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神なき社会アノミーからカタストロフへ
頻発する少年ナイフ犯罪に寄せて

あなたの父、夫あるいは子供、孫親類が、統制経済組織犯罪に関わった容疑で明日逮捕されても、あるいは学校、地域、家庭内で生じた一触即発殺し合い事件の犯人、被害者、自殺者となっても不思議はなくなっているのである。

家庭内で擬人化され甘やかされ可愛いペットとして育てられた犬すらも、規範を示す上位リーダーの存在しない群れの中では、自分が代りにリーダーの地位に就こうとし飼い主の命令を無視し、暴力的に反抗するようになる。

つるぎで殺す者は、自らもつるぎで殺されなければならない。(ヨハネ黙示録13.9〜10)

Copyright © Artemis 1998

タブーペルー空母ヤクザ脳死カルト酒鬼薔薇神戸事件動燃カラ不正ミステリ林檎

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1998年2月14日土曜日作成

スタート・ページへメインファイルへ【参考資料】

1998年9月8日火曜日更新

少年ナイフ事件参考資料は独立しました。Visitor's Room投稿 No.2No.4もご覧ください。


ちまたのコラム 98/2/1

1月28日に、栃木県黒磯市の黒磯北中学で、中一の男子生徒が、些細なことで注意を受けていた際に教師を廊下で刺殺した事件が発生しました。いわゆる普段はおとなしい普通の子が、突然「切れた」状態で、日頃から所持していた‘バタフライナイフ’と言われる折り畳み携帯ナイフで、8箇所ほどめった切りにしたのです。そのうち心臓への一撃が致命傷となったこの英語担当の26歳の女教師は、出血がひどくほとんど即死だったとされています。

栃木県 下野(しもつけ)新聞 特集 「切り裂かれた教室」−黒磯・女性教諭刺殺事件−及び「消されたチャイム」−黒磯・教諭刺殺事件から−

こうなると、日本の学校は、子供はおろか、教師ですらも登校拒否の対象となってくるでしょう。誰にでも、命の危険があるところにはその義務を越えて登校を拒否する権利があるからです。ハロウィーン事件とは裏腹に、これがきっかけで義務教育の場において自衛のための武装が正当化される怖れさえあります。あの神戸事件の容疑者少年も、日頃から<護身用>ナイフを持ち歩いていたのではありませんか。自衛のための‘ナイフ’と、攻撃用の‘ナイフ’とは区別できません。そして自殺用の‘ナイフ’とも。

学生運動、東大を頂点とする学園紛争の時代から、対社会、対権力へと向けられた青少年たちの生命力、批判力は、家庭内暴力、いじめを経て、巧妙に取り込まれ抑圧無視され続けた結果、ここ30年位の間に、子供自身にも説明のできない、無目的、無言語、アモルフな衝動性自己破壊的暴力へと変質したのです。神戸事件のようにおそらくこの少年は、自殺しないだけ助かったとも言えます。それとも、自殺する活力すら出てこないほど個人の無気力、アノミー化は進んでいるのでしょうか?

大人はもちろん、互いに互いを信じられなくなった子供たちが、学校という集団の場でそれぞれ孤立し、ナイフなどの武器で武装するようになる。そこに予想される光景は、生徒同士が、ペンの代りに武器を手に渡り合い、傷つけ合い殺し合う地獄絵です。

こうして大蔵官僚と東大を目差す戦後学校教育制度は崩壊し、実際には崩壊している仮面家庭から生まれてきたごく普通の子供たちは行き場を失ってしまいます。彼らを受け入れ、文化を伝えるべき地域社会もとうの昔に崩壊しています。「学校へ行けば殺され、会社へ行けば逮捕され、銀行に預けた預金は騙し取られ、病院へ行けば病気をうつされ臓器を取られる」。もはや、こういう話は日本の戦後社会では冗談ではなくなってきているのです。

だれも通わなくなった校舎には、そうした行き場のない孤児のような低年齢武装集団が何処からともなく集まって住みつき、スラム化するでしょう。敗戦直後の闇市、パンパン、浮浪児の市街光景が50年たった日本に再現するのです。社会アノミーで教育も職も文化も絶たれた彼らは、徒党を組んだストリート犯罪によってその日その日を生きていく他生活のすべを持ちません。「時計じかけのオレンジ」のように。

「・・・都心の空きビルには、ヤクザやモッブ、ホームレス等が占拠住み着くようになり、地域住民はそこから疎開するように避難して行くだろう。都市はこうして見捨てられ、ドーナツ空洞化スラム化するのだ。・・・」

Artemis Sampler ゲームと遊び、劇場芸術・・・暴力教室からカルト、オタク、時計じかけのオレンジへ

1月30日、茨城県三和町県立三和高校で授業中、一年の男子生徒が突然、最前列に座っていた同級生の女子生徒に無言のまま刃渡り17センチ文化包丁で切りつけた。女子生徒は病院に運ばれたが、頭や指に1カ月の重傷。傷害容疑で緊急逮捕された男子生徒は
「1時限目の後の休み時間に自分の席に着こうとしたら、女子生徒が通路をふさいでいたので通してくれるように頼んだが、無視されたので頭にきた」と供述しているという。包丁は学校を抜け出した後、近くのホームセンターで買ったものを持ち込んだらしい。

2月2日には東京・江東区の路上で、中学3年の男子が拳銃を奪おうと、午前0時15分ごろ自転車パトロール中の警官に道を尋ねる振りをして近ずき、いきなりバタフライナイフで切りつける事件があった。襲われた巡査部長は制服の下に防護衣を来ていたため軽傷で済んだが、少年は強盗と殺人未遂などの現行犯でその場で逮捕された。「殺してでも、拳銃が欲しかった」と動機を供述しているという。

どこまでも増え続け、足ることを知らない物を中心とした欲望が一旦膨らみだしたら最後、自分と他人の人権を犠牲無視売買してまでもとにかく手っ取り早く実現させなければ気が済まないという気質が出来てしまったら、すでに取返しのつかない立派な犯罪予備軍というべきである。・・・だから近年の青少年は、旧世代から見ると些細とも思われることに、過激に反応し何かといえば「むかつく」、急に「切れる」突発性自己破壊的暴走行為に出るのである。これは伝統的には「ヤクザ」のヒステリー人格反応であった。
Artemis Sampler 酒鬼薔薇聖斗を生んだ戦後日本という社会

この他、東京板橋でコンビニ万引きナイフで逃走とか、名古屋、広島等で少年ナイフ犯罪が立て続けに起っている。(追記)

 


日本国の大困難、その最大困難とは何でありますか。私は明白に申します。それは日本人がキリスト教を採用せずして、キリスト教文明を採用したことであります。これが我が国今日のすべての困難の根本であります。

内村鑑三 「日本の大困難」

 

