二日目
いよいよ「ホームズ散歩」の始まりだ。肩の鞄には「シャーロックズ・ロンドン・トゥデイ」と「A to Z」がはいっている。ロンドンのホームズ名所を歩いてたずねるガイドブックとロンドン地図である。
ホテルの近くのラッセル・スクエア駅でワンデイ・トラベル・カード(地下鉄一日乗り放題券・一ポンド半)をかいもとめ、ピカデリー・ラインでキングス・クロス・セント・パンクラス駅にでて、さらにメトロポリタン・ラインでベイカー・ストリート駅におりたつ。地上にでるまえに地下鉄構内をみてまわろう。
まずベイカールー・ラインのプラットフォームにおりる。細かな豆ホームズがよりあつまって、大きなホームズのシルエットが浮き出ているおなじみのタイル画である。JSHCの田中喜芳さんが暇にまかせて数え上げた、という伝説のある壁画だ。
つぎにジュビリー・ラインのプラットフォームにいくと、聖典の名場面のタイル画が七枚、かざられている。「チャールズ・オーガスタス・ミルヴァートン」、「バスカヴィル家の犬」、「一人きりの自転車乗り」、「ライオンのたてがみ」、「赤髪連盟」、「青いガーネット」そして「まだらの紐」だ。しかし「ライオンのたてがみ」というような人気のない作品をえらんだり、「まだらの紐」でもとぼけたヒヒが横切っていくのをホームズとワトスンが見送っているような平凡な場面をえらんでいるのはどうしたことか。
これらのタイル画はちょうどベンチの背中にあるので、人がすわっているときには写真がとれない。だから地下鉄が到着して客がみな乗ってしまったあとの一瞬にあわてて撮るしかなかった。しかもフォームの幅がせまいので、50ミリカメラではぎりぎりまでさがらなくてはいけない。冷汗ものの撮影だった。ちなみに上りのプラットフォームも下りのそれも、おなじ絵がかざってある。
連絡通路に出るとこんどは大きめのホームズのシルエットが色とりどりにまちかまえている。茶、白、赤、黒の何百というホームズのお出迎えは壮観としかいいようがない。
改札をでて、駅にあるパブ「モリアーティ」をさがしてうろつくが、なかなかみつからない。カメラ屋、カフェテリアといったちょっとしたテナントがはいっているところをあきらめて、また改札にもどってくると、はるかむこうのほうに、「モリアーティ」の看板がみえるではないか。ジュビリー・ラインやベイカールー・ラインの改札ではなく、サークル・ラインの改札のなかに立っているのだ。幸い乗り放題券なのでいそいそと入っていったが、まだ朝なので開店はしていない。正面の写真をとっただけでまた外にでた。
なにはともあれベイカー街221Bである。当時はアッパー・ベイカー街だったので、本当の221Bではないが、このアベイ・ナショナル・ビルディングの正面入り口わきには、ホームズのシルエットの浮き出た銘板がとりつけられている。その下には「翌日、われわれは……ベイカー街221Bの部屋を見に出かけた。……話はすぐにまとまり、さっそく借りることになった。」と記されている。
中にはいってみると、近代的なロビーの中央に受け付けがある。おそるおそる近寄ってみるとむこうは心得たもので、シャーロッキアン対策に「パブ・シャーロック・ホームズ」の案内のコピーをわたしてここにいけ、としきりにいった。その脇にはホームズのカラー肖像画の絵ハガキがあったので、みやげにかった。
ベイカー街駅にそって東にまわると、数軒みやげものやがならんでいて、そのうちで一番東よりのみせにはホームズのTシャツやマグカップ、陶製のホームズの頭の壁かけなどがならんでいる。
かどをまがるとバスカヴィル・レストランがあった。グリーンとイエローを基調にしたインテリアの入りやすそうな店で、レストランというよりも並記されているコーヒーショップという肩書きのほうがにあいそうだ。道路まで椅子や机がもちだされ、アメリカ人の観光客でにぎわっている。ちょうど反対がわがマダム・テュソー蝋人形館だということもてつだっているのだろう。かつてホームズの人形もあったらしいが、最近はみられなくなって久しいので、今回はマダム・テュソーは割愛させてもらって、ベイカー街を南下することにしよう。
はたして本当の221Bがどこにあったのか、いろいろな研究家が意見を発表しているが、いまだにこれといったものがない。ただいまのところ31番地が有力なようだが、当時の建物は取り壊されてしまっている。今回は221B捜しは横においておき、愉快に散歩をたのしむことにしよう。
