明智小五郎の誕生

 

1920年の「D坂の殺人事件」で江戸川乱歩は、明智について「年は私とおなじくらいで、二十五歳を越してはいまい。」とのべている。乱歩は1894年生まれでこの年数えで27歳であるから、明智は1896年生まれだろうか。ただこの人物が乱歩かどうかという問題がのこっているが、このころの乱歩は団子坂で古本屋をやったり職業を転々としたりしているので、「D坂」事件のなかの「当時私は、学校を出たばかりで、まだこれという職業もなく、下宿にゴロゴロして本でも読んでいるか、それに飽きると、当てどもなく散歩に出て、あまり費用のかからぬ喫茶店廻りをやるくらいが、毎日の日課だった。」というのとと一致している。このころ乱歩はD坂で古本屋をやっていたが、この「私」も下宿がD坂の近くにあるといっているので、同一視してもいいだろう。

 一方で1925年の「何者」事件では変装した明智を「二十七、八の、頭の毛をモジャモジャさせた痩せ形の男」と描写している。これを数え年とすると1897か8年生まれとなる。

 しかし1928年の「魔術師」事件では「四十に近い中年者」と表現されている。1896年ころに誕生ではせいぜい33歳であり、可能性がうすい。一方乱歩と同年の94年生まれだと数えで35歳になる。

 1949年の「凶器」事件では「この名探偵はこう五十をを越していた」とある。

 「D坂の殺人事件」事件での年齢は「私」の推定であり、また「何者」事件では明智は変装をしている。しかし「魔術師」事件の発言は明智自身によるものであり、一番信頼できるものである。だからより尊重されるべきだろう。しかし乱歩より年上ということは、「D坂の殺人事件」事件をみても考えられないから、ぎりぎりの線で1894年が明智小五郎の生年とするのが妥当ではあるまいか。

 さて、では明智の出身、生家はどのようだったのだろうか。具体的にはなにも本文中にはしるされていないので、断片的な情報から類推するしかない。

 かれの姿は「怪人二十面相」事件での二十面相の変装だが、「モジャモジャにみだれた頭髪、するどい目、どちらかといえば青白い引きしまった顔、高い鼻、ひげはなくて、キッと力のこもったくちびる」と描写されている。「何者」事件でも「頭の毛をモジャモジャさせた痩せ形の男」といわれている。また「蛛蜘男」事件では「このモジャモジャの髪の毛、この広い額、この鋭い眼光」「詰襟の麻の白服に白靴、まっ白なヘルメット帽、見慣れぬ型のステッキ、帽子の下からは鼻の高い日にやけた顔、指には一寸も幅のある大きな異国風の指環、それに大豆ほどの石がキラキラと光っている。背が高くて足の恰好がよいので、ちょっと見るとアフリカか印度の植民地で見る英国紳士のようでもあるし、また欧州に住みなれた印度紳士といった感じもするが、その実日本人であることは間違いない。」「詰襟の白服に白靴の、日本人離れのした明智小五郎」、「透明怪人」事件では「黒のせびろ、薄茶色のネクタイ、れいのもじゃもじゃの頭、西洋人のようなひしまった顔」といわれている。

 「暗黒星」事件では「名探偵明智小五郎は、書斎の肘掛椅子にグッタリともたれこんで、無闇に煙草を吹かしながら、考えごとにふけっていた。あたりには、煙草の煙が濛々と立ちこめて、部屋じゅうが霞に包まれているように見えた。」 「青銅の魔人」事件では明智は「愛用のパイプ」をくわえている。

 ここまで引用すれば、おわかりだろう。「怪奇四十面相」事件で「名探偵、明智小五郎の名声は、この大とり物によって、いやがうえにも高くなり、「透明怪人」をとらえた、日本のシャーロック・ホームズとして、西洋の新聞にも、明智のてがらばなしが、大きくのらせられたほどです。」とあるように、明智はシャーロック・ホームズの息子なのである。髪の毛がホームズとくらべて多く、やたらにニヤニヤ笑うことをのぞけば、そっくりではないか。さらに「日本人離れ」したとまでいわれる彼の姿は、混血を連想させるではないか。それも「英国紳士」の香りをかもしだすといわれるからには、英国人の血がまじっているにちがいないのである。その証拠はこれだけではない。

 彼が変装をするときには「明智は寝室に飛びこんだかと思うと、五分ほどのあいだに自動車の運転手といった風体に変装して出てきた。」(「黄金仮面」)一方ホームズは「ボヘミアの醜聞」で馬丁の変装でもどってきて「ちょっとうなずいて寝室へ入ったが、五分もすると、いつものようにツイードの服を着てきちんとした姿で現れた。」「ホームズは寝室に消えたかと思うと、数分とたたぬうちに、愛想のいい、人のよさそうな非国教会の牧師に変装してあらわれた。」

 さらにホームズがベイカー・ストリート・イレギュラースを組織している一方で、明智は少年探偵団をつくるだけでなく、チンピラ別動隊もつくっている。小林が上野公園のチンピラたちにむかって「諸君は知らないがね、イギリスに私立探偵の大先生がいるんだ。シャーロック・ホームズ先生っていうんだよ。このえらいホームズ先生が、やっぱり、君たちみたいなチンピラやおとなの浮浪者を助手につかって、悪者をつかまえたことがあるのさ。そのイギリスの探偵団の名は『パン屋町のごろつき隊』っていうんだ。」と「青銅の魔人」事件でいっていることからみても、明智はホームズにならっているのは間違いない。また「黄金仮面」事件で、蝋人形を窓際において暗殺者をあざむくのも、ホームズ直系のトリックである。

