★1976〜79 個人経営の教室から
「日本語を勉強することが、文化や習慣を理解する手助けになるからね」
今年開校したゴイアス日本語モデル校には、空手道場の門下生がそろって入学した。その大半が非日系人。「日本語も学ぶ道場」はテレビ局の取材を受けることにもなり、インタビューに答える選手の姿が放映された。
非日系人の生徒も今は少なくない。しかしゴイアス州の州都ゴイアニアでの日本語学習は、やはり日系人子弟を対象に始まった。
ゴイアニアは1933年に近代的な都市計画に基づき内陸地域開発の拠点として建設された。ブラジリアからは南西へ210キロ。日系人は60年以降、農業、商業の分野で多数移り住んできた。現在は約1000世帯で、その半数がゴイアス日伯協会の会員になっている。
ゴイアニアでの日本語教育は、個人で指導していた人たちが長く担ってきた。そのため記録が極めて乏しく、全体の状況はよくわからない。
その中で、最も長く教えてきたのは今はモデル校教頭を務める長谷川鋭子さんだろう。
長谷川さんはブラジルに住伯6年目の76年に、2世の青年たちに頼まれて市内の岩元日出雄さん宅で日本語を教え始めた。週3回の教室には子ども、大人合わせて約80人が通うようになり、20人ずつクラスを作って教えたという。岩元さん宅での教室は4年続き、その後も市内の民家や集会場に呼ばれて長谷川さんの教室は綿々と続いた。80年代末には日本に出稼ぎに行く人たちを多く教えた。これまでに教えた生徒は200人を超えるといい、モデル校ではかつての教え子の子どもを教えている。
もうひとつ生徒数の多かった教室がある。ゴイアニア近郊の養鶏場「グランジャ・サイトウ」の日本語教室で、職員の子弟に教える目的で77年に始まった。先生は養鶏場の職員が無給で務め、83年までは東マサルさん(漢字不詳)が教えた。生徒数は25〜30人だったという。その後は水落忠一さんらが教えたが、生徒が減り、84年暮れに養鶏場の教室は閉鎖となった。
水落さんは部屋を借りて87年まで教室を続けた。運営に関わった前田光武さんは「交通の便がよく、生徒は多い時82人いた」と話す。
★1979〜94 会館でも授業
現在のゴイアス日伯協会の会館でも79年の開館と同時に日本語教室が始まった。「グランジヤ・サイトウ」から出張してきた東さんらが教えた。週1回の授業に集まる生徒は約150人にもなった。しかも一斉授業。大変な状況で約3年間続いたが、その後は中断する。
また、そのころ協会会員の村上浅市さんはサンパウロの総領事館に日本語学校建設を陳情するなど学校創設に奔走したが、かなわなかった。
一方、87年には親日家のバンデレイ・モライス・プレットさんが「日本友の会」を発足させ、91年からゴイアス連邦大学を借りて日本語教室を始めた。生徒は約30人。成人が大半で、プレットさんが初級(会話)を教えた。
また会館でも92年に授業が再開される。出稼ぎから帰ってきたばかりで、当時22歳だった大木戸貴子さんが先生を引き受けた。土、日曜に子ども、大人を6、7人ずつ教えた。会館には専用の教室はなく、会議室や広間を使ったが、日曜は会館に遊びに来た人たちの声が響き、勉強しにくかったという。大木戸さんは93年にJICAの日本語教師本邦研修(1年間)に参加した。
★1994〜98 教師の横のつながりを
個々ばらばらに教えていた日本語教師たちに横のつながりを築く動きが出てくるのは94年のことだ。日本から戻った大木戸さんと、92年から個人で教えていた塩原豊さんとが「ゴイアス日伯協会日本語学校」として、リオ州日伯文化体育連盟の日本語学校実態調査に初めて登録した。翌年には設楽美恵さんも加わる。
95年には日伯協会内に日本語普及研究会ができて、10月3日付で発足のお知らせが関係者に配られた。会長には大木戸さんが就任した。
しかし学校名で登録したとは言え、独自の校舎は依然なく、会館で大木戸さんが教え、塩原さんと設楽さんはそれぞれ自宅などで教えていた。学校を建てようという声が広がり始めた。
そして96年11月に日伯協会の役員3人がJICAブラジル事務所に日本語モデル校建設計画を陳情した。協会はその後もJICAとの懇談を重ね、97年3月にはモデル校の建設資金及び備品購入資金の助成を求める「請願書」をJICAに提出した。請願書では<市内校の合同により学校行事教育方針も統一され授業できる利点が生じ、日系社会、ブラジル国民、学習者間の親睦により益々一層の意欲を盛り上げる事が可能であると存じ上げます>としている。
