(2)亡命客?


峯太郎の最初期の作品はいくつかのペンネームを用いて書かれているのは御存じのとおりである。そのひとつに、「亡命客の一人」もしくは「旧亡命客」というのがある。その作品はいま分かっているだけで、以下の三編である。

(1)「亡命の記」
(亡命客の一人名義「中央公論」大正2年12月号)

(2)「続亡命行」
(亡命客の一人名義、「中央公論」大正3年8月号)

(3)「流転一如」
(旧亡命客名義、「中央公論」大正4年1月号)

ちなみに(1)が発表された際には、その末尾で「亡命の記(続篇)は本篇以上の長文にして新年号(三百号記念号)の紙上を飾るべし」とかかれてはいるものの、残念ながら実際に発表されたのは8月号になってからであった。これらはみな峯太郎が第二革命に失敗し、李烈鈞らと日本に亡命して来た次第を描いている。

さて、先日「日本及日本人」を調べていたところ、大正5年1/1(671)号に、次のような題名の、気になる記事を発見した。

「戦後に於ける支那の形勢」(前都督某亡命客)

前都督といえば、元江西省都督である李烈鈞がまず思い浮かぶ。この文章は「驕慢に近い日本人は」などと、常に支那人の視点からかかれ、また袁世凱政府を攻撃してはいるが、はたして李烈鈞がこのような日本語の文章をかけたものだろうか。確かに彼は陸軍士官学校に留学はしていたが、支那人生徒は日本人生徒と分離されていた。もしかしたら李烈鈞の談話はとったかもしれないが、実際に筆をとったのは峯太郎ではないだろうか。彼は「日本及日本人」に連載をしていたので編集部ともつながりがあり、十分考えられることである。確証がないので、今は年表にはいれていないが、かなりその可能性はたかいといってもいいだろう。

また同じ「日本及日本人」(大正2年9/1号)の巻頭無署名記事に「亡命客と為るも亦可」というものがあった。残念ながら記事そのものはまだ確かめてはいない。おそらくこれは記者がかいているのだろうが、これが第二革命で亡命して来た峯太郎、李烈鈞らをさしているのは時期的にも間違いなく、もしかしたら峯太郎から談話をとったのかもしれない。

(2000/5/27)