(15) 乱歩と推理小説とミステリ

ケーブルテレビのチャンネルの一つにミステリ・チャンネルというものがある。ミステリのテレビドラマを放送するのが目的である。その番組に最近刊のミステリを書評するものがあった。それを見るともなしに見ていると、久しく「ミステリ」を読んでいなかった人間の目からみて、非常に奇妙に思えることがあった。おそらくこれはミステリを読み慣れている人にはまったく問題のない当たり前の事なのだろう。しかしこの問題はおそらく乱歩にまで遡るであろう。

簡単に言うと、ミステリとは何なのか、ということである。

現在日本の出版界では、ほとんどの大衆小説がミステリと銘打たれているといってよい。推理小説は当然のこと、SF小説、ホラー小説、幻想小説、恋愛小説、はては家庭内の問題をあつかったようなものまでミステリといわれているらしい。これでは純文学と捕物帳以外の時代小説以外はすべてミステリといわれているようなものである。かつてどこだかの雑誌で、ニュー・ヨークの老舗ミステリ小説専門店ミステリアス・ブックショップの店主オットー・ペンズラー氏がインタビューの中で、日本ではホラー小説をミステリーと呼んでいる事に驚いていた。つまり海外ではこのような節操のない使用法はしていないわけで、これは日本特有の現象であるといっていいだろう。いったいだれが京極夏彦の「どすこい(仮)」を推理小説として読むのだろうか。

ではミステリとはなんであるか。辞書的にいってみれば推理小説のことである。上述のミステリアス・ブックショップであつかっているのは九分九厘推理小説である。ロンドンの同じく専門店マーダー・ワンはSFもあつかってはいるが、まったくフロアを別にしている。さらに私は時々海外のミステリ専門古書店のカタログも受け取るが、それらではほとんどSFやホラー小説は扱われていない。だからアメリカ人、イギリス人の理解するミステリとは推理小説の事なのである。

では推理小説とは何か。これは単に探偵小説の「偵」の字が戦後の当用漢字の制限にひっかかって、新聞などでつかえなくなり、「探てい小説」と表記するのはみっともないという極めて実際的な理由から採用されたのである。木々高太郎らが理屈をつけようとはしたものの、結局推理小説と言う言葉には、当初理念も理想もこめられていない看板の書き換えにしか過ぎなかったのである。

そして探偵小説にいきつくのである。ここでようやく乱歩が登場する。随筆「日本探偵小説の多様性について」で彼はこう書いている。

日本の探偵小説の過半数は本当の探偵小説でないということが云われている。私自身もこの説には同意を表するもので、探偵小説であるからには、探偵的な興味、つまりある難解な秘密を、なるべく論理的に、徐々に探り出して行く経路の面白さというものが主眼になっていなければならない。そのほかのいわゆる探偵小説、たとえば異常な犯罪の経路を描いたもの、犯罪その他異常な事件の恐怖を主眼とするもの、怪奇なる人生の一断面を描いたもの、精神病者又は変質者の生活を描いたもの、ビーストンふうの「意外」の快感に重点を置くものなどは、犯罪小説、怪奇小説、恐怖小説などに属するものであって、探偵小説とは云えない。

これはわかりきった事のようでいて、実は何となくハッキリしていないのであるが、その原因は世のジャーナリスト達が、探偵作家の書くものは、犯罪小説であろうが怪奇小説であろうが、すべて探偵小説という一色の名で呼び慣わしたこと、探偵雑誌「新青年」出身の作家はことごとく探偵小説家であり、そこに掲載される犯罪、怪奇、幻想の作品は皆探偵小説であるかのごとき誤った考え方が一般に行われて来たことなどにあるのだと思う。

この状況は今も昔もかわらないようで、「探偵小説」を「ミステリ」に置き換えればまったく現在でも通用する論である。乱歩のいうように探偵小説家が探偵小説以外のものを書いてもいっこうにさしつかえないわけで、たとえばコナン・ドイルは歴史小説やSF小説、恋愛小説や戦記などほとんどあらゆるジャンルで執筆している。またドロシー・セイヤーズはダンテを翻訳し、ヴァン・ダインは美術評論家、そしてミルンは「くまのプーさん」を書いている。

しかしこれらの作品はまった探偵小説だのミステリだのいわれてはいない。これは海外の見識のあるところである。しかし国内を見てみると、乱歩の幻想小説、怪奇小説、恐怖小説をはじめとして、夢野久作、木々高太郎、渡辺啓助の時代から現代にいたるまで、なんでもかんでもミステリ、ミステリである。

乱歩のいうようにジャーナリズム、出版者側の論理は大きいだろう。かれらとしてみれば、まず売れなくていけない。だから推理作家の書いた作品なら、推理小説またはミステリと銘打って出版すれば、推理小説ファンは確実にかってくれるだろうという打算もある。また推理小説ファンに新しい未知の分野を紹介する道筋をつけ、ますます本をかってくれるようになるのでは、という計算も成り立とう。だが考えてみれば、これは牛肉を買ったつもりなのに豚肉を渡され、「どうです、豚肉もけっこうおいしいでしょう。今度から牛肉も豚肉も両方かってくださいヨ」と云われているに等しいわけだから、読者もバカにされたものである。もっともそれに気付かない読者はもっとバカである。

乱歩はジャーナリズムのせいにしているが、はたしてそれだけだろうか。作家の方も都合良くそれに載ってはいないだろうか。乱歩もさまざまな随筆で探偵小説の定義と分類について考察はしているものの、実際に彼が書いた作品は初期と戦後の一部の作品を除くと、ほとんど彼自身の定義「探偵小説とは難解な秘密が多かれ少なかれ論理的に徐々に解かれて行く経路の面白さを主眼とする文学である」から逸脱しているといってもよかろう。また彼はのちに「宝石」の編集を引き受け、ジャーナリズム側に身を投じる事になる。彼は「宝石」の建て直しに獅子奮迅のはたらきをするのであるが、どうも手当りしだいに原稿を依頼したといってもよく、探偵小説専門誌と云う性格をぼやけさせることにはならなかっただろうか。乱歩は常々探偵小説界の拡大と云うことを考えていたからか、前述のように自身の研究としては探偵小説の定義をしっかり考えてはいたものの、現実には勢力拡大のために少々のことには目をつぶっていたとはいえないだろうか。その傾向は現在まで続いているのではないだろうか。パイの拡大のためになんでもかんでも仲間に引き入れているように私には見える。まるで昨今の政界の連立内閣のように思えてならない。


(2000/4/17)