修道院での俗世における神のもとでの禁欲的合理活動から始まった中世の資本主義が、カルヴィニズム宗教改革以後資本自体の運動原理と自己維持能力によって、自己疎外されそれを偶像と崇める信者を奴隷とした無限の欲望の肥大を、決して満たすことのないまま、それまで禁欲の聖域とされてきた宗教倫理人権領域を食い破るまでに資本=H・ボスの「乾草車」における〈藁〉を増強させるに至ったのが、西欧を中心とした近代という神が殺害された世俗的時代の特徴である。

あなたがたは、もみがらをはらみ、わらを産む。(イザヤ33.11)

資本エネルギーの消費と熱と無秩序の発生が、地球エントロピー生命情報DNAを犠牲にし食いつぶすところまで来たのが20世紀という時代である。

極地圏オゾンホールの増加による紫外線照射、ダイオキシン、酸性雨などが原因で引き起こされる生物遺伝情報の変異異常はもとより、産業社会が発生する炭酸ガスによる温室化効果地球温暖化とそれに伴なう北極の氷が解け海水面上昇する等エルニーニョ現象はその地球生命体環境に及ぼした影響の一部である。

Yahoo!Japan ディレクトリ地球温暖化

温暖化がこのまま続けば、海水面のみならず気象上の緯度が上昇し、例えば南北に長い日本列島でも東京はハワイ並みの熱帯に属し、札幌が現東京のような亜熱帯にずれ込んでくる可能性すらある。

 

SFの中興の祖H・G・ウェルズは「タイムマシン」でこうした機械環境母胎回帰による退化に終わるものとして人類の未来を描いていた。そして「ブレードランナー」(P・K・ディック原作「アンドロイドは電気羊の夢を見るか?」)で一躍ありふれたものになった、スラム化した暗黒都市と、そこにたむろする、モッブグループ、レプリカントの群れの未来イメージはH・ボスの描いた「中世の秋」の地獄絵1快楽の園の結末としての地獄絵2最後の審判、に回帰する…(これらのボスの絵画のホームWebMusium,Paris)さらには悪魔の巣窟ソドムとゴモラ、ゴグとマゴグ、大いなる母胎バビロンの亡びへと。戦後の闇市への回帰はここリムネットの「スキヤキタワー」でも繰り返されている。これらすべてをG・キリコは80年程前にそのマヌカンで透視していたのだ。

植生まで変質したその時こそ、米、中、露に囲まれた日本の都市にハワイに継ぐ南島リゾート=ディズニーランド、ジュラシックパークを越えたテーマパーク=自殺と近親相姦、暴力と売買春と詐欺、バクチ、麻薬に溢れた太母的夢の歓楽南方孤島ヤポネシアストリートジャングル〔すなわちH・ボスの快楽の園と、その必然的結末としての地獄絵2最後の審判〕が実現するであろう。そこでは、東西から伝わってきた大陸的父性的文明が東海の孤島ウロボロス太母(熱帯の楽園?)のアトラクタ=子宮穴に吸い込まれた結果として

 

フロイトは、現実原則の減退をきたすいくつかの、必ずしも相互に排除的でない道を概説している。その一つは、幼児のすべてを包含するような、自我が縮小されない場合に示される。そういうひとにあっては、成人となった自我がなお外界の多くの出来事を包含しているのであって、フロイトはこの状態を「大洋的感情」−−宇宙との一体感−−と呼んでいる。現実原則を減退させるもう一つの道は、薬品の使用やヨガの修業のような本能の制御によって、外的な出来事のもつ意味を意志的に減少せしめることである。

 

現実的なものと想像上のものとの境界線がなくなったのだ。

 

・・・かれらにとっては現実的なものと想像上のものとの区別は、少なくともその肉体的生存と両立しうる程度にまで、大きく解消されてしまっている。その原型はヒッピーである。世界への関心はどちらかといえば少なく、主として薬品から満足を得ようとする。・・・

進歩の終焉 G・Sステント みすず科学ライブラリー 1972 p187〜193

近代を用意したファウスト人間がニーチェ=シュペングラーの世代で亡び、その後からビートニク、ヒッピーが台頭して科学と芸術の終焉を迎えざるをえないことを比較的早い時期に予測した分子生物学者の、目立たないままになっていた書。彼によればそれはまるでゴーギャンが逃げ込もうとしたタヒチ島のようなポリネシアレジャーリゾートランドにおける黄金時代だという。戦後日本ヤポネシア列島のバブル母胎に実現されたのが結局それではないのか。ホテル王黒幕小佐野、ヤクザ稲川会、観光客や芸能人もハワイ進出を果した。タヒチでは原住民が勝手に麻薬を用いていたという。

大洋感情とは、東海の小島に孤立する老婆と浦島太郎(家、乙姫竜宮水商売ノーパンしゃぶしゃぶ、下り官僚貸し座敷料亭女将にえてザブンとドボンの世界)の感覚である。

お爺さん、お婆さんと、超越的能力=超能力をもつ童子=幼児だけしか存在せず、成人=英雄原型が希薄極まりない「***太郎」ものに代表される日本の昔話がそれを裏付ける。つまり彼ら童子は、父母なしに誕生したという意味で一種の孤児なのである。

「甘」と「天」と「海」とを日本人が等しく「アマ」と呼ぶのは、これらが元々同一の語源であったことを伺わせる。

こうした絶対的信頼は元を正せば、アマテラス(海照ラス)母胎=太母に「全能感に満たされすべてを任せて甘えて眠る」胎児(もしくは12才の少年)の支配的依存大洋感情(ロマン・ロランがフロイトの「幻想の未来」に与えた答え)から来ている。母子関係を基礎とした親分=子分;親方=子方;親会社=子会社高天ヶ原天下り;下請け;元受け、孫受け自由競争を完全に拒否妨害する悪質者=不良=ヤクザな会社組織;土建組織縄張り関係における、「取引一任勘定」!

