ぼくたちの甲子園 高校野球名勝負列伝・選手権大会編
No.1 2003.4.12
高校野球史上最大の対決
(昭和54年 第60回選手権大会 3回戦 箕島高校対星稜高校)
「高校野球史上最大の試合といえば何か?」という問いかけをされたら数多くの高校野球ファンは、あの箕島と星稜の延長18回の死闘を挙げるとことと思う。箕島高校という名はかつては全国の高校野球ファンを魅了した全国屈指の強豪として現在も思いを寄せているファンも全国に数多いことと思う。しかしながら、今まで長きにわたって高校野球を見てきたのだが、残念なことに僕自身箕島高校の野球は特別に感慨深い記憶がないのである。あえて印象深いものとすれば昭和57年の選抜大会の対明徳(現在の明徳義塾)戦ぐらいであろうか。当時新鋭だった明徳に対してそう簡単には勝ちを譲らないという粘りの箕島野球というものを僕自身はじめて見たのがこの試合だった。
箕島高校は名将尾藤監督の下、昭和40年代から50年代にかけて強豪の名をほしいままにしたチームである。昭和43年の春に初出場を果たした時は元西武ライオンズのエースとして活躍し、また監督も歴任した東尾修投手を擁してベスト4という成績を挙げ、翌々年の45年の選抜では三沢高校・太田幸司についで甲子園のアイドルといわれた島本講平をエースに堂々たる優勝を成し遂げた。その後、昭和52年春に優勝、昭和53年春にはベスト4、昭和54年春・夏連続優勝と当時の高校野球界を常にリードした強豪であった。
しかしながらこの箕島高校、あくまでスコアだけの判断なのだが群を抜いて強力なチームをもって相手チームを圧倒したわけではないようで接戦を征した試合も少なくない。また二桁得点での勝利というのも、昭和52年春の対豊見城戦(10−0)と昭和54年春の対下関商業戦(10−4)のわずか2試合だけである。他に高校野球の強豪といえば、やまびこ打線の池田高校、KKコンビのPL学園、松坂の横浜高校、そして最近では豪打の智弁和歌山と思い浮かぶのだがこれらのチームについてそれぞれ感じられることは、ともに圧倒的なチーム力をもって相手チームに圧勝する試合を数多く行ってきたことであると思う。しかしながら不思議なことにこの箕島高校はあれだけ強豪の名をほしいままにしたチ−ムにしては前述したチームと比較しても僕自身それほど強力なチームではないとの印象を受けるのであるが。強豪とはいえ強力ではないという面では神がかり的な要素も踏まえてきたチームであったように思える。当時他のチームには圧勝できてもなぜか箕島には勝てなかったというチームも数多くあったように思えるのだが、最終的には勝利するという箕島高校の「尾藤マジック」ともいえる采配が絶えずチームの礎になってきたように思える。
その箕島高校が高校野球史上最大の試合ともいえるあの星稜との延長18回にわたる死闘を繰り広げたのが昭和54年、夏の全国高校野球選手権大会の3回戦であった。それまでの地域選抜での夏の大会から完全な1県1校での出場となったのも記念大会であったこの第60回大会からだったのだが、やはりこの時も石井毅(のち西武)、嶋田宗彦(のち阪神)のバッテリーで優勝候補の呼び声が高く、話題を独占していたのが箕島高校であった。しかしそんな中でこの王者箕島に昂然と立ち向かうチームが出現した。名将山下監督率いる北陸の雄、石川県代表の星稜高校である。星稜はエース堅田外司昭を擁して初戦は京都の宇治高校(現立命館宇治)を8−0と圧倒。そしてこの箕島戦にのぞんだわけである。当時としても好チームとはいえ雪国勢の星稜は王者箕島には苦戦するとの予想が大方だったように思えるのだが試合は大投手戦へと向かっていったのである。
まず最初に試合が動いたのは4回、星稜が好投手箕島石井から1点を先取すると負けじと箕島もその裏星稜から1点を奪い同点とし、それ以降9回まで無得点のまま試合は延長戦へと突入した。
