| 会津の歴史・人物 |
・・・・・謎?会津が武家支配に入ってからの初代領主は、関東相模国三浦半島の中央衣笠城に 本拠を置き、同地方を支配していた三浦大介義明の末子、佐原十朗義連である。 義連が会津を拝領してから2年後の建久2年、仁井寺(飯寺)に佐原館が築かれた。 (現在、オリンパス光電子株式会社の敷地となっていて、館の守護として 祀られていた古館稲荷のみが残されている。) その後、義連の孫、光盛が承久4年(1221)に小田山に城を、麓に館を築き、 この時に小田村を城下黒川と称した。尚、この小田山城は現在の鶴ヶ城ではない。 また、小田垣城と記した物もあるが、小田垣とは小田山麓に広がる田を防御線とした事 から呼ばれたものであるので間違いである。(「会津鑑」「富田年譜」) 「新会津風土記」「葦名家譜」等に依ると、至徳元年(1384)に7代葦名直盛が小田木に移り、 鶴城、或いは黒川城とした等としているが、「会津鑑」「富田年譜」等に依ると、 これを否定している。なぜなら、義連が拝領してから直盛まで6代約200年もの間、 領地に下向するのに何故原野に幕を張り(幕内村)、河原で餉をなすであろうと・・・。 また、「富田年譜」では、黒川という名に関して、門田村を廃して城下とし、 門田荘黒川と称したと記されている。 鶴ヶ城に関しては、蒲生氏郷が文禄2年(1593)に黒川とした地名を若松と改め、7層の城を築き、 のちに地震によって崩壊寸前になるが、加藤明成が寛永16年(1639)に城の改修を行い、 5層にしたとされる。その後、慶応4年(1868)に、戊辰戦争の被害を受ける事になる。 |
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| 会津若松市では、鶴ヶ城の起源を至徳元年(1384)の葦名直盛による東黒川館の建築を 初めとしている。その葦名氏から松平氏まで、7氏679年続いたが、その会津藩領主達の末路は いずれも哀れなものであった。多くの領主は、心情的にはともかく、会津に栄転しては きたが、会津を去るときには失意のうちに出ていったのである。 |
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幕末の会津藩を支えた公用人。通称・悌次郎(1824〜1900) |
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女性の自立と男女平等を求めた文学者。若松 賤子とはペンネームである。本名(出生時)は、巖本 甲子(いわもと かし)(1864〜1896) |
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