空への解離



 その日、血だらけになった我が子を抱き、直美は空を見上げた。夏の空は今日一日の平和を告げるかのように、真っ青に澄みきっている。そして、直美はその疲れ切った顔に安らぎとも悲しみともいえない微笑を浮かべ、いつまでも青空を見つめ続けていた。


──ドンドンッ!
 ドアを叩く音がする。
 また下の部屋の人だ。最近、毎日のように怒鳴り込んでくる。
「はい…」
 わたしは恐る恐るノブを回した。そっと扉の隙間から外を覗く。
「あっ!」
 すると、いきなりその人はガバッとドアを開けたのだ。
「ちょっと奥さん!」
「はい。なんでしょう」
 下の部屋の鈴木さんとこの奥さんだ。細くてぎすぎすした体格をしたとても神経質そうな人。今は恐ろしく目をつり上げている。
「こんなこと言いたくないんだけどね」
 彼女はいつもそのセリフを言ってから次を続けるのだ。
「あんたんとこの赤ちゃん…」
 やっぱり! わかってたことだけど……。
「泣き声、うるさいんだよ。ここは防音のきいた上等なマンションとは違うんだからね。もちっと近所迷惑も考えておくれよ」
「はあ…すみません…」
「謝るくらいだったら何とかしなよ。あんた仮にも母親なんだろ。自分の子供を寝かしつけるくらいきちんとやることだね」
「………」
 そんなことわかってる。わたしだって精一杯やってるつもりなのに……。
「なんだったらあたしが子供の黙らせ方、教えてあげようかね?」
 彼女は顎をそらせる。得意気にそう言う彼女にわたしはカチンときてしまった。
「けっこうです! すみませんでした。以後気をつけますので、今日のところはお帰りください!」
 わたしはぐいぐいと彼女を外へと押し出した。
──バタン──
「ふぅ───」
 わたしは額の汗を拭った。
 とても暑い。今年の夏は近年ないほどの暑さだ。そんなに夏に弱いわけではないわたしも、さすがにちょっとのことでも頭に血がのぼってしまう。
「ホギャッ…」
 その時、赤ちゃんの泣き声が上がった。
 わたしは慌てて走った。手をばたつかせる赤ん坊に駆け寄る。
「ほらほらあ。おかあちゃんですよー。たっくん、どーしたのかなー」
 抱き上げると、あやしながらベランダへと出る。
「ふ…ふ…」
 わたしはホッとした。どうやら落ちついたらしい。
「………」
 わたしは息子の達也を抱きかかえ、ゆりかごのように揺らしながら夜空を見上げた。
 天の川が見える。
 わたしは星空を眺めるのが大好きだ。星を見ていると、嫌なことや辛いことを忘れることができる。自分の悩みなどちっぽけなもので、くよくよすることが馬鹿みたいに思えてくる。
「たっくん……」
 わたしはようやくスヤスヤと眠りについた息子の、はちきれんばかりに張りのある頬をつっつきながらにっこり笑った。
「おかあちゃんはがんばるからね」


