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人の心と思いを形にすること

弔いの心と形を考える


我々の魂は弔いへの想いを文化にした

弔いの心の映像1【日本人の弔い観】

 世界各地(勿論日本も)の葬送儀礼を見ると、それは人ひとりの人生の完結に無量の思いをはせ、その魂の安寧を願い、かつ残された自分らの現世ならびに後世の安楽を願う気持ちをこめて、父祖より受け継ぐそれぞれの文化背景のもとで最大限の知恵を絞り、入念に体裁を整えてきたという共通するものが在る。
 今の日本では人が死ぬと一般的には墓地に埋葬される。しかし、もともとは墓を造るというならわしは日本古来のものではなくて、一部の上流階級を除いて、庶民は遺体を海や山に捨てるのがふつうだったようだ。庶民が墓を造るようになったのは江戸時代の檀家制度が軌道に乗ってきてからのことでありはるか昔はたしかに庶民は墓を造らなかったというか造れなかったのだ。なぜなら墓を造れる人は限られていたからだ。エジプトのピラミッドとか日本の古代の古墳のように、よほどの権力者か特別な人でない限り、お墓など造らなかったし、お寺にも神社にも祀ってもらえなかった。
 しかし室町時代から江戸時代にかけて一般庶民も墓を造るようになり、ひとりひとりがきちんと供養してもらえるようになった。それは画期的なことだった。そしてそれが今まで連綿と受け継がれてきた弔いの心と形であり、弔い事の常識という形になって伝わっているのだ。

弔いの心の映像2 さて、その昔日本に伝わった仏教は古来の神々を最大限に尊重したどころか、率先して昔ながらの祖先祭祀を担った。初期は宮中で各種の仏事が営まれ、やがて貴族階級から武士階級へと広まり、ついに全国に完全に仏教が浸透したのは江戸時代になってからのことである。近代国家が誕生するまでの世界の常識では庶民は虫けらに等しい存在だったが、檀家制度が完備されたおかげで日本ではすでに江戸時代に上流階級だけでなく庶民のすべてに墓が造られるようになり、それぞれの菩提寺で誰もが「仏」として丁重に祀られ供養されるようになった。その結果、全国民が墓をもてるようになったのである。
 そして江戸時代の檀家制度が、明治以降百三十年間、何の法制も規制もないにもかかわらず、何故今日に至るまでなぜ存続しているかを考えると、それを保持してきたのはその本体の寺自身である以上に、もっぱら地域の住民たちであったと思い当たる。国家でも学者でもいかなる権力でもなく、地域住民がそれを支えてきた。いわば日本人の文化として定着したからに他ならないといえる。そして現在に至っては、このような心の文化(他にも伝統的なものは沢山ある)は世界に誇って余りある日本人の資質とされ、他国には真似のできない精神文化として今や世界中の注目を集めるに至っているのだ。

 だからこそ我々は様々な制度(伝承的)や伝統に対する評価を今一度見直すべきではないだろうか。日本独特の物は古臭いだの時代遅れだのと言う者達とそれに追随する愚かな「(自称)進歩的文化人」は歴史や経緯を無視して新しいものや西洋風なものを無条件で好むが、少なくとも檀家制度が培ってきた弔いの心や儀式は、今でも尊重すべき文化であり、これを異質なもの(又は古臭い慣習として)と切り捨ててしまう事は日本人のあり方と歴史を否定する事につながるのではないだろうか。 かといって今までの制度や考え方をそのまま踏襲すれば言いというものでもない。連綿と受け継がれてきた弔いの心と形を継承しつつ、変えてはいけない大切な部分を護りながら、時代に沿った新しいニーズを取り入れ変革していくことが肝要となる。

【弔いへの思いと自由】

弔いの心の映像3 長い間、死や葬儀は社会的なタブーとして存在してきた。死・葬儀・墓の問題は「縁起が悪い」と遠ざけられ、嫌だ、汚い、怖い、という言葉や感情で、死に関する話題は避けられていた。新聞やテレビなどでも死や葬儀あるいは墓の問題を取り上げるのは1980年代あたりまではほとんどみられなかった。しかし90年代に入るとマスコミは盛んにこれらの問題を取り上げるようになった。マスコミが煽ったというよりも、人々のこれらに関する関心の高さに注目した結果だといえる。というのは高齢社会を迎え多死社会になったことが一つの社会的背景にあるからだ。また、死を避けることによって、人間の自然である死を「ないかのように」する風潮は、人間のいのちにきちんと向き合っていない(尊厳問題)ことなのではないかという反省があった。
 昔の葬儀は故人がいて、その遺族がいて、檀那寺の僧侶が係わり、近隣の人々が葬具を作ったり、炊きだしをして手伝い行われていた。 つまり、お金がらみの人や第三者がいなかった(又は少なかった)。 ところが戦後、葬具の手配や運営は葬儀社に委ねられるようになり、都会では檀那寺をもたない人々が増え、葬儀社も、場合によっては僧侶すら、お金で依頼された第三者として係わりを持つように変化してきた。
 それでも遺族が「消費者」という感覚を持つようなことは少なかったのだが、ここにきて遺族は、葬儀のサービス、宗教儀礼サービスを金銭を対価として受ける消費者である、という認識が出てきた。商品に対する料金という考えが葬儀社の提供するサービスだけでなく、お布施や墓地にも及んできている。
 戦後、葬儀の持つ社会儀礼的側面が肥大化したことへの反省もあってのことだろうが葬儀は社会的な行事ではなく、個人的な営み、近親者だけの営みであるという考えが強くなってきている。 「地味葬」という言葉が現れたように、質素な葬儀、近親者だけで営まれる密葬(家族葬)が好まれるなど、全体的に葬儀が小型化していく傾向が見られる。


