パラカツ日本語学校の沿革

     
     (「ブラジリア日本語普及協会10年史」67〜69ページから抜粋)

1979〜83 セハード開発と共に

パラカツ日本語学校から町を見下ろすと、マンゴーの濃い緑の間に赤い瓦屋根が映える。ミナス・ジェライス州パラカツは、ブラジリアから南東へ約220キロ。セハードの荒野を走り抜けた後は緑がいっそう目にしみる。

金鉱の存在で知られるパラカツだが、20年前には水道も十分に整わない町だった。日伯合弁のセハード開発事業が発展の端緒という。

日系人の入植は1979年から。農業規模の拡大を夢見る若い2世、3世がコチア産業組合などを通してサンパウロ州やパラナ州から移り住み、不毛の地の開拓に取り組んだ。

今、その入植者の子どもたちが学校に通ってくる。教室に張り出された画用紙にはこんなのもある。「にほんごでなんといいますか」「トイレにいってもいいですか」。ポルトガル語に頼りがちな生徒に、日系社会青年ボランティアの日本語教師、林多栄さんが書いた。

生徒は45人。その大半が3、4世の児童で、非日系はほぼ皆無だ。町に住む7〜14歳の日系人子弟の8割以上が入学するという。

坂崎エリカさんも、4世になる8歳の娘ゆりえちゃんを通わせている。「じいちゃん、ばあちゃんと話しができるように」というのが理由。「日本の先生が来てくれているから」とも。

エリカさんがパラカツに移ってきた1982年、日本語学校はまだなかった。日伯合弁会社に勤める日本人農業技師の妻が、頼まれて日本語を教えていた。

日本人ながら「マーガレッチさん」と呼ばれ親しまれた彼女が、おそらくパラカツ最初の日本語教師である。10人ほどの児童を1人か2人かずつ自宅に呼んで教えていたという。

 12歳だったエリカさんも妹と一緒に通った。「日本人の顔をしているんだから日本語だけは覚えなさい、と父によくいわれました」

マーガレッチさんの教室は、つれあいの転勤により約1年間で幕を閉じたという。

1984〜92 学校ができて

80年代半ばまでにパラカツの日系人家族は120世帯近くになった。81年にはパラカツ日伯文化体育協会が発足した。

入植者たちは働き盛りだった。子どもも急増し、協会は84年に日本語学校を創設する。「子どもたちに日本語を」と、みんなが願った。

ただし校舎は旧会館の庭先のバラック。生徒はエリカさんら20人。先生は1世の山口ヒロシさん(故人、漢字不詳)が推された。しかし1年ほどで山口さんが体調を崩す。記録がなく定かでないが、学校は中断したとみられる。

86年2月、協会の会館がJICAの援助で完成し、その2階の部屋で学校が再開する。先生は小野高明さん(故人)。10月には学校の現校舎が同じ敷地に建った。教室は2部屋ある。

 建設資金は地元の人々が出しあった。

小野さんは“最後の移民”として80年に来泊。協会役員に請われて教員になったものの学校には教科書もなかった。小学校の国語教科書1組を取り寄せ、生徒分をガリ版で印刷した。

 生徒は50人を超えた。竹の教鞭を携えての授業は「厳しかった」と記憶されている。授業は日曜を除く毎日、午前と午後に3時間ずつ。妻と娘が無給で手伝った。「小さい子を私が受け持ち、娘がピアノを弾いて歌を教えました。図画や書道、修身も教え、町のため、子どものためと思って一生懸命でした」と妻の恵美子さん。リオでの教員研修に夫婦で通ったという。

 小野さん一家は、恵美子さんの母が倒れ一時帰国する90年までの計6年間、教えた。

続いて90年から阿部栄一さんが、92年からは佐々木洋子さんが、それぞれ一人で指導した。佐々木さんの時から授業が週3回になった。

阿部さんは1922年仙台生まれ。戦前の移民だ。第2次世界大戦中、日本語学校の閉鎖後も夜の倉庫に子どもを集め、日本語を教えた経験を持つ。しかし官憲の目を盗んでの授業とは別の難しさをパラカツで感じたという。

まず話せない子に一から教える難しさ。習慣も違う。教室で帽子をどうしてもとらない子がいたりする。「教科書の『あなた何人ですか』という質問に、今の子は『僕は日本人』って言うのに抵抗がある。逆に昔は『僕はブラジル人じゃない』と言いよったもんです」

1993〜98 日本からの教師派遣

93年、JICA派遣のシニア専門家、丸山祐二さんが着任する。以後、学校運営は日本から来た教師を中心に行われるようになる。

教職歴がある丸山さんは国語教科書だけでなく、紙芝居やパズルも使って教えた。テレビやラジカセ、コピー機などの機材も導入された。シニア派遣により学校はソフト、ハード両面で一気に充実した。「日本から先生が来た」と、親たちの学校への関心も高まった。生徒が60人を超え、佐々木さんに加えて翌94年から阿部さんも教壇に戻った。

