研究集会印象記

第15回 前半後半

第14回 前半後半

第13回 前半後半

第12回 前半後半

第11回 前半後半

第10回 前半後半

第9回 前半後半

第8回 前半後半

第7回 前半後半

論集刊行記念合評会

第6回 前半後半

第5回 前半後半

第4回 前半後半

第3回 前半後半


第15回研究集会


第15回坂口安吾研究集会基調講演印象記(前半)

山根 龍一
笠井潔氏による基調講演は、氏の持論の核となる「大戦」、すなわち第1次大戦についての歴史的な説明から始まった。氏によれば、“世界大戦の論理”――総力戦体制により前線/銃後の区別が消失し、敗戦国は旧体制を破壊し尽くされる――が確立された第1次世界大戦の惨禍によって、「進歩と向上」を基調とする19世紀の精神は、決定的な変容をこうむったという。そして、第1次大戦の戦火をかいくぐったヨーロッパの焦土に生まれたのが、アヴァンギャルド・モダニズム芸術、あるいはボルシェヴィズムやナチズムといった20世紀型国家モデル・国家管理経済体制であった。
こうした前提を示した上で氏は、かつて戦後歴史学などが提示した「近代/前近代」(=「都市/農村」=「インテリ/民衆」)という枠組みに疑義を呈する。このような二分法ではときほぐせないものが多いのではないか、と。そこで氏が例として挙げるのが「転向」をめぐる問題系である。
20世紀型国家を作り上げた西ヨーロッパ(ドイツ・ソ連)では“大量転向”が存在せず、日本でのみ、それが存在したのはなぜなのか。その原因は、日本が第1次大戦――世界戦争の苛酷さ・圧倒的暴力・大量死の現実、19世紀的精神の破壊、等々――を経験していないからではあるまいか?ここを基点に、第1次大戦を「通過したか/していないか」が種々の問題を考える上で大事なのではないかという、氏の持論である提言が行われた。
次に氏は前述の提言に基づき、戦時中、横光利一ら多くの文化的モダニストたちが日本回帰(「転向」)を完了させていくなか、唯一残った最後のモダニストが坂口安吾であることを、「日本文化私観」(昭17・3)を例にとって説明する。当該エッセイにおいて機能美・機械美を賞讃する作家の美意識は、F・T・マリネッティら未来派(フトウリズモ)のそれに近く、それこそが、安吾が“第1次大戦後”の美意識を感性的な部分でつかんでいた証左にほかならないという。そうした議論は、戦後の「堕落論」(昭21・4)を例にとった、安吾と三島由紀夫、安吾とハイデガーの共通性と差異の問題を経由して、安吾と探偵小説をめぐる議論に接続していく。
英米において探偵小説というジャンルが確立されるためには、第1次大戦という20世紀の世界戦争(=大量死)の経験が不可避の前提であった。第1次大戦を経験していない日本においては、『不連続殺人事件』(昭23・12)という戦後日本の探偵小説を代表する傑作を残し得た坂口安吾こそ、第2次大戦を20世紀の絶対戦争として正面から通過しえた文学者である。その意味で彼は、ヨーロッパのモダニズム精神を真に骨肉化していた稀有な存在ではなかったか――。最後にこう述べ、氏は講演を締めくくった。
全体としてスケールの大きな話の中に、従来の「転向」をめぐる議論には見当たらないパースペクティヴがうかがえる大変興味深い講演であった。とりわけ、安吾と探偵小説をめぐるくだりは、すでに『探偵小説論』その他で持論を体系的に展開している笠井氏ならではのものであり、啓発され ることが多かった。
しかし、スケールの大きな話であるだけに、細部に疑問が残ったのも確かである。会場でも質問したのだが、1920〜1930年代の日本のアヴァンギャルド・モダニズム芸術を問題にするならば、関東大震災の歴史的な位置付けは不可欠なのではあるまいか。氏が応答されたように、確かに一方は戦災国に甚大な被害をもたらす世界戦争であり、一方は関東一円に局地的な被害をもたらした自然災害である。しかし、これまで関東大震災を日本近現代文学史における一つの重要な転換点と理解してきた者としては、第1次大戦の破壊・大量死と関東大震災のそれとが、どのような点で違い、また同じであるのか、被害の拡がりのみに還元されないもう少し突っ込んだ説明がほしいという思いが残った。また、「日本文化私観」で展開されている安吾の機能美・機械美礼讃は、「体制批判」として素直に肯定できるものであるのかどうか。確かに当該エッセイは、「生活の必要」という観点から従来「日本的」とされてきた物事を眺め返していくという点において、国体論の系譜に立つ日本主義イデオロギーに対する一定の批判的射程を有している。しかしながら、未来派がのちにイタリア・ファシズムへ傾斜していったように、合理性という観点から小菅刑務所その他の建造物を賞讃する安吾の言説は、戦時下のもう一つのイデオロギー、すなわち総力戦体制論の合理性追求の議論と重なる面もあるのではないか。たとえば赤澤史郎氏「戦中・戦後文化論」(『岩波講座 日本通史 第19巻 近代4』1995・3、岩波書店、285頁)などを参考に、日本主義と総力戦体制論が、相互に矛盾対立する側面をはらみながらも、反自由主義・反資本主義という点で癒着し、戦時下の支配的イデオロギーを形成していたことを考える時、「日本文化私観」を初めとする戦時下の安吾の言説は、もう少し評価の難しいものであるように思われる。
以上、細かいことを色々と書き連ねてきたものの、全体としては「転向」や「探偵小説」などの問題系に関する氏の示唆に富むすぐれた発言に啓発されつつ、個人的にはモダニズムそのものの評価の難しさを考えさせられた講演であった。


第十五回研究集会 印象記(後半)

諸岡卓真
朴智慧氏の「「肉体自体の思考」から「オメカケ性」へ――安吾におけるサルトル――」は、安吾の〈肉体の思考〉という問題が、サルトルの受容と応答によってどのように変化したのかを問うたものだった。室鈴香氏の「安吾とサルトル」(「國文學論叢」第五十二集、二〇〇七年二月)を踏まえた上で、サルトル「水いらず」と安吾の『女体』や『花妖』などの戦後小説を具体的に比較検討し、サルトル受容後の安吾作品を「オメカケ性」というキーワードで把握しようとする。サルトルからの影響、あるいはサルトルと安吾の問題意識の共鳴といった観点で具体的な作品分析を行おうとする見通し自体は興味深いものだった。
ただ、室氏が指摘していた日本におけるサルトル受容のずれの問題が論のなかに上手く取り入れられていないきらいがあったのが惜しまれる。安吾がサルトルをどのように受けとめたのか(問題をそのまま引き継いだのか、それとも何かしらのずれがあるのか)がいまひとつ定かではなく、そのためにサルトルへの応答によって変化したという安吾の「肉体自体の思考」や「オメカケ性」という概念自体も曖昧なものになってしまっていた。会場からは、安吾の戦前の作品にもオメカケが登場するものがあるといった意見が出されていたが、安吾のサルトル理解をさらに明確化し、サルトルとの距離をはっきり提示した上で「オメカケ性」の分析をすることができれば、生産的な議論に発展するのではないか。
牧野悠氏の「剣豪小説黎明期における「女剣士」――五味康祐「喪神」からの触発―」は、五味の「喪神」を補助線にしつつ、「女剣士」の剣豪小説ジャンルでの位置づけを考察しようとするものだった。前半では、「喪神」の描写が「日本剣豪列伝」をはじめとした直木三十五の先行テキストに酷似していることが論証され、安吾が「喪神」の「独創的な造形力」に与えた評価は錯覚に基づいていることが指摘された。氏はそこから、安吾が「喪神」に触発されて「女剣士」を構想する際には基本的に史書や実地調査を典拠としたため、剣豪小説のフォーマットを獲得できず「エラーの目立つ作品」となっているとする。しかしその一方で「史実を重視する『歴史小説』的なものとして読むには、非常な無理が伴う」とも述べ、「従来のファルスや歴史ものと異なる、剣豪小説の系譜に連なる作品として考えるべきである」と主張する。後半では「喪神」と「女剣士」の剣術に関する説明に着目し、「夢想剣」を基礎とするアイディアや「正剣=魔剣」の図式が共通することから「安吾は五味から剣の理念を受けついだ」と述べていた。このような魔剣の描き方は、柴田錬三郎が夢想剣をアレンジして「円月殺法」を編み出したことに象徴されるように、剣豪小説黎明期の方法として的を射たものだったと結論する。
多種多様な資料を活用して「喪神」や「女剣士」の構想を分析してみせる手つきは鮮やかで、剣豪小説や歴史小説に明るくない私にも興味深かった。ファルスや歴史小説といった従来のキーワードに囚われることなく、剣豪小説として分析した場合の「女剣士」の解釈というアイディアも新味があった。ただ若干の危惧を抱いたのは、ジャンルの捉え方がややソリッドに感じられた点だ。「剣豪小説として」評価するという戦略にはもちろんメリットもあるが、その他の解釈の余地を考慮の埒外に追いやってしまうというデメリットもある。ジャンルが重なる場合がある以上、歴史小説でありながら剣豪小説、剣豪小説でありながらファルス、というような解釈の可能性もあり、そのような立場を取った方が、他の安吾作品や隣接領域の作品との繋がりという点では分析がしやすくなるだろう。
二人の発表のあとでは、講演を行った笠井潔氏を交えて自由討議が行われ、笠井氏が二人の発表者に質問をする場面もあった。中でも剣豪小説における「痛み」を感じさせる身体についての議論では、氏が「現象学的小説論へ」(『探偵小説論序説』)で展開していた「痛覚」の哲学をベースに、柴田錬三郎や小林多喜二、平井和正といった様々な時代、ジャンルの作家・作品についての言及があり、非常に刺激を受けた。

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第14回研究集会


坂口安吾研究会 第一四回研究集会(二〇〇七・三・二四、於・花園大学)
基調講演印象記

花ア育代
佐藤卓己氏による基調講演は「『終戦記念日の神話』を超えて」と題するものであった。冒頭、氏は、「文学は実は若干苦手なのだが」と謙遜しつつ「坂口安吾なら「終戦記念日」をどう考えるか?」と掲げ、一九四六年一二月発表の「続堕落論」の一節を引きながら、「軍部日本人合作の大詰の一幕が八月十五日」という安吾ならば、一九八二年四月一三日の「戦没者を追悼し平和を祈念する日」制定を、同作中にあるように「嘘をつけ!」と唾棄しただろうと述べて、講演を開始した。周知のように氏には著書『八月十五日の神話――終戦記念日のメディア』(二〇〇五年、ちくま新書)があり、同書で氏は八月十五日=「終戦」が自明なものでないことを、克明な調査によって提示しているが、今回の講演は、この研究をさらにすすめたものであった。とりわけ、一九四八年三月、衆参両院調査部の「祝祭日に関する世論調査」を資料として提示され、先述の一九八二年四月制定の「追悼」と「平和祈念」とが、別個の祭日として掲げられていることを報告された点は興味深かった。すなわち「国の為になくなつた人々を追憶する日」で最多と次点が「四月三十日」(招魂祭)・「八月十五日」であったこと、「八月十五日」は祝祭日「お盆」の最多とも月日を共有すること、「平和を祈念する日」として「将来講和條約の結ばれる日」が最多であったことについて特に言及があった。氏の提言である、八・一五を残すのであれば追悼の日とし、平和祈念を九・二などとして分け、九月ジャーナリズムを、という主張が、戦後のはやい時期の事情に合致するものをももっていることが確認された。 現在、韓国での『終戦記念日の神話』刊行準備中でもある氏は、「八・一五」は戦争という相手のある問題に関してきわめて内向きであり、少なくとも東アジアの対話のためにも九月ジャーナリズムを、との氏の近年の提言をいっそう強調されて講演を締めくくった。 同時代資料の丹念な調査結果として、前掲書に続き、今回の講演でも、当初は「終戦」として銘記されるべき日付としては、八月一四日(ポツダム宣言受諾声明)であったり、九月二日(ミズーリ号上での降伏文書調印=同詔書発布)であったりしたことが、あらためて顕在化されたといえる。また公安調査庁編纂資料を参照の上、前掲書でも結論されていた「八・一五」が「記憶の五五年体制」でもあることを、あらためて示し、「左」(=一九四五年八月一五日韓国光復)のみならずとりわけ「右」(=一九五二年八月一五日の故石原完爾四周年記念日に東亜連名同志会結成)陣営に「「国辱記念日」として注目されはじめた」点に注目したことも興味深かった。いずれにしても八月十五日が当初から少なくともGHQ占領下の頃には自明ではなかったという調査と考究は卓越したものといえる。しかし、会場でも質問したのだが、佐藤氏が冒頭で「実は若干苦手」と述べた、その文学の言説の中では、そうした資料の一方で、八月十五日が「終戦」として意識的に記されているものもまたかなり顕著といえるのである。発表までの間に改稿があったのかどうかは各々別に問題とすべきところであろうが、よく知られているような永井荷風や山田風太郎の場合などはすぐに思い浮かぶところであろう。荷風「断腸亭日乗」は、午後になって「ラヂオの放送、日米戦争突然停止せし由を公表したりと」聞き「あたかも好し」と記し「欄外」にも特に「正午戦争停止」と「墨書」している。風太郎は「帝国ツイニ敵ニ屈ス。」とのみしか記さず(または記せず、か)、翌日になって「八月十五日のこと」として改めて「負けた」と記す。さらに興味深いのは大岡昇@の小説『俘虜記』「八月十日」が、占領下の初出誌『文学界』一九五〇年の三月号、初収録本『サンホセの聖母』(作品社、一九五〇年六月)ともに次のように記していることである。「我々[俘虜=花ア注]にとつて日本降伏の日附は八月十五日ではなく、八月十日であつた」。「八月十五日ではなく」という記述に、占領下において「八月十五日」もまた強固に作動し始めていることを物語る記述ではある。 佐藤氏が掲げた齋藤茂吉日記の「八・一四=御聖勅」を示す記述、また知られているところでは、高見順の「もとの日記の文章そのものには、いささかも改変の筆は加えられていない」と「あとがき」して発表することになる「敗戦日記」が、「八月十五日」にさまざまな感慨を記しながらも、「十四日」分に翌日に重大発表があると記していることなどを考えると一筋縄ではいかないと考えさせられる。氏も、文学者などがどのように考えていたのかを否定するものではないが、と応答されたが、むろん、「八・一五」について正史ではない個々人の記録/記憶を否定したり、どれかの記憶が「正しい」と言ったりする性質のものではない。しかしだからこそ、少し大上段にふりかぶっていえば、文学研究の側からは、「八・一五」が当初―昭和二〇年代の早い時期、GHQ占領下時点でも、「終戦」として記憶/記録されていることを無視/無化はできないということであろう。それはもちろん、現在の特権的な立場から、九・二など他の日付ではなく「八・一五」に何らかの意味を附して記した文学言説を、「神話」を生成したものとして断罪することでも逆に擁護することでもない。佐藤氏のメディア学のようなすぐれた成果を学びながらも、あらためてテクストに向かい合うこと(むろん無垢に、ということはありえない)が肝要かとおもわれる。―こうしたことをあらためて考えさせてくれた講演であった。


坂口安吾研究会 第14回研究集会 印象記

室鈴香
第14回研究集会では、二名の研究発表があった。浅子逸男氏の「安吾・天皇・言論」のポイントは、大きく分けて二つある。一つ目は、安吾の天皇に関する発言について。浅子氏は、「ラムネ氏のこと」(昭和16年)における「御大切」という言葉の典拠(新村出『日本の言葉』昭和15年)を指摘していたが、今回は、もともとは大正天皇の病状に関する報道語であったと補説し、この報道が、安吾の記憶にもあったのではないかという。安吾研究では、戦後の天皇に関する一連の発言についての研究は重ねられてきたが、戦前の作品からも背後に天皇存在を感じさせる言葉を拾い上げていこうとする試みである。二つ目は、戦後の作品にたびたび描かれる「火薬庫が爆発する幻想」について。昭和12年、安吾は京都の伏見に下宿するが、この下宿からは伏見火薬庫が見える。この年、宇治火薬製造所(宇治の火薬庫)が爆発する。この事故は軍事機密として報道されなかったが、浅子氏は、伏見滞在中に安吾は何らかの形でこの報道を知ったのではないかという。さらに、そのことを原稿に書いたが、(軍事機密であったがゆえに)雑誌発表できなかったのではないかと推測する。また、『古都』における「親父」と、『青い絨毯』『ヒンセザレバドンス』の「僕」の形象の相似を指摘し、失恋あるいは『吹雪物語』に向かっていった「最もどうにもならない状態」と、火薬庫の爆発の幻想が重なっているのではないかとし、『古都』における「そうして、語るべきこともない。」という記述を、「語れなかった」と読める可能性を示唆するのである。浅子氏は、慎重に、何度も推測、憶測という言葉を使っておられたのだが、「火薬庫が爆発する幻想」が実際の体験に基づくものではないかとする指摘は大変興味深い。宇治火薬製造所爆発の正確な日時の特定が待たれる。
三品理絵氏は、昨年「国文学 解釈と鑑賞」(11月号)において、「紫大納言」の初出と単行本収録稿の検討をされたが、「王朝物と坂口安吾――『紫大納言』を中心に」は、この論考を踏まえた発表だった。改稿によって「全く別の話」になった「紫大納言」(昭和16年)であるが、三品氏は、改稿前の初出稿に、より興味を持たれているようだった。また、「紫大納言」と、竹取、伊勢、そして松浦宮物語との関連から、安吾が「(王朝)物語」に何を求めていたのか、そこ(素材)から何を引き出そうとしていたのかという論題を提出された。今回の発表では、その考察までは踏み込まれなかったが、この論題は重要な指摘だと受け取った。大幅な改稿は、改稿前に求めていたものと改稿過程で求めているものは違うということ、すなわち〈物語に求めるもの〉の変容を意味する。周知のように、初出稿発表と単行本刊行の間には2年あり、単行本刊行の年には、「文学のふるさと」が発表されている。発表後の質疑応答では、『炉辺夜話集』収録作品に改稿が目立つという指摘もあった。三品氏は、先の論文において、本作品の改稿に「静謐な『諦観』の物語から過剰さに満ちた『悪戦苦闘』の物語へという、ある種の転回」を見ておられる。今回は、「完結」した世界から、中心を失って壊れていくという言い方もあった。昭和14年から16年における安吾、また同時代状況において、この「転回」はどういった意味を持つのだろうか。従来、本作品(改稿後)の読みは、「五ツの物語は『吹雪物語』の暗さにうんざりしたのち、気楽に書いた短篇をまとめたもの」という単行本後記(昭和15年12月12日)を引きずり、そのために〈個人的次元〉(菅本康之氏)に回収されてきた。だが、言うまでもなくこの後記は大幅な改稿後に書かれたものである。安吾のこのようなもの言いを、文字通りに受け取ることの危険性を教えていただいた。