まずだれしもの目にとまるのがシャーロック・ホームズ・ホテルである。あいにくそのときは改装中で正面がついたてでかこわれていたが、営業はしていた。かつてベーカー街に面してあったイタリア料理・リストランテ・モリアティは姿を消し、そのかわりに「ザ・シャーロック・ホームズ」という名の立て看板がイギリス風朝食の宣伝をしていた。
ロンドンのいたるところにみられるアンガス・ステーキ・ハウスと、ヴィクトリア風インテリアで有名な魚料理専門店、フラナガンズのあいだにつつましくあるのが「ワトスン博士の部屋・歯科医院」である。六年前におとずれたときに発見した「フィリップ・マーロウ先生」の名前の銅のプレートがまだあった。ワトスン博士の部下はハードボイルドのようである。しかし本物のマーロウとちがって、マーロウのつづりの最後にeはなかったのが残念だった。
パディントン街を曲がってすぐ左にあるのがシャーロック・ミューズである。ミューズとは馬小屋という意味で、馬車全盛の時代は表通りの住人のための馬小屋がこの小路にならんでいたのだ。もちろんホームズを記念してあとになってから命名されたもので、当時はヨーク・ミューズと呼ばれていた。いまでもシャーロック・ミューズという道路標識はあるものの、つまるところただの薄汚れた裏通りでしかない。
しかしその向かい側、パディントン街とケンダル・プレイスの角にウエアズ・ワトスン?(ワトスンはどこだ?)というブティックがあったのだ。これはだれも報告していないと、ほくほくしながら写真におさめた。しかしただの若者むけの店でシャーロッキアナとは関係がないらしいので、中にははいらなかった。
ふたたびベイカー街にもどり、公衆電話から昨日連絡のつかなかったニコラス・ユテヒン氏に電話をする。今度は一度でつながった。イギリス人は電話をうけて自分の名前をいうのではなく、電話番号をいうのがおもしろい。BBCのラジオの仕事をしているユテヒン氏は明るい声で、これから昼休みにあわないか、といった。BBCはホームズ散歩のみちすがらであり、一も二もなくOKした。
ユテヒン氏とあうまで小一時間あったので、あとすこしベイカー街をみてみることにしよう。本当の221Bはどこかということについては、ホルロイドの「シャーロック・ホームズ17の愉しみ」(河出文庫)におさめられている「ベイカー街の裏庭」(バーナード・デイヴィース)に詳しくのべられている。彼の説によれば現在の31番地であるという。残念なことに昔の建物はとりこわされて近代的なビルに建て代わっている。しかしその向かいの34番地、すなわちモラン大佐が「空家の冒険」でホームズを狙撃しようと忍びこんだカムデン・ハウスは今でも残っている。デイヴィースは「三四番地の一階は現在、旅行代理店であり」とのべているが、いまでもここはリンゼイ・トラベル・サービセズという旅行代理店である。
うらのケンリック・プレイスにまわってみよう。ホームズとワトスンが「空家の冒険」でカムデン・ハウスにはいりこんだ木の門というのはこれだろうか。裏庭があるのかどうか、通りからではまったくわからない。しかしこの裏庭は建物にかこまれていたそうだから、この青い木戸をとおれば荒れ果てた庭があるのかもしれない。
カムデン・ハウスの近くにはベイカー・ストリート・エステイツという不動産屋がある。ここの店は気難しくてとっつきにくいが、ホームズのシルエットのはいった物件チラシを一枚ちょうだいしてきた。通りの看板の宣伝文句がアラビア語でかかれているのが、現在のロンドンを象徴しているようだ。
マンチェスター・スクエアにいく。ハートフォード・ハウスを占めるウォレス・コレクションはホームズの親戚ヴェルネ一族とグルーズの作品を所蔵している。彼の作品をモリアティ教授が書斎に飾っていたといわれている。だがユテヒン氏との約束の時間がせまっていたのでそれらの絵を発見できないまま、あわてて外にでた。
スクエアをヒンド街からでてベンティンク街につづき、ウエルベック街とまじわる。こここそが「最後の事件」でホームズが荷馬車に轢き殺されそうになったところである。