丸山さんの任期は2年。入れ替わる形で、日系社会青年ボランティアの日本語教師、土方陽美さんが95年にやってくる。土方さんは任期3年の1年目は佐々木さん、阿部さんと共に、2年目から阿部さんと2人で指導にあたった。

96年には教科書の見直しをした。国語教科書をやめ、自作プリントや「ひろこさんのたのしいにほんご1」などに改めた。

土方さんは「学習成果を形として残せるように」能力試験の受験を生徒に勧めた。

日本語学習意欲の低い生徒にどう対処するか。その課題は後任として98年に赴任した林さんにも引き継がれ、授業の工夫が重ねられている。

1998〜99 「先生になりたい」

国の政策が変わるなどして農業の厳しさが増している。数年がかりで土の酸度を調和し、灌漑設備を整えて多作を可能にした。しかし雨季に雨が降らないベラニコと呼ばれる日照りや農産物価格の下落など脅威はつきまとう。

協会会長の南実さん、幹事の有村原太郎さんも「農業に活気があったから学校を建てられた。今ならとても無理」と口をそろえる。農業の不振は学校にも影響する。今も基金で月謝をまかなっている生徒がいるという。また有村さんたちは「先生を確保することが一番の問題」と指摘しながらも「専門家を雇うには月謝を上げねばならず、農業が厳しいから難しい」と話す。

若者の多くが大学進学や就職、日本への出稼ぎで町を出ている。なかなか戻ってこない。少子化はいずれ深刻な問題となるだろう。

副会長で学校代表者でもある福田マルシオさんは、非日系人にも学校の門戸を広げることを考えている。「世界が狭くなっている。2つ、3つの言葉をしゃべる時代がこれから来る」と福田さんは言う。

地元では、日本から来るボランティアなしの学校をイメージしにくくなっている。青年ボランティアの林さんは「教える力がある人は地元にもいる。先生が育つよう支えたい」と思っている。98年8月から3人の新しい教師が林さんと共に指導を始めた。3人ともやりがいを感じている。

遠藤エレーナさんは学務員としての責任から、大竹孝子さんと菊池エウザさんは頼まれて教壇に立つことになったが、3人ともわが子を日本語学校に通わせる母親だ。エレーナさんは教員になった動機を「自分の子どもも入学したから」と話す。孝子さんは「学校がなくなったら困る」と言う。

3人の登場まで計8年、最も長くパラカツの教壇に立った阿部さんに意見を聞いた。

「JICAには後ろ盾になってもらわんといかんけれど、ブラジルの方も条件を整えて、ブラジル語で教えられる人で、できれば教員資格も持った人を教師にしないと…」

今年5月、学校で生徒たちは鯉のぼりを作った。うろこ一枚一枚に夢を綴った。親子2代で学ぶ坂崎ゆりえちゃんは、こう書いた。

「日本語学校の先生になりたい」。

                                     (宮沢)

パラカツ日本語学校の現状と今後の展望

                                校長 福田マルシオ

今年創立十五年を迎える当校では、現在成人三名を含め四十五名の生徒が学習しています。年齢、レベルに応じたクラス編成を目指していますが、ブラジル学校の関係でやむをえず複式授業をしているクラスもあります。

当校の生徒の大半は十二歳前後の子供達です。日常生活で日本語に接する機会は極めて少なく、子供達の学習意欲を喚起するのは大変難しい状況です。教師は視聴覚教材やゲーム的要素を積極的に取り入れた授業で日本語への興味、関心を引き、楽しく学習できる工夫をしています。一方、学習歴の長い生徒や比較的レベルの高い生徒には日本語能力試験の受験を勧め、対策をしています。より多くの生徒に四級受験を目指してもらい、日本語学習の目標の一つとなればと考えています。

今後は普段の学習の成果を発表する機会を増やして、父兄及び日本人会全体に日本語学校に対する理解を深めてもらう努力をしていきたいと考えています。

現在当校の悩みは、学校の軸となる教師の不在です。今のところ国際協力事業団派遣の教師を中心としてやっていますが、派遣教師のいる間に如何に地元の教師を育てるかが一番の課題となっています。

また、パラカツの青年のほとんどは大学受験に伴って大きな都市へ出ていきます。ここ数年は父兄の協力もあり一定の生徒数を保っている当校も、将来的には生徒減少の問題を抱えるでしょう。そこで現在、日本語に興味を持つ非日系人に対し積極的に門戸を開いていくことを検討しています。

日系入植者の、「子供達に日本語を」という思いで始まったパラカツ日本語学校ですが、今後は日系、非日系共に学び、いつまでも日本文化の受け継がれる場としていけたらと考えています。