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第13回研究集会


坂口安吾研究会印象記(前半)

浅子逸男
 「安吾の世界と暗合する暗号」と題された高山宏氏の講演は、まさに「高山宏、絢爛にして万華なるパラドクス世界」というべき内容であった。演劇、詩、小説、批評とならんで、パラドクス文学というジャンルがあるというところから始まり、ロジックを中心におく推理小説とは、見えないことを見えるものにするというところが出発点になっていることの指摘など、目からウロコの話題満載であった。
オーソドックス(正理)に対するパラドクスであり、Doxという物の考え方の理論に関わってくることが安吾の小説や評論の根底にあることを、「悪妻」「貞操」「借金」などという語から例示し、とりわけ初期の安吾の評論はパラドクスの練習帳であると話された。「木枯しの酒倉から」に出てくるペチシオ・プリンシピーは、スコラ哲学で証明しなければならないことを仮定に含めてしまう論点窃取だという指摘は、曽根博義氏が『坂口安吾研究講座T』(三弥井書店)に載せた「「風博士」論」だけだったのではないだろうか。それがラブレーと繋がり、ジョン・ダンに通底していたとは。
安吾の特徴であるロジックから出発し、数学と論理学の関係ということでベケット、ゲーデルに話がおよび、夏目漱石の文学論、南方熊楠の土岐法龍宛て書簡へと、アイロニー、パラドクス文学についてとどまるところを知らない話に引きこまれた。
また、探偵小説は19世紀後半における大きなジャンルで、戦争で大金を掴んだところから出てくるので、大正十二年に「二銭銅貨」が登場したことは象徴的なのだという指摘に頷かされたのである。
二人目の重松恵美氏は「石川淳と坂口安吾−−破壊する力、再生する力」と題された発表であった。昭和十年代の石川淳の戦争批判の作品群と二十年代の朝鮮戦争期のエッセイなどから、石川の思想を測定しようとする試みだったような気がする。「履霜」から登場人物による都市破壊についての発言を引きだし、それと保田與重郎、林房雄の発言とをからませたことは興味深く、安吾が昭和十二年に大本教本部の破壊された跡を見に行ったこととの対比には触発されるものがあった。残念なことに私の関心はそこに集中してしまい、そのあとの高橋和巳の『邪宗門』や石川の『狂風記』への言及については頭が反応していかなかった。それというのも、重松氏に対しては失礼だったのだが、宗教建築物の破壊と言えば昭和十六年に安吾が訪れた原城の址も含められ、近年の五十嵐太郎氏の精力的な仕事や井上章一氏の近著に大きく関わってくるのではないかという思いにかられてしまっていたのである。 さて、重松氏は天皇制への発言を「夷齋雑談」からとっていたが、「處女懐胎」の「天皇制は打倒する、結婚はカンガルーにまかせると、相場はきまつてゐるぢやないか」のほうが、天皇を中心とする一大家族国家だという戦前の教育(『國體の本義』文部省)をも批判しえているように感じていたのだが、どんなものであろうか。
「三 再生、極めて個人的な暴力」という氏の発表の最後の箇所を聞いているうちに、大江健三郎の「道化と再生への想像力」(『言葉によって』(新潮社)に収録)を思いだし、またそれとは関係なく「八幡縁起」と「梟雄」が再生(もしくは呼び起こし)というところで並べることができるのではないかという貴重なヒントをいただいた。
 それにしても、高山宏氏の驚嘆すべき講演によって引きおこされた昂揚感は、京都に帰宅してもつづいており、今まで気になりながら読みそびれていた『ゲーデル,エッシャー,バッハ あるいは不思議な環』(白揚社)と『エクスタシーの系譜』(あぽろん社)とを古書店に注文したのであった。
 (Miles Davisの"Doxy"(1956."Bags' Groove")を聴きながら)


印象記(後半)

葉名尻 竜一
 今回は石川淳研究会との共同開催であり、二人の作家を並べることで見えてくるものを探った研究集会であった。

 ○大原祐治「戦後に届くことば―坂口安吾・石川淳・小林秀雄」は、この二人の作家の間に小林秀雄を挟み、小林を基軸として各作家の「歴史」認識をあぶり出していく発表だった。かつての〈無頼〉や〈幻想〉というキーワードが共通項として浮かびやすいが、この問題意識は「『歴史』を書くこと―『真珠』の方法」(二〇〇一)などの論文もある大原氏の内的必然性から出てきたものだと言えよう。
 氏はまず、「僕等は与へられた歴史事実を見てゐるのではなく、与へられた史料をきつかけとして歴史事実を創つてゐる」との記述のある小林秀雄「歴史について」(一九三九・五)の横に、三木清『歴史哲学』(一九三二・四)を並べ、その共通性を指摘するところから始めた。この手続きは、後に三木が「東亜の新秩序」という現実構築の正当性へと論理を飛躍させるのに対し、小林が歴史のうちにある「自然」を尊重することで、一見後退とも見える小林の「近代の超克」への毅然とした態度を示すためのものであった。小林の「自然」の尊重は「古典」「永遠」の尊重へとつながり、書くことは「作品」として実在化させることであるとする安吾の批判を受けることにもなっていく。だが、安吾と三木とが同様な歴史認識をしているというのではない。大原氏の資料の並べ方は、早急な概念の抽象化で消えてしまう表現レベルが際立つように引用への配慮がある。本来ならこの印象記は、石川淳にも触れなければならないが、もう少し資料の並べにこだわりたい。会場からの質問に、この並びだと小林の歴史認識の源泉が三木であるかのように読めるというのがあった。大原氏は資料の発表年代から影響関係を見たと答えたが、質問者が付け加えたように書かれなかった二人の交友に一方通行ではない相互影響の想像を馳せることは無理なことではない。安吾の歴史探偵眼はそこに向かうものであった。実証困難な作業が常に付きまとう。しかし、氏の発表が並べた資料を丁寧に読み解くことで、その困難に向かっていたことも確かだった。

   ○原卓史「『安吾の新日本地理』の成立過程」は、「〈安吾もの〉の系譜」「歴史への挑戦」という二つの観点から論じられてきた研究史をおさえつつ、年譜や典拠等の基礎的な作業の空白地を補いながら、安吾がどのようなサイクルで文献を読み、現地取材をしたかを論じたもの。『解釈と鑑賞 特集坂口安吾の魅力』(二〇〇六・十一)にも、原氏は自身で撮影した美しい写真でもって文学踏査の紹介・解説をしている。この発表もまさに脚を使った発表だったと言えよう。
例えば「四、飛鳥の幻」に安吾は「私の行った日は、桜祭りの歌謡曲の日。その翌日は、ストリップ桜ショウの日、と宣伝ビラにあったね」と記している。この興行日は、当時の地方紙を繰っていくことでわかる。『大和タイムス』に「一九日(木)と二十日(金)テイチクさくら祭り▼歌謡曲=美ち奴、中村美和子」「二十一日(土)ストリップさくらショウ」とあって、安吾が取材旅行へ行った日程が「一九五一年四月二十日〜二十一日」だと推定できる。また、「一、安吾・伊勢神宮へゆく」では、真珠養殖の現場見学が出来ないのは、その秘術が外部へもれないようにするためであると書かれている。だが、(株)ミキモト発刊の自社百年史に、ほぼ同じ時期にリッジウェー連合軍総司令長官も夫人同伴で来場していることが載っている。原氏はそこからGHQの問題を周到に避けた安吾の作為を読み取った。
 会場からでた、基礎作業の過程で見えてくるものは何かとの質問に、原氏は「神」というキーワードを挙げた。神がかりでなく、自分の見聞によって各土地の歴史を再構築しようとする安吾の姿勢を指摘した。今回の発表で、文字の向こうに現場があること、それは地道な取材によってある程度まで確かめられること、その基礎作業の有効性が再認できた。

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第12回研究集会


「坂口安吾研究会第12回 印象記」

大國眞希
 今回の研究会では、自由発表形式で、ご発表が三本並んだ。
○山根龍一氏「『風博士』論−同時代コンテクストの掘り起こしを中心にー」は、先行研究において、その論理的な矛盾が指摘されながらも、最終的には<単なる洒落><笑い><ナンセンス>と評価されていた《遺書》から、その演説口調が福本イズムのそれを意図的に模倣していること、そして、そこで展開される論理が一般に「隠喩(メタファー)」と呼ばれる詩的言語表現(レトリック)であることなどを指摘したうえで、安吾の「転向」(マルクス主義という一つのパラダイムに対する安吾なりの距離のとり方)の実践を読むというご発表だった。《遺書》が<僕>の捏造=自作自演であるという作業仮説を読解コードとして措定し、<僕>の言説には、「自己の内なる『(宗教的)夢想家(ロマンチスト)』と『(科学的)現実主義者(リアリスト)』とを複眼的に視野に入れつつ、自作自演のことばの葛藤によって、両者を不断の動的緊張関係の中に同居させていく精神のあり方が表象されている」とする。同時代のコンテクストの掘りおこしをしながら、作品の言述の形式を分析していく手つきは鮮やかで、説得力を感じた。ただ、「詩的言語」については、「日常的に伝達に用いられるのではない、多義的なもの」というだけでなく、もう少し踏み込んだ、詳細な定義が必要なのではないか、と感じた。また、内容と形式との両側面から鋭く考察され、本発表によって明らかになった言語戦略と同時代のコンテクストを掘り起こすことの意義深さを加味した上でも、<僕>がそのまま(作品に先行して存在する)作家安吾と結びついて論じられているように映るのではないかとの危惧を抱いた。
○岩舩尚貴氏「安吾の自伝的小説執筆の意図をめぐって−スタンダールとの関連性から−」は、昭和二十一年から昭和二十四年までに自伝的な小説が数多く手がけられていることに注目し、なかでも「二十七歳」「三十歳」に注目して、スタンダールとの関連性から、これらの自伝的小説を書かなければならなかった安吾の真意に迫るという内容のご発表だった。安吾自身、自分の書く「自伝」は、いわゆる「私小説」とは異なると考えており、その相違点は、回顧的な展望を貴重としながらも「現在の時間」を入れることで自己の相対化をはかり、「過去の複写」ではなく、未来のために書かれている点であると考えていたことが確認された。その上で、如上の二作に「矢田津世子」が描かれている点に注目し、スタンダール作品との共通点が指摘された。質疑応答では、安吾自身の「私小説」、「自伝」の定義をそのまま(発表で挙げられたのは安吾の言説のみであった)前提として出発していることへの疑問が投げかけられた。「私小説」「自伝」の定義と、それらジャンルと「虚構化」の問題を考えるという課題を、新たに発見させられたご発表だった。
○黄益九氏「連綿たる支配/被支配の呪縛−『桜の森の満開の下』という空間」について」では、同作が、「暁鐘」5号に掲載される予定であったが、検閲後、紙不足等の問題で頓挫し、ほぼ同じような作品が並び、頁の配列も重なる「肉體」の1号に掲載されたことを、それぞれの目次を掲げて示された。そこから、同作の原稿は「暁鐘」の編集部がそのまま保管されていたのではないかと推論されるとした。その上で、特に、「桜」の表象(特攻隊、英霊の生まれ変わりなど)に注目し、作品に見られる「支配/被支配」の関係に、テキスト発表(執筆)当時の時代状況のアナロジーを読むご発表だった。初出についての検証は、大きな収穫であった。戦前・戦中・戦後の日本における「桜」の表象を研究されている黄氏が、坂口安吾研究会で発表するのにあわせて、「桜の森の満開の下」を取り上げたとのことだったが、わざわざ安吾の一作品を切り取らないほうが、結果的に、安吾作品を考えるうえでより有益となったのではないかと考えた。
 三者は異なる接近法であったが、作品内の「僕」と作家安吾との関わり、安吾自身の言説のみでの定義、安吾の一作品をのみ取り上げることの意義というように、期せずして、個人名を背負う研究について考えさせられた。
 自由な雰囲気で、自由討議における活発な発言も、会のひとつの魅力と思った。このような素敵な会風を維持するためには、個々が、発表に関係のない牽強付会な思いのたけは述べずに、活発な議論を促すよう自戒すべきとは、言うまでもないだろう。


「第12回 安吾研究会 印象記」

朴 智慧
 今回の研究会では、統一的なテーマはとくに設定されず比較的自由な枠組みで、若手研究者三名による研究発表が行われた。
 はじめに、山根龍一氏が「『風博士』論―同時代コンテクストの掘り起こしを中心に―」という題で発表を行った。風博士の遺書中の「余」の語り口と〈福本イズム〉に代表される浪漫的極左主義的口吻との類縁性、および、「余」の語る「義経=成吉思汗説」説にも同様の関連を認め、「擬似宗教的ロマンチシズムに対する『近親憎悪』に近い安吾の距離感覚」を読み取るというのが発表の本旨であった。その上で、「余」と蛸博士の対立から、自己の内なる「宗教的な夢想家」と「科学的現実主義者」との矛盾を、若き安吾の問題として剔抉し、そこから『風博士』における詩的言語(言述の形式)と身体性(言述の内容)という二つの方法の緊張関係を導いていく。『風博士』が発表された昭和六年前後の歴史的コンテクストを視野に収め、地道な注釈作業を通してテクストを同時代に開いていくという丹念さもさることながら、同時代の言説を批判、克服していくテクストの戦略を内在的に読み込んでいこうとする意欲的な発表だった。ただし、従来〈福本イズム〉としてくくられてきた一種の雰囲気と福本自身のテキストとが実際どのような差異をもつのかといった問題はこれまでも検討されてこなかったように思われ、その点を掘り下げてもらえれば一層発展するのではと感じられた。会場からは、安吾自身の思想的遍歴の問題を「僕」「余」の言説へと素朴に重ね合わせてしまっているのではないか、であるとすればさらなる方法的手続が必要なのではないか、といった質問が出された。
 次の発表は、岩舩尚貴氏の「安吾の自伝的小説執筆の意図をめぐって―スタンダールとの関連性から―」だった。岩舩氏は、昭和二十一年から二十三年にかけて、安吾が「二十七歳」「三十歳」などの自伝的小説を集中的に手がけたのはなぜかという疑問を提起し、その理由を端的に「矢田津世子について書くこと」が必要だったとまとめられ、さらに語りの特質から「過去を描写することによって導かれる現在の自分の相対化」、すなわち「自己の発見」の過程を見出された。発表の眼目であるスタンダールとの関連ということでは、安吾がスタンダールを読み込むことで、「自分とは何者か」を探る方法について強く触発されたといわれる。ただし、この点に関して発表者自身が、「表面的な関連性を指摘するに止まってしまった」との反省を口にしておられたように、両者のテキストの分析を通して、一般的な自伝小説とは異なる特質を提出するには至っていないように思われた。質疑応答では、自伝的小説と私小説との区別や、語り手と作家安吾の言説の線引きについて、質問が集中した。しかしながら、問題設定は興味深く、安吾とスタンダールとの具体的関連に関する今後の検証が待たれる。
 最後に、黄益九氏が「連綿たる支配/被支配の呪縛―「桜の森の満開の下」という空間」という発表を行った。氏は、「桜の森の満開の下」は「新潮」に掲載予定でありながらも拒絶され、「肉体」という三流雑誌にまわされたという従来の説を再検討し、プランゲ文庫所蔵資料より、雑誌「暁鐘」(1946.11)に掲載され発行の予定であったことを発見、検閲により「暁鐘」は発行されず、雑誌の一部を削除の上、「肉体」(1947.6)として創刊されたことを論証された。新資料の発見による大きな研究成果である。あわせて氏は、テキストにおける〈桜の森〉をメタファーとして考察され、軍国主義イデオロギーの表象としての〈桜〉を、桜の森/男という支配/被支配関係や、女/男という関係へとアナロジカルに展開させることで、テキスト全体に安吾の内省を読み取られる。このアナロジーの析出について、会場からは、たとえばテキストの「鈴鹿峠」と鈴鹿海軍航空基地とを結びつけているが、これは当時の機密事項であり一般の知るところではなかったはずである、といった質問が出された。やはり、女=支配=帝国というアナロジーには少々図式的な側面が感じられ、ここから戦争に対する安吾の痛烈な反省を導くには他のテキストとの関連を踏まえる必要があるのではないか、と思われた。
 今回、若手研究者による三者三様の発表を聞くことができ、大きな刺激を受けた次第である。