 さらにいろいろホームズと明智の類似点はあるが、それらについては実吉達郎の「シャーロック・ホームズと明智小五郎」(シャーロック・ホームズと金田一耕助」毎日新聞社・1988年)を参照されたい。

 ホームズはいわゆる「大空白時代」(1891年5月から1894年4月)のあいだ、死んだと一般におもわれていたが、実はチベットなどを旅行していた、と「空家の冒険」事件にかかれている。しかしその記述は数々の疑問が出されているのも事実である。詳しくはそれらの研究をあたられたいが、当時ホームズがチベット、メッカ、カルトゥームなどを訪問するのは難しいという歴史的事実があった。

 しかしホームズがこの時期に日本を訪れていたという説も、加納一朗の「ホック氏異郷の冒険」(天山文庫)で主張されているから、日本女性との出会いがまったくなかったとはいいきれない。そして大空白時代にホームズと明智の母の出会いがあったとすれば、彼が1894年に誕生してもなんの不思議もないのだ。

 ジョン・クラークは"Some Notes Relating to a Preliminary Investigation into the Paternity if Nero Wolfe"で、レックス・スタウトの作品に登場する探偵ネロ・ウルフが、ホームズの子供であると、そしてベアリング=グールドは「シャーロック・ホームズ−ガス燈に浮かぶその生涯」(講談社)で、アイリーン・アドラーがその母親だと主張している。この説は欧米では広く受け入れられているようだが、この根拠はきわめて薄弱である。まずアイリーン・アドラーは1891年7月に発表された「ボヘミアの醜聞」のなかで「故アイリーン・アドラー」と呼ばれている事実がある。ネロ・ウルフはスタウト作品の研究から、1892年生まれといわれているそうだから、この事実だけでもアドラーはウルフの母たりえない。さらにホームズとウルフの類似点は、卓抜した推理力以外ほとんどない。痩身と肥満体、行動派と安楽椅子探偵、食事は脳の活動を鈍らせるというホームズと、美食家探偵の代表のウルフ。ウルフはマイクロフト・ホームズと似たのだといっているが、それも苦しい弁明である。それならなぜマイクロフトの息子としないのだろうか!? 

 客観描写にのみもとずいてみれば、ウルフと明智でははるかに明智のほうがホームズに似ているのは、まぎれもない。ただ明智が東洋人であるというのは大きなハンディキャップだが、前述のとおり、明智は日本人ばなれした顔だちをしており、混血の可能性がおおいにある。一方ウルフはモンテネグロ人であることは繰り返しいわれているが、母親がアイリーン・アドラーだとすると、その正体はアメリカのニュージャージー生まれのクレアラ・スティーヴンス(高名なシャーロッキアン、ジェイムズ・モントゴメリー氏の叔母)となり、まったくモンテネグロと関係がなくなってしまうではないか。

 エラリー・クイーンは"The Great O-E Therory"でホームズとネロ・ウルフの母音のならびが似ていることを指摘しているが、それはただそれだけのことでしかない。ネロ・ウルフがホームズの息子であるという説がいきのびられているのは、ただその出版代理人であるレックス・スタウトがベイカー・ストリート・イレギュラースの有力会員であったという事実のみに依存しているのであり、明智小五郎にくらべて根拠が薄弱といわれても仕方がない。

 同じ名前を論ずるなら、明智小五郎にも有力な手掛かりがある。それも、O−Eセオリーといったような、偶然の一致をこじつけるようなものではない。彼が小五郎となづけられた理由が、かくされているのである。

 ホームズは「空家の冒険」で「日本の格闘技であるバリツの心得があった」といっている。なぜホームズか「バリツ」とよんだかは議論のあるところだが、これが柔道であることはまちがいない。だれにならったのかははっきりかかれていないが、加納一朗の「ホック氏異郷の冒険」では東京をおとずれたホームズが「ぼくにジュウジュツを教えてくれた日本人にあいたいのだ。きみはジゴロー・カノウという名をしっているかね?」といっている。それにたいして加納治五郎は「先年、欧州に行ったとき、たまたまこの方と知己になったのです。西洋人の欠点は腰が弱いが、この方はどうしてどうして。本格的に修練なされば前途恐るべし、ですよ。天才的な習得力を持っておられる」といっている。もちろんこの加納治五郎は、講道館の創始者そのひとである。もし加納説がただしいとすると、ホームズは柔道の始祖加納治五郎から直接てほどきをうけ、そのおかげで九死に一生をえたことになる。

 もしホームズが日本滞在中に日本娘とのあいだに男子をもうけ、その子に名前をつけなくてはいけなかったとすれば、どうしただろうか。彼は命の恩人でもあり、尊敬する加納師の名前をとったにちがいない。しかしそのままつけるのではなく、「加納治五郎のあとにつづく弟子」という意味もこめて、「小五郎」とつけたのではないだろうか。