弔いの心の映像4 確かに近代社会の尺度からすると、何事も「各人各様」で「自由に決める権利がある」のかもしれない。しかし、とりわけ冠婚葬祭に関しては、どの民族にも一見不合理な因襲や非科学的な迷信、あるいは窮屈な習慣がたくさん残っている(当然の事です)。これらをことごとく退けてしまうことがほんとうに正しくて良いことなのだろうかと問うた時、「日本の伝統や慣習など守りたくない。私は日本人でありたいと思わないし、日本人が日本人でなくなっても構わない」「人間やめてもかまわない」と答える人もいると思う。もちろん、どんな考えを持つのも「自由」である。伝統文化を否定してもよい。現行の葬送儀礼が気に食わなければ、それはやむをえない。自分の死後、散骨してもらいたければ、それもよし。そのように遺言状に書いておけばよい。だが、それは世間に宣伝したり、他人に奨励することではないだろう。早い話が駄々をこねて日本人でありながら日本人や日本の慣習を否定するようなこと(批判する事とは違う)は、本来ならひっそりとすべきであり公言すべきではない(自分の個人的思想を他人に押し付ける行為は避けるべきだという意味です)。
 たとえば今や風前の灯火のような少数民族の悲哀など知る由もなく(知ろうともしないで)、国籍や国境がなくなってもいいんだ、そうなるべきだと能天気に考える(無責任で身勝手な)人々が「進歩的」で「文化的」な「国際人」であるつもりであるとしたら、それは考え違いも甚だしいと言わねばならない。
 又現在は、墓を造らなくても、だれも咎めない。だが、「他人が墓を造るから自分も造る」ことがそんなに恥ずべきことなのだろうか。「自由に決める権利がある」とは人のやる事をまねる自由もあるということであり、この場合まねる事(先人に習う)はけして恥ずかしい事ではない。多様性は尊重すべきであり「先人に習う」事も多様性の一つであるはずだ。
 現在的に死や葬儀が個人的なものであるという理解が進むことにより、葬儀はその人らしくあっていいという考えが出てきた。昔は葬儀が地域の約束事として行われたものだが、その人の生き方にふさわしい自由な営み方があるのではないか、という、「自由化」を求める動きも出るようになっている。
弔いの心の映像5 だがしかし、「自分の葬式なのだから、自分の好きなようにさせてもらう」「自分には葬儀など一切必要ない」などという身勝手な態度は、残された家族を悩ませることになりかねない。と言うのは人は自分一人だけで生きているのではない。ましてや遺族はこれから様々な人とのつながりの中で生きていかねばならないわけで、いくら故人の遺志であろうと、自分勝手を通せば遺族はそれに引きずられて生きていかねばならなくなる。そしてそれは他人からの思いやりも家族の絆をも無視した手前勝手といわれても仕方ない行為となり得る。という訳でたとえ自分の主義に反しても遺族の為にあえて行う葬儀(最小の負担でのお別れの場)は、故人からの思いやりと家族の絆の証となる事が多いのも事実であり一考して欲しい。葬儀とは、亡くなった人と残された人とのつながりを確認する場でもあることもふまえ、遺族や親しい人たちの悲しみが、行き場を失わないようにすることも大切となる。お付き合いや義務からではなく、故人を思いやる心からの行為を拒否する事は、遺族や知人の為にも又故人の為にもならないのではあるまいか。だからこそこれからの「弔」は、故人の思いと、遺族・親類や知人・友人の思いをも心から納得させるものが求められているのだ。

【生きている皆様へ】

弔いの心の映像6 貴方は、肉親の最後を看取った事がありますか?私はついこの間、闘病の床の母の末期を看取りました。最後は意識は無かったと思いますが決心したかのように息をするのを止めた母を、私は自分の無力を嘆きながら母の手を握りしめて見守るしかできなかった。入院するまで、いつも仕事と共に私と一緒に生きてくれた母がこのような形で亡くなって行く事が、どうしようもない事だと解ってはいても今になっても心から離れないのです。
 その後、葬儀は私が仕切り、母が生前お世話になった方々と親族他の協力で、皆の心に残る葬儀を行えたと思います。このとき心掛けたのが「母だったらどうするだろう?」という事を全ての基準にして、式次第から内容や飾りつけや葬儀にかかる全てを演出したのです。ですので参加者全員の心に残る葬儀が行えたのではないかと今では思っています。そして私の場合、亡くなってから通夜まで中3日という時間があり、その間に様々な手配ができたのが大きな成功要因といって良いと思います。葬儀は待ったなしで行わなくでも、ゆっくりと出来るのではないか?と思い立ったのもこれがあったからです。