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第11回研究集会


「坂口安吾研究会 第一一回研究集会 印象記」

時野谷ゆり
 「坂口安吾と性」というテーマのもとに第一一回坂口安吾研究集会が開かれた。はじめに、井上章一氏の「私はきれいだという女たち」は、「日本文化私観」の話題に端を発して、明治時代から現代に至るまでの「美人」に関する言説を辿りながら、女性に向けられる男性の視線の変容と女性性の捉え方について問題提起する講演であった。井上氏は、明治時代に男性が美人に魅かれた場合には男性をたぶらかした女性の側に罪があるとされたが、現代では女性を顔の美醜で判断する男性自身が非難されるようになったという言論史上の変化に注目する。また、女性性を娯楽化、商品化するグラビア写真やミスコンテストについて、原理的フェミニズム論者は女性を性的に隷属させる男性側に責任を求めるのに対し、井上氏は、女性の社会進出が進み、男性が以前ほど男権的でなくなった結果、女性が自ら着飾ることの自由を獲得したという意識の変化を指摘する。そこから、女性の男性に対するセックスアピールを念頭に置いたフェミニズムを新たに構築する必要性を提起した。
 井上氏の発言は、男性の側から女性の外見の美醜を問題視する点で幾分男権的な要素が感じられたが、井上氏自身そのことに自覚的であり、豊富な具体例を挙げながら女性性の捉え方を問い直すことで原理的フェミニズムを相対化するものであった。安吾の作品に限らず、あらゆる性表現について発言しようとする時、論者自身が既存のフェミニズムにどのような距離を取るかということが問われるが、井上氏の発言は、論者が配慮しようとする余りに拘束されがちなフェミニズム的コードの再考を促す点で有効なものであったと思われる。
 次に、室鈴香氏の「〈情痴作家〉・安吾」は、一九四六年から一九四七年頃の安吾に対する「情痴作家」というレッテル、表象の形成を、同時代の評論家、文学者によるサルトルの受容との関連から明らかにしようとする発表であった。サルトルの「水いらず」の翻訳が一九四六年一〇月に『世界文学』に掲載され、翌一一月に『読売新聞』紙上で安吾の「肉体自体が思考する」と伊吹武彦の「サルトル談義」が「日本の実存主義運動」として同時に紹介されると、安吾とサルトルを結びつけ、安吾を日本の「情痴作家」の代表と位置づける解釈が広まった。このことは「白痴」の同時代の解釈にも影響を及ぼし、翌一九四七年二月に荒正人が安吾とサルトルの混同を誤りだと指摘するまで、その混乱が続いたという。
 室氏は、一九四六年一〇月から一九四七年二月という一時期を考察の対象とし、同時代における安吾の「情痴作家」という表象の形成過程を丁寧に辿っていた。しかし、表象の形成と同時代における安吾の言説の受容がどのような連関を持ち、従来の研究をどのように更新しうるのかについては疑問が残った。室氏は、安吾が提起した「思考する肉体」「肉体的な論理」という概念と、同時代における「白痴」の解釈との連関に言及していたが、そこにも同様の問題が指摘されよう。また、最後に安吾自身の弁として「肉体自体が思考する」等の言説を挙げていたが、作家自身に付与されたレッテルと「肉体の思考」という概念との連関について更に考察を行う必要があると感じられた。
 そして、天野知幸氏の「噴出し、浮遊するセクシュアリティ―「戦争と一人の女」と〈肉体文学〉―」は、「戦争と一人の女〔無削除版〕」と「続戦争と一人の女」の原典の本文について〈戦争〉と〈肉体〉という観点から比較分析を行い、二作品に男と女の意識の齟齬が見られることを指摘した。そして、「戦争と一人の女」がGHQによる削除処分を受けたことに関して、この作品には、集団で〈公的〉な戦争の記憶を作り出そうとする言論状況に対し、〈個〉の記憶を表現しようとした安吾の抵抗を見出せるとした。後半部では、一九四八年頃から〈肉体〉、〈性〉が商品化され、〈消費〉されていくことについて、同時代の「肉体文学」批評の言説を辿り、「肉体文学」への批判が高まる背景には、「肉体文学」「肉体」という表現の大衆化、通俗化という現象が存在しており、田村泰次郎の「肉体の門」が軽演劇や映画といった商業的メディアの中で〈消費〉されることで「肉体文学」が商品的記号と化したことを指摘した。そこから、安吾の「肉体文学」を同時代の文化状況の中に位置づけることの重要性を提起した。
 発表前半部の「戦争と一人の女」と「続戦争と一人の女」の原典の比較考察を通じて、天野氏は占領期のGHQによる思想統制による「歴史」の書き換えの問題に論を発展し、「戦争と一人の女」を同時代の言論状況に対する抵抗として捉えていた。しかし、この作品がGHQの設定した言論統制のコードに偶然的に抵触したことから、それを安吾の「抵抗」として一元的に評価するのではなく、他の事例に見られる安吾の言論統制への態度を視野に入れた上で改めて考察する必要性があると思われた。後半部の、田村泰次郎の「肉体の門」の軽演劇・映画化を例として挙げ、商業的メディアにおける「肉体」の〈消費〉によって「肉体文学」「肉体」が商品的価値を持つ記号と化す過程を明らかにする考察は新たな観点からなされたものであった。この問題提起は、自由討議において、大衆文化の方向へ進んだ田村泰次郎と安吾との差異、現代における〈性〉の商品化の問題に関する議論を導くことになった。発表の前半部における「戦争と一人の女」「続戦争と一人の女」の表現の問題と、後半部における「肉体」「肉体文学」の商品化の問題との直接的な連続性には疑問が残ったものの、安吾の「肉体文学」を解釈する上で同時代の文化現象との連関を考えることの重要性を説いた点で示唆に富む発表 であった。
 以上の発表を踏まえて、自由討議・質疑応答では、特に「肉体自体が思考する」の根本的意味を問う発言が寄せられた。今回の研究集会の成果を踏まえ、安吾の文学における「性」「肉体」の問題を多様な観点から問い直すことが今後の課題であろう。


「第11回 安吾研究会 印象記」

川口 奈央子
 研究会が立ち上がって、早や五年、第十一回を迎える我らが安吾研究会は「坂口安吾と性」というテーマのもとに開かれた。
 基調講演は『作られた桂離宮神話』、昨今では『美人論』等で知られる井上章一氏であった。井上氏は最初に安吾の「日本文化私観」をとりあげ、桂離宮よりも小菅刑務所の方が美しいという例の発言に、何かしら作られたインテリズム、教養主義を感じるという。例えばそれは、私は美人が好きである、面食いである、…と世間に正面切って言い切れない、抑圧された倫理感と通底するのではないかという切り口からはじめた。明治初期、女学校での美人の扱われ方が生徒手帳にどう書かれているか、または婦人と犯罪が、顔のよしあしとどう因果関係をもたらすのか、など氏が研究されている分野から新たな女性史の可能性も開かれるのではないのかという大変面白い示唆に富んだ講演であった。
 井上氏は昔ある建築物を見学に行ったとき、しょうもない空間だ…しかし受付のお嬢さんは美人だったなぁと感心したものの、本心どおりに文章を書くことが出来なかったという体験を話されたが、その枠を借りるならば、講演自体は面白く女性史について開眼するところも多かった、しかし安吾とはあまり関係がないなぁ…というところだろうか。いや触発されるところも大きかったのだが。
 続いて研究発表が、研究発表が室鈴香氏によって「情痴作家・安吾」というタイトルの元に行われた。安吾が戦後、文壇やジャーナリズムにおいてどの様に受容されていったか考察するものであった。大変ていねいに資料を集め、サルトルが日本に紹介された時の評価と、安吾の情痴作家というイメージが結び付けられていく過程をおっていくもので、その綿密な資料紹介をしていく態度に感心するものの、「それで?」と思った。それで将来的な展望はどうなるのか?、ということが見えてこなかったように思う。しかし安吾と言えば、"無頼派"というイメージばかりが強いと思っていたので、当時これほど情痴的と思われていたとは意外な発見であった。
 続いて京都の陽が傾く午後、二つ目の発表が天野知幸氏によってされた。タイトルは「噴出し、浮遊するセクシュアリティ−『戦争と一人の女』と〈肉体文学〉」で、「戦争と一人の女」を扱い、この作品がこれまでGHQの検閲の為、収録によって形態がまちまちであるという複雑な過程をおっていくとともに、「戦争」とまさしく「一人の女」の行き方を等価に並べることで安吾がどのように戦争を捉えていたかを考察するものであった。遊びだけではなく、精神的な高められたものを追い求める野村と、肉体的な感覚だけで生きる女を対立させて−かつ二人の男女関係はめちゃくちゃ−その構図が「個」が「国家」と直接つながっていかないバラバラな関係であると指摘した。そしてこの作品のような、当時の言葉で言う「肉体文学」に対して文壇からの批判があったこともあげ、これからの研究に受容史みたいなものを考えなければならない指摘も大きかった。
 総じてこじんまりとした研究会で、テーマの立て方もどこかで見かけた凡庸なものであるし、そろそろ安吾研究会の発表の仕方等においても転換期がきているのかもしれない、と思った。その後の懇親会でも次回の基調講演に誰を呼ぶか、会の政権交代の話もちらほら聞こえて、あらたな動きがあるのではないかと思われた。

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第10回研究集会


「2005年3月26日 坂口安吾研究会 印象記」

神谷 忠孝

 大杉重男氏の「偶像破壊のリスクとセキュリティ」は山本芳明の「〈文学的資産〉としての小林秀雄」(「文学」2004年11,12月号)をふまえて、安吾が「教祖の文学」で展開した小林秀雄批判の真相を再検討し、一方で自分の柄谷行人批判を説明しようとした講演。安吾が「教祖の文学」を書いた時点で、小林秀雄は「作者」としては死んでいたとしても「著作権者」としては延命し、自己の文学的資産のセキュリティを管理していた。だから「教祖の文学」は相手の安全装置を認めたうえでの批判であった。対象が不動でどんな批判にも影響を受けない「安全装置付他者」である。安吾は小林が権力を持っていたことに対立しただけで、これを近代に対する反近代ととらえることは過大評価ではないか、というような趣旨であった。
 これと関連して、柄谷行人は安吾が「日本文化私観」で偶像批判したことを過大評価して安吾という存在を偶像化したことを批判しようとした。その着眼はよいとして、「群像」評論新人賞の選者である柄谷は恩人であり、自分の柄谷批判は愛情の裏返しのようなものと述べたところは言わずもがなの感があった。安吾が「教祖の文学」を発表したあとの小林秀雄との対談「伝統と反逆」(「季刊作品」1948・8)で、小林が「誤解してゐるんで困るんだ」と言ったのに対し安吾が、「誤解ぢやないよ、あれくらゐ小林秀雄を褒めてるものはないんだよ」と応じたと同じではないか。大杉氏は「知の不良債権」(「早稲田文学」2001・1)をはじめとして、固有名を偶像化するポストモダン批判を展開している。腰くだけにならないよう初志貫徹してもらいたい。大杉氏の発言で重要だと思ったのは、安吾が転向していないことにふれ、小林秀雄が大正文学を支持したのに対し、安吾は大正的なものを切断しようとした。しかしそれは身振りであって、昭和という時代にあって安吾は、大正的なものを保持したのではないかと述べた。検討に値する発言である。  宮澤隆義氏の「時間・歴史・自由―坂口安吾の戦後評論から」は、表題とは違って、戦時下の「真珠」の同時代評、戦後の主要研究をふまえて「真珠」を読み返そうという内容だった。作品に日付を多用していること、死者たちに「あなた方」と呼びかけていることに注目し、伝聞と情報を組み入れながら、現在進行形のような方法で書いた安吾の時間意識に焦点をおいた発表。安吾は現代を歴史としてとらえる独自の方法を「真珠」で提示しようとしたという意見に新味があった。だが、安吾の「意識と時間との関係」(「涅槃」1927・3)をもちだしたところはわかりにくかった。宮澤氏の発言のなかで、「教祖の文学」における一人称が「僕」「私」「自分」という指摘したことが印象に残っている。
 時野谷ゆりさんの「『安吾巷談』の生成と方法」は、『文藝春秋』編集長池島信平が「安吾巷談」を企画したことで雑誌の発行部数を拡大させたことをとりあげた発表。普段は表面に出ない編集長の手腕に着目した点が新鮮であった。池島信平の安吾観や他のジャーナリストの池島論も視野に入れ、作家と編集者との連動性を問題にしようとした方法は今後のジャーナリズム研究に示唆を与えたと言える。質疑応答では時野谷さんへの質問、意見が多く寄せられた。将棋、囲碁の観戦記や「新日本地理」なども視野に入れ、編集者と作家の共同作業という見方も必要とする意見は傾聴に値する。作家を動かす編集者に視点をおいた今回の発表は他の作家にもあてはまるわけで、新しい研究方法として期待できる。
 文学研究がともするとタコ壺的になりがちな傾向をおびるとき、広い視野をもつ評論家の視点が提示された今回の研究会は意義があったと思う。今後も研究と評論の組み合わせというかたちを維持してほしいと願う。