クイーン・アン街におれこむ。はじめて交差するのがウインポール街。「マイ・フェア・レディ」に登場するヘンリー・ヒギンズ教授がすんでいた通りである。その次が医者が多くすむので有名なハーリー街である。「悪魔の足」のムア・エイガー博士がすんでおり、「ショスコム荘」でホームズは、ここはベイカー街でハーリー街ではないといっている。また付け加えればこの道のりはホームズとワトスンが「青いガーネット」でアルファ・インにむかったときのものである。
クイーン・アン街の東のはしちかくにあるのが9番地である。「シャーロックス・ロンドン・トゥデイ」によればここでワトスンが「有名な依頼人」当時開業をしていたという。いったい誰の説だろうか。ご存じのかたはおおしえ願いたい。
つき当たりから二つ角をまがるとランガム・プレイスにでる。ちょうどその右にそびえ立つのがランガム・ホテルだ。ボヘミア国王、モースタン大尉、フィリップ・グリーンが泊まった。現在はBBCの社屋になっているはずだ。日本シャーロック・ホームズ・クラブ主催の小林夫妻が訪れたときは、まだBBCが活発に仕事をしていた。しかし建物はシートでおおわれ、工事中だった。とうとうこの歴史的建造物も時代の波に押し流されるのだろうか。
道路をわたった角がBBCの建物である。この正面玄関でロンドン・シャーロック・ホームズ・ソサエティの機関誌、シャーロック・ホームズ・ジャーナル編集長ニコラス・ユテヒン氏とあう予定だ。渋谷のNHKと比べれば本当に質素で小さいロビーである。
中にはいったところでユテヒン氏がちょうど正面のエレベーターからおりてきた。指揮者のジェームズ・レバインに似た、エネルギッシュな感じのする人物である。「ビヨンド・ベイカー・ストリート」(マイケル・ハリスン編)の紹介文によれば、氏はホームズ役者でもっとも有名なベイジル・ラズボーンの遠縁であり、またはじめてのシャーロッキアナの論文をかいたのは十六歳のときだったという。そして二十三歳でベイカー・ストリート・イレギュラースの会員にえらばれたという天才肌のシャーロッキアンである。
近くのいきつけのパブにさそわれて、その一角に席をしめた。イギリス特産の濃いビターをあいだにはさんでホームズ談議に花がさいた。しかし、ユテヒン氏ほどのひとの一番さいしょの質問が、
「日本では聖典がみんな翻訳されているのか?」
というのでびっくりした。聖典はもちろんのこと、研究書も数多くやくされている、スミス編の「シャーロック・ホームズ読本」(プロフィール・バイ・ガスライト)がでているというと、「こちらでは戦前にオリジナルがでていらい、出版されていない」と仰天していた。さらに百周年のイラスト本もでているというと、「それはノウンのか、アイルズのか」ときくので、
「両方ともでている」とこたえると、
「アイルズの『百周年記念』はいい本だ。しかしノウンの『光と影』は間違いが多いのでよくない本だよ」といった。
どこのどういう点が間違っているのかあいにく聞き漏らしたが、なにしろ地元の専門誌の編集長がいっているので重みがある。こんど手紙で問い合わしてみることにしよう。
また「シャーロック・ホームズの私生活」(ヴィンセント・スターリット)が最近出版されたこともはなし、さらに「シャーロック・ホームズの災難」(エラリー・クイーン編)が文庫本ででていることもつげると、ユテヒン氏はあきれはてて言葉をうしなってしまったようだ。欧米では初出がドイルの遺族の抗議で絶版になって以来、ほとんど入手が不可能になってしまっているからだ。
話はイギリスで出版されているホームズ関係の書籍にもおよんだ。「緋色の研究百周年」にちなんで出版された「ビートンのクリスマス年鑑復刻板」の遅れについて質問した。これはあるイギリスのシャーロッキアンが自分の資金で印刷し、出版社に販売を依頼しているそうで、彼が印刷の色合いなどを厳しくチェックしてすりなおしをくりかえさせているので、おくれているのだという。ユテヒン氏にしても実際に手にいれたのが八月末の時点でもついこのあいだだったそうだから、極東のわれわれはもっとまたなくてはいけないのだろう。実際、その後九月にはいってから私の手元にすばらしい「ビートンのクリスマス年鑑」がとどけられたのである。
