用し少しでも楽器選択の参考になればと思いつつこの稿を終わります。
1.健康な楽器であること。修理してある楽器でもその修理が上手にされていること。
2.技術の優れた作家の楽器であること。表裏板とも中央の接着がしっかりしておりネックの取り付けが中央にあり指板のそり具合も適当であること。
3.機能的に自分に合った楽器であること。胴長が5o違っても弾き易さに影響します。ネックの太さも重要です。
4.音が良いこと。(音質に対しての感覚は個人差があるので必ず第三者の意見も参考に)。
(イ) バランスが良いこと(低音から高音までバラつきがないこと)。
(ロ) 弱音、強音もかすれたり汚い音にならないこと。
5.購入先は信用のおける所で、アフターケアがしっかりしていることも重要。
6.購入する際は急がずじっくりと構えること(決定するまで充分検討すること)。
<ヴァイオリンの魅力と謎を書くに当たって>
「ヴァイオリンの魅了と謎」と言う文章を掲示板に載せてみました。きっかけはこのHPを見たと言う20代の若者が訪ねてきたことがきっかけです。
彼は大学時代少しはオケで経験があるようでしたが楽器についてはほとんど知らない状況で、私にしてみては4年間もヴァイオリンを弾いていてよくぞこんな質問をするなと思えるものもありましたが、楽器に興味を持ち新たに勉強したいという彼の熱意に誠意をもって貴重な時間を割いて説明を試み、更にその筋の本も紹介してみました。
ヴァイオリンを買いたいという彼の求めに応じ所有する新作イタリアを紹介してみました。私の所有する新作イタリア楽器はイタリア製作連盟のメンバーであり私が本場で試奏したりプロに弾いてもらったりと入念な作業の元に買ってきたものばかりで私なりに自信を持っている作品ばかりです。価格もイタリアものながら100万をこすものはありません。若い人にも、レッスン中の子供にも買って頂ける事を主眼にしているからです。
彼との話がまとまりかけていたのですが彼の無知からと思うのですがまだ無名(多分クレモナの学校出たての作家)の作品を他の業者から私の楽器とほとんど同じ価格で買いました。私は負けたのが悔しくてこれを書いているのではなく、楽器に無知が故に間違った買い方をしないようにと「ヴァイオリンの魅力と謎」と言う雑文を書いてみました。
弦楽器は自分の代ばかりではなく孫、子の代まで使うのですから、自分の勉強は勿論できるだけ多くの人の意見を参考にしてきめたいものです。
「音楽は心のビタミン」2002.3.12
日本ほど音楽に満ちあふれた国はないのではないかと常々思っている。
時によっては一方的な音の押し売りではないかと感じることもある。
喫茶店はもとより、スーパー、レストラン、デパート等々人が集まるところにはほとんどBGMと称する様々なジャンルの音楽が流れている。
例えば名曲喫茶のように音楽を聴くことを目的とした場所は別として、多くの場合は本人の意思とは無関係に半強制的に聞かされるわけで、はなはだ迷惑に思うことが多い。
ストレスの多い現代、音楽によって心の安定を得ることも度々ではある。
私自身も若いときはベートベンの音楽によってどれほど救われたことだろう。
ある時はチャイコフスキーの音楽に共鳴し自分のおかれている環境を一層悲劇的に感じてしまったことも。
音楽が人の心に作用し時には心の病を治療する分野もあると聞く。
しかし一方的な音楽はきかされる方の心理状態によっては癒される音楽ではなく雑音として受け取られる場合がある。
これはストレスの解消どころか益々ストレスをますことになるのだ。
牛がBGMによってその乳量を増すという説がある、これとてどんなジャンルの音楽でも良いというわけではないと思う、モーツアルトが良いという説を聞いたことがあるが、聞かせる時間帯や与える餌との関連など牛のBGMに関する研究があって初めて牛にとっての音楽の効用が話題になるのだろう。
私は時折、ヨーロッパ旅行をするが公共の場でBGMのたぐいの音楽を聴いたことがない。
その場にいる人にとって好みの音楽があり、好み以外の音楽は決して快感にはならない。
例えば私は演歌は好きではない、しかし公共の場で演歌が流されていることは日本では当たり前のようだ。
先ほどのヨーロッパの話に戻るが喫茶店も、レストランも、談笑とくつろぎそして食事の場であった。
街頭では確かにストリートミュジシャンがおり、沢山の音楽会があった。これらは皆目的を持った音楽なのである。
絵画、音楽、文学などこれらは人間生きる上で欠かすことのできない芸術である。
その事は我々は充分認識しており有史以来人間はその恩恵に浴してきたのである。
昨今、グルメブームとやらでその食材、味付け、栄養価などについてはいろいろと論議されている。
音楽はこの食事の中のビタミンとは考えられないだろうか。食物中のビタミンは過不足なく摂取されてはじめて我々は健康を保持されるのである。