「安吾という偶像を破壊するために」

鬼頭 七美

 「安吾の戦後批評を問い直す」というテーマのもと、研究集会が行われた。
 大杉重男氏の「偶像破壊のリスクとセキュリティー―「教祖の文学」の現代的射程―」は、氏が「早稲田文学」に連載中の「コピーライトについての試論」に基づく講演であった。氏のコピーライト(著作権)についての思考は、現代の言論空間において発言することのリスクとセキュリティーについて考えることであり、つまるところ、氏自身と氏をとりまく現代の〈批評空間〉についての自己言及的な思考に他ならない。従って、氏の語りは「僕のアイデンティティは文芸評論家である」という自己紹介から始まることになる。氏は、徹底的に偶像崇拝を批判したアナーキーな書き手であるところに安吾を読む快楽があると述べ、安吾の専門家たち(すなわち安吾研究会)の偶像崇拝ぶりを指摘した。その上で、一見アナーキーな安吾の偶像破壊の発言に潜むリスクとセキュリティを分析し、現代にもつながる問題であることを提示してみせた。大杉氏によれば、「教祖の文学」で言う「何をしでかすか分からない人間」とは自殺(死)の可能性への考慮がなく(「死」を回避した「生」)、その意味でリスクは縮減され、安全な存在である。さらに安吾は「作者」「作品」「著作権」の諸概念を放棄しており(税金闘争や競輪事件等)、これは自分の作品の管理を行う小林秀雄へのアンチ・テーゼとしてあると指摘した上で、この小林の〈資産〉管理主義が実は現代の柄谷行人の姿と重なると言う。映画「レフト・アローン」の書籍版刊行に際し、柄谷は自分を批判する鎌田哲哉の文章を拒絶し、鎌田は別にブックレットを出して件の批判文を載せることとなったのだが、安吾に批判されても余裕のある態度を示した小林と(両者の対談)、鎌田の批判に対し著作権を楯に対話を拒絶するという余裕のない態度しか示さない柄谷との懸隔には時代の違いがあるのだろうと推測し、現代の言論空間における論争の起こりにくさを考える上で、安吾の時代について考察することは有意義なのではないかと述べた。以上のような講演において興味深く思ったのは、「偶像」を問題にする大杉氏の語りにおける自らの「偶像」意識である。とりわけ、柄谷のかつての批評への愛情を表明し、柄谷を「文芸評論家」としての自分にとっての「恩人」と呼び、恩返しの意味で柄谷批判をすると述べる氏は、柄谷行人という偶像の崇拝者であることに自覚的である。大杉氏は、現在の自分の仕事を前提として話を進める関係上、自分の書くものが読まれているのかどうか、聴衆に知られているのかどうかを気にしていたが、これは言い換えれば、自分がどれだけ「偶像」なのかを確認する発話となっている。氏はこのことにも自覚的だったのだろうか。安吾の偶像破壊の発言からすれば、安吾研究会の面々も大杉氏自身も、安吾によって一蹴されることになってしまう。大杉氏の「文芸評論家」という自己規定、自己限定は、さらに、自己限定を拒否した安吾(「私は誰?」)とは対極の位置にいると言うべきだが、氏はこのことにも自覚的だったのだろうか。大杉氏の偶像(柄谷)破壊は、偶像崇拝と裏表の関係にあるわけだが、安吾と重ね合わせてみせた鎌田哲哉による偶像(柄谷)破壊は、偶像崇拝と裏表の関係にあるものなのか、安吾以上にラディカルでリスキーな破壊行為なのか。氏の考察・分析が、ここにまで及ぶものであるとき、大杉氏自らのリスクとセキュリティをも照らし出す批評となったのではないか。セキュリティを全解除したとき、大杉氏がどのようなリスキーな批評を展開するのかを読んでみたいと思った。
 宮澤隆義氏の「時間・歴史・自由――坂口安吾の戦後評論から」は、近年、歴史認識、歴史叙述という観点から捉え返されつつある安吾のテクストを、安吾の「時間」意識に即して分析しようという意欲的な試みであった。だが、その「時間」をめぐる議論は多分に抽象的、観念的であった。その上、発表内容は、表題に反して「現在」意識なるもののみを問題化しているように思われた。宮澤氏の発表を簡単にまとめると、「安吾にとって「現在を生きる」ということは、「現在」が潜在的に持っている諸可能性を見出して解放していくことを意味する」のであり、これを「真珠」や戦後の被災体験を綴ったいくつかの文章や未来についての安吾の記述にあてはめていくというものであった。抽象的思考それ自体は悪いものではないはずだが、宮澤氏の思考は、安吾のテクストを近視眼的に追いすぎる結果、一つのテクストを安吾の別のテクストの記述によって説明し解釈するというトートロジーに陥ってしまっており、着地点が見えないもどかしさを感じた。また、発表のなかで気になったことがある。宮澤氏は「真珠」のなかの「実際、真珠の玉と砕けることが目に見えているあなた方」という表現に注目し、「あなた方が生きていた現在において、砕けることが目に見えている点に僕の賞賛が寄せられている」と述べ、これを「現在において思考されている」から重要だと述べていた。これは、安吾の執筆時期や語りの位相を等閑視していると言わざるをえないのではないか。というのも、周知のように、1941年12月8日の真珠湾攻撃において、実は9名の勇士が戦死していたということが一般国民に報道されたのは翌年の3月6日であり、「真珠」は、この報道を受けて書かれ同年6月の「文芸」に発表されたものである。真珠湾攻撃をめぐる報道事実の時間差および「真珠」執筆の時間差を考慮するならば、「実際、真珠の玉と砕けることが目に見えているあなた方」という語りは、「あなた方が生きていた現在において思考されている」のではなく、明らかに「あなた方」の死を知る地点からの語りであるはずである。従って、「真珠」における「現在」とは、少なくとも、登場人物が行動している12月8日「現在」のほかに、大本営発表後の3月6日以降、「真珠」執筆時までのどこかに設定されうる「現在」=「真珠」テクスト内の語りの「現在」、安吾自身の「真珠」執筆時点の「現在」など、複数、想定しうるのではないかと思われる。しかし、宮澤氏が「現在」と言うとき、誰のどの地点での「現在」なのかを明示することはなく、テクストへの時間意識を欠いている憾みがあるように思われた(このことは、安吾の時間意識を見ていく際に、戦時下に書かれた「真珠」と戦後の評論と東洋大学時代のエッセイとを並列して参照していくというテクストの扱い方にも見られた)。「時間」や「歴史」を問題とする以上、今や語り(ナラティヴ)の分析を欠かすことはできないはずであり、自身でも挙げていた「真珠」先行研究においてもこの点はすでに踏まえられていたはずである。「歴史」を「現在」において「語る」ということについて、例えば、ドミニク・ラカプラ、高橋哲哉等を参照するなどして、宮澤氏自身の思考のアクチュアリティーを明示していくと、より面白い議論を展開できるのではないかと思われた。
 時野谷ゆり氏の「「安吾巷談」の生成と方法」は、「安吾巷談」(1950.1〜12)というユニークなテクストが、いかなる方法と生成プロセスを辿って生み出されたものであるのかを、発表媒体である「文藝春秋」の当時の編集長の戦略や時代状況を探ることで明らかにしようとする試みであり、今回の研究集会の趣旨文のなかの「同時代の文壇ジャーナリズムの中で自身をどのように定位し、自らの〈書く〉場所を確保していったのか」に最も正面から取り組むものであったと言える。「安吾巷談」は第4回「今日、われ競輪す」で1951年3月に第2回「文藝春秋読者賞」を受賞するのだが、時野谷氏によれば、この受賞の背景には、「文藝春秋」の当時の敏腕編集長・池島信平の時代への嗅覚の鋭さによる、ノン・フィクション性と娯楽性、読者の意見を反映する誌面作り等の重視という編集方針と、安吾の戦後の世相を捉える時代感覚と人間の本質を見抜く批評眼とから、小説家としてよりも随筆家、時評家として評価する池島の眼鏡に適った安吾の起用などとともに、折しも、GHQの占領末期にあって雑誌検閲の終了による抑圧からの解放感と、それまでの用紙難の克服という好条件とが重なったことが指摘できるという。さらにまた、「今日、われ競輪す」では、新聞や雑誌から間接的に知った事件を机上で論じるというそれまでの方法から一変して、時事的な話題について直接現地取材を行うという方法を取っており、この方法が当時の「文藝春秋」の編集方針と合致するものであったことをも指摘し、この後、この方法が定着していき、自らを「巷談師」と自称し、「巷談」の好評に対する書き手としての自覚と自分の資質を深めていく安吾の姿を浮き彫りにした。「安吾巷談」というテクストが誕生する背景を、このように、雑誌メディアと時代状況から多角的に分析していく試みは、これまでの安吾研究においてはなかったのではないか。とはいえ、いわゆるメディア論や読者論、文壇・ジャーナリズム論などの〈理論〉の水準からすれば、少々物足りなくも感じられた。というのも、時野谷氏は、常に「安吾」を主語として語り、安吾と安吾の周辺ばかりを(やはり)近視眼的に追いすぎており、「文藝春秋」の戦略や読者の反響というせっかくの視点も、有効な着地点へと持って行くことができなかったように思われるからである。「文藝春秋」の戦略を、ほかの雑誌メディアによって相対化する作業を経ることで、さらなる広い視野において時代状況を俯瞰することが可能となるだろうし、読者の反響の提示のみで終わることなく、読者の声そのものの言説分析をすることによって、作家や編集サイドが読者大衆のどのような支持や欲望によって動かされていくのか、同時に作家や編集サイドがどのように読者大衆を形成していくのか、を明らかにすることができるだろう。それにはまず何よりも、いったん「安吾」を主語として語ることを禁じ手としてみるところから始めるとよいのではないか。
 今回の研究集会は、全体に「安吾」を主語として語る講演・発表であったように思う。個人作家研究会である以上、この傾向はやむを得ないのかもしれないが、しかし、対象を近視眼的に見ていくのみでは視野の拡がりに欠け、徒に偶像崇拝言説の大量生産に加担するだけになってしまう。「安吾」から目を離し相対化していく作業を通して偶像破壊を行ってこそ研究が活性化していくのでないか。安吾にのみ自閉しない、人文諸科学へと開かれた研究は、そもそも坂口安吾研究会立ち上げの趣旨でもあったのだから。

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第9回研究集会


「坂口安吾研究会・第9回研究集会 印象記」

宮澤 隆義

 今回の特集は「坂口安吾と〈天皇〉」。渡部直己氏と五味渕典嗣氏が各自発表を行い、その後で井口時男氏をディスカッサントとした自由討 議がなされた。
 はじめに渡部氏が、「坂口安吾と天皇(制)」という題で発表した。「堕落論」における天皇制への指摘の鋭さを評価しつつ、『不敬文学論 序説』(太田出版、一九九九年。以下『不敬』と略)で示した観点(天皇や皇族を単に描写しているか)から、安吾の「天皇小説」についての 評価を行った。例えば「道鏡」は生身の人間と帝位の関係を描く小説としてみると、「魂」と「肉体」の二分法に由来するであろうその単調な 描写において、到底評価できないと氏は述べる。さらに「坂口安吾―三島由起夫―島田雅彦」というラインを挙げ、総じて概念的図式性へと回 収されてしまう陳腐な比喩や語彙を用いる、彼らの描写の貧しさについて指摘した。他方で氏は、谷崎潤一郎・中野重治・大江健三郎・中上健 次らを、描写に対するフェティッシュな欲望において評価する。描写という全くもって理不尽なものに対して途方もないフェチでないと、小説 において天皇制を批判的に対象化することは難しいとした。だが安吾を評価できる点として、ある特定の概念(「なつかしさ」等)を点描する ことには優れている(特に自伝物において)と氏は述べる。また探偵小説において安吾が描きだす細部は、論理的に発見されるべくして描かれ ているためヴィヴィッドに機能している。そのような細部感覚と論理性とを無理なく共存させられる古代史物や巷談への安吾の移行は、彼の天 皇小説の描写法が抱えていた隘路に対する打開策だったのではないかと氏は位置づけた。
 次に、天皇と文学の関係が昭和と平成で異なるという点に論は移り、『不敬』でとったアングルが無効になりつつあるのではないかとの見解 が語られた。このような力学の変化を「フラット」化と呼びつつ、島田雅彦や星野智幸、阿部和重を取りあげる。特に阿部の『シンセミア』に おける、一種の「散種的引用」としての天皇家への言及(登場人物の「田宮家」の構成が天皇家のそれと対応している)について指摘し、こ れらは例えば安吾の「保久呂天皇」のアレゴリーとは違った「フラット」なレベルでの天皇への引用と言えるだろうと結んだ。  《自由討議》では、安吾は18世紀以前の小説を経ているので元々描写は「浅い」のだとする井口氏の示唆や、推理小説の扱いについての質問 等が出た。安吾の天皇小説の評価について上記のようにまとめることには賛否両論が予想できる。だが氏の論は、天皇(制)への批評の強度と 描写の問題が重なるとして考察した『不敬』の観点を一貫しており、評価としてはありうると私は思った。だが福田恆存も示唆しているように、 安吾の小説が「観念的」であるという指摘自体は、クリシェの反復であることは免れえないだろう。また、物語内容や対象へと干渉を起こして ゆく「描写」をそれ自体分析対象として提起してゆく点は魅力的であった。しかし、それはフェティシズムがあるかないかという話としてくく られてしまってよいのか、という点に疑念が残ったことも否めない。阿部の小説に関する鋭い指摘は、「フラット」という概念が情報のデータ ベース化(それは実体的なものではあるまい)と関連していることを鑑みると、「日本文化私観」における「文化」の扱いがそこに接合され うるのかどうかということが想起され、個人的に関心をひかれた。安吾自身の文章論(ファルス〜「文章の一形式」など)が持つ問題について は、また別に考察する必要があるだろう。
 続いて五味渕氏が、「ざわめく偽史たちの饗宴―再読・坂口安吾の古代史論―」の題で発表を行った。安吾の古代史論を一つの通史としてと らえようとすると、相互にズレや齟齬が見られる。だが、むしろそれらは消えていった対立や抗争などの「交通」が前景化させている点におい て、ベンヤミン的な実践を想起させるとして氏は評価する。特に「飛騨・高山の抹殺」で古代神話の分散や圧縮といった作用を読みこみ、その 抗争の舞台としての「ヒダ」を浮かびあがらせてゆく安吾の手つきには、記紀神話の「脱構築的な読みかえ」が遂行されているとした。そこか ら、安吾が戦後のこの時期に天皇家の物語を「脱構築」することに、どのような意味があったのかが論点となる。
 安吾が『新日本地理』の調査と執筆を開始した1951年当時は、日米講和=再軍備問題をきっかけに、天皇制の強化を狙う側も反対する側も、 自分たちにとって都合のよいキャラクターを備えた天皇を皇位に置こうとしていた。「チッポケな斧」などのエッセイからは、「旧帝国のシン ボル」としての天皇の復活に対して批判的な態度を表明しつつ、敗戦以後の歴史経緯と道程を振り返る―という安吾のポジションが読みとれる と氏は主張する。また、丸山真男と安吾の同時期的な並行性について指摘しつつ、安吾は敗戦を断絶としてとらえた際になされるはずだった 「秩序の再建」が「可能性」として潜む「未発の原点」において、戦後の憲法問題を考察していたのではないかと示唆した。  最後に「安吾、伊勢神宮にゆく」へと論は移り、氏は象徴天皇制下での天皇の「人気」にはいわば見た目の「スター性」が重要なファクター となってきている点を、安吾の叙述に読みとる。この意味で安吾は、戦中と戦後の断絶を問題化していたと言えるだろうとした。  《自由討議》では、渡部氏から「脱構築」的な読みは対象としての天皇を追認するものではないかとの質問が発せられたが、それに対し五味 渕氏は安吾の古代史論の持つ「まとまりのなさ」をそのように拾いあげる必要性について述べた。また、もっと安吾の「いいかげん」な面に注 目する必要があるのではないかとの意見も出ていた。個人的には安吾の史論と同時代の憲法論議を並列的に読むという氏の手法は興味深く、安 吾の文章を読んでいるだけでは描きだされない事象に光をあてる感があった。来歴を抹消した地点で作動する「スター性」(=「象徴」性)と、 渡部氏が述べた「フラット」化の問題の整合性・接合性についての考察は、「天皇と文学との関係」を考えてゆく上での、今後の課題であるだ ろう。
 私にとって今回の研究発表会で最も印象的であったのは、渡部氏が途中で「現在」における『不敬』の理論の無効化の可能性を述べたことだ った。実際の出来事との関係において自らの理論の実効性を測り直してゆく氏の姿勢には、批評があるべき姿を感じさせられた。ちょうど研究 集会の前日に皇太子妃雅子とその娘・愛子が撮影された「プライベート」的映像がマスメディアに流され、論題と現在起きつつあることの繋がり が意識させられていた時でもあった。安吾を論じることの「必要」について考えてゆくためにも、今回の会はすぐれて挑発的な機会となったと 言えるだろう。(2004.11.2)


「坂口安吾研究会第9回研究集会学会印象記」

三品 理絵

 渡部直己氏「坂口安吾と天皇(制)」は、そもそも「理論的」な「合理性」の人である安吾が、「堕落論」に見られるように〈天皇制〉への見事な批判者となる一方で、ことそれをエッセイでなく「小説」という形で表すとき、そこにいささか「不利」を生じるのではないか、との疑問を投げかける。実際〈天皇制〉を扱った「不出来」な小説の例として「道鏡」を挙げ、女帝の魂と肉体という観念的二分法の表現を、安吾は魂との対比なしに肉体そのものを描くことが出来ないのだとし(氏はそれを安吾最大の弱点だとする)、彼の本領が発揮されるのは「安吾史譚」「安吾日本地理」などの歴史探訪ものであること、推理小説仕立てで理論的に掘り下げていく方法が安吾の資質に合い、見事に成功しているとする。このとき、日本の「推理小説」は社会主義文学と結びつきが強く、安吾の資質のみならず〈天皇制〉批判を語る作品の形式として相応しいとの指摘が興味深かった。
 安吾の「不出来」な〈天皇制〉小説は、1946〜50年代頻出の「人間天皇」を題材とする小説群の中に位置づけられる。安吾の場合、人間の苦悩を描くための最上級の象徴として「天皇」が採用されているが、その「型どおり」の表現について、氏はここで、安吾から三島・島田雅彦に至るまでの、観念的二分法で〈天皇制〉を描く作家たちの表現的系譜を挙げる。一方、これに対して「細部感覚」にこだわる「フェティシズム」作家、鏡花・谷崎・中上健次らの表現的系譜を挙げて、彼等の方が〈天皇制〉を小説で描くにはむしろ有利なのではないかとするのである。例に挙げられた三島の「憂国」は、別の意味で「フェティシズム」の横溢した作品ではとの疑念もあるが、二つの〈天皇制〉をめぐる表現法(井口氏はそこに〈天皇制〉への愛の有無を見、安吾に中上のような〈天皇制〉への執着はないと指摘。渡部氏もそれに賛同)は、対比によって各々の特色が明確になるように思われた。ただ「細部感覚」については、渡部氏も安吾にそれがないわけではなく、ただ全体の結構を翻すほどの細かさ(!)はないのだとされるが、作品毎に詳細な検討の必要があるのではないか。鏡花のそれを「描写」と呼んでしまっていいのかという点にも若干疑問がある(「細部感覚」の極めて巧緻な表現法の極みであるのは勿論)。その点に絡み井口氏が挙げた「物語」/「説話」の表現方法としての差違、安吾の資質と「語る」/「描く」の差違が示唆的だった。
 一方、五味渕典嗣氏「ざわめく偽史たちの饗宴──再読・坂口安吾の古代史論」は、渡部氏が、安吾が天皇制を書くとき相応しい形式(方法)とした史論・地理論について、同時代の思想的背景とつきあわせながら読み直していこうとするもので、渡部氏がその思考内容そのものよりも〈天皇制〉を描くための表現に焦点を当てているのに対し、五味渕氏は、当時の〈天皇制〉をめぐる動きと連動した安吾自身の〈天皇制〉観の変遷を見ていこうとしている。たとえば、安吾の「物的証拠」へのこだわりが、仁徳天皇陵発掘をめぐって考古学的タブーということが当時実際に行われていたことと連動していることや、過去を封じ込めて新生〈天皇制〉を発動させようとする復活論者の昭和天皇退位論・皇太子即位希求論の盛り上がりと「安吾日本地理」連載時期との連動。そして1946年3月の「大憲章」発令をめぐる丸山真男言説との呼応。  渡部氏が挙げている、まさに1946〜50年代の「不敬」文学──人間天皇を描く文学──頻出とも当然響き合っているに違いない一連の世相を、詳細に資料から辿っていく発表は重厚で、五味渕氏が「それぞれが極めて精巧なテクストの読みの成果であることにこそ注目したい」とした安吾のテクストについて、氏自身がこれまた「精巧な読み」を目指そうとされたのであることがうかがわれ、どのトピックについてもそれぞれ興味深かった。ただ、大量の資料を目で追うことと濃密な内容を耳で追うこととの間で、すべての内容を辿るのは正直言って結構きつかった。また、質疑でも出ていたが「ざわめく偽史たちの饗宴」という魅力的なタイトルであったにも拘わらず、実際の発表での偽史についての言及が少な目で折角のタイトルと響き合いきれなかったことは残念だった。氏が掲げた三つのトピックのどれか一つを中心に据えて、その中で安吾が偽史をいかに採用していたかを見ていく形でも良かったのではないか。氏は当日体調の不調という悪条件もあったことと聞くが、論文化される折を楽しみに待ちたい。発表冒頭に提出された、通史としてのまとまりに齟齬する飛騨・高山王朝に関する部分に関しては、これも質疑で出たが、氏が発表全体として辿っていた安吾の〈天皇制〉観の変遷の枠から逸れてある種の「思い入れ」が出ている部分もある。井口氏指摘の安吾の〈天皇制〉への執着の有無の問題と併せて、複雑な内実の層が偽史の具体的な検討を通じて引き出されてくるなら面白いと思う。やはり質疑に出た「真珠」をどう位置づけるかという問題も、〈天皇制〉をめぐり表現形式とそこに盛り込まれた思考の変遷とをそれぞれ掘り下げて考察された、これら二者の対照的な発表における考察を踏まえて今後再考されるべきだろう。