最近事件名の翻訳が問題にされることがよくあるので、ジャーナルの編集長という本場のシャーロッキアンの元締めに尋ねてみることにした。それは笹野佳子さんが「《一人きりの自転車乗り》訳名考」と題して「熟考シャーロック・ホームズ」(小林司・東山あかね編、170〜1ページ)に発表した論文で、要旨は孤独な自転車乗りとはヴァイオレット・スミスではなく、ボブ・カラザースだというものだ。
それをユテヒン氏にはなしたところ、狐につままれたような顔をして、
「ヴァイオレット・スミスにきまっているじゃないか」
と一言でかたずけられた。どうもこれを問題にしていたのは日本ばかりだったようである。
わざわざ日本からもってきたユテヒン氏のかいた「シャーロック・ホームズ・アット・オックスフォード」という論文小冊子のサインをもとめると、どこで手にいれたのかとびっくりしたり照れたりしながらサインをしてくれた。洋書専門店日本橋丸善ではシャーロッキアナ専門コーナーがあり、そこで手にいれたというと感心していた。
そのかわりにユテヒン氏は私が進呈した自作の論文小冊子「ホームズと大予言」にサインをもとめたので、お互いにサインの交換となった。
ユテヒン氏の論文はホームズがどこの大学にかよったか、という内容である。オックスフォードで生まれ育ち、大学もオックスフォードのユニバーシティ・カレッジを出たユテヒン氏にしてみれば、当然ホームズは彼の先輩だというしかない。彼の説によればホームズはオックスフォード大学セント・ジョンズ・カレッジにかよっていたという。この論文以後、めぼしい大学関係の論文がでていないので、いまのところこれが最終的結論であるというのがユテヒン氏の説明だ。
ランガム・ホテルが工事中だね、と水をむけると、おどろいたことに、
「いままでBBCがつかっていたけれども、再びホテルとしてスタートするために改装中なんだ。二年後の1990年に落成予定だから、今度歯医者になってお金に余裕ができたらここに泊まればいい」という答えがかえってきた。シャーロッキアンの宿としてはシャーロック・ホームズ・ホテルに並んで魅力的ではないか。
翌日オックスフォードを訪ねるつもりなので、ホームズ関係の名所や古書店をたずねたりしたが、すぐにユテヒン氏の昼休みも時間がきてしまった。ふたたびBBCの前にもどったところで「これからどうするのかい」ときかれたので、「ホームズ散歩をつづけるつもりです」と答えてわかれた。
キャベンディッシュ・スクエアにはいった。ここからホームズとワトスンは「空家の冒険」でカムデン・ハウスに向かってあるきはじめた。まっすぐ西にむかってウイグモア街をすすむ。歩きくたびれたころ、シーモア・ミュウズと交わったところにあるのが、ウイグモア街郵便局である。「四つの書名」でホームズが、
「……けさ君がアイグモア街郵便局へ行ってきたとわかる……君の靴の甲には赤土が少しくっついている。ウイグモア街郵便局の真向かいでは最近舗装をはがして土を堀り返したから、局へ入るにはその土を踏まないわけにはゆかない。その土というのがこういう独特の赤みをおびていて、ぼくの知る限りでは、この近所ではあそこにしかない。」と述べている。 郵便局はウイグモア街とシーモア・ミュウズの角にある。その小路をちょっとはいったところの郵便局の壁ぎわで、なんと道路工事をしているではないか。私は目をうたがった。本当にウイグモア街の土が赤土かどうかたしかめることができるのだ。 しかしそこには二人の上半身裸の道路工事人夫が働いている。あたりをうろちょろするとどつかれやしないか、とびくびくしながらそっと近づき、あわててフィルム缶に一杯土をすくうと、しらんぷりをして逃げ出した。
だが、なんということだろう。缶のなかにみたされているのは紛れもない黒土ではないか。ホームズのいったことは間違いなのだろうか。いやいや、そうではあるまい。この百年で土壌に変化があったともかんがえられる。しかしそれよりも、ホームズは「この近所では(赤土は)あそこにしかない」といっているではないか。つまり、赤土はウイグモア街に面した入口の下だけにあるのであり、郵便局の脇のシーモア・ミュウズではもう黒土のある場所になってしまっているのである。
とにかく、思いもよらない収穫があったことを喜びながら、もう一度ウォーレス・コレクションにもどることにした。今度こそヴェルネとグルーズの絵を発見するのだ。