98/03/29asahi.com国際売春組織摘発へ捜査当局が初の国際スクラム


 日本にコロンビア人女性を送り込む国際売春組織を摘発するため、日本と現地の捜査当局が連携して捜査に乗り出した。コロンビア女性をだまして来日させ、暴力団と結託して食いものにする現地のブローカー組織の摘発をめざし、警視庁の捜査員らがこのほど同国を訪問。現地の警察も日本側の情報に基づき、「イケバナ作戦」と名づけた特別取り締まりを展開した。警察庁によると、日本の警察が売春事件で外国に出向き、現地の捜査当局と連携するのは初めてという。

 首都圏ではコロンビア人女性の売春婦がアジア人女性をしのぐ勢いで増えている。その背後で、日本とコロンビアの両国にまたがって暗躍する売春組織の存在がわかってきた。

 警視庁保安課は昨年11月、短期滞在ビザで来日させたコロンビア人少女(19)を軟禁して売春させたとして、暴力団員ら12人を出入国管理法違反(不法就労支配)などの疑いで逮捕した。この事件の捜査で日本の暴力団員やコロンビア人ブローカーが結託して女性を食いものにしている実態が浮かんだ。

 女性たちは「ホステスのような仕事だ」とだまされて現地でスカウトされ、渡航費用として500万円の借金を背負わされて来日。新宿近辺のマンションに軟禁され、24時間働かされていた。

 保安課は日本への出入国を繰り返していたコロンビア人男女2人について、売春組織の現地側黒幕とみて出入国管理法違反(不法就労あっせん)の疑いで逮捕状を用意。2月中旬に捜査員が警察庁の係官とともにコロンビアを訪れて情報を交換し、現地の捜査当局は容疑者の関係先を家宅捜索するなどした。両国の捜査当局は売春組織の全容を解明するため、今後も協力を続ける方針だ。

***

しかし、信心があって足ることを知るのは、大きな利得である。わたしたちは、何ひとつ持たないでこの世にきた。また、何ひとつ持たないでこの世を去って行く。ただ衣食があれば、それで足れりとすべきである。

富むことを願い求める者は、誘惑と、わなとに陥り、また、人を滅びと破壊とに沈ませる、無分別な恐ろしいさまざまの情欲に陥るのである。

金銭を愛することは、すべての悪の根である。ある人々は欲ばって金銭を求めたため、信仰から迷い出て、多くの苦痛をもって自分自身を刺しとおした。

(テモテT66〜10

断じて生命と、人権を守ろうとする倫理と法及び医療の論理の全体領域に、物質と商品流通の効率科学市場における経済交換部品論理を紛れ込ませるべきではない。それは、必然的に、ひとりひとりかけがえの無い身体と生命を、金で売買できる部品、商品として互いに等価交換可能とする思想を禁止、排除する原理を内に含まないからである。

人が誘惑に陥るのは、それぞれ、欲に引かれ、さそわれるからである。欲がはらんで罪を生み、罪が熟して死を生み出す。(ヤコブ1.14〜15)

「衣食足りて礼節を知る」菅子思想の破綻は何処よりも戦後日本の現実に明らかである。

「足りる」という人間的欲求を越えて資本主義原理が人の「心」にまで侵入したからである。

 

地上に最終的な楽園を造ろうと意図する者は、自らこの世に地獄を招く結末を見るであろう。

欲望の限りない解放と、手に触れるものすべてを黄金に変えるよう望んだミダス王のような実現は、その通りに願いを叶えることによって罰する復讐の女神ネメシスの業に出会うであろう。


明治以降の日本、特に、敗戦後の日本は、防御する免疫も抵抗も無く、お目出度くも、その侵入を自ら呼び寄せ経済大国へのし上がった害悪をもろに被ったことに未だ無自覚な文明の一つである。

敗戦の焼け野原に何より早く建ったのが、精神的価値を体現する教会や寺院ではなくて、飢餓を癒し性欲の捌け口のための闇市(エコノ)赤線(エロス)であったという歴史的事実が、その象徴である。

日本の学校教育;倫理が今日荒廃しているとすれば、それは、学校の起源は寺院であり、教会であるという歴史的事実と教育;倫理;哲学;学問;芸術;文化の根本は宗教であるという大原則を国家主義神道ファシズム教育からの敗戦時反動と占領政策により、戦後日本社会が完全に無視あるいは抑圧してきたことの当然の報いである。

国家レベルで禁止、排除された政教分離が、自信を失い、親であることを放棄し教師ですら単なる労働者と規定した者たちによる子供の個人的教育権にまで及んだ結果、戦後社会を、人生に精神的価値を与える宗教に集団的無自覚、無思考、無批判なままの宗教的アノミー状態に貶めたのである。

学校では国定教科書に墨を塗り父親が教えることを失った日本の家庭で、父の代りに子供にしつける役割を実質的に担ったのが母親であった。

善いことは欲を餌で釣り(タカらせ)、悪いことは誰かヨソの怖いオジサンにしかってもらう。これが母性原理からの教育つまりヤクザ的動物飼育経済効率原理である。そして伝統的な「他人の迷惑になることだけはしてはいけません」という身内原理に「赤信号、みんなで渡れば怖くない」という危機管理意識と規範を集団で無視するアノミー社会の群集心理ファシズムが加わった。

欲を釣る機関の中核である、資本をスポンサーとする商品マスコミ広告が、日夜TV等で視聴者の中に注入させられ、必要を越えた購買意欲を競わせ掻き立てることこそが、資本を蓄積させ回転させるための原理的要請なのである。その次々と目の前にぶら下げられる欲望の対象となった商品を買うために、人は「人」であることを止め、勤労者、労働者となったからである。

社会統制経済主義という点では、自民(神道系国家社会主義)も共産(マルクス主義インタナショナリズム)も右から左までその価値観は一致して区別がないというのが、戦後日本を支えた基盤であった。

「衣食足りて礼節を知る」菅子思想の破綻は何処よりも戦後日本の現実に明らかである。

「足りる」という人間的欲求を越えて資本主義原理が人の「心」にまで侵入したからである。

その人間破壊は、既に心だけに止まらず、過食症、拒食症、不眠症等のような基本的生理異常、心身症にまで食い込んでいる。

地球環境の崩壊、社会の崩壊、地域の崩壊、学校の崩壊、家庭の崩壊は、人間の崩壊、自我の崩壊、自己の崩壊、身体の崩壊〔臓器移植、遺伝子操作〕へと至っている。

何処までいっても足ることを知らない無限の欲望は、幻想だからこそ、ワンポイント商品の微少差異によって欲望は無限に空回りし、資本は無限に成長することが可能になるかのように見える。但し、物としての資源はどこまでも有限であるから、その虚栄発展も環境ゴミエネルギー人口犯罪治安問題の壁に突き当たるまでのことである。

労働者は、労働によって、売れる商品を製造しなければならない。その商品も、「衣食足りて」の欲求の種が尽きてくると、人間の倫理を破壊してまで抑え付けられていた欲望を刺激し、消費は美徳、消費者は王様と祭り上げなければ売れなくなるのである。その地獄へと開かれた無限の消費欲望が何れは、人の人たる根本倫理と生命までを食いつぶす浪費になるであろう事は自明である。

もし互いにかみ合い、食い合っているなら、あなたがたは互いに滅ぼされてしまうだろう。(ガラテヤ5.15)

すべてを口を開けて食い尽くす欲望だけを持つ消費者=浪費者の誕生である。互いに煽り煽られ、騙し騙され消費者の欲望に合わせて労働、生産者が開発していくうちに、その商品は現実から遊離した幼児的なものに変質して来ざるをえない。消費だけする欲望を植え付けられた非生産的無能力者=無答責者とは本質的に神の如き全能感を持つ母胎寄生乳幼児のことだからである。