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第8回研究集会


「基調講演・印象記」

武田 信明

 成田龍一氏の講演は、題目であった「安吾と歴史」の関係にとどまらず、その背後に広がる「歴史学」と「文学」という概念の問題、あるいは「歴史学」と「文学」の関係にまでおよぶものであった、と私は感じた。端的に言うなら、成田氏の講演は基本的に「歴史学批判」であったのだが、それは同時に「文学研究」へ適用されるべき内容でもあったということである。以下成田氏の講演の私なりの理解を二点の問題点として記すことにする。  最初に成田氏が提示したのは、歴史学の領域における戦前と戦後の断絶と反復の問題である。戦前の歴史学の三派鼎立の状況は、敗戦によってドラスティックに改変される。しかしその一方で、戦前の皇国史観と戦後のマルクス主義史観という一見対立的な史観が、その言説において奇妙に酷似してしまう。成田氏は、それらの事態を具体的な資料を示しながら解説した。まず第一の問題がここにあっただろう。たとえば明治維新や敗戦といった歴史上の転換点を、明白な切断としてとらえるのか、それとも持続としてとらえるのか。それは「学派」といったパラダイムの問題でもあり、転換期を生きる個人の問題でもあるだろう。では安吾の場合はどうなのか。安吾が戦後において流行作家となりえた事実は、彼が戦後という切断後の新しい作家であったことを意味するであろうし、一方で彼は戦前からすでに作家だったのである。それは、安吾は歴史の変化に敏感に反応した作家だったのだとか、戦前から一貫した思想を持ち続けたのだ、といった安吾の歴史認識に白黒をつけようという問題意識とは若干異なるだろう。なぜなら転換期の前後における断絶と反復の事態は、きわめて容易に同時に成立しうると考えられるからである。成田氏が指摘した家永三郎の言説と皇国史観の学者の言説の酷似は、歴史が反復することを示しているだけでなく、酷似しているにもかかわらず埋めることのできぬ断絶があることを前提としていたはずである。  だがより興味深かったのは、成田氏が上記の断絶と反復を問題にしながらも、その問題意識の根幹に疑義を呈していた点である。それは皇国史観やマルクス主義史観といった流派の分類そのものが、便宜的なものであり、とりあえずのものでしかないという指摘である。これを第二の問題点と呼ぶことにする。一言で皇国史観といっても、その内実はきわめて多様であると氏は述べる。その多様性の中で、ある歴史的言説が家永三郎のそれと重なるという事態が生じるのである。それゆえ歴史の学派を分類するに際しては、対象とする歴史史料の属性、歴史を切り取る際の思考方法、学者自身の歴史的叙述などいくつかの観点から子細に検討すべきだというのである。これを聞きながら考えていたのは、昭和初期の小説家たちが「過去」を素材とした作品をさまざまな形で執筆していた事実である。たとえば、島崎藤村の「夜明け前」と太宰の「右大臣実朝」と安吾の「イノチガケ」を一括して歴史小説だと考える視点も必要であろうし、逆に成田氏の説にのっとって、対象とされる時代、叙述のされ方、話者の介入の有無などを多角的に考えることも必要かも知れない。あるいはまた安吾だけに限定するとして、彼の書き残した複数の歴史小説は、一括しうるものなのかどうか。いやそもそも安吾の作品を歴史小説とそれ以外と分類すること自体安易だというべきではなかろうか。成田氏の講演の間、そのような雑念が脳裏をかけめぐっていた。  成田氏の講演内容は、1940年代における歴史学の状況から安吾を見るというというものであった。そのために氏は、まず歴史学の戦前前後における在り方を概括した。だがそれは、論の前提を門外漢の聴衆に向けて簡明に示すといっただけのものではなかったように思う。歴史認識を語る際に歴史学批判を同時に語ったのである。歴史学は過去を対象とした学問である。それは小説作品や詩作品といった過去をあつかう我々も同様なのではないか。歴史学はその名の中に「学」を含みこんでいることに自覚的である。だが「文学」「文学部」なる名称は「学」の意識が曖昧である。研究の対象そのものに「文学」として「学」が組み込まれているからだろう。文学を研究し、文学に関する仕事を生業とする私には、成田氏の真摯さに考えさせられることが多かった。講演後の活発な自由討議や懇親会での議論も含め充実した半日であったと思う。


「研究発表 所感」

近藤 周吾

 対照的な二つの発表であった。両者ともいわゆる歴史小説を材に選び「坂口安吾と歴史」という特集に切り込んでいったが、一は歴史を相対化する方向へと展開し、一は歴史=歴史小説だといわんばかりに沈潜していく。前者からは支離滅裂な安吾像が、後者からは生真面目な安吾像が微かに見え隠れしていたように思う。しかし、おそらく両者ともに〈安吾〉であることにはちがいがない。
 奥山文幸氏の「安吾の史眼−「イノチガケ」を中心に−」は、坂口安吾が『吹雪物語』以後いかに再出発を果たしたか、そして、それがやがて「日本文化私観」「真珠」「白痴」へと発展する核の形成を「イノチガケ」一篇に求めようとするものであった。氏の認識によれば、安吾は戦中戦後を通して抑圧に対する独自の姿勢を得たといい、「イノチガケ」における歴史イメージにおいてもそれは〈観念に過ぎないもの〉として、あるいは歴史小説という枠組みから〈逃れ去るもの〉として存し、それらは要するに何らかの権力に服従しない精神の自由によって支えられているという。このことを解く鍵として、氏は〈並列〉という方法に着目した。ここでいう〈並列〉は、語本来の意味に反し、同一レベルの並列を必ずしも意味しない。むしろ異なるレベルにあるものを配置する方法のことを指している。一例をあげれば、一方においてザビエル−マストリリ−シローテといった〈血脈〉を描く際には一人物を特権化せず雑多さを表す。にもかかわらず、他方においては〈情熱〉を描出する際、一つの視点によって死に方、殺され方に焦点が当てられる。また別の例をあげれば、為政者の〈殲滅〉の欲望と、殉教者の〈情熱〉が奇妙に混在してもいる。  惜しむらくは、強調点が〈何らかの体系、権力に服従しない切り取り方〉という所へ収斂した為、「イノチガケ」自体の孕むこの魅力的な〈並列性〉の指摘が、氏の意図とは裏腹に、弱まって聞えてしまったことである。 第一に、『吹雪物語』との比較がなかったために、「イノチガケ」が安吾の原点だという再三の主張に説得力が欠けてしまった。『吹雪物語』の〈並列〉と「イノチガケ」の〈並列〉の類同性と差異は奈辺に存するのか。このことが基本的な手続きとして明らかにされるべきだった。第二に、「イノチガケ」と「白痴」を単純に比べてしまっていいのかという疑念が浮かばざるをえなかった。一言に〈並列〉といっても、両者の〈並列〉が同じものとは思えないし、また同じ効果を生むものとは思えない。両者の差異に目をつぶってはならないだろう。最後に、安吾の戦時抵抗を強調することは、抵抗言説と時局的な言説との〈並列〉を見失ってしまうのではないかという疑念も残った。同時代の言説とのすりあわせ、比較が要請されよう。その意味で、保田與重郎の散華の美学との絡みをもう少し聞いてみたかった。
 しかし、このように厳密さを求めた上で、〈並列〉を鍵に安吾を読み直すことには可能性があると思う。たしかに、安吾のテクストにはさまざまな〈並列〉が〈並列〉されている。まずは表現論的な観点から手を着けてはどうであろうか。
 原卓史氏の「黒田如水と坂口安吾」は、戦前/戦後の安吾の変化を辿る上で貴重な〈如水もの〉についての発表であった。金子堅太郎や徳富蘆花、山路愛山などの如水言説と対校させつつ、典拠をつきとめていくというトリヴィアルかつ禁欲的な研究方法に拠りつつ、安吾テクストの生成過程を明らかにしていく作業は刺激的であった。動もすると、安吾研究者の多くは批評家気取りで、かかる地道な仕事を軽蔑する悪しき習性があるが、最近の若手の研究者によって安吾の歴史小説の緻密な研究がなされることは喜ばしい。今ここに配布資料全枚を再掲できれば早いのだが、それができない以上、ただその労に賛嘆するばかりである。
 ところが、細かい点で気になるところが少なくなかった。第一、資料間の表現の一致度が小さい。内容面では一致しても、表現レベルでは必ずしも一致しない箇所が多いが、これは安吾の裁量による書き換えの結果か、それとも別の典拠がまだあるかもしれないと判断するのか。第二、『島原の乱』構想と〈如水もの〉を切り離す旨の発言は、作業仮説としてか、それとも何か確証があってのことなのか。確証なしに、非関係性を指摘するのは厳密さを命綱にする氏ならば安直の謗りを免れない。第三、「黒田如水」では秀吉家康の評価が高く、如水の評価が低いのに対し、『二流の人』では価値評価の二項対立が揺らぐ旨の結論に至ったが、なぜ揺らぎ、そこから結局何がいえるのか。また、価値評価の高低は厳密に決定できるのか。「二流」というレッテルを貼りながらも、評価しているというふうに捉えられなくもないのではないか。たとえば「狂人遺書」では〈狂人〉に対して切々たる愛情が注がれるという例もある。安吾にはそういう事例が多いが、『二流の人』の人物評価は截然と分かちうるのか。第四、徳富蘇峰を安吾が評価するのは戦前/戦後の不変を評価するものとの憶測は妥当か。蘇峰が単に微に入り細を穿つ博識の持ち主だったからというのは安易に過ぎようか。第五、わかりきったことだろうが、『二流の人』ではやはり九州書房版と思索社版との比較を行ってほしい。それから、安吾の〈秀吉もの〉すなわち「狂人遺書」までをも視野に入れてほしい。黒田如水の名前に拘泥するあまり、周辺からの影響がもれる恐れがある。蛇足ながら、そこには『島原の乱』も入るだろうというのが私の当て推量である。いずれにせよ、安吾の歴史小説全体の典拠の全貌=大局(データベース)を意識した上で、典拠確定を行ってほしいというのが私の希望である。第六、そこには当然、立川文庫に始まり、時代劇、映画、講談などの大衆文化の影響も見逃せないはずである。ここまでいうと目が眩みそうだが、安吾歴史小説研究の大家たらんことを嘱望するがゆえの愚見として了とされたい。(了)

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第7回研究集会


「池田浩士氏「ナチズムの視線で読む『日本文化私観』」私観」

三谷 憲正

 私の狭い個人的な関心の領域からは、池田浩士氏といえば『[海外進出文学]論・序説』(インパクト出版会、一九九七)の著者であり、また『ドイツ・ナチズム文学集成』(柏書房、二○○一)の編纂者として聞こえていた。
 講演で、池田氏はブルーノ・タウトの閲歴をたどる。ドイツ表現主義の建築家・タウトはドイツでヒトラーが首相となるに及んで、モスクワを経由して日本へ亡命したことは、井上章一著『つくられた桂離宮神話』で知ってはいたが、ワイマール共和派の一員であり、バイエルン・レーテ共和国の建築大臣に任命された筋金入りの革命家の一人であったことは今回の話で教えられた点であった。
 安吾の「日本文化私観」(『現代文学』、一九四二)は無論、ブルーノ・タウトの同名の書『日本文化私観』(森儁郎訳、一九三六)への反論として書かれている。しかし、双方の主張を検証してみると、意外にもタウトの述べている「機能美」と、安吾が「日本文化私観」で言っている「必要の美」とはさほど違っていないのではないか、とは提起する。一例として安吾の称揚する「小菅刑務所」(現東京拘置所。設計は司法省営繕課・蒲原重雄、1930〔昭5〕年)は実はタウトの主張した表現主義建築の代表的な建築物なのだという。とすれば安吾はタウトのどこに批判の矢を向けていたのか。それは、タウトを利用して「伝統回帰」を目論む勢力に対する批判というよりはむしろ、タウト的に美を位置づけようとする志向、すなわち持ち上げられ過ぎた「文化」を生活の眼差しの次元に引きずり下ろそうという試み(文化の脱特権化)だったのではないか、と推測される(と氏の話を理解したのだが)。しかし、後段で触れるが、やはり第一義的には作られた「伝統」への「回帰」を批判する点に安吾の照準は合っていたように私には思われる。
 氏は「20世紀の文化的前衛たちが目指したもの」として、「(1)だれもが表現主体となる」「(2)失われた共同性の回復」「(3)新しい表現技術による新しい感性の開発」の三つを挙げる。おそらくナチズムがそれらを吸い上げる形で再編し収奪していく様相を、氏の講演は描きたかったように私には聞こえた。もしそうだとすれば、それはまさにそうなのだ。「近代の超克」とは、共同体から切り離された個人および断崖に向かう個人主義の克服がその根底にモチーフとしてわだかまっているはずだからだ。その乗り越えは一方ではコミューンを目指す共産主義としてロシアに出現し、また一方ではナチズム(国家社会主義=Nationalsozialismus)として、あるいは日本では「五族共和」や「満洲国」となってその姿を顕現化した。戦前・戦時を席巻する「日本主義」とは過去へと遡る先祖帰り≠ネどではなく、実は新しい未来≠仰望する「近代の超克」としての「ポスト・モダン」ではなかったのか。当時のさまざまな雑誌や新聞に頻出する「世界史的」というタームは、とりもなおさず西欧的近代の限界、すなわち共同体から切り離されたバラバラの個人の集合からの行き詰まり、を打開する方途して見いだされた集団のアイデンティティを志向する「伝統」であり、「東洋」の発見を意味していた。
 我々の父祖たちが二一世紀の子孫に残した膨大な負の遺産としての「大東亜」―。あるいは明治維新の行き着いた先の袋小路としての「大東亜」―。もし、安吾が「日本的ファシズム」に、高村光太郎とは異なったスタンスを保持することができたとすれば、それは画餅のように描かれた如何 にもそれらしい「共同体/共同性」対する安吾の底知れぬ寂寥に貫かれた心象風景の故ではなかったか。おそらくこのことは、池田氏の講演に踵を接して関谷一郎氏が発表した「国家の境界/個人の輪郭」で言われた、安吾という作家の特徴は制度化されず、収斂されず、一元化を拒否する作家 として捉えるべきではないのか、という提言とも関連するかと思われた。  ともあれ、今回池田氏のお話を直接聞くことができ、蒙を啓かれ、かつパースペクティブの拡がりに快楽を覚えたのは私一人ではなかったろう。