日曜日の朝───
 空は雲ひとつない青空だった。
「………」
 わたしはひどく不機嫌だった。わかっている。世の中はすべてうまくいくわけない。そして自分中心に回っているわけではない。
 この日、本当なら達也を連れて夫と三人で海に行くはずだった。何日も前からわたしは楽しみにしていたのだ。
 最近、育児ノイローゼとまではいかなくても、多少精神がまいってしまっていたわたしである。本当なら少しの間でも子供を預けてゆっくりしたい。せめてほんの少しだけでも子供のことを忘れてボーッとしていたい。
 しかし、わたしの実家も夫の実家も遠い所にあり、少しのあいだ預けるということも出来ないのだ。託児所に預けることもできるだろう。だが、わたしのような仕事につかずに専業主婦をしている者には、それもなかなかに容易なことではない。たとえ預けることができたとしても周囲の人間の目は冷たい。他人に子供を預けて親は遊んでいるのかと、あからさまに非難の攻撃を受けるのだ。
 でも朝から晩まで子供とふたりっきりで、何だかこの世にはわたしと息子だけしか人間は存在しないのではないかと、変な気持ちになってしまうことがある。夫は朝早くに会社に出てしまい、帰ってくるのも夜遅い。子供のことを相談したくても疲れている彼を見ると何も言えなくなってしまう。
 だからこそ、今回のちょっとした遠出は新鮮な気持ちをわたしに与えてくれそうで、とても楽しみにしていたのだ。
 それなのに───
「すまない。急に仕事が入ってしまってね」
 夕べのことである。夫は何でもない顔をしてそう言った。
「そんな…わたし、楽しみにしていたのよ」
 わたしは思わず大きな声を上げた。
「そんなこと言ったって…仕方がないよ」
「………」
 わたしは下を向くと床をにらみつけ、くちびるをかみしめた。
 わかっている。仕事なんだから仕方がないことは、わたしだってわかっている。でも、わたしのこのやり場のない感情はどうしたらいいの。何もかもたえなきゃならないの。
「今度かならず埋め合わせするから」
 夫のその言葉をわたしは信じてはいない。
 今までだってこんなこと何度だってあったのだ。
 仕事が大事なのはわたしもわかる。結婚前はわたしだって会社勤めをしていたから、休日出勤があることだって仕方のないことだと理解しているつもりだ。
 まだわたしが会社に入りたての十代の頃、同じ職場の先輩に変わった人がいた。
 その人は自分の奥さんに子供が生まれたばかりで、いつだったかの休日出勤を家族旅行のために断ったことがあったのだ。
「仕事よりも私は家族が大事です。日曜日は休むためにあるのです。そんな日になぜ出勤しなければならないのか理解できません」
 彼は上司の前でそう言い切った。
 その時わたしは「この人なにいってんの」と冷やかな目で見てたっけ。確か上司も呆気に取られて何も言い返せずにいたのを覚えている。
 彼はその後、会社を辞めてしまった。本人から辞めたのか、それとも辞めさせられたのか、そのことがあった後だったのでわたしたちの間ではしばらく噂になったものだった。
 あの先輩はそんなに仕事が出来ないという人ではなかった。ただ、仕事に対しての姿勢がそんなに熱心ではなかった───と思う。
 わたしはあまり器用なほうではなかったので、仕事も全力で一生懸命こなしてきた。言われたこともきちんとやってきたし、とにかく何事も完璧にしなくてはと心を砕いてもきた。だから、彼のその飄々とした態度がいつも何だか気に障っていたものだった。
 人間は何事も一生懸命に全力を出し切ってやり遂げなければならない…そう信じていたからだ。男のくせに出世とかにまったく興味を示さないのが、何だかとても腹立だしく感じられてしようがなかった。そして、こんな人を夫に持った奥さんを何だか気の毒に思ったものだった。
「少しは休んだってバチあたんないと思うのにな……」
「ん? 何かいったか」
 私の呟きを聞きつけた夫が聞き返す。
「ううん。いいの」
 わたしは深いため息をついて首を振った。
 それが今では、あの時の先輩の態度が素晴らしいものなのだと気づいてしまっている。
 彼の奥さんに同情したけれど、本当は世界で一番幸せな奥さんだったのかもしれない。
「じゃ、明日も朝が早い。僕は寝るからな」
 夫はパジャマに着替えると、さっさと寝室へと引きこもってしまった。
「………」
 わたしは寝室の隣の子供部屋に向かった。
 扉を開け、畳の上に敷いた布団に視線を向ける。スヤスヤと寝息を立てて眠っている達也の顔がそこにはあった。わたしは憎らしいほど平和な顔をして眠る我が子をじっと見つめた。
 達也が生まれてからわたしたち夫婦は別々に寝ている。わたしは三人川の字で寝ようと提案したのだが、夫に拒否されたのだ。
「赤ん坊の泣き声で夜眠れないのは勘弁してほしいんだ」
 彼はそう言った。
 達也ひとりで眠らせるわけにはいかないので、わたしは仕方なく子供と一緒に寝ることにしたのだ。
「はぁ───」
 わたしはまたもや大きなため息をついた。
 達也の横に敷いたわたしの布団の上に座り込む。
 部屋の明かりは薄暗くしてあった。それでもじゅうぶんに子供の表情は見える。
「たっくん…おかあさん、なんだか負けそうよ」
 わたしは知らずそう呟いていた。思いの外思い詰めた口調に自分自身でも驚く。
「ああ…ダメダメ」
 わたしはブンブンと頭を振った。
「こんなことでは本当に病気になってしまうわ。しっかりしなきゃ……」
 ふんっと気合を入れるように拳を握りしめて腹に力をいれた。でも、自分自身それが本当はただのポーズで、そんなことをしたからといって実際に元気が出てくるはずがないことに気づいていた。そう、まったくの空元気なのだということに───
 心の底のどこかで、もうひとりのわたしが自分をじっと見つめている。冷たい目で、そして軽蔑するように。
 わたしは知らず知らずのうちに、何か実体のないもの…たとえようのないおそろしい魔物のようなものに意識が乗っ取られていくような気がしてならなかった。
 でもわたしはそれを断固として否定した。
「気さえしっかり持てばきっと大丈夫」
 私は自分で自分に暗示をかけるように、そう強く思うことにした。


