アルカージ日本語学校の沿革

     
     (「ブラジリア日本語普及協会10年史」55・56ページから抜粋

1973〜83 「食糧基地」の学校

きゅうりやなすびが実った農場、七夕の願い事を笹に掛ける女の子―。

アルカージ日本語学校の周辺の風景や日本の風習を描いた手描きの絵札が、机の上に並んだ。子どもたちが身を乗り出して見つめる。

「いちごがたくさんL

中級クラスの担当教員、田中勝子さんが読んだ途端、男の子が手を伸ばして、はにかんだ。「い」の絵札にも真っ赤ないちごが笑っている。

「アルカージかるた」はゲーム教材として今年、先生たちが作った。44枚一組で、ひらがな版とかたかな版がある。校長青砥はつみさんと田中さん、元は分校だったホジアドール日本語学校の先生2人、そして両校を掛け持ちしている日系社会青年ボランティアの教員(児童教育)石井美子さんとが、分担して言葉を考え、絵は石井さんが描いた。

生徒たちには好評だ。熱中のあまり引っ張り合いになっても、ビニール・シールでラップしてあるから大丈夫。かるただけでなく手製の百人一首もあって、こちらは昨年から取り組んでいる。かるたも百人一首も、かなを覚えるゲーム教材であると同時に、日本文化に触れる目的もあるという。

 かるたで紹介されているようにアルカージ校はブラジリアの西約50キロに開拓された農業地帯にある。首都建設が始まった1950年代後半、首都の食糧基地を築くため政府により日系人の入植が呼びかけられた。

学校の創立は、日本人・日系人が70数家族になった1973年のこと。子どものいる家庭で父兄会を構成し、経費を捻出したという。

校名には周辺を管理するINCRA(土地改革院)の名前をそのまま使い、「インクラ日本語学校」とした。教室もINCRAの倉庫を使わせてもらった。

教員は校長に内田豊子さん、ほかに藤井美智子さん、吉本トシ子さん。いずれも地元の主婦がボランティアで教えた。机やいすは親たちが作り、まさに手作りの学校だった。

授業は土曜の半日をあてた。教科書は「にっぽんご」(日伯文化普及協会発行)をサンパウロから取り寄せた。その巻九までの修了を目標としていた。開校時の生徒数は30数人だったが、75年には100人を超えたという。

83年に約20キロ離れたホジアドール地区に分校ができた。分校は86年にホジアドール日本語学校に昇格する。

アルカージかるた(一部)

* いちごがたくさんモランゴまつり

* ホジアドールはやさいがいっぱい

* たくさんたべようシュハスコたいかい

* みんなできょうりょく ぶんかさい

* つらぬこう!二きゅうしけんうかるまで

* くちからでまかせ あとがまずい

* てにはあせ あたまはまっしろ しけん まえ

* ちちのくに ははのくに いってみたいな がんばって

1984〜90 校名改称と会館完成

教員の顔ぶれは年を経て少しずつ変わった。大きな転機となったのは85年末。経営主権がアレシャンドレ・グズモン農村文化協会にあることが明確に打ち出され、校名もその略称であ

る「アルカージ日本語学校」に変えた。

しかしその動きの中で現「インクラ日本語学校」と2つに分かれることになり、教師不足が深刻になった。86年からは青砥政雄さん、ハツミさん夫妻、後には助手として孫の孝子さんらが加わった教員体制で学校が続けられた。

90年、念願の自前の教室ができた。政雄さんも建設委員になっていた文協の会館が同年9月に完成し、2階に5つの教室が設けられた。

日本語学校の歴史と将来の展望

                               校長 青砥ハツミ

ブラジリア連邦都の食糧基地として定められたアレシャンドレ・グズモン植民地に、内田豊子氏、藤井美智子氏他2、3名を教師として、校舎はヌックレオ6在のINCRAより借用中の建物を仮の場として開校したのが1974年2月の事で、教科書は在伯日本文化普及会編纂の「にっぽんご」とし、巻一より巻九までを学習目標としインクラ日本語学校が始まった。

運営は父兄会、経営は文化団体として組織化されて、1977年にはMECの登録が認可され、事業の第一に教育文化の高揚が掲げられ、日系ブラジル人がリーダーとして活動してきた。1986年に事情があり、日語学校の名称が変更され、アルカージ日本語学校となった。アルカージの名称は経営団体の略称名を採っており、1983年よりホジアドール地区に分校を開設し、2校を経営しているが、運営は個々に営んでおり、現在は完全な独立校として組織内に準じている。