禁欲的で地道に働く馬車馬労働者=勤労者タイプの父親が残業、過労死と通勤地獄とローン返済の重圧に耐え汗水たらして貯えた家計を、消費者=浪費者として育った妻と娘が、父親をオヤジと呼び寄宿人か、下使い、金を生む奴隷のように見なし、湯水のように使い尽くし、食いつぶす、というバブルの構図はこうして完成したのである。

ついにそのオヤジも、労働で子供の欲しがる商品をマーケティング生産あるいは輸入販売し、その報酬で女子高生の身体を買うようになった。娘のような女子高生は、その商品を買う金が欲しくて自分の体に値札をつけてストリートを歩き、その身体をオヤジに売る。資本主義的ウロボロス近親相姦の完成である。

悪人と詐欺師とは人を惑わし人に惑わされて、悪から悪へと落ちていく。(テモテU3.13)

こうした環境がそろった中から、現代日本を代表するカルトとなったオウム、オタクの宮崎勤、そして今回の劇場型殺人ゲーマー酒鬼薔薇聖斗が紛れも無く社会が要求した当然の分泌物であるかのように現れてきたのである。

 

●ちまたのコラム 98/4/20

この417日に、1年生の11月ころから突然妻に対し始まり、自らにまで及ぶようになった当時中学3年生の長男の家庭内暴力を、2年間に渡って耐え忍んだ挙句、'9611月金属バットで殺害した罪に問われていた東京都文京区の父親香川彪(たけき)被告に、懲役3年(求刑懲役5年)の実刑判決が東京地裁によって言い渡されました。

判決は、「将来に希望と可能性を秘めた息子の命を一瞬にして奪った結果は重いが、1人で暴力を受け止めていた被告の苦しみは本人でなければ容易に知ることができないほど大きなもので同情すべき点がある」と、妻も長女も出ていった家に息子と二人追いつめられ、「暴力を拒絶することは、子供を拒絶することになる。」などと考え、暴力に抵抗することなく言うがままになっていた被告に理解と酌量の余地を認めるもので、その与える罰も殺人にしては軽くなっているともいえるようです。

「長男が死亡した今となっては、暴力の原因を知ることはできない」と判決にも言う通り、部外者がこの事件の発端を理解したり論評したりすることはもはや不可能なのかも知れません。実は、神戸事件のように、加害者本人が生きていてさえも必ずしも明らかになるとは思えないのですが、しかし、それでも何事かを語ることができるとすれば、ここで一番問題になるのは、おそらく「暴力を拒絶することは、子供を拒絶することになる」というこの戦後を代表すると思われる東大出身の父親の思考傾向なのではないでしょうか?しかも彼は、哲学や教育学、障害者問題などの分野を担当する出版社に勤務していたのです。

かつての父親ならどんな知識のない庶民であっても、いやむしろ庶民であればこそ、こんな甘えた暴力を振るう息子、あるいは援助交際をする娘に対し、即刻「勘当だ!」「家を出て行け!」と怒鳴りつけてやる事ができたのだ、という事実を思い出して見てください。ところが、今の高学歴の父親は、「出ていけ!」の一言すら言えず、カウンセラーに相談に行かないとなどとおたおたする始末です。あまつさえ、このケースでは息子が家を出る代り、却って妻と娘が暴力に耐え兼ねて家を出ていくことになったのです!

元来、男児は中学生にもなると、この事件の被害者のように、母親から分離し父親に対しオィディプス期と言われるような反抗を見せる発達段階に入るのが正常です。それはかのギリシャ悲劇にあった<父親殺し>に匹敵する凄惨な思春期の心理的葛藤を伴なうものですが、実際の犯罪にまで至ることはめったにありません。とはいえ文化による抑制と規範への昇華なしには、スペイン映画「ザ・チャイルド」(1977)に描かれた、子供達が、徒党を組んで大人たちを次々と襲い皆殺しにする地獄が待っていることも事実なのです。

「悔しかったら、俺を乗り越えてみろ」と息子の前に立ちはだかる父親に、今日も世界中で無数の子供たちが何とか自力でぶつかり、密かな内面のドラマを繰り広げているに違いなく、また、親子の殺し合いという悲惨な結末を迎えるまでにならないよう、解決の道へと導き可能にしているのが、それぞれの社会に蓄えられてきた文化伝統とも言えるからです。

ところが、

息子を、千尋の谷底へ突き落とすのが父親の父親たる存在理由であるにもかかわらず、「家を出て行けなどと言ったら、子供はどうして生活していくのだろう」と母親並みの心配が先に立つのが、もはや父ではなく去勢された労働者=資本の奴隷にすぎない現代日本の父親なのです。そうした顔に出る気の弱さがまた、息子には先刻お見通しだからこそ、彼らフロイトの言う‘赤ん坊陛下’は「俺がこの家では一番偉いんだ」と安心して家庭内で暴力を振るうことができるのです。

『この家で一番偉いのは自分だ』と長男が言うようになった。まるで、『自分がこの家の中の支配者』というような態度を取った

親が死んだら困る、と思って振るう暴力は、支配的依存であり暴力ではありません。この事件でも先ず母親から始まった事から想像がつく通り、こうした暴力は、満足に自分の意図を伝えるべき言語手段を持たない‘幼児の駄々こね’なのです。幼児退行による手加減しながらの暴力などたかが知れたものだからです。大体、それほどまでに親と家が憎いのなら、かつての子供が解決策として取ったように、二度と帰ってくるもんかとさっさと自分から家出するか、高校進学と同時に寄宿生活して自立、別居すれば良いではありませんか。

駄々をこねる子供におもねる父親の態度こそ、その子供を逆上させ、さらに暴力を振るう口実と増長の悪循環を誘うという意味で、この被告が取った態度は、火に油を注ぐ最悪の対応だったのではないでしょうか?ある意味では、駄々を捏ねる子供は、駄目なものは駄目、悪いものは悪いと自分を心底叱ってくれる父親を心の隅ではじっと待ちわびているともいえるからです。その時こそ、満足に自分の意図を伝えるべき言語手段を持たない幼児とのコミュニケイションがとれる時、彼らと「心から」話し合い理解できる時が訪れるのではないかと思います。

さらに、「奴隷のようにこき使われるのがつらい」と訴える被告に、「そういう対応もひとつの技術だと考えて頑張って下さい」とアドバイスしたという著名な精神科医の励ましの言葉も今となっては逆効果だったとしか思えません。