「<坂口安吾研究会・第7回研究集会(後半部)>印象記」

石月 麻由子

 前回に引き続き「坂口安吾とナショナリズム」という特集テーマの下、関谷一郎氏と押野武志氏がそれぞれの関心・問題意識から研究発表を行った。
 まず、関谷氏の発表では、氏が安吾に対して抱いてきた「分からない」という感覚が、特権的体制や一つの思想に収斂されず、決して整序化されないテクストの特質(「スキゾ型」という呼称が用いられた)に起因するのではないかとした。そこで、取り上げられた作品は「真珠」であった。関谷氏は、真珠湾攻撃の感動を率直に語る「僕」と趣味世界に没頭する「ガランドウ」とをやや図式的に対比し、国家・民族レベルのアイデンティティと個人のアイデンティティとの結節点・分岐点に注目する。ここで看過できないのは、書き手自身のポジショニングの問題であろう。作中の「僕」と「ガランドウ」とを対置した場合、そのどちらにも与しない安吾のありよう、物事のズラし方は、一方で「分からなさ」(という魅力)にも通ずるが、もう一方で、太宰治の志賀直哉批判とも重ね合わせられる。氏によれば、志賀直哉の世界は自己完結(閉塞)によって個我の輪郭を明確化しようとする「日本(人)」の姿そのものであるというが、彼を徹底的に拒絶する太宰を突破口にして、ポジション(アイデンティティ)を敢えて明言化しない「脱特権」的な安吾を浮き彫りにする可能性が提示された。安吾・太宰・志賀の名前が出たことで、会場からは「日本人」的特質の最大公約数的作家として果たして志賀が妥当かという根本的な問いや小林秀雄の歴史概念との関わりについて問う声が続いた。前者の問いに対しては、外国人に対峙した時の一般的な「日本人」のふるまい方を例に説明がなされたが、消化不良感は否めなかった。後者に対しては、出発期において志賀的な<閉塞−自己明確化>によって自己救済を図った小林が、昭和十年代には複雑化した多元性を見せるようになるとした上で、一元化しない安吾と多元化した小林との近似的様相、根源的異相が示唆された。しかし、一筋縄ではいかない問題の性質からか、その内実の分析・実証に至らなかったのは残念であった。また、「真珠」の考察では、近年の論文の成果が反映されていないようであったが、「真珠」に関する論考はむしろここ数年で飛躍的に増え、考察も深化した。個人的な希望としては、それら最新論文を踏まえた上で、太宰の「十二月八日」や「如是我聞」を捉え返して欲しかったと思う(安吾にも志賀直哉批判は多数有)。併せて、後の《自由討議》では、同時代作家たちの歴史観および言説を再検証した上で、安吾のナショナリズム(批判)の有効性を改めて布置していく作業の必要性を痛感した(その際、安吾の語勢に振り回されない警戒心が要求されると関谷氏の発言もあった)。
 続く押野氏の発表は、「安吾と戦後詩」という、一見すると容易には共通点を見出し難いテーマであったが、「荒地」派詩人を代表する鮎川信夫や田村隆一が、戦後、多くの海外推理小説の翻訳・出版に携わっていた事実(新津市文化振興財団編『坂口安吾蔵書目録』にあたってみると、A・クリスティ/田村隆一訳『三幕の殺人』(早川書房、昭和26・2・25)一冊のみ確認できた)を提示しつつ、安吾の探偵小説との比較検討を展開されており、その着眼点は大変興味深いものであった。まず、氏は近代文語詩から口語自由詩、そして戦後詩への変遷が、定式化された語法や詩概念、さらには日本的叙情性の「殺人」によってなされたと前置きをした。そして、<探偵=犯人>という推理小説的図式を重ね合わせながら、戦後派詩人が一切の叙情性を断ち切ることによって詩的源泉を得たとするならば、「詩」を殺した犯人こそ詩人その人であり、この「殺人」によって詩の誕生が促がされたという逆説めいた構図も成立つ。それは、戦争=無意味な大量死の記憶が生々しく残存する中、個別的な死者/生者の錯綜した関係を表象しようとした戦後派詩人と、安吾の戦後探偵小説における「死」の表象の析出へと連結する。また、戦中にはプロパガンダ的に受容された宮沢賢治「雨ニモ負ケズ」のパロディとして「肝臓先生」作中詩を捉え、氾濫する紋切型の詩情をファルスによってズラした(「殺した」)という指摘、あるいは記述主体(とそのイメージ)までも作品内に過剰に取り込んでいくような「不連続殺人事件」の「叙述トリック」の分析は、戦後派詩人の詩的戦略との通底性を浮かび上がらせた。以上のように、各章での論証には首肯し得る点も多かったものの、それらを連結させるものが見えにくく、今ひとつ焦点が絞りきれていなかったように感じたのは私だけであろうか。個人的には、戦前の「牧野さんの死」等に見られるような安吾の<歌の別れ>が思い出され、その意味で、「ポエジー殺し」として戦後詩との相同性を取り上げた押野氏の発表は大変示唆的であった。なお、安吾の探偵小説方法論における具体的な<戦後性>については今後の課題とされるに留まった。《自由討議》の中でも、ナショナリズムや軍国主義の問題を思索するにあたって、イデオロギー装備の手法として立ち現れてくる<ポエジー=美学化>、そしてその背後に暗示されている<死>という切り口は、看過できないものであるとの意見も出た。さらなる論究を期待したい。
 全体的に和やかな会の中、3人の発表者がそれぞれ安吾研究者ではなかったことで、却って専門家では認知し得なかった(且つ、及び腰になってしまうような)問いも生まれ、自らの認識を改めて質していくことが肝要であると気づかされた。

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論集刊行記念合評会


「合評会に参加して」

近藤周吾

 地方在住の大学院生が、中央へ出かけていくには複数のインセンティヴが不可欠であるが、第6回研究集会は翌日には合評会もあるということで楽しみにしていた。合評会は『越境する安吾』の論者たちの生の声が聞ける格好の場だし、それぞれの論と論の”間”にある何かをうかがい知ることもできそうだと期待したのだった。実際、それは期待通りであったといっていい。参加者は15名とやや少なかったものの、執筆者とそうでない人が半々だったのが幸いしたか、すべての出席者が積極的かつ活発に発言し有意義な会であった。そこでは批評家か研究者か、先生か学生かといった区別は関係ない。ただ思ったことを腹蔵なく言うだけである。これは恐いことだが、しかし、安吾研究会という看板を掲げる以上、当然のことともいえよう。
 さて、私が特に印象に残ったのは、「侵略される安吾」というキーワードである。これは物騒な用語だが、要するに、非プロパーに論じたいと思わせる何かが安吾にはあり、また、これまでのプロパーによる研究は時にすぐに突き崩されてしまうほど防備が薄いということでもある。厳密にいえば、両者の意味するところは異なるが、これからの安吾像が、専門家/非専門家、批評家/研究者、大御所/若手などの一切の区別を排したところから一から新しく始められるべきだという意味で、私などは好もしく思った。「次号の特集は『侵略される安吾』だ」との軽口も飛び出したこの会は、予想以上に愉快な場であった。いわゆる学会では得ることのできない示唆も少なからずあった。惜しむらくは、時間延長をしたにもかかわらず、すべての論文の批評がなされなかったということだが、それだけ議論が白熱し盛況であったということで、今回はあえて不問に付すこととしよう。

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第6回研究集会


「坂口安吾研究会第6回研究集会(前半)への私見」

杉浦 晋

 特集テーマ「坂口安吾とナショナリズム」に即して、松本健一氏が基調講演を行った。氏は、昭和初年代のデカダンスをくぐり抜けた保田與重郎、亀井勝一郎ら日本浪漫派の人々(太宰治も含まれる)、また北一輝、大川周明、石原完爾ら東北地方出身のナショナリスト達(安吾の父・坂口仁一郎、また東北地方に多くの信者を擁した大本教の出口王仁三郎も含まれる)との対比、というよりむしろ諸々の共通点の殊更なる強調において、卓越したナショナリストとしての安吾像を構築してみせた。用いられた主要なタームは「肉体」。たとえば安吾の合理主義的思考は、戦争という危機に瀕して(危機をもたらしたB29の機体と同様に)美しく際立つ「肉体」の、生き延びようとする必死の意志に根拠づけられていたがゆえに、知性に自閉した近代の個人主義を超克し、古典美への回帰といったロマンチシズムを免れ、ファシズムにつながりうるようなパトスを内包しつつも、一国の利害に視野を限定された狭義の「国家主義」を脱して(氏によれば、「肉体」に国家はない、のだそうだ)、より高次のナショナリズムに連なるものとみなされた。
 これは、柄谷行人氏による「堕落」という「倫理」の抽出を主な起点として構築され、最近ではアナーキストの呼称が与えられもしている、近年の研究史の一規範をなす脱・共同体的、反・国民国家的な安吾像とは、およそ対極を目指したものと受け取られた。ただし、共に「構築」された「像」であるという点ではもちろん同じであり、聴衆にそのような研究史の相対的な把握を促すほどには、氏の講演はまず挑発的であった。
 しかし、「肉体」的なナショナリストというにせよ、「倫理」的なアナーキストというにせよ、いずれかの「像」につながる要素のみが、安吾の諸作品からやや恣意的に抽出されているという印象は否めない。むしろ、こうした対極的な結像を促す(少なくとも)二つの方向性が、互いに互いを不断に相対化しているというのが、安吾作品の常ではないのか。こうした観点から、筆者は「堕落論」「白痴」の具体例に即して質疑をなしたのだが、生来の訥弁ゆえよく意を通じるに至らず、もって氏から有意義な応答は得られなかった。ただ、応答の中で「庶民」「土俗」といった言葉が、「肉体」も「倫理」も共に包括する不気味なタームとして不意に持ち出されたことは、澱のように記憶に残った。
 山口俊雄氏は「「マルスの歌」から「黄金伝説」まで―石川淳とナショナリズム」と題して研究発表を行った。石川が戦時中から戦後すぐにかけて発表した小説を主な対象として、それらの緻密な読解からボトムアップされた立論は、巨視的なフレームの先験性が目立った松本氏とは、一見対蹠的であった。しかし山口氏にも、より慎ましくこそあれ、石川や安吾の「ナショナリズム」は、ほとんど「ナショナリズム批判」として解釈されるべきだという先験的なフレーム(松本氏よりは柄谷氏寄りの)は、やはりあったように思う。そのため、たとえば石川の戦時中の作品について、素材レヴェルでの不可避的な時局迎合(古典文学や「伝統」への取材)がまず指摘されてよいかとも思われるのに、そうした素材がインターテクスチュアルに重層されているという点をのみ前景化し、それを「ナショナリズム批判」の一方法として評価するという論法が目立った。戦後の発言を基準としてそのように評価することは可能だろうが、戦時中の他の文学者の営為、また読者の受容を基準とした場合、果たしてそれはよく成り立つのか。やや疑問に思われたことであった。  これは自戒も込めていうのだが、この種の評価をなすためには「批判」、そしてもちろん「ナショナリズム」の含意について、充分な吟味が必要だとつくづく感じた(後者については、さすがに松本氏は周到にそれを試みていた)。さもなくば、石川の「ナショナリズム批判」がパフォーマティヴで、安吾のそれがコンスタティヴだという氏の総括も、必要な歴史性の裏打ちを欠いた評価になりかねないと危惧されたのである。
 ただし、上記の点をとりあえずカッコに入れて、石川作品の読解ぶりに注目するなら、殊に考証面において、氏の発表はまことに創見に満ちたものであった。また安吾作品との対比においても、「無尽灯」と「白痴」を女性に対する主体性付与の有無に注目して対比するなど、興味深い読解をいくつも試みていた。発表時間の制約のため、それらの多くが口頭で展開されることなく、レジュメ上での指摘に留まったことが惜しまれてならない。
 質疑応答のうち、松本氏の講演に関わる一部については先述した。補足するなら、一連の討議の過程で、氏の立論が「肉体」と「庶民」「土俗」を連結する強固なフレームに即していたことに加え、井口時男氏による的確なアシストもあって、更に「アジア」「前近代」「主体化以前」「無抵抗」「女性」(太宰はマッチョで、安吾はフェミニンなのだそうだ)……といったパラディグムが、そこに内包されていたことが明らかになった。この瞠目すべき開示をふまえた議論が尽くされなかったのは、何とも残念であった。なお山口氏の発表については、「坂口安吾研究会」という場のゆえか、直接の質疑はほとんど寄せられなかった。けだし「石川淳研究会」の発足を鶴首すべきなのであろう。 (2003・1・9)


「第6回坂口安吾研究会 研究集会印象記(後半)」

原 卓史

 後半は川口奈央子氏と土屋忍氏の発表であった。
 川口氏は坂口安吾の歴史小説に興味を持って研究に取り組んでいるという。川口氏は、「イノチガケ」をキリスト教の広まりと教徒の受難の歴史を描いた作品として捉え、特徴として前半では漢語の多様を、後半では史実とはことなる安吾の解釈を挙げている。「死と鼻唄」「真珠」の分析を通じて安吾のドストエフスキー受容を析出し、死んでも尚潜入する宣教師の姿はドストエフスキー『白痴』の影響のもとに生まれたとする。また、宣教師に対する処刑すなわち穴つるしは昭和初年代のマルクス主義者たちへの拷問と一致することを明らかにした。さらに殉教した切支丹に対して小林多喜二を除く転向した共産党員に対する批判を指摘した。切支丹にも棄教者がいたことはパジェスの『日本切支丹宗門史』に記されているが、安吾は殉教者のみをつらねて、棄教しなかったというイメージを故意に作り出したのであり、それが転向者へ向けた批判となっているという。結論として「イノチガケ」が転向批判小説であることを指摘した。
 会場からは(1)ドストエフスキーと転向の問題とがどう関わるのか、(2)マルクス主義者にだけ語るという発想はおかしいのではないか、(3)どうして転向批判小説と言えるのか、(4)安吾は自分の信念を守ったものとして宣教師たちを見ていたのではないか、また共同討議の中で肉体への執拗な拷問と戦後の無抵抗ぶりとの分裂をどうとらえるのか、などの質問が寄せられた。発表者自身未だ整理しきれていなかったのか、緊張していたためか、(3)に対して安吾が「イノチガケ」を書いた時はころばないで欲しいと考えていたのではないかという回答を除いて要領を得ないものが多かった。「イノチガケ」をドストエフスキー経由で解釈すること、昭和初年代のマルクス主義者の転向問題を絡めたことなど、興味深い指摘があっただけに、質疑の中で解消されず消化不良の感が否めなかった。また、川口氏は「後篇は主に新井白石の「西洋紀聞」をもとにしてつづられている」と指摘しているが、典拠に就いては拙稿「「イノチガケ」論」(「無頼の文学」1998・10)や、大原祐治氏「ひとつの血脈への賭け―坂口安吾「イノチガケ」の典拠と方法」(『坂口安吾論集1 越境する安吾』ゆまに書房 2002・9)で『西洋紀聞』以外のものが特定・推定されており、先行研究への態度が必要なのではあるまいかとも感じた。
 土屋氏は作家のアジア体験を研究テーマにし、北原武夫、岡本かの子、開高健、山田詠美などの作家を扱ってきた。土屋氏は、坂口安吾の作品の中にソ連、中国、フィリピン、ビルマなどアジアの地名が表象されるようになるのは、一九四五年以降のことであるとし、まず復員兵を扱った「淪落の青春」と「退歩主義者」を取り上げた。主人公たちがアジアでの生活と帰国後の生活とを対比し、ヨーロッパではなく「土人の生活」を選びたいとする思考(=退歩主義者)を持つ主人公たちにとってアジアは親近感を覚える場であったとする。次に「戦争論」、「野坂中尉と中西伍長」、「宝塚女子占領軍――阪神の巻――」、「もう軍備はいらない」を扱い、安吾は世界の動向を射程に入れつつ日本が侵略したことと占領されていることを、すなわち占領の主体と客体とを論じたことを指摘した。そして、戦後アジアに対して「加害者兼被害者である」という認識を例外的に示し、かつ再軍備に反対した作家として安吾と阿部知二とを比較対照し、阿部が浪漫主義批判(「再軍備・文学」)を展開したのに対して、安吾は無抵抗主義者(「もう軍備はいらない」「魔の退屈」)であることを示した。さらに、安吾の無抵抗主義=退歩主義がインドのガンジーの非暴力的抵抗を経由したものであり、世界を単一国家にするための方途として無抵抗主義を持ち出したを指摘した。
 会場からは(1)何故「淪落の青春」の舞台はビルマなのか、竹山道雄『ビルマの竪琴』と関わりがあるのか、(2)安吾の無抵抗主義と非転向でありながら生き延びようとする現実感覚との異同は何なのか、(3)主体性と退歩主義がどう関わるのか、(4)ファシズムの問題と無抵抗主義とはどう関わるのか、などの質問が出された。回答として、(1)ビルマの戦局が一番激しかったからではないか。(2)暴力同士で戦うよりは無抵抗主義の方が暴力の総量が少ない。非転向主義を貫くことを必ずしも肯定していない。(3)ヨーロッパと対峙するには暴力と非暴力があるが、安吾はガンジー的非暴力革命の方向性しかないと考えていたのではないか。(4)肉体と精神の問題を合理的ファシズムの遂行と精神論でもって戦争に勝つこととパラフレーズした上で、安吾は前者を重視しているとの回答があった。従来の研究史に於いて、坂口安吾とアジアとの関わりに就て論じられたことが少なく、新たな研究分野を開拓したという意味で刺激的な発表だった。また、安吾の「古代朝鮮」観とも接合し得る問題だけに今後の広がりを予感させた。

