映像の乱歩

前項「乱歩の幻影」で「乱歩の描く世界というものを他の作家が表現しようとしても、なんと陳腐で下品でくだらないものにしかならないのだろうか。それぞれの作家がそれぞれの世界を描いているときならば、おそらく私も引き込まれるようにして読んでいることだろう。しかし一度それが乱歩世界に置き変わるとき、それは安いマガイ物でしかなくなるのである」と書いた。

そしてそれは映像作品と同様の印象であることに気がついた。いままで私はどの乱歩の映像化作品であっても、満足して見終わった経験がない。映像になったときの乱歩世界のくだらなさを正視できないのである。

それはテレビ作品よりも映画のほうがより強い。これはおそらくテレビでは猥褻的、猟奇的表現に規制がくわわるので、むしろ映画よりもマイルドな描写に終始せざるを得ないから普通のミステリ番組と同様の表現でおちついてしまうからであろう。それはそれで独立した世界の話として完結しているわけであり、荒井注演じるコミカルな中村捜査係長でも、現代に舞台を移した明智小五郎でもそれなりに見ることができるのである。

しかし映画ではかなりのグロテスクな性描写が可能であり、「陰獣」にあるようなSM描写もふんだんに行うことができる。しかしそれらが乱歩の世界を如実に表し、構築しているかといえば、それは悲しいかな、全く違うのである。そのような赤裸々な描写を行えば行うほど、映画は陳腐なポルノ映画に成り下がってしまうのである。

はたしてこれはどういうことだろうか?映画の予算が足りないだけなのか、それとも演出がダメなのだろうか?それだけではないような気がする。

結局映像作品は読者のイマジネーションを越えることができないのではないだろうか。我々が乱歩の作品を読んだときに心の中に浮かぶ情景というものは、はたしてまるで映画のような映像なのだろうか。決してそうではない。それはすべての感覚が総動員された上でのめくるめく印象世界なのである。たとえば「明智小五郎」という人物に関して読者はある印象を抱いており、その読者の心の中の「明智小五郎」はじつにいきいきと活躍することができるのである。しかしその「明智小五郎」ははっきりした顔をもっているかというと、そういうわけではない。またどれだけの身長があるのかということも、はっきりしない。しかしそれだからといっておもしろさが半減するわけではなく、むしろ場面場面によって彼の「明智小五郎」は自在に適応して活躍することができるのである。恋愛シーンなら二枚目俳優でも恋人でもかれらの印象を「明智小五郎」にまぜこむことができるし、格闘シーンならまた別のすぐれたアクション・スターの要素を「明智小五郎」にインプットできるのである。

それだから我々の読書の興奮を、単なる視覚と聴覚情報でしかない映画は越えることはできないのではないだろうか。

(99/10/11)