延長10回、11回と無得点で試合が続いたが延長12回に再び試合が動く。星稜高校の6番の音重鎮(のち中日など)がヒットがを放ち、7番山下靖がファーボールを選んで星稜が1死1・2塁とした。つづく8番石黒豊は平凡なセカンドゴロを放ち、併殺に終わるかと思いきやこの球を箕島二塁手の上野山が痛恨のトンネル。星稜・音が本塁に帰り1点を勝ち越したのである。その裏箕島は2者連続して倒れ、絶体絶命のピンチ。迎える箕島の打者はトップバッターの嶋田宗彦であった。このとき嶋田が尾藤監督に「ホームランを狙って打ってくる。」と明言したのは有名な話であるが星稜堅田が嶋田に投じた3球目がなんとレフトのラッキーゾーンに入るホームランとなってしまったのである。有言実行という言葉があるが、実際嶋田選手も驚きをかくせなかった一発であったように思う。 延長14回裏の箕島の攻撃、箕島森川がシングルヒット、その後犠打にて森川が二塁に進み三塁に盗塁をきめ一死三塁と箕島絶好のチャンスとなった。しかしながらここで意表をついたのが星稜のサード若狭の隠し球であった。森川をタッチアウトに切ってとりこの回も両者無得点となった。そして試合が再び動いたのは延長16回。星稜の攻撃であるが星稜の4番川井のデッドボールと5番堅田のセカンドへの強襲内野安打、続く6番音がピッチャーゴロとなるが二死一・三塁として7番山下がライト前にヒットを放ち星稜が1点を勝ち越すに至った。
そしてその裏箕島の攻撃である。4番北野、5番上野が堅田の前に連続して打ち取られ、この時点でこの試合を見守っていた全国の高校野球ファンは王者箕島の春夏連覇の夢は潰えると感じたに違いなかっただろう。続く箕島のバッターは延長14回に隠し球であえなくアウトになってしまった森川であった。堅田の投じた初球を森川は一塁ファウルグラウンドに高々と打ち上げた。星稜一塁手の加藤は森川のファールフライを今まさに取りに行かんとファールグラウンドの落下点にグラブを構えた。しかしその時またも信じられない光景が起こった。ファールグラウンドに貼られた人工芝に加藤は不覚にも足を取られてしまったのである。加藤は転倒し森川の放ったフライはファールグラウンドに落下した。試合は続行することになったがそれでも星稜の優位な立場は揺ぎ無い。しかし奇跡は再び起こった。堅田が森川に投じた4球目、その球はなんと甲子園の左中間スタンドへの大飛球となってしまったのである。まさに奇跡、箕島野球に敗北はないといったあらわれがまざまざと見せつけられた。
延長18回表、星稜は二死満塁と最後のチャンスを作るがあえなく凡退し、再試合をかけて最後の守りに入った。しかし堅田の投球は限界に達していた。連続ファーボールを出し、一死一二塁として箕島上野にレフト前のタイムリーを放たれ4−3と箕島のサヨナラ勝ちとなった。3時間50分という壮大な試合の中で星稜堅田は208球を投じながらも王者箕島を降すことは夢に終わってしまったのである。
僕自身この試合は、この箕島高校が全国の高校野球のあらゆるチームの中でも負けない野球をするということを熟知していたこと、どのような形であれ最終的には勝利するという尾藤監督の勝利の方策とういうものをまざまざと見せられた試合であったように思う。「尾藤スマイル」という言葉がある。従来は大変厳しい監督と評判の尾藤監督だが、本試合となると絶えず笑顔を絶やさない方であった。箕島の試合に際して、勝利の女神は、絶えず神がかり的な力を箕島ナインに与えるがごとく箕島ナインに微笑見かけていたのではないか。もしかしたらこの勝利の女神の微笑みそのものが、この尾藤公監督の「尾藤スマイル」であったのかも知れない。
(2003.4.12 written by T.M)
(昭和54年 夏3回戦)
| チーム名\回数 | 1 | 2 | 3 | 4 | 5 | 6 | 7 | 8 | 9 | 10 | 11 | 12 | 13 | 14 | 15 | 16 | 17 | 18 | 合計 |
| 星 稜 | 0 | 0 | 0 | 1 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 1 | 0 | 1 | 0 | 0 | 3 |
| 箕 島 | 0 | 0 | 0 | 1 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 1 | 0 | 1 | 0 | 1x | 4 |
星稜:堅田− 箕島:石井−嶋田宗彦
(本塁打)箕島:嶋田(堅田)、森川(堅田)