 そして、その日───
 もう一度同じことを言う。わたしは不機嫌だった。
「なるべく早めに帰ってくるから」
 そう言って出勤していった夫の言葉も、あまり耳に入らなかった。もっとも耳に入ったとしても、わたしは彼の言った通りにはならないと思っただろう。
 わたしは、出来もしない約束をする人が嫌いだ。夫などその最たるものだ。出来そうにない約束は最初からしないほうがいい。
 確かにこの世はどうなるかわからない。確実に成就できる約束もあるかもしれないが、それだって急な展開で御破算になってしまうこともありうるのだ。
 それはわかっているつもりだ。
 でも、わかってはいても気休めなど言ってほしくない。嘘でもいいから安心させるように言ってほしいという人がいるかもしれないが、わたしはたとえ優しい嘘でもつかれたくないし、つきたくもない。時にはそれも必要なのだということは頭ではわかっているのだが、自分の心が嘘を許せないのだ。嘘をつくという行為が。
 そのせいでいったい今まで何人もの友人を失ってきたことか───とそんなことを言っている場合ではなかった。
 とにかくわたしは不機嫌を通り越して頭にきていた。おそらくこの朝からの暑さも原因のひとつなのだろう。
「オギャッ…オギャア。オギャア!」
 そのわたしの機嫌の悪さが伝わったのか、達也がいつになく火の付いたように泣きだした。
「うううう……」
 何か、みぞおちのあたりに冷たいものが落ちるのを感じた。身体は周囲の暑さに応じて熱くなっているというのに。
「今日の気温は観測史上最高の暑さになるでしょう…」
 付けっぱなしにしていたテレビから女性のアナウンサーがキンキン声で言っている。彼女のその声を聞いただけでわたしは更にイライラしてしまった。
 達也の近くで首を振りながら扇風機が回っている。ブーンという低音が、なぜか耳に付いてしかたない。更にのぼせ上がる。
 南側のベランダの窓はもちろん開いていて敷居を隔てた北側の部屋の窓へと風が吹き抜けるようにしてあった。しかし、今日はまったくその風が吹いてこない。
「オギャア! オギャア!」
 畳の上に敷いたタオルケットの上でバタバタと手足をばたつかせる子供。わたしはその達也を見つめるだけで、ただ突っ立ったままだった。身体が動かない。まるで誰かに掴まれたように動けないでいたのだ。
「………」
 頭の中が真っ白になっていく。わたしは泣きつづける我が子を見おろしている。
 いったいこれは何?
 何なのよ。何が起きてるの?
 このうるさい物体は何なの?
 うるさい、うるさい、うるさ───い!
「う…る…さ…い…」
 わたしは思わず呟いていた。
「オギャア! オギャア!」
 相変わらず泣きつづけている達也。
 その時───
──ドンッドンッ!
 玄関の扉を叩く音がする。
「………」
──ドンッドンッ!
「奥さん! なにしてるの? 出てきなさいよ。奥さん!」
「………」
 ──カギなんか掛かってないわよ。用があるんなら勝手に開けたら?
 もちろんそんなこと言えるわけがない。といっても今のわたしには言いたくても言えない。本当に身体が動かないのだ。
 わたしは焦っていた。そして焦ると同時にますます頭の中は真っ白になっていく。
 いったいわたしの中で何が起こっているというの。焦れば焦るほど、自分の身体が動かない。
「ふぅ───」
 わたしは何とか大きく息を吐くと、更に深呼吸をした。
「………」
 どうやら身体を動かすことができるようになったらしい。と同時に額から汗がどっと流れた。それが目に入ってとてもしみる。下ろしていた手を持ち上げてその汗を拭おうとしていたその時───
──ガチャッ
 玄関の扉が開いた。
「失礼するわよ」
 下の奥さんだ。
 わたしは玄関へ顔を向けた。
 彼女の顔は鬼のようになっていた。わたしは思わず震え上がった。またしても胃のあたりが冷たくなる。
「奥さん。赤ちゃん泣いてるわよ」
彼女の声は荒々しくないけれど、私の胸に突き刺さる。
「………」
 わたしは彼女の顔を見つめるばかりで動けずにいた。
「何してるのよ。赤ちゃん泣いてるって言ってるでしょ!」
 まだ動けない子──
「何をボーッと突っ立ってるの。全くしょーのない……」
 彼女はズカズカと上がり込んできた。わたしの横を通りすぎ、達也のそばまでやってくる。彼女のやせた二本の腕が、丸々と太った達也の身体を軽々と抱えあげた。
「よしよし。いけないおかあちゃんだねー」
「………」
 わたしは彼女のその言葉を聞き、何か言いようのない怒りがこみ上げてきた。喉のあたりが妙に変だ。何か塊みたいなものが詰まっている…そんな感じた。
「ブ…アブ…ブブブ…」
 達也は鈴木さんの巧みなあやし方に機嫌を良くしたのか、泣き止んでしまった。
「ほーら。こうやって抱っこしてやれば、赤ちゃんだって泣き止むんだよ。奥さんのはほんとに危なっかしいんだから。いつも見ててはらはらしてたんだよ」
 彼女は上下にリズミカルに振動させながら達也をあやす。
 普段のわたしなら彼女のこの言葉も、達也を勝手にあやされても、きっと何も言い返せないまま、じっと恨めしく見つめるだけで何も起きなかったことだろう。
 でも今日のわたしはいつものわたしではなかった。
 夏だといってもこのあまりの暑さ。
 楽しみにしていた遠出をものの見事に裏切られた悲しみ。
 思いどおりにならない育児。
 近所の人の無神経な言葉。
 冷たい夫。
 様々な要因が重なり合い、わたしの心に何かが生まれようとしている。
 わたしの心は今、爆発寸前だった。ドロドロのマグマのようなものが大きな濁流をつくり、一気にそのエネルギーを放出しようと出口を求めている。
 そしてとうとうその出口が───
「本当に赤ちゃんの母親なのかね、全く」
 ほんの軽い気持ちで言ったのだろう。でもこの時のわたしは、まるでたががはずれたように、身体を、頭を縛りつけていた何かが音を立てて切れてしまったのだ。
「あっ!」
 わたしは、驚く鈴木さんの手からもぎ取るように達也を取り返した。そして一直線に走りだす。
「奥さん!」
 鈴木さんの声ももうすでに私の耳には入らない。
 わたしの行く先には空があった。
 ただ見つめていた。わたしの目に映る夏の空を。真っ青に輝く雲ひとつないコバルトブルーの空を。
 走りながらわたしは時間が止まったような気がしていた。音も聞こえない。足さえも動かしている感じがしない。
 いったいわたしはどうしてしまったのか。
 それさえも考えられなくなってしまっていた。ただわたしは機械のように走っているだけ。
 そう、飛行機が飛び立つ直前のように、わたしは助走をつけているのだ。
 幼いころ、父や母や弟と見上げた飛行機。
 高所恐怖症の父にとっては怖いだけのものでしかなかっただろうが、わたしにとっては憧れだった。
 わたしの生まれた夏のあの真っ青な空を自由に駆け回る機械の翼。いつかあの機械でできた鳥に乗ることができたら。
 空を飛びたい。
 私の目には青い空しか見えていない。
 そうだ。空を飛ぶのだ。ここから自由に飛び回って憧れへと翼を広げよう。
 わたしはすでにもうこの時、空を飛ぶことしか頭になかった。
「直美!」
 そのわたしの心を現実に引き戻したのは、わたしを呼ぶ夫の声だった。
「ああっ!」
 そして叫ばれる声。
 鈴木さんと夫の尋常ならざるその声に、わたしはハッと我に返った。
「!」
 わたしは見てしまった。まるでスローモーションのようにわたしの手から滑り落ちていく達也の笑う顔を。
 わたしは南側のベランダへと来ていた。
 手すり近くに置いてあった台にわたしは裸足で乗り、今まさに飛び下りようとしていたのだ。
 わたしはちょうど空に向かい両手を差し伸べた恰好をしていた。そのため、手に抱えていたはずの達也がわたしの手を離れ、四階から今落ちていこうしている。
 わたしの心臓は凍りついた。落ちていく我が子から目が離せない。
 下は駐車場で、コンクリートで固められた地面だ。植木も土も何もない。
 わたしは目をつぶりたかった。でも出来ないのだ。
 そして次の瞬間、わたしの目の前が真っ赤になってしまった。わたしの意識もそこで永久に途絶える───