美味しいから良い食事とは言い切れない。音楽もビタミン同様、そのTPOに合わせて聞くことにより、健康な生活が保持されると考えられるのではないだろうか。そんな音楽環境を育てるのも私たちの使命の一つかもしれない。
経済大国日本、最近はそのかげりも見せ始めているが予算削減の第一がこの芸術分野である。
生きる上で欠かせないビタミン、この分野の予算を削減すると言うことは自らの命を縮めていることになるのではないだろうか。
政治家はこのことに気が付いて欲しいものである。何処の地方会場でも言われることは今年は昨年に較べて予算が少なく行事を削減しなければならないと言う話である。
芸術は食物のビタミン同様、人間生きる上で欠かすことのできないものである。
従って音楽は他の芸術同様大切に扱わられるべきで、経済が不況だから即予算を削減するなどと言う論議はとんでもない話なのだ。
かってシュナーベルという人が「真の音楽とは?」と問われて答えた言葉を記してこの稿を終わりたい「それは音楽の創造者が形のない精神の構築物として人間の心に送り届けようとした偉大なものである。音楽は愛だ!」
サハリン指揮旅行雑感(2006年)
今年は5回目のサハリン訪問、例年より一番遅い訪サです。10/29−11/5の1週間です。
11/2、4日はユジノとホルムスクでのコンサート指揮が目的でした。
空港に着くやいなや雪が降り出し札幌を発って1時間真冬のまっただ中に飛び込んだ感じです。
指揮者、イザベラさん、通訳の金さんの出迎えでした。
今年は2回目の彼らを札幌へ迎えてのコンサートが9月3日でした。この事に少し言及しよう。
当初北海道、札幌市の助成金を得て彼らと合同演奏を札幌でしたいと思っていたが残念ながら札幌市の助成金は得られなかったので200万掛けてのコンサートは夢となり道からの助成金50万だけでのコンサート縮小してのコンサートで有らざるを得なかったのです。
総額120万サハリンから11名の奏者を呼んでのコンサート、モーツアルトイヤーにちなんだ選曲のため管楽器を他のオケから借りてのコンサート、金のかかるものでした。
又このコンサートに新しい試みが二つ加えてみた事も画期的なコンサートになったのではと思う。
一つはモーツアルトピアコンにソロ楽器としてお琴を使ったこと。もう一つは指揮に息子雅樹を使ったこと。
21番のコンチェルト2楽章にお琴は素晴らしくマッチングした。新しいモーツアルトが出来たのではないだろうか?
最近のピリオド奏法より画期的だと自画自賛している。息子の指揮は嫉妬を感じつつ練習を聞いていた、
彼が練習を積んでいくとオケが良く変わっていくのがはっきりとするから。
私などはオケに同じ事を幾ら頼んでもなかなかわらない、是は指揮者の力量不足の典型だろう。
多少の赤字は背負ったが私的には大変満足したコンサートだったと思っている。
その証拠に10月22日指定でオーケストラ全員を連れて訪サの依頼がサハリンから有ったのです。
彼らは日本のサラリーマンの生活を理解していないのでそんな要請が出来るのかも。丁重にお断りしました。
何れは団員と訪サして合同コンサートを向こうでしなければならないだろうと思っている。
話を訪サに戻さなければ、今回はクリスチャン・バッハのヴィオラコンチェルト、クライスラーの前奏曲と
アレグロそしてグリーグの二つの悲しき旋律等でした。ヴィオラは奏者のエカテリーナとのアートキュレーションの
違いや出の棒を理解してもらえず多少苦労したが彼女は上手に弾いてくれた。
クライスラーを弾いたイーゴリ君29歳とても素直に私の意図を組んでくれて苦労をせずに本番へ。
彼もあれにつやっぽさがでたら最高の奏者だったろうと思う(勝手に動かされたら指揮する方は大変だったが)。
グリーグは私のエモーションが完全に彼らに伝わったのではないかと思う演奏でした。
今回はホルムスクで60年前この港から毎日引き揚げ船の来るのを待っていたことを聴衆に向かって話をしたら
分かってくれたのか静かに聞いてくれていた。日本人がサハリンから苦労して帰国した話などは彼らには初めての
話であったろうから。弓の毛替えを数本とはがれ等の修理が有ったが道具を持って行かなかったので次回にすることにしたが。
はがれは急を要するものもあったので応急修理するからもってこいと言っても持ってこなかったので仕方がないかな?
ロシア人の気質を見た感じです。修理技術をイーゴリに教えることにしたので今後は多少の修理は彼が出来ることになるのでは。
来春早々お琴の二人を連れて演奏に来るよう要請があったので4月末から5月にかけて訪サ予定。
コンサートが終わるたびに地元TV局の取材と聴衆のサイン要請そして新聞評是は札幌ではないことで嬉しい限りです。
来年も元気で訪サできることを願っていますがーーー。