「暴力を拒絶することは、子供を拒絶することになる」というのは、真に暴力を振るう子供を受け入れ理解したことにはならないのです。彼は、自分の家の主権者として子供の前に立ちはだかり「暴力拒絶」の最後通告をするべきでした。それが聞けないのなら、自分と家族を守るため、子供を絶縁し家から排除するべきでした。これは、日本社会が身内に抱える伝統的暴力集団ヤクザに対しても同じ事です。彼らの「タカリや暴力を拒絶することは、ヤクザを拒絶すること」にはなりません。言語を持たない日陰者の彼らを「理解しないこと」でもありません。被告がやるべきは息子の前に「暴力を拒絶して、しかも子供を受け入れる」道を自ら切り開いて見せることでした。

それができず、忠臣蔵もどきに、「本の中に出てくる土下座の話」を思い出し暴力にじっと耐えてきた父親の方が「切れた」のがこの事件なのではないかとも思えるのです。

家出も、自立もできないでひたすら家庭内で幼児退行し駄々をこねる子供に対し、父親も昔ながらに家を出ろ、とは言えない幼稚な時代ではあります。しかし、妻と娘が家を出ていく前に、あるいは耐え兼ねて殺害するに至る前に、子供を、学校、カウンセラー、教育委員会とも相談の上、一時的にでも各種施設、病院に預ける等の親子隔離策は十分に取れたはずなのです。なぜ、それができなかったのでしょう?殺害してもやむを得ないほど追いつめられていたと言えるのでしょうか?

asahi.com '98416日付朝日新聞朝刊 特集 悲劇の底に重い問い金属バット殺害事件

 

消費者は王様とは、赤ん坊陛下にすべてが支配的に依存されるということである。

つまり、すべての社会資本と労働者、科学技術は、最終的に欲望だけ肥大させて育った全能感を持つ無能力=無責任者乳幼児=赤ん坊陛下に仕える結果になるのである。大人は、幼児の欲望を叶えるための従僕的存在と化すのである。(支配的依存)

「みんなみんな、みんなかなえてくれる」ドラえもんの腹にある「なんでも〔幼児の願いをかなえてくれる幼児的欲望;出てくる魔法の〕ポケット=袋」は、乳幼児が慕って入りたがるカンガルーの袋そのものである。

欲望の限りない解放と、手に触れるものすべてを黄金に変えるよう望んだミダス王のような実現は、その通りに願いを叶えることによって罰する復讐の女神ネメシスの業に出会うであろう。

これほどまでに資本の要請で、いい大人や、親が、何につけても幼児、女、子供のご機嫌を伺うようになった時代は珍しいと言わねばならない。というより、彼らが甘やかすのは、大人に成りきれない幼児のような自己の分身=自己自身のナルシス的エゴだからである。

女の時代、子供の時代、幼児の時代は、こうして、ただ単に資本がそのターゲットを労働者と化した男のみならず、女と子供の生命領域にまで的を絞り、新たな自らの支配圏とマーケットとを開拓拡大進出するようになった結果であるにすぎないのであって、家事と育児を放棄し外で働くようになった女とコンピュータを扱う子供、幼児の力が強くなったためではない。

家庭内で擬人化され甘やかされ可愛いペットとして育てられた犬すらも、規範を示す上位リーダーの存在しない群れの中では、自分が代りにリーダーの地位に就こうとし飼い主の命令を無視し、暴力的に反抗するようになる。

女と子供すらも資本の原理に支配され、自らを商品とする労働者、準労働者となった結果、家庭は崩壊し、生命は女ではなく資本がDNAクローンで生み出す用意が整ったのである。

 

楽して得する」という乳幼児起き上がりこぼしキャラクタ‘ドラえもん’のTVCMの教えるところは、結局、母胎からいつまでも母乳という甘い汁を吸い続ける“タカリ”寄生ヤクザオカミ渡り鳥の人生を正当化する。受験競争に勝ち抜き、各省庁を渡り歩いて天下りし「一生楽して得する」大蔵官僚はその非の打ち所のない規範である。

ここで言う「得」とは幼児に植え付けられた欲望の事である。こうした社会的土壌から、自己責任能力とは釣り合わないまでにじりじりと煽られた幼児的欲望を満たすためなら、出世の努力や地道な労働報酬による購入を飛び越し、人としての倫理規範までをショートカットにより楽々と踏み越えてしまう子供が大量に育ってくるのは避けられない勢いであろう。

これこそ「楽して得する」思想の実践ではないか?

「殺してでも、拳銃が欲しかった」と供述しているという、警官をナイフで襲った少年の動機は、その証左である。

自費を割いては絶対に「高級料亭」「ノーパンしゃぶしゃぶ」には行かないはずのどこかの自称エリート官僚は、その最高の規範である。

公費で、私的で卑猥な楽しみが得られる公共タカリの一生を送れることが、堪えられない官僚オカミの隠微な役得なのである。ということは、一旦摘発公共の光に曝されてしまえば、闇に生きる吸血鬼のように,私費では絶対にそのような場末には-−もしくは、単なる吝嗇で−−通えなくなってしまうということである。闇で輝いていた赤提灯の火が消えるということである。

少年が、徒党を組み街での遊ぶ金欲しさに、万引き、恐喝、窃盗、ひったくりしたからといって驚く前に、欲望を煽ることって生計を立て子供を養育している労働者=大人は--自らを親ではなく労働者であると規定する限り--それを叱り付ける資格があるのか、と自問するべきであろう。

欲を釣る機関の中核である、資本をスポンサーとする商品マスコミ広告が、日夜TV等で視聴者の中に注入させられ、必要を越えた購買意欲を競わせ掻き立てる。視聴率獲得競争のためとはいえ、こうした人権無視公認あるいは「欲を餌でつるペットしつけ調教芸アニマル生産飼育」TV番組に「衣食足りて」子守りされるようにして育った3歳児がどういう子供に成長するのか日本のTV局は真剣に考えたことがあるのか。

家庭内で擬人化され甘やかされ可愛いペットとして育てられた犬すらも、規範を示す上位リーダーの存在しない群れの中では、自分が代りにリーダーの地位に就こうとし飼い主の命令を無視し、暴力的に反抗するようになる。

餌で釣る経済効率しつけが、一国の首相から官僚のトップにまで賄賂にタカル品性の無さを植え付けたのである。

他人の迷惑になることだけはしてはいけません、という日本の母親が子供に対して提起できる唯一の倫理規定は、自己の利益欠損への禁止条項を決定的に欠落している点で、重大である。それは少なくとも、自分の身内のことならば何をやろうが自分の勝手だ、とする自由と履き違えたヤクザと同じ放縦論理をもたらす。

カタギの皆様の迷惑になることだけはするんじゃねぇ、とヤクザの親分も子分共に言うからである。

自殺心中玉砕も、母子近親相姦援助交際売買春も、臓器,麻薬売買も、身内仲間どうしの腐敗談合自己壊滅も、裏で秘密裏に平穏無事に行われ表面上すべて外にいる他人には迷惑をかけてはいない以上は、巫女女将オカミ=太母が君臨教育シツケする母性社会日本では強制的に禁止することができないのである。