 直美は夢遊病者のようにフラフラとした足つきで歩きだした。玄関に向かって。
「直美…」
「奥さん…」
 それを硬直したように見送る彼女の夫と下の住人。
 ふたりの横を通り抜け、裸足のまま外へと向かう彼女。
 直美は知らない。彼女の夫が、下の住人である鈴木さんに「奥さんのことも考えてあげなきゃ可哀相よ。家族より大切なものなんてないんだからね」と諭されたことを。
 そしてこの日、会社には行ったものの途中で妻の様子が気になって会社には休むと電話をし、急いで帰ってきたのだ。
 階段を一歩一歩下りる直美。
 何事かとドアの隙間から見つめる近所の住人たち。
 直美はぐるりと建物を回って達也のそばまでやってくる。
「たっくん……」
 彼女はすでに息をしていない息子を抱き上げると、血だらけになった頬に自分の顔をすりよせた。
 それを遠巻きで見つめる住人たち。窓から見つめる目もある。
「これだから若い母親はね。辛抱が足りないんだよ」
 その時、誰かの囁きが聞こえた。それは直美の耳には入っていないようだったが。
「めったなこと言うもんじゃないよ!」
 いつの間に来たのか、鈴木さんが直美のそばまでやってきて不謹慎なことを言った誰かに怒鳴った。
「あんただって若い時はあったんだ。誰でも育児のスペシャリストじゃないんだよ。本人の苦しみや辛さはなかなか他人には理解してもらえないもんなんだ。あたしだって、あんただって、誰だって彼女のようになってしまうかもしれないんだ。自分だけはそうならないなんて驕りは捨てるんだね。あんたたちなんか、めんどうがいやだからって、ちっとも彼女の相談にのってやることもしなかっただろう。みんなで助け合っていかなきゃならないのに、事が起きると本人の堪えがなかったからこんなになったんだ、とか、自分の若いころはこんなじゃなかった、とか、愚にもつかないことばっかり言って…。人間として恥ずかしくないのかね!」
 彼女の熱弁は朗々と響きわたった。
 誰も何も言うものはいなかった。さきほど囁いた人物も何も言い返せないほどだ。
「直美…」
 直美の夫は自分の妻の立ちすくむ肩に手を添えた。しかし、彼女はピクリとも反応を示さない。