 さて自分の事はこれくらいにして、そろそろ本題に入りたいと思います。
 葬儀が大切なのはそこに人の死があり、しかも遺族にとってはかけがえの無い身近な人の死だからです。遺族はその死を通じて、命のもつ過酷さも儚さも悲しさも尊さも否応無しに思い知らされるのです。葬儀を営むとは、死に立ち会うということであり、愛する人の命や生き方に正面からじっくり対峙することであり、現在のようにイベント可されてしまったり時間に追われたり大勢の他人の接待に追われたりでは何のための葬儀なのかがぼやけてきます。
 又我々が葬儀や弔いで宗教を大切にしてきたのは、命に向き合う人々の悲しみや後悔他全てを引き受けて、故人の人生を昇華させてくれるからではないでしょうか。一方現在の流れである葬儀における宗教の不信は、葬儀において我々が心から故人に向き合っていない部分がある事を示しているようにも思えます。勿論無宗教でもしっかり向き合っている方はいるでしょうが、向き合うのが貴方ただ一人という事では遺恨を残す事になりかねません。故人に縁の方たち全員が故人と向き合う場として考えたとき、宗教儀式は一つの「場」を提供する事は間違いないでしょうし、だからこそ現在は宗教を超えた新しい宗教的儀式形態が望まれているのです(当社は協力寺院様と新しい形態を作り始めています)。

 誰もが死ぬという事実は、誰もがわかっている事なのに、だからこそ命(生きる事とも言い換えても良い)はかけがえの無いものだと本当に解って生きている人はどれくらいいるのでしょうか?。だからこそ生きた証としての葬儀もかけがえの無いものとしなければ故人に対し申し訳がありません。
 しかしながら葬儀を個人的なものととらえる人が増え、消費者意識が高まることによって葬儀にかける費用は大幅に低下し、弔いの心も変遷しつつあります。特に不況の影響もありますが葬儀費用は都市部を中心に大きく下落しています(費用が下がる事より内容や弔いの心が貧弱・希薄になっていることが懸念されます)。
弔いの心の映像7 これまでは「かけがえの無いもの」の弔いの表現として祭壇の大きさや立派さに価値がおかれがちでしたが、これからは「かけがえの無いもの」の表現としてきめの細かいサービスが求められるでしょう。特に高齢者世帯が増えることによって精神的なケアが求められるようになり(これは社会全般に言えること)遺族の悲しみに心から寄り添えるかどうかが問われるようになります。ですので遺族心理への配慮ができる優しい感性が必要であり、より専門的な知識、と細心の配慮が必要となってきます。
 すでに競争は始まっていますが本当にいいものが残る陶汰が進むのはこれからです。これまでは営業力や名前という資本が勝負を決していましたが、これからは消費者である遺族の希望をくみ取って、遺族の身になったサービスができる所が選ばれます。本物だけが生き残れるような、消費者(遺族)としての心からの選択が大事なポイントとなっています。

 最後に、ご遺族は悲しければ堂々と悲んで下さい。よく「恥ずかしくない態度を」というアドバイスを受ける事があるりますが、悲しい感情を傍らに追いやって葬儀をするのは式を無事に済ませるための方便でしかありません。悲しむ事は決して恥ずべき事ではない(私なんか今もフッと思い出しただけで知らないうちに涙が出ていたりします)のですから、周囲の人はその悲しみを理解して、一緒になって悲しみ、思いやり分け与えてください。
弔いの心の映像8 我慢して心を閉じ込めると心身症などに陥ったりすることすらあるのですから、思いっきり悲しみなさい。それはとても自然なことなのですから。愛する人の死は必ず痛みを、悲しみを、辛さをもたらします。それこそが「死」の持つ現実であり、言い換えれば命の持つ「尊」さなのです。静かに死者と向き合い、死者の弔いに専心することこそが葬儀の本質ではないでしょうか。
 さて現在的に、葬儀では通夜が告別式以上の人を集め、通夜の告別式化が目立ってきています。しかし死亡直後の何日かはそれこそ遺族には取り戻す事ができない大切な時間となります。そういった意味からも「通夜」事態を何日か遅らせて実施する事も良いのではないかと考えます。また日程的に無理だとか、弔問客にとって夜が都合がいいならば、通夜は身内だけで行い、後日改めてお別れの会を開いても良いでしょう。そして弔問客も、葬儀に参列するときには、喪服や参列という形以上に、故人を弔い遺族の悲しみを思いやる心をこそを一番大切にしてほしいものです。

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 文責:remain ・iihama


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