「バブルの女王」「謎の女相場師」と言われた大阪、ミナミの料亭女将 尾上縫に実刑判決が下された。

***

「バブルの女王」といわれた尾上縫に興銀グループが貸しだした金額は、3000億円以上に達した。彼女は最盛期に2兆円弱のカネを動かしていた。たかだか料亭の女将が扱える金額ではない。ここでも、ヤクザが絡んでいる、と噂されている。

日本の地下帝国 鎌田 慧 第三書館 1993 p85

 

asahi.com98/3/2

東洋信金事件、尾上被告に懲役12年の実刑判決

 東洋信用金庫(三和銀行に吸収合併)や木津信用組合(整理回収銀行に事業譲渡)を舞台に総額4210億円の架空預金証書を偽造し、金融機関に持ち込んで担保の金融債や株券をだまし取ったなどとして、約1790億円の詐欺と約950億円の背任、有印私文書偽造・同行使の罪に問われた元料亭経営、尾上縫被告(68)に対する判決公判が2日午前、大阪地裁で開かれた。小倉正三裁判長は「経済的破たんを先送りするための犯行で動機にくむべき事情はなく、東洋信金が解体されるなど関係企業に与えた経済的被害も甚大だ」などとして懲役12年(求刑懲役15年)の実刑を言い渡した。尾上被告に巨額の融資を続けていた銀行や株取引を仲介した証券会社の姿勢にも触れて、「確実な信用調査もせず、常軌を逸した取引を続けたことが尾上被告の破たんにつながった」と批判した。

 判決後、尾上被告は大阪拘置所に収監された。被告・弁護側は同日中に控訴するとともに保釈の手続きをとることを明らかにした。

***

闇市と赤線貸し座敷から始まった戦後日本には、欧米の教会のように、世俗資本の要請に抗し盗みや姦淫、偽証そして欲念を禁止する来世への超越的規範を説く権威は、焼け跡のどこを探してもなかったのである。

敗戦の焼け野原に何より早く建ったのが、精神的価値を体現する教会や寺院ではなくて、飢餓を癒し性欲の捌け口のための闇市(エコノ)赤線(エロス)であったという歴史的事実が、その象徴である。

人が誘惑に陥るのは、それぞれ、欲に引かれ、さそわれるからである。欲がはらんで罪を生み、罪が熟して死を生み出す。(ヤコブ1.14〜15)

善いことは欲を餌で釣り(タカらせ)、悪いことは誰かヨソの怖いオジサンにしかってもらう。これが母性原理からの教育つまりヤクザ的動物飼育経済効率原理である。そして伝統的な「他人の迷惑になることだけはしてはいけません」という身内原理に「赤信号、みんなで渡れば怖くない」という危機管理意識と規範を集団で無視するアノミー社会の群集心理ふつうファシズムが加わった。

 

運命共同体における掟やタブー、義理や人情倫理などの規範の総体は、驚異的なスピードで押し寄せる近代化の第三の波に洗われて次々とそのアナクロニズム性を露呈、摩耗消滅し嵐の過ぎ去った後に残った規範といえば、「赤信号、みんなで渡れば怖くない」という太母憑依同調原理に乗っ取った、衆愚=群集=モッブアノミー社会の利益誘導原始生物依存寄生タカリ戦略原則だけであった。

このアノミーの結果がもたらす影響は、社会倫理規範が、常に「みんな」「ふつう」「中流」「いい子」などの、客観基準を何も持たない漠然とした大多数の依存寄生タカリ生物群集行動にすりかえられてしまう、ということに現れる。その大多数が多数決の戦後民主制の中で、決定的な主権を取り「みんなで渡れば怖くない」と、法と規範を侵して突き進んでおきながら、その結果責任は絶対的に取らない群集無責任体制「ふつうファシズム」を生み出すに至った。

時が変わればどちらに向くか誰にもわからない流行としての「みんなと同じ」群集規範は、「世間、人様と同じ、ごくごくふつう、みんなやっている」大多数から常に外れないため無視されないための憑依シャーマニスティックな母胎ふつうファシズム演技を生み出す。

ここで「ふつう」であることは、如何に非人間的なことをやっても、それがその時点で「ふつう」に属する限りどこからもそれに対しての有効な抑制が働かないということである。戦前では皇軍の侵略地での軍事行動とはもはや言えないアノミー性残虐行為、上から下まで見事に蔓延している今日の日本における汚職賄賂、ユスリ、タカリ、ヤクザ腐敗構造がその一例である。

飢えから始まった経済至上主義、アメリカに負けた原因と誤認した物質主義、の上に、この演技虚栄の上手さを競いあう面子、見栄、世間体、体面、嫉妬による小差異の学歴競争原理が作用し、戦後の経済一元価値社会的身分序列が固定化した。見栄の競い合いでパンパンに膨らんだカエルの腹が、弾け飛んだのがバブル崩壊である。

同時にそれら「みんな」「ふつう」「中流」「いい子」の「おままごと演技」に加わらない少数者は、存在すら無視され、人間としての権利は侵害されるがままに放置され続けてきた。

今までも、そしてこれからも透明な存在であり続けるボクを、せめてあなた達の空想の中でだけでも実在の人間として認めて頂きたいのである。それと同時に、透明な存在であるボクを造り出した義務教育と、義務教育を生み出した社会への復讐も忘れてはいない


「みんなで渡れば怖くない」と社会全体が病的危機に突入して「異常」になっていることに全員が見かけ上堅固に無自覚であるような社会、危機管理に愚鈍極まりない二重演劇構造社会では、アレルギーと免疫反応そして言語なきヒステリー短絡反応は、こういう自己同一性を犯す侵入者に対して我々の身体全体が備え持ち、抵抗する警告であり、拒否反応ではないのか?

どこまでも増え続け、足ることを知らない物を中心とした欲望が一旦膨らみだしたら最後、自分と他人の人権を犠牲無視売買してまでもとにかく手っ取り早く実現させなければ気が済まないという気質が出来てしまったら、すでに取返しのつかない立派な犯罪予備軍(サイコパス)というべきである。

貨幣が信用を失った血栓社会は、物流が鬱血し呪物交換、物々交換原始経済および所有権の消失と窃盗を常習とする闇社会へと先祖帰りするように、言語と法が崩壊した社会は、麻薬で神経系が麻痺し情報が流れなくなった結果として闇のデマと狂気、暴力が蔓延る(はびこる)であろう。