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第5回研究集会


「坂口安吾研究会 第五回研究集会 印象記(前半)」

秋山康文

 基調講演は、山口昌男氏によって「安吾とファルスの精神」と題されて行われた。研究発表は、神谷忠孝氏の「坂口安吾とダダ」から始められた。
 山口昌男氏は、笑いは世界の揺るがし方であるとし、そしてその笑いを、日本で初めて深刻に考えたのは安吾であるとした。また、ファルスの源流をイタリアのコメディア・デラルテであるとした。そして、氏は、当時のデアギレフ、コクトーといった人々による、領域(そして地域)越境的な知のある時代の状況、雰囲気を説明し、そして安吾たちの昭和5、6年の運動もそうした運動の一つなのであり、またそれは、伝統的な日本の仏文のスタイルではないものを目指す、強烈な運動であったのだとした。こうした時代性の限定の上で氏は、印象派というよりは象徴派的であり、物語性に依拠していたドビュッシーに対して、安吾がアイデンティファイしていたサティーは非連続的であったのだとした。そして、安吾が採用したのは、分節性や論理性に依拠する「進歩」ではなく、むしろサティの「簡潔さ」「退歩」なのであり、ここに、今日における安吾のファルスの可能性があるのである、とした。氏は、「退歩」とは、余計なものを捨て、そして例えばフェノロサにおける漢字のような、分節性・論理性によっては得られないより広い認識に至る方法なのであり、そしてファルスとは、はっきりと言葉の文脈で示し得るようなものを示そうとするものなのではなく、分節性・論理性が構成する机上性を越えていく力であるのだ、とした。そしてそれが、レオ・フロベニウスの文化人類学、エスノポップス、井上有一の書につながっていくような、芸術の本当の力である、とした。質疑応答・討議から二点のみ並べると、1Q.ドビュッシーとサティーとが領域越境的に共存していたとするならば、なぜ安吾はサティーのみを選択したのか。 2Q.「退歩」は「進歩」の世界を壊し活性化する。しかし安吾はそれだけでなく意味を見いだそうとするものも強く持っていたはず。よって、「道化(トリックスター)」と「ファルス」とには差異があるのではないか。 A.確かに「道化」は身体表現、「ファルス」は言語表現。安吾は当時隆盛を見た浅草には行っていないのであり、そうしたところにやはり差異を見ることが出来る。
 多くの固有名が登場し、不連続な物事を横断していく知の速力が、そのままに感じられるような講演であった。また一つ新しい地図が、私の中に開かれた。
 ファルス=芸術の本当の力が表そうとするものを、未だ分節性・論理性を見い出せないものであるとするのか、それとも分節性・論理性とは全く無縁なものとするのかとで、立場が分かれてくるのであろうと思われた。
神谷忠孝氏は、安吾におけるダダ・ナンセンスは彼のファルスであるとした上で、日本の「ダダ」と安吾のファルスとの比較に入った。いわく、昭和に入って辻潤が「ダダ」においてそのニヒリズムを前面に押し出していた頃、安吾は代用教員を辞め、悟りを目指し、そしてそれを止め、仏語を勉強しダダを直輸入していた。安吾の「エリック・サティ(コクトオの訳及び補註)」において独自なのは、サティーを「落伍者」と呼んだ点である。そして、安吾においては、ドビュッシーを正当派とするならばサティーは非正当派であり、サティーは、風博士のような、勝てないことが分かっていても挑み続けるファルスの体現者なのであった。ナンセンスという語を共有する辻の「ダダ」と安吾のファルスではあるが、しかし、辻や高橋新吉は仏教の中に「ダダ」を見て仏教の方へと向かっていったのに対し、安吾は、仏教からファルスへと向かっていった。安吾の場合、悟りへの憧れを導いた「世を捨てる」という形態への憧れと、小説家になって〈世に出たい〉という希望との対立・矛盾自体を肯定するものとしてファルスが登場していたのである。このように方向は異なる両者ではあるが、そこには共に《無私》への志向性が見られるのであって、当時の青年達を《無私》へと向かわせたものは何であったのだろう、と問題が投げかけられたところで時間となった。質疑応答・討議から二点のみあげれば、1Q.左傾化し、イデオロギーに向かった青年達の《無私》と安吾のそれと、どこが分岐点になるのか。 A.「進歩」を信じるか否か。自分を何か巨大なものに賭けたいという衝動の有無。 2Q.二つの〈ダダ〉の定義、言分けは? A.安吾の場合は「ダダ」という語は使わず、東大仏文系とは異なる仏文学の直輸入であった。安吾の「悟り」(《無私》)をよく体現していると思われるのは「真珠」のガランドウという生活者。ここに〈形の淪落はいやだ〉といった安吾の『ダダ』と、大正末期で消えた「ダダ」との違いが表れている。
項目別に見やすく整理されたレジュメにも助けられ、私自身の中の《無私》への傾向、衝動までも、一つ一つ掘り起こされる発表であった。
 「真珠」において《無私》を考えようとする場合、私は、戦後の「特攻隊に捧ぐ」などにつながっていくような「無償の行為」といった《無私》の在り方のみを考えていた。安吾における《無私》の問題を、より多くの筋で、あるいはより重層的に、考える視点を提示して頂けた。
 ファルスによる笑いは、まず、「進歩」「論理性」「イデオロギー」「自意識」といったものの否定、すなわち建築・構築・構造といったものの破壊によって現れる。ここで例えば「坂口は堂々たる建築だけれども、中に這入ってみると畳が敷かれていない感じだ」という有名なフレーズは、まず、既存の建築観を破壊している。そしてその結果現れたこの新しくまた〈滑稽な〉建築を、ファルス=芸術の本当の力によって初めて包括的に示された〈私の形〉である、などと言ってみることは、はたして許されるのであろうか。周知のように、安吾が笑ったというこのフレーズは、安吾自身によって作られたものではないのだけれども……。


「坂口安吾研究会 第五回研究集会 印象記(後半)」

土屋 忍

 坂口安吾研究会には、今回はじめて参加した。会の性格やこれまでの雰囲気はよくわからないが、安吾の研究会なのだから…という勝手な思い込みはある。私が安吾の作品に出逢ったのは中学1年生の時である。学校というものの意味がわからずに腐っていたところ、ある先生が坂口安吾という名前を教えてくれたのである。以来、角川文庫の『夜長姫と耳男』や『堕落論』、そして河出書房の『文芸読本 坂口安吾』は、主体的にさぼり積極的に生きる口実を与えてくれる処方箋になった。図書館で手にする冬樹社版の全集は大抵ボロボロで、ところどころに線がひかれていた。その手触りが妙に嬉しかった。ちくま文庫の全集が完結した頃に大学を卒業して就職したが、自主留年の道を選択した政治学科の友人は、全巻揃った安吾全集を読んでいた…。
 近藤周吾氏の発表も、自身が安吾全集と出逢った時の話から始められた。そして、「『ふるさとに寄する賛歌』は文学のマグリットである」という初読の際の印象を学問的に確かめたいという宣言がなされた。個人的な安吾体験を生かそうとするその率直な姿勢をどう捉えるかについては好みの問題でもあるが、私は共感を覚えた。近藤氏は、これまで「ふるさとに寄する賛歌」は、自伝的青春小説として読まれるか、あるいは「ふるさと」論(柄谷行人)に短絡化させて読まれるかのどちらかであったが、むしろ「風博士」や「木枯の酒倉から」のような作品と同様にファルスとして読み直されるべきではないかと主張する。発表題目「ふるさとからファルスへ―『ふるさとに寄する賛歌』論―」がそのまま結論なのである。それでは「ファルス」とは何か。氏によれば、「言語自体が引き起こす運動」「単に現実を代行するものだけに言語を使用するという立場とは異なる概念」となる。この定義については、会場から質問も出たが、安吾の「ファルス」は「アンチ・リアリズム」としてあったという従来の指摘を踏まえたものであった。レジュメには、各種辞典類を引用した「ファルスの語誌」も示されており、安吾的ファルスの独自性を効果的に浮かび上がらせていた。さらに氏は、テクストの具体的な分析をおこない、「風景としての私」を設定した上で、「言葉自体の乱痴気騒ぎ」(言葉自体が引き起こす運動=ファルス)の生起を示した。発表の冒頭で触れたマグリットの「偽りの鏡」(1935)に通じるような内と外とが融けあう絵画的イメージをそこに確認し、発表を終えた。
 会場からは、先行する読みを形作ってきたとも云える評論家諸氏より、今回の発表のもつ意味自体を否定する発言が相次いだ。そして、発表者みずからが「旧世代」「新世代」という言葉を用いて交通整理する中で、いくつかのやりとりが続いた。結局は、「ふるさとに寄する賛歌」という作品の評価をめぐる対立が明確に浮上したように思われる。つまり、安吾の後期の作品は面白いが初期の作品の大半はそうとは云えない。高く評価することのできない作品を何とかして救い上げるために、安吾文学全体を論じる中で好意的に解釈してきただけなのだという立場(旧世代)に対して、「ふるさとに寄する賛歌」はそれ自体で充分に面白い作品であるとする立場(新世代)が既に登場しているのが現状なのである。「旧世代」からすると、先行研究との差異をつくりだすための足掻きのようにも見えるが、そうした既存の読解基準から自由な「新世代」の読み手たちの中には、坂口安吾の人気やネームバリューとは無関係に、「旧世代」には予想もつかぬ作品が好きになり、思わぬ作品が入り口になって安吾文学全体を好きになる者もあるに違いない。若さを強調するかの如く冒頭に据えられた初読の印象談は、案外仕掛けだったのかもしれない。発表意図を全否定されても、いささかもめげることなく応答する近藤氏の立ち居振舞いが、鮮烈な印象を残した。
 続く中山昭彦氏の「安吾と〈運動〉―"物質性"と"逃れ去るもの"―」は、日本では80年代から90年代にかけて定着した方法論や専門用語を自家薬籠中のものにした研究者ならではの雄弁な発表であった。中山氏の戦略は、言葉の運動ではなく身体の運動に着目し、安吾における戦前・戦後を分かつものとしての〈運動〉への関心を抽出することにあった。氏が「戦前の安吾」と言う時には「日本文化私観」が基点にあり、「戦後の安吾」という時には「青鬼の褌を洗う女」が中心に据えられていた。「日本文化私観」に関して中山氏がおこなった3つの問題設定を、氏自身の言葉で示すと次のようになる。
 (1)「日本文化私観」における文化的雑種性の問題
 (2)外国から接ぎ木される文物の他者性の問題
 (3)内部(物語・意味)からの内破、脱構築を通じてネガティブに外部と出会うのか、外部に対するポジティヴで即時的な肯定から内部の喧噪へ向かうのか、という問題
 これら3つの問題をめぐってなされた回答についても、氏自身の言葉で記しておく。(1)に対しては、「『日本文化私観』には実利主義や功利主義とは異なる倫理的な姿勢がみられる。加藤周一氏の『雑種文化論』のような余裕も超越性もない。日本及び日本人は、常に他者との際どい交渉、闘争の場に曝されている。絶えざる外国との交通によって必要なものを発見しながら変容していくもの、それが日本であり日本人である」という答えであった。
(2)と(3)に対しては、「外部性(外国との交通)は担保されている、他者性も担保されている」という言葉だけが答えとして提示され、まもなく〈戦後〉を射程にした発表へと移行した。
 以下、発表者の論理展開を追うとこうなる。戦前の「日本文化私観」では外部性、他者性が担保されていた。しかし、戦後の「青鬼の褌を洗う女」の「サチ子」は、明らかに外部から「隅田川」(「相撲取り」)をみている。「隅田川」にとっては「シマッタ」でケリがついてしまう相撲という〈運動〉の頂点において、「シマッタ」に統一されない「圧縮された無数の思考」をみる視点が「サチ子」にはある。この「無数の思考」を「ファルス」と換言することもできるだろうし、未完の小説「火」における「スポーツに於ける直覚」(の速さ)もまた「シマッタ」を除去する方途としてみることができるだろう。さらには、常に相手との関係において発現する「速度」の問題について水泳競技を例にとって言及している「安吾巷談」にも、〈運動〉の言語化がみられる。
 したがって、比喩的に用いられている短い表現(「無数の思考」「直覚」)に注目してみるならば、戦後の安吾のテクストには、外部の差異からみる視線が明確化されており、肉体の複雑な〈運動〉が一瞬に凝縮された差異として、他者性を帯びて呼び込まれている。そして速度にも差異をみる微分化が認められる。よって、「日本文化私観」にみられる可能性(絶えず他者と交通して変容する具体性)を基軸にしながら、それを過剰なまでに具体的な肉体の〈運動〉として語る術を戦後の安吾は身につけたのだと言える。肉体の〈運動〉を基点にしてみると、戦後の安吾は大きな態度の変更をしているのである。そのきっかけとして、戦中の空襲体験ならびに「空襲」を書くという行為があったのではないだろうか。以上が結論と展望である(できるだけ発表者の語法に忠実に要約したつもりだが、間違い等があればもちろん要約者の責である)。
 作品本文の細部を論理的に結びつけてまとめた非常に明快な発表であった。「学会」発表としては非の打ち所のない模範的なものだと言えそうである。実際素直にそう思う。しかし、私には少々退屈であった。なぜだろうか。今すぐに思いつく理由を3つほど挙げておきたい。ひとつには、"逃れ去るもの"としてある捉え難い肉体の〈運動〉を言語化する安吾の表現活動が、どれだけの独自性をもっていたのか、という素朴な疑問が最後まで消えなかったからである。たとえば伊藤整の「飛躍の型」(1929)、阿部知二の「日独対抗競技」(1930)、吉行エイスケの「ラグビー夜話」(1931)といったいわば〈スポーツ小説〉として知られた既存の作品との文学史的関連については、全く言及がなかったので、そういう意味で少し物足りなさを感じたのである(聴衆は欲張りである)。安吾の〈運動〉に関する記述に関連して、「身体の動きは直接には示されない」という特徴の指摘があったので、おそらくそのあたりにヒントがありそうである。なお、同時代のスポーツ観、スポーツ論についても一切触れることなく終ったので、全体に脆弱な印象も受けた。
 また、戦中の安吾の空襲体験を〈運動〉の一環として捉える中山氏の方法は、安吾は戦争を〈交通〉の一環として捉えていたと強調する柄谷行人氏の論を想起させて確かに興味深かったのだが、漠然とした不安も覚えた。安吾の「戦争」観を追認し、「戦争」に対する安吾的態度を敷衍するような作業が有力視されると、眼前の「戦争」と向き合うことから巧妙に回避する姿勢が流布されるのではないだろうか。「戦争」に対する処世術として安吾を受容することが簡単に許されるのだろうか。そうした単純な疑心が宙吊りにされた気分でもあった。「9.11事件」を強く意識して企画されたある学会のシンポジウムの席上で、「小泉もブッシュも馬鹿だ!」と吐き捨てアメリカの軍事行動を非難された氏の言葉を拝聴していただけに、なおさらそう感じた。
 最後のひとつは感覚的な問題であるが、「差異」「外部」「他者」「担保」「微分」といった用語や特定の言いまわしが最後まで続いたので、ノスタルジックな場所へと誘われ、些かアンニュイだった。シンプルな内容だっただけに、なおさら気がそがれたのかもしれない。
 安吾の研究会なのだから、忌憚なく、腹蔵なく、とりとめもなく、といった雰囲気なのだろうと勝手に推測して出席した。当日は延べ90名の参加があったそうだが、実際フランクな感じであった。先にも触れたように、発表者を全否定する発言も飛び出し、いわば肉声による力強い応酬が繰り広げられるほどに屈託のない会であった。印象記を書くにあたっても同様に臨んだ次第である。

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第4回研究集会


「坂口安吾研究会第四回研究集会印象記(前半)」

藤原耕作

 まず、簡単に内容をまとめることから始めよう。
 基調講演「坂口安吾とアナーキズム」において、柄谷行人氏は、自らが編集委員を務めた筑摩書房版『坂口安吾全集』の編纂意図について触れ、ジャンル分けを排して作品を年代順に配列したのは安吾文学そのものがもつノン・ジャンル性に由来していることを述べた。そして、そのノン・ジャンル性は、十八世紀の啓蒙主義者・百科全書派に類似しているという。啓蒙主義は、たとえばロマン主義によって否定されたが、ロマン主義者が感情によって理性批判をしているのに対し、カントを初めとする啓蒙主義者は理性による理性批判を徹底している。それはちょうど、道徳・宗教・国家などという「カラクリ」を徹底的に認識することで解体しようとする安吾が一貫して持ち続けている姿勢に通じるものなのだと柄谷氏はいう。
 安吾は、社会制度は簡単に取り替えがきくが、「人間」は変わらない、ということを言う。柄谷氏によると、安吾の言う「人間」も、一種の社会制度(家族など)を指しているのだという。つまり、簡単に取り替えのきく制度と、取り替えにくい制度とがある。それはちょうどカントの区別した二種類の仮象、単なる仮象と超越論的仮象とに対応している。カントは結局人間存在の有限性の問題を考えているといえるが、カントが考えなかった性や死の問題を考えたのがフロイトである。安吾はフロイトを批判しているが、そのフロイト批判は後期フロイト的である。性や死は人間の中に不可避的に出てくる「カラクリ」=超越論的仮象である、と柄谷氏は述べる。
 国家という「カラクリ」を解体しようともくろんでいた点で、安吾はアナーキストであったといえる。しかし、普通のアナーキストが反知性的で結局はファシズムに取り込まれていったのに対し、安吾は終始一貫して知性的・啓蒙主義的であった。すなわち、啓蒙主義的なアナーキスト、というのが柄谷氏の提示する坂口安吾像である。
 武田信明氏の研究発表「安吾の「はじまり」」は、安吾の初期評論「ピエロ伝道者」(昭和六年)から「FARCEに就て」(昭和七年)への深化の過程に、ジャン・コクトオ「エリック・サティ」の翻訳がからんでいた、という主張をその中心としている。
 武田氏によると、コクトオのサティ論は、「芸術史をジャンルの交替としてとらえること」、「それが新しい構造(形式)との交替と関連すること」、「さらに言語(あるいは曲の構成要素としての音符)そのものに目をむけること」の諸点において、ロシア・フォルマリズムとの同時代現象としての関連が想定できる、という。サティは、ホモフォニー全盛の時代に、時代遅れのポリフォニーを学んだという。このことも、武田氏の指摘通り、バフチンの『ドストエフスキー論』における用語を連想させて興味深い。
 さて、研究発表後の自由討議においては、主に柄谷氏の講演に質問が集中していたので、ここでも柄谷氏の講演に話を戻して、若干の印象を書き記しておく。私にとって最も興味深かったのは、柄谷氏が安吾の戦後の仕事の中で古代史もの(以下安吾古代史と呼ぶ)と戦争放棄の主張とを高く評価しているという点である。
 まず、前者についていえば、柄谷氏の安吾古代史評価の中心はその天皇制批判にあるようだが、私見では天皇制批判に力点を置いてしまうとその魅力はすくいにくくなるように思う。というのも、安吾は基本的に天皇家は万世一系ではないということを証明することによって天皇制の根拠を無化しようとしているのだが、おそらくいくらそれを証明することに力を注いでも現実に存在する天皇制には一指も触れることが出来ないからだ。また、天皇家の万世一系を批判するために安吾古代史が唱える蘇我天皇論や飛騨王朝論は、内容的にはいわゆる「トンデモ本」の域を遠く出るものではなく、史論としてみる限り厳しい評価に堪えうるものではない。
 後者の戦争放棄は、たとえば安吾が「野坂中尉と中西伍長」(昭和二十五年)の末尾などで主張しているものを指していると思われるが、これは今まで私にはうまく理解できずにいたものである。安吾の無抵抗主義は徹底していて、「どこの国が侵略してきて、婦人が強姦されて、男がいじめられ、こき使われても、我関せず、無抵抗」というのだから、のみこみにくいのは当たり前だ。ただ、柄谷氏の講演を聴き、少し理解するきっかけがつかめたように思う。柄谷氏がカントを援用しながら述べるところでは、人間が自らの生存のために行動することは否定されるべき事ではないが、そうした行動は「自由(自己原因的)」ではない(『倫理21』)。そういう意味で、あえて無抵抗を貫こうとすることは「自由」な選択なのだといえる。このことは、安吾が『安吾巷談』において、つねに「自由」「自由意志」を強調していることとの関連が想定できるのではないだろうか。