 彼女は血だらけになった我が子を抱きかかえ、空を見つめていた。真っ青に広がる空はそんな彼女を見つめ返している。
 もう直美の意識はここにはない。彼女の心は今や、目の前に広がる青空に溶けて一体になっていた。
 そして、顔にはなぜか微笑みが浮かんでいる。その安らぎとも悲しみともいえない微笑を浮かべ、彼女はいつまでも青空を見つめ続けていた。





    あとがき

 とうとう掲載してしまいました。
 私が、生まれて初めて小説で賞をいただいた作品です。
 私が結婚し、子供を持ったから書けた作品でもあります。
 掲載時の選者の方のコメントは…
 『「空への解離は」、子育てノイローゼの若い母親が子どもを投げ落とす衝撃的な事件を、母親の内面の側から美しく描いた。前半部の悩みが少し手軽なことと子を投げ出す瞬間の青空の描写に数行の丹念さがあればと惜しまれる。階下の婦人や夫の存在もやや概念的過ぎたが、主人公の絶望はよくわかる』というものでした。
 描写───最近お友達にも指摘されましたが、私のネックは描写力らしいですね。
 純文学では描写力が命になりますし、描写はどのジャンルだって身に付けておいてソンはないという代物です。
 でも、とかくエンターテイメントは描写をしつこくすると嫌われます。描写をまったくするな、ということではありませんが、描写よりも勢いという気がしてならないのですけど、それは思い違いなのでしょうか?
 つまり、ひとつのジャンルしか書けない、または書かないのならそれに即した書き方をすればいいのであって、それほど難しく考えなくてもいいということですか。
 そう思い始めていたんですが、今また私は他のことも考えました。あたりまえのことでしょうが、すべてに長けていれば選びやすくなる──です。
 つまり、描写の純文学、勢いのエンターテイメント、知識の歴史物、アイディアのミステリー……これらの頂点を極めれば、何でも書けるということですよねー。なんて物書きって奥が深い。
 今年も鳥取文芸に投稿しましたが、今現在は結果待ちでどうなるかわかりません。去年はものの見事にかすりもしませんでした。今年こそは大賞を…と意気込んでいますが……。

2000年8月27日(日)
今日は誰もガキどもは来ないな…と胸を撫で下ろしているところです(^_^;)

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