知性と精神の幼児退行麻痺、言語秩序の混乱、崩壊は、暴力の呼び水である。

男はヤクザ(暴力)、女はパンパン(淫行)と化し、その上から無限の欲望を常時うえつけるマスコミ刹那的幻想と自己欺瞞、安楽死を誘う麻薬が日夜大量に流し込まされている我々の社会は、その腐敗と自己崩壊が隠し難く蔓延した結果、戦後のアノミーから、急性カタストロフへと向かっている。資本主義を経営する手腕のないヤクザとパンパンには、「海の家」と「ノーパンしゃぶしゃぶ」と「料亭女将」すなわち闇市テキヤ屋台カブキお祭り興行打上げ花火バクチ経済がお似合いである。

猥褻物販売者、近親相姦者は、他人に迷惑をかけていない行為の何が悪いか、と猥褻を合理化している。

女子高生とオヤジは、他人に迷惑をかけていない行為の何が悪いか、と売買春を合理化している。

麻薬中毒者、売人、バクチ中毒者も、他人に迷惑をかけていない行為の何が悪いか、と麻薬売買、バクチを合理化している。

自殺、心中者も、他人に迷惑をかけていない行為の何が悪いか、と自殺を合理化している。

健康のため吸いすぎに注意しましょう、といいながら販売CMを流している旧国営煙草製造販売業者は、自己矛盾しているのである。心身の健康と生命に害がある事が客観的に証明されている商品は、如何にそれが消費者、購買者の要望だろうと、猥褻物、麻薬と同様、製造、販売、流通、使用させてはいけないのであり、嗜好における個人の自由は社会的に排除されなければならないのである。

 

98/5/4asahi.comたばこ販売量が5.8%減、過去最大の落ち込み

 たばこメーカー各社でつくる日本たばこ協会が発表した1997年度の紙巻きたばこの販売量は、国産、外国産合わせて3280億本、前年度比5.8%の減で、専売公社時代を含めて過去最大の落ち込みとなった。消費税率引き上げで昨年4月に国産の23銘柄が10円値上げされたことに加え、昨年3月に駆け込み需要が膨らんだことも響き、売上高も2.6%減の3兆8971億円にとどまった。

 販売量の内訳は、国産が5.9%減の2546億本。外国産は5.4%減の735億本。この結果、外国産の市場占有率は0.1ポイント上がって22.4%となった。

 銘柄別販売量のトップは20年連続で「マイルドセブン」。外国産では「ラークマイルドボックス」が最も多く、マイルドセブンの5分の1にあたる60億本を売った。

 

98/5/16 asahi.com喫煙患者が国とJTを初めて提訴―東京地裁

 長年の喫煙により健康を害したとする肺がんなどの患者7人が15日、「有害性を認識しながら適切な喫煙規制対策を怠った」として国や日本たばこ産業(JT)を相手取り、1人1000万円の損害賠償を求める訴訟を東京地裁に起こした。職場禁煙を求める嫌煙権訴訟などが既に起こされているが、喫煙者自身が健康被害の賠償を求めるのは初めて。

 原告は鹿児島県名瀬市の歯科医荒木照夫さん(71)ら。

 訴えによると、荒木さんらは33―50年の長期にわたる喫煙で肺がん、喉頭(こうとう)がん、肺気腫(しゅ)のたばこ関連疾患(「たばこ病」)にかかり、呼吸機能障害や言語機能喪失などの被害を受けた。損害額を1人1億円と推定、うち一部を請求した。

 原告側は、喫煙と「たばこ病」との因果関係は疫学的に証明済みと指摘。JTは実験や調査で有害性を十分認識しながら、有害表示をせずに製造、輸入、販売を続けたとしている。

 国民の健康を守るべき義務のある厚生省、監督官庁としての大蔵省も、喫煙を減らす適切な対策を怠り、国家賠償法に基づく賠償責任を負うとしている。

 伊佐山芳郎弁護団長は、「日本では有害表示がないばかりか、吸い過ぎなければ安全のような欺まんの表示をしている。喫煙者の自己責任の問題でなく、収入のために国民の健康を無視した拡販政策の犠牲者だ」と話している。(時事)

***

他人の迷惑になることだけはしてはいけません、という日本の母親が子供に対して提起できる唯一の倫理規定は、自己の利益欠損への禁止条項を決定的に欠落している点で、重大である。それは少なくとも、自分の身内のことならば何をやろうが自分の勝手だ、とする自由と履き違えたヤクザと同じ放縦論理をもたらす。

カタギの皆様の迷惑になることだけはするんじゃねぇ、とヤクザの親分も子分共に言うからである。

自殺心中玉砕も、母子近親相姦援助交際売買春も、臓器,麻薬売買も、身内仲間どうしの腐敗談合自己壊滅も、裏で秘密裏に平穏無事に行われ表面上すべて外にいる他人には迷惑をかけてはいない以上は、巫女女将オカミ=太母が君臨教育シツケする母性社会日本では強制的に禁止することができないのである。

いかに本人の意志があろうとも問われ続けなければならない売買春同様な、自己を欠損し傷つける罪(自殺はその最たるものとして法的に禁止されるべきである)が在るのだということをいちいち指摘しなければ理解できないのは、悲しむべき文化であろう。というより、そのような文化は「悪」そのものの培養器となるのだ。自己の真の利益(国益)を識別し守り切ることができずに、自己(国)を身売りし、やればやるほど却って自己を損傷破壊させついには死へと導いてしまう者、それが「悪」そのものの姿だからである。

近親相姦猥褻物、売買春、麻薬、自殺はこうして、他人に迷惑をかけていない行為でも、自己を害する行為として他律的に禁止、排除されている。(喫煙はこれに準じる行為として、将来完全に製造販売が禁止されるべきである。)そのような社会的禁止が認められず自由の名の下に放任され、倫理による強制的歯止めが利かないでいる放縦社会は自己崩壊しよう。

 


行くところも、帰るところも失った子供たちは、社会的孤児としてストリートジャングルにたむろし、暴力〔ユスリ、タカリ、窃盗、強盗殺人〕を振るうか、身体を売るか、麻薬を売買するか−−そのうち、これに臓器売買が絡むであろう−−して生活していくしかすべがない。

職なく、家庭なく、能力がないのに頭に欲望だけを詰め込んだ幼児的ストリート生活者が路頭に迷い、都市に溢れ出す。

路上で争う格闘技ものの‘ストリート・ファイター’のような設定のゲームは、飽きられる程出まわっている。

路上で身体を売るストリートガールは、享楽化、低年齢化しただけである。

巨大な迷宮か地下牢獄dungeon、地下墓地catacomb紛いの地下街〔プラトンの洞窟〕ばかりか街路、舗道、公共通路、床面、階段にべったりと何をするでもなく座り込む青少年たちの日常化した行動様式はそのアノミーによるアパシー象徴である。かつては、暴走族ヤンキーとドロップアウト、ホームレス、浮浪路上生活者の専売であった〈しゃがみこみスタイル〉が、もはや〈へたり込み〉になって一般化しているのだ。

