安吾の史眼―「イノチガケ」を中心に―

奥山文幸

 「日本文化私観」を書く以前の坂口安吾には、歴史観というべきものがないのではなかろうか。換言すれば、安吾は、歴史観=観念につながるような思考形態を根底から拒否し続けたのではないだろうか。
 処女作「木枯の酒倉から」を発表した昭和六年から敗戦の年の八月まで、即ち、彗星のごとく現れ、その後長く不遇をかこっていた時期、彼は時代の潮流とは全く無関係であるかのような創作姿勢を貫いている。それは、徹頭徹尾個人的なものへの沈潜であるようにも見える。しかし、その沈潜の内実には常に状況が陰画として刻み込まれているはずである。〈坂口安吾と歴史〉というテーマでは、その陰画にどのような光をどのように当てるのかが重要となるだろう。不用意に時代状況と照らし合わせようとすれば、たちまちステロタイプ化された月並みな<芸術的抵抗>論へと滑り落ちていく危険性を、安吾のテキストは抱え込んでいるのである。
 以上のことを前提として、報告では、昭和十五年に発表された「イノチガケ」を中心に考えたい。殉教についての歴史記述を試みようとする安吾の主観には、恣意的な選択も開き直った捏造もない。安吾が「イノチガケ」において、<歴史>についての認識論的再検討を含みこみつつ、見出したものは何か。大原祐治氏等による最近の研究で明らかになったように、「イノチガケ」における歴史記述が、切支丹資料を相互補完的に寄りあわせたものであるとすれば、資料に忠実であることと資料の中に没入することの地平線に醸成される安吾のオリジナリティは、どこに見定めることができるか。さらに、「死を覚悟して潜入する神父達の執拗極まる情熱」に対して、殲滅殺戮するために行われる火あぶり・穴つるし等の処刑の種々を羅列する作品を支えている思考は、保田與重郎の散華の美学と拮抗するのか、しないのか。また、「イノチガケ」から「日本文化私観」や「真珠」へと受け継がれていくものは何か。
 「イノチガケ」について、解明すべき問題は多々あるが、とりあえず前記の問題点を考察してみたい。

(この発表要旨は研究集会に先だって会員に配布されたものです。)

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