ロンドンの美術館や博物館はほとんどがただなので、気軽に何度もではいりできるのがうれしい。それにクロークも完備していて、てぶらでゆっくり愉しむことが出来る。イギリス式に広い壁に何段にもわたってびっしりと絵がかざられているが、よく注意してみると、ベラスケス、ハルス、レンブラントといった、もし日本で展示したらそれ一枚で長蛇の列ができそうな高名な画家の作品が、なんの気なしに飾られているのだ。ただの貴族の個人コレクションと馬鹿にしてはいけない。正直にいって、上野の国立西洋美術館より数も内容も勝っている。
それらにまじっておそらくホームズの大伯父のエミール・ジャン・ホラス・ヴェルネ(1789〜1863)の作品も数おおくみられた。「シャーロック・ホームズ事典」(ジャック・トレーシー)には「リアルな筆致の戦争画でしられる」とあり、フランス兵のいこいの一時を描いた作品もあったが、一番目をひいたのが、アラビア人をテーマにした作品群である。また一族のカール・ジョセフ・ヴェルネの「嵐の中の難破船」もある。
ジャン・バプティスト・グルーズ(1725〜1805)の作品も、十点ちかくあった。どれもが悩ましげな少女や夫人の肖像画で、そのうちの一点「イノセンス」が、「恐怖の谷」のなかでホームズが「たとえば『小羊を連れた少女」と題されたグルーズの絵が一八六五年に四千ポンドを超える値で売れたという」とふれている絵だといわれている。モリアティ教授も彼の作品を一枚書斎に飾っていたそうだが、案外教授もロココ風の少女趣味があったのかもしれない。
売店でグルーズとヴェルネの絵はがきをかいこんだあと、またウイグモア街にでたが、ここで突然のどしゃぶりの雨にみまわれた。すぐやむだろうとたかをくくって、近くのサンドウィッチ・バーにはいって卵サンドと紅茶(1,40ポンド!)を注文して雨宿りをしたが、なかなかやみそうになく、かえって雨足はつよくなるばかりである。意を決して店を飛び出すと、一気にオックスフォード街まで走り、セルフリッジス・デパートに逃げ込んだ。例えていうなら伊勢丹、東急というクラスのデパートで、中のつくりは日本とまったく同じである。一階に傘売り場があるというのも同じで、いくつか折畳み傘を吟味してみたがイギリス人の体格にあわせてあるようで、どれもこれも根棒のように大きく重たい。ロンドンを歩き回るには大荷物になってしまうのであきらめて、すぐ目と鼻の先にある、マークス・アンド・スペンサー本店に走った。
これはいってみればダイエー、ジャスコといった大衆専門デパートで、イギリス中いたるところに支店がある。おもしろいことにここで扱っている商品はみなどれも自社ブランドのセント・マイケル印である。洋服から食料品まで例外はなく、スコッチ・ウイスキーやナポレオン・ブランデーまでセント・マイケルだったのにはまいった。台湾製の小さな折畳み傘があったので買い、地下の紳士服売り場でワイシャツも二枚かった。セント・マイケルのワイシャツは堅実な製品として有名なのである。
買い物をすませてもいっこうに雨のやむけはいがないので、外をあるきまわるのをあきらめてロンドン博物館にいくことにした。ボンド街駅から地下鉄に乗り、バービカン駅までいく。博物館は地域再開発で建設された近代的文化施設・マンション群、ザ・バービカンの中にある。そういうと聞こえはいいが、実はホームズの時代からここいらへんはスラム街だったのだ。それを再開発によって浄化、活性化をはかったのである。
しかしこのザ・バービカンは変に近代性を誇示したいのが裏目にでて、まったくいまどこにいるのかわからないのだ。おかげでロンドン博物館を発見するまでに三十分以上かかってしまった。この博物館は原始時代のロンドンから現代までを歴史にそって解説しており、ヴィクトリア時代の商店をそのまま移築したり、本物の二輪辻馬車が飾ってあったりしてあって、けっこう愉しむことができた。
博物館をでてからまた迷いに迷ってバービカン・センターのクリストファー・ホグウッドとジ・カデミー・オブ・エンシェント・ミュージックの、来週の木曜日の夜の演奏会の切符を手にいれた。モーツアルトのハ短調ミサのモーンダー博士による新版のイギリス初演だというので、たのしみである。
この日はぼろぼろにくたびれたので、テーブルクロスのあるイタリア料理の店にはいってスパゲティをたべてホテルにかえった。せいいっぱいの贅沢である。