また助成が認められても建設費の半額は地元負担となるため、同月には協会関係者に寄付を募る文書も配布された。そこではモデル校について<教育と文化センター的な機能>を持たせるとし、<教師養成確保の拠点>とすることもうたわれている。
98年2月、JICAから「助成を認める」との通知があった。地元では喜びの一方、「あわてた」という。直前まで「当面は無理」とJICA側から言われていたからだ。資金の準備が整っておらず寄付を募り、さらに抽選会や夕食会、バザーなどで資金の調達を目指した。
一方、会館などでの授業も引き続き行われた。リオ州日伯文化体育連盟への登録校名は97年から「ゴイアス日本語学校」に改められた。
98年2月には日系社会青年ボランティアの日本語教師、武田万希さんが着任した。
また、ゴイアス連邦大学での日本語教室は、95年に日本友の会から日伯協会に引き継がれ、今も毎年開講している。
★1998〜99 モデル校開校
98年4月に起工式、11月に落成式、そして99年2月に開校式が行われた。校舎は日本語学校の独自校舎としては珍しい鉄筋コンクリート二階建てで、建築面積が約800平方メートルある。
初代校長には山岡栄美子さんが就任した。モデル校はゴイアス日伯協会の一機関であり、独立採算制で、協会役員と教職員からなる「モデル校運営委員会」が運営をする。前田光武さんが運営委員長に選ばれた。
初年度は生徒確保を優先して生徒の希望を聞いて時間を融通したため、15ものクラスを設けた。開校時の生徒は100人で、うちわけは日系49人、混血25人、非日系26人。非日系人の日本語学習の希望がかなりあるという。
非日系生徒のひとりマレイ・クラシマさんはつれあいが2世。一緒に日本へ出稼ぎに行った時に覚えた日本語を忘れないように入学した。「いつか日本語の先生になりたい」という。
またゴイアニア近郊への三菱、トヨタの工場進出も日本語への関心を呼び起こしたという。
学校として空手道場の生徒をまるまる受け入れることにも踏み切った。今15人が通う。
教材など備品がまだ十分でなく、また教師が事務仕事に手を取られて多忙となるなど、開校間もない学校は課題が山積している。しかし学校の発展への意気込みも盛り上がっている。
運営委員の一人で、孫3人が通学する犬塚順一郎さんは「夢がかなった。日本語教育は自分らの祖先の文化を守るのに必要だけど、家だけでは無理になっている」と学校への期待を語る。
教頭の長谷川さんは「経営の心配があるし、責任を感じている。でも先生たちが各自の力を発揮できる場所ができた」と話す。
また校長の山岡さんは「勉強会など先生のつながりもできた。1世としてうれしい。2世、3世にわたしていかないといけない」と話す。学校ができたことで、新たな学習者を開拓したいとの意欲を先生たちは持っている。7月にはJICA派遣の日系社会シニアボランティア佐々木隆子さん(日本語教育)も着任した。
学校の目標は次のように掲げている。
<日本語教育の振興と質の向上を図る。また日系子弟はもとより非日系ブラジル市民に対しても日本語及び日本文化を学ぶ拠点として開放することにより、日本・ブラジル両国間の友好親善、相互理解の増進に寄与したいと考える>
(宮沢)
日本語教育の現状と今後の展望
校長 山岡栄美子
平成11年2月6日に開校したゴイアス日本語モデル校の1年目上期を振り返ってみると、当初の生徒数は100名を数えましたが、現在は一割減の91名となっております。内訳は会員62名、非会員29名で郊外からはイニューマスをはじめトゥリンダージ、タクアラウ、ゴイアス・ヴェーリョ、ネロポリスの生徒も学習しております。なお、減少の理由として時間的、距離的な問題等がありました。学校側では開校1年目ということで生徒確保の策として個人の希望日、時間を多く取り入れたために15クラス編成となってしまいました。
下期以降の対応策として現在の初級クラスの実力テストの実施によるクラス編成の見直し、幼児クラスと父母初級入門の授業を同じ時間帯にするなどを考慮中です。このように対応することで外国語としての日本語教育の改革を目指しています。また、講堂を開放して日本のビデオ観賞も行いたいです。教師陣としては月1回の勉強会の充実と、それぞれの学習者への効果的日本語教授法の開拓をしたいと思っております。
運営面では日本語学校の宣伝(日本文化習得、日本研修と留学制度等の紹介)を当協会員はもとよりブラジル社会にも積極的に行わねばと考えております。学校管理の書類の整理や月謝の徴収についての改善を図り、また教師会と運営委員会の有効的活動も再検討していきたいと思います。さらにゴイアス日伯協会と当日本語モデル校の相互協力活動も重要な今後の課題となると思われます。