生徒数は双方とも30名前後で、年々減少している。

日語学校はあくまで日語普及の場であり、日系人がたどる民族の継承語として日本文化と共に日本語を当国に定着させて欲しいと願っている。教育ならびに躾は父兄、家庭の方々が主役であるべきである。

日系三世、四世、非日系にと時代は変わり、日本語学校外では話す、聞くなど、日本語に接することはなくなり、本当に日本語をおぼえようという意欲のある者だけが残ることになるであろう。青年ボランティアの着任により新しく、より豊かで楽しい教室に変わったのを見て自分たちも大いに見習い、豊かな授業内容にして学習効果が上がるよう努力しなければと思う。また各種研修会に出席し、新しい教授法を勉強し教室で活用したい。できればテレビ、ビデオ、テープ等の学校設備をそろえてもらい、少しずつ改善し魅力ある学校にし、ますます発展させていきたい。

1991〜97 外国語としての日本語

 教科書「にっぽんご」は92年まで使った。93年に外国語としての日本語を教える「日本語(通称・バジコ)」(日伯文化連盟発行)に変えた。理由は生徒の日本語能力の変化だ。

96年のリオ州日伯文化連盟の日本語学校実態調査で、アルカージ校は問題点として「父兄の日本語離れによる生活の中での日本語教育の至難性」を挙げ、将来の目標を「外国語としての教授」などとした。

親の思いも揺れる。現・父兄会長の早川パウロ博さんは2世。土曜は仕事を休んで2人の男児を車で学校に連れてくる。

「ここはブラジルなんだから、家では日本語を使っていない。親が日本人だから通わせている。私は大学を出るまで言葉でうんと苦労した。でもね、日本人の顔をしているのに日本語を知らないのは恥と思う」

開発青年としてブラジリア日本語普及協会に赴任した野中(旧姓・宮瀬)真茶子さんは93、94年に月1回、アルカージ校で音楽や手遊びを教えた。同じ教室に3歳から40代の生徒がいて驚かされた。もうひとつ授業後の生徒全員による教室の掃除も印象に残った。掃除の習慣という「日本らしさ」は今も受け継がれている。

1997〜99 生徒減少と教師養成

 97年、初めての青年ボランティア石井さんが農村文化協会に着任する。この年から土曜だけでなく平日の夜の授業も始まった。

 授業内容も多彩になった。歌の聞き取りや早口言葉、パズルなどゲーム的要素が盛り込まれた。ハーモニカや笛の演奏、水彩画の制作も始められた。98年まで助手を8年間勤めた青砥孝子さんは青年ボランティアが派遣されてから後の変化を「生徒や先生の心の中が変わってきたと思います。生徒たちは今までよりもっと日本語の勉強に興味を持つようになったということです」と書いている。

充実の一方で、生徒減少という難題も表面化した。92〜94年には50人を超えた生徒数が減少傾向をたどっている。

生徒数の変化は日本への出稼ぎ者の増減と似通っている。90年代はじめの出稼ぎは単身者が多かったから生徒が減るということはなかったという。逆に訪日前に勉強したいという希望があり、生徒数は増えた。しかし出稼ぎに出るとなかなか帰ってこない。背景には厳しい農業の経営状況もある。

働き盛りの世代の不在は、子どもの減少に直結する。しかも90年代後半になると家族連れで出稼ぎに行くケースが増え、生徒減少に拍車をかけた。保護者の間には「このあたりに乳飲み子はいないし、どうしようもない」との声もある。

教師の後継者養成も課題だ。父兄会長の早川さんは「日本から先生が来てくれたら何とか頑張れるけれど、いないと学校を続けるのは難しい。お金をいま以上出すのは無理」と話す。

この7月、ホジアドール校と合同でフェスタ・ジュニーナを開いた。今年で2回目。会場ではかるたや百人一首の“試合”も行った。一心に札を探す子どもたちを、大人ものぞき込んで応援した。先生たちは地域の人々に日本語学校のことをもっと知って欲しいと願っている。

田中勝子さんは6年前、「子ども4人がお世話になったことを思い起こして」教師を引き受けた。98年に汎米日本語教師研修会に参加した田中さんはその感想をこう書いている。

<研修中はお互いに教授法について話し合ったり、悩みを打ち明けたりしました。中でも共通の悩みは日本語学習者の減少と日本語教師の不足でした。この問題については、なかなかよい方法が見つからず、せめて少しでも楽しく魅力ある学校にしようということで意見が一致しました。私自身は、この学校を巣立っていった生徒の中から、教師として次の世代を担ってくれる人材が出てきて欲しいと願っています。>

                                           (宮沢)