「坂口安吾研究会 第4回研究集会 印象記」

大原祐治

 今回の研究集会のテーマであった「坂口安吾と一九三〇年代」に対して為された杉浦晋氏と加藤達彦氏からの発表は、いずれも問題提起的で刺激に富む内容であった。
 まず杉浦氏の「『文章の一形式』の同時代性―『無形の説話者』の帰趨―」と題した発表は、近年『吹雪物語』との関連で注目されてきたエッセイ「文章の一形式」を、あくまで同時代の位相の中で評価し直そうという問題提起から始められた。このエッセイを改めて精読する氏は、そこに語られる「四人称」という用語が横光利一「純粋小説論」の提示する曖昧な比喩に止まらず、「私」という一人称をもって物語に直接介入する機能として積極的に語られたものだとし、しかもそのような人称自体を消去したものが「無形の説話者」なのだということを確認することで、この概念=装置を一人称「私」としての「四人称」をも相対化するような、人称表記に規定されない超越論的な語りの主体として定位した。更に氏は、このような「無形の説話者」の獲得へと到った安吾の道程は、ドストエフスキーを論じる過程で解釈のための超越的コードを失って失語する小林秀雄の「クリティカルポイント」(山城むつみ)と並行していると指摘し、一九三〇年代の安吾・小林・横光に関する刺激的な見取り図を鮮やかに提示した。
 しかし、一方でこの見取り図作成のために切り落とされた問題もないとは言えない。「無形の説話者」を、テクスト上での具体的実践を細かく問わずに〈超越論的な語り手〉だとすることは、むしろこの概念を単に実体としての坂口安吾というひとりの作家主体に還元する素朴な作家論を召喚してしまわないだろうか。全てが〈超越論的〉に統制されているのだと指摘するに止まるのならば、氏が問題にする物語内容と物語言説の乖離という状況など、はじめから存在していないことにもなりかねない(その意味で氏の使っていた語り物・落語の比喩は危険である)。思うに、小林がドストエフスキーを論じながら陥ったクリティカルな失語は、安吾が野心的に『吹雪物語』を書き進めながら陥った失語(執筆の中絶)にこそ似ている。その意味で杉浦氏の見取り図は、もう一度『吹雪物語』のテクストへと還元されたときに一層の説得力を持つだろう。それはまた、氏自身今後の課題にしたいと述べていた石川淳との対比においてより鮮明にもなろう。
 加藤達彦氏の「『生』をめぐる抗争―『吹雪物語』から「日本文化私観」へ―」と題された発表は、安吾が多用する「生」という言葉を、「生命」・「生活」あるいは「性」とパラフレーズしてみることで30年代から40年代にかけての安吾の思考を大きく捉え、従来の「日本文化私観」論あるいは『吹雪物語』論の乗り越えを図らんとする野心的な試みであった。氏によれば、「簡素」な茶室も「豪華」な東照宮も「共に同一の『有』の所産」であり「共に俗悪である」とした上で「俗悪ならんとして俗悪である闊達自在さ」を持つものの方を称揚する安吾の思考は、「伝統」/「いかもの」(キッチュ)あるいは「日本」/「西洋」というタウト的な二項対立を解体しているのであり、〈人間〉の〈生〉の問題にこそ眼を向ける安吾の思考にこそ独自性がある。「日本文化私観」=合理主義によるタウト批判という図式の解体は、極めて明晰で説得力のあるものであった。
 更に氏はエッセイ「日本精神」を参照し、そこで安吾が「小説を制作した後において小説の結果として自我を発見する」ことと「日本精神」の「発見」に相同性を見出していることに注目する。「小説の創作」という比喩がここで持ち出される背景に30年代の安吾における〈文学〉的格闘の遂行を想起する氏は『吹雪物語』における安吾の試行にその具体的な足跡を見るのだが、この見取り図は『吹雪物語』をある種の挫折と捉える点において、この小説に「無形の説話者」という超越論的主観の獲得を見る杉浦氏の発表とは全く対照的である。ここで加藤氏が「日本文化私観」の思考は『吹雪物語』という「小説の結果として」事後的に「発見」されたとするためには、〈恋愛〉あるいは〈生〉・〈性〉といった語をテーマとして〈聖〉化させ、「分裂」的状況に追い込まれた「近代的主体」の「救済」の物語というテーマ論に収斂させるよりは、あくまで方法論的問題において杉浦氏の立場との差違を明瞭に示す方が有効だろう。すなわち、加藤氏が繰り返し言及した「安吾における〈文学〉の問題」も、さしあたり「安吾における〈小説〉の問題」として一度深化されるべきではないかとも思われたのだが、加藤氏と杉浦氏による議論は充分に展開されず、会の進行は専ら柄谷行人氏による魅力的な「啓蒙」に傾いた。研究発表者同士、あるいはフロアと研究発表者との間でのやりとりの時間が十分に確保されなかったことは残念であり、この研究会が謳う〈批評と研究の越境〉の難しさについて考えさせられもした。

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第3回研究集会


「坂口安吾研究会 第3回研究集会 印象記」

太田鈴子

 今回の特集テーマは、「坂口安吾とフェミニズム――性のエクリチュール」というテーマで、会場は、東京工業大学、百年記念館ということだった。私にとって東工大は、かつて江藤淳氏、川嶋至氏、そして現在は井口時男氏とつながる場所で、理系の大学ということは知っているが、文学の場というイメージがとても強い。特集テーマにも関心があったが、訪れる機会のあまりない、東工大にもかなり興味を持って参加してみることにした。
 百年記念館はやわらかな雰囲気の建物であった。研究集会に選ばれた会議室も、照明があわく、椅子に座ると影の中にとけこんで、存在が意識から消えてしまうような気持ちがした。緊張感や構えが消えていくような中で、小谷真理氏が「鬼と桜と女――坂口安吾と夢枕獏」という題名で《基調講演》を行った。
 小谷氏は、SF評論家であり、あの一世を風靡した「エヴァンゲリオン」のジェンダーについての分析などがある。それをおもしろく読んだことがあったが、今回も、「鬼」をキーワードとして、夢枕獏から、大原まりこ『吸血鬼エフェメラ』、萩尾望都『ポーの一族』まで、次々と過去に夢中で読んだ記憶のある物語が呼び起こされる、なかなか興味あ ふれる展開の話だった。光と闇の会場の雰囲気が、ますます小谷氏の伝奇幻想話に拍車をかけたと思われる。
 夢枕獏編集『鬼譚』に入っている手塚治虫「安達ヶ原」は、安達ヶ原の鬼を手塚治虫が、宇宙に残され男を待ち続ける女として漫画化したものだが、男は宇宙船内で冷凍催眠に入っていたので年をとらず、女だけが宇宙で年をとる。その設定を小谷氏は、平安から未来へと時空を移動した浦島現象の物語であることと、男に添い遂げたいと男を待ち続ける 女は、結局怪物化せざるをえないと、そのジェンダー観を指摘した。夢枕獏の「檜垣――闇法師」は平安の頃、若かった頃の美しさを求めてきた男に、小面がはずれ老いた醜顔を見られたことから死んでも魂が浮遊し、死霊として若い男に自らの怒りをはらし続ける女を、盲目の法師が成仏させる。この話についても小谷氏は、男に憑依せざるを得ない女の ジェンダーを読みとる。そして、誰かに憑くというイメージから話は吸血鬼物へと発展し、『吸血鬼エフェメラ』について日本における女性性が吸血鬼によって示されていると解した。男の堕落に力をかす女性の性的役割、それは鬼や山姥として、広く物語によって再生産されている。日本文化の中では、男性が自ら作った自身のマイナス面を女性に負わせていると、日本における男女の依存関係が、一方的に男性優位のジェンダー観として再生産されていると、半ば強い調子で話を終えた。
 小谷氏は、日本に行われている物語に固定した女性性のイメージがあり、それは男性の側から男性優位のジェンダー観として作り出されているという全体を見通して話されたが、坂口安吾はその中でどうなのかと、小谷氏の話のあと考え続けることになった。
 その一つの答えは、4人目、最後の発表者であった林淑美氏によって出された。
 林氏は、「堕落論」が単に旧道徳批判のために書かれたものではなく、道徳意識がもっとも効力を持つ制度の再生産過程を切断することに照準を合わせたことに、これからもラデイカルであり続ける存在となりうるというところから話が始められた。それは安吾のジェンダーのイデオロギーについての説明でもあった。安吾作品として「青鬼の褌を洗ふ女」が取り上げられたが、語り手の「私」について、人との関係を実態を元に想像し、人の考えそうなことで、自分の生き方を規定しない女、林氏の言葉で言えば「思いこみを可能にする表象構造の内部にいない希有な存在」であるとし、「ジェンダーのイデオロギーは彼女の存在そのものによって根底からあばかれる」と述べた。
 林氏によって、安吾が、人が人との関係からの思いこみによって再生産し、育てていく幻想とも言えるイデオロギーを認識していたことが明らかにされたと言える。林氏が資料にひいたジュデイス・バトラー『ジェンダー・トラブル』の一節「男の主体は、意味を編みだし、よって意味付けをおこなうものであると、見えているだけである」は、まさに林氏の分析の言い換えと読めるのである。
 前後してしまったが、小谷氏の後、研究発表の最初は、ジグラー・ポール氏「坂口安吾と女性の観点」であった。安吾の『日本文化私観』をブルーノ・タウトの『ニッポン』『日本文化私観』など日本文化に関する作品のパロデイとして読む立場を支持し、安吾のジェンダー観がパロデイ的にタウトを転倒させたとの考えを、多くの例文をあげて論証された。ジェンダーの見方をより鮮明にするため、ポール氏は、その論証にタウトの日本文化観が大衆より貴族的な文化、男性的な文化を指示していることなどに、ニーチェとの共通項を見いだした。そして安吾の言述が、そのニーチェに共通するタウトの男性中心的権力的な日本文化に対する視点の裏を表象しようとしているとして、安吾のフェミニズムの観点を浮かび上がらせようとした。興味をひかれる問題提出であったが、タウトの男性的ジェンダー観の獲得のために引用したニーチェの扱いが不明瞭であったことが惜しまれる。後の質疑でも、昭和17年当時ニーチェの思想がどう展開されていたかという問いかけがあったように、ニーチェのテクストの読解は今なおなされ、90年代のフェミニズム論においても問題とされている。時間の関係もあったと思われるが、ポール氏の発表の根幹でもあったので、ニーチェ論がより厳密であれば、日本文化私観に読みとれる安吾のジェンダー観もより鮮明になったのかと思われる。さらに、そのためにはタウトのオリエンタリズムへの言及が必要でもあったろう。
 第3回の研究会は、小谷氏が、ジェンダーイデオロギー再生産の指摘をし、安吾がそのからくりを見事に見抜いていて、女語りの作品としていたという林氏の結論を得るという、初めからしくまれたような展開の研究会であった。後の予定があって、質疑の時間の最後までいられなかったのは残念だったが、その光と闇の心やすらぐ会場と共に、いつまでも残るものとなるだろう。


「坂口安吾研究会 第3回研究集会 印象記」

加藤達彦

 研究集会後半は、高原英理・林淑美、両氏の発表であった。
 高原英理氏「坂口安吾の等身大の知」は、「無垢」という言葉をキーワードに戦中から戦後にわたる幅広い安吾の小説群を見事に整理した発表であった。高原氏は、まず、実生活的題材から書かれ、等身大でものを見る安吾のテクストには、当時にあっては異例に女性認容的な部分があることを指摘した上で、「桜の森の満開の下」等の〈伝奇的幻想小 説〉においては、その等身大の視線が確保されず、無垢で高慢な「運命の女」としての女性の優位性が、それを仰ぎ見る男たち自身の投影によって、天皇制にも似た「実質なき無実の形式による君臨」として描かれ、ジェンダー的不均衡の圧力が噴出してしまっている事態を嘆じつつも、それに対して「無垢」を排除することによって「実質的」知の達成 がなされた「日本文化私観」や「堕落論」、「金銭無情」といったテクストでは、物質的な必要性によって葛藤が生起する唯物的世界が展開されており、そこにこそ安吾の最良の認識が示されていると結論された。これまでにない新しい角度から安吾のテクストを切り開くその手際のよさには感服したが、ただ、今回の氏の発表は、自身最初に断っておられ たように、些か実証的な部分が希薄で大枠な見取図を描くことに終始したという印象を拭うことができなかった。いずれも安吾の小説であってみれば、その一方を称揚し、一方を貶める分析では、問題を単純化しているに過ぎないとも見えてしまう。氏には、逆に安吾のテクストにこうした差が生じている理由をもっと詳細に尋ねてみたい気がした。
 林淑美氏「道徳批判としての「堕落論」またはイデオロギー批判としての「青鬼の褌を洗ふ女」」は、最初に、戸坂潤の思想を引き合いに出して、安吾の「堕落論」・「続堕落論」といったテクストが、単なる政治制度としての旧道徳だけでなく、たとえば、戦後日本にも続く〈奉戴〉という制度の再生産過程をも切断していることを指摘された。そし て、さらには、こうした主体のカテゴリーが変更された安吾のテクストにおいては、個人と国家をつなぐ制度=イデオロギーもが批判され、そのことは「退屈」を楽しむサチ子のような表象不可能な特異な主体(セクシュアリティ)を生み出し、ジェンダーイデオロギー批判としても考えられると論じられた。林氏の発表は、研究史において、もはや手垢に まみれたとも言える安吾の「モラル」とか「孤独」といった言葉を根本から問い直し、そこに新たに根源的な彼の発想を見出していく誠に刺激的なものであったが、会場からの質問にもあったように、前半部と後半部の繋がりに関しては、発表時間の兼ね合いもあってか、やはり、少々わかりづらい面が残ったように思う。
 全発表後の自由討議では、様々な質問や意見が出される中、セクシュアリティからジェンダー、クイア理論にまで話題が及んだように記憶している。それは安吾の文学がまさにそうした今日的な課題の解決に資することの証左でもあろうが、反面、議論の進行が、安吾のテクストからどんどんと離れていってしまったのは、残念であった。柄谷行人以来、 近・現代の思想史の中に安吾を位置づけ、その可能性を探る試みは、今日のカルスタ/ポスコロの流行とも相俟って、確かに魅力的な研究ではあるが、当然のことながら、安吾の個々の作品を忠実に読み辿り直す作業を怠って、徒に坂口安吾万歳を唱えるだけであれば、そのこと自体はさして意味のあることとは思われない。とすれば、安吾研究会では、も っと愚直に作品読解に関わる素朴な質疑応答が活発に取り行われてもよいはずだ。
 無論、今回の研究集会が、先に述べたような安易な図式に陥っているということではなく、それとは別に、討議のやり取りを拝聴しながら、一方で安吾をも含めた昨今の文学研究の動向を想起しつつ、私自身は敢えて文学の領域に踏み止まる勇気を保持し、肝に銘じておきたいと改めて感じた次第であった。

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