こうして都心の空きビルには、ヤクザやモッブ、ホームレス等が占拠住み着くようになり、地域住民はそこから疎開するように避難して行くだろう。都市はこうして見捨てられ、ドーナツ空洞化スラム化するのだ。

これは、常に外部から遮断され気候、温度調節された地下街=人工孤立楽園における熱帯性無気力の蔓延とも見られる。

SFの中興の祖H・G・ウェルズは「タイムマシン」でこうした機械環境母胎回帰(熱帯の楽園退行痴呆?)による退化に終わるものとして人類の未来を描いていた。

この屈み込む<カゴメカゴメ=篭目スタイル>格好は、縄文以来の甕棺という母胎に再生を願って入れられた死者の屈葬胎児スタイルに回帰する。

一度社会的法的に認可された臓器の流通に対し、値段をつけ商品として扱い利潤を上げよと、臓器売買民間ビジネスに連続的に移行するよう掛ってくる強大な産業社会市場の圧力に十分対抗できる思想文化倫理はどこに存するのか。

一時は良妻賢母の鑑と目されていた有名女優の高校生になる息子が、同年代の男女4人を自宅のガレージに呼び込んで泊りがけの麻薬パーティを開いていたところを逮捕されたばかりである。


98/1/30asahi.com警察庁が「第3次覚せい剤乱用期」突入を宣言

 警察庁は29日、1997年中の覚せい剤事件の摘発者が1万9722人と、ほぼ2万人に達したのを受けて、国内が「第3次覚せい剤乱用期」に入った、と宣言した。宣言は「ヒロポン」が流行した54年ごろの1次、84年ごろを摘発者のピークとする2次以来。警察庁はイランなどの外国人密売組織が駅前でキャッチセールスをするなどして、青少年らが手軽に覚せい剤を入手できるようになったことを憂慮。今後、総合的な薬物対策を推進する方針だ。

 警察庁によると、95年以降は覚せい剤での摘発者が増加しており、96年には1万9420人。昨年は、さらに302人増えた。なかでも、少年は1596人と前年より160人多く、覚せい剤が低年齢層に広がっていることをうかがわせている。

***

ヤクザにとって、韓国で一番魅力があるのは、・・・、韓国からドラッグを密輸することなのだ。・・・そこで取引されるドラッグは、アメリカの巷では“スピード” “クラック” “メス” として知られ、日本の巷では“シャブ” “白ダイヤ”として知られている覚せい剤である。この覚せい剤のコネクションは、おそらく世界で最も大規模な麻薬の秘密ルートだが、・・・・

(中略)

日本での覚せい剤濫用者の数は、日本は犯罪のない国だというイメージに親しんでいる外国人にとってはショッキングな数に上るだろう。それは30万人から60万人の間と一般に見積もられており、この数はアメリカのヘロイン使用者の確認されている数とほぼ等しい。東京のある麻薬専門家の言うように、「東京は世界の覚せい剤首都」なのだ。・・・

(中略)

東京に長く住んでいるある人物は、「日本は、覚せい剤を必要とするタイプの社会だ」と表現している。

「暮しは単純だがスピードがあり、人はそれについていくために、覚せい剤を使うのだ。」

 

ヤクザ D・Eカプラン+Aデュプロ 第三書館 1991 277〜8ページ

数少ない関連書目の中で、戦後日本の地下帝国と現代に生きるヤクザの動向についてアメリカのジャーナリストが書いた、事実上信頼できる典拠の一つ。貴重な写真も見逃せない。「日本でだけは出版できない」といわれたこの書から是非一読することをお勧めする。K・v・ウォルフレンの指摘に驚いているようでは、この著作には腰が抜けかねない。〔32歳で逮捕された小池隆一についての記述も240ページに見られる。〕

この他、同書第7章 ヤクザの進出する地−−東アジア を熟読されたい。

 

[毎日新聞98年2月27日]

<麻薬戦略>日本は資金洗浄拠点−−米国務省が議会報告書で指摘

 【ワシントン26日伊藤芳明】米国務省は26日に議会に提出した「国際的麻薬管理戦略報告書」(1998年3月)で、日本が国際的な麻薬資金洗浄拠点の一つになっていると指摘した。日本政府が国連薬物統制計画(UNDCP)などによる麻薬対策への強力な資金援助など国際的指導力を発揮するよう求めている。

 報告書は、特に未成年者の間に麻薬使用者が増加、不法移民を中心に麻薬密輸行為が拡大し、暴力団の資金源になっていると日本の現状を指摘。「日本はマネーロンダリングの主要拠点と疑われており、警察は暴力団が日本における麻薬密輸や資金洗浄の背後にいるとみている」と分析し、日本の暴力団員が米国を含めた海外で、麻薬を販売しようとしていると警告している。

 さらに報告書は日本国内でフィリピン、イラン、韓国、タイなど外国人の麻薬関連犯罪が増加、最近はナイジェリアなど西アフリカ諸国からの入国者が関与し始めている実情を紹介し、「日本の麻薬のほとんどすべては海外からの密輸であり、中国とタイが海外の主要供給源」としている。

 そのうえで報告書は、包括的な取り締まり法の整備を求めるとともに、UNDCPの主要拠出国として、国際的指導力や財政的支援の発揮を日本政府に要請している。

 

98/3/5asahi.com ブータン人が大麻16.4キロを密輸入

 大麻樹脂約16.4キロ(末端価格約1億3000万円)を密輸しようとしたとして、東京税関成田支署と新東京空港署は5日までに、ブータン国籍の男女計3人を大麻取締法違反と関税法違反の疑いで逮捕し、身柄を千葉地検に送った。成田空港での大麻摘発量としては過去最高量という。

 調べでは、ドルジ・セゲェ容疑者(41)らブータン人3人は2月20日、ブータンからインド、タイを経由して成田空港に到着した際、大麻樹脂を布製の粘着テープで体に巻き付けて、持ち込もうとした疑い。ブータンの民族衣装を着るなどゆったりとした服装だったため、税関検査官が身体検査をして分かった。

 3人は「ブータンで東南アジア系の男から、3、4000ドルの成功報酬で依頼を受けた」と話しているという。

 

asahi.com98/4/13 高校生の親の1%が薬物使用を容認

 覚せい剤などの薬物使用について、高校生の親の1%が「個人の自由」「1回くらいならよい」などと容認する考えを持っていることが13日、全国高校PTA連合会(木本由孝会長)のアンケートでわかった。

 調査は昨年11月に実施し、全国の約4000人から回答を得た。

 薬物使用ついて、自分自身の考えをたずねたところ、「絶対に使うべきでない」は96.8%、「他人に迷惑をかけていないので個人の自由」0.6%、「心や体に害がないなら、1回くらい使ってもかまわない」0.4%、その他・無回答2.1%。「個人の自由」と「1回くらいならよい」を合わせて1%の親が使用を容認していた。

 しかし、自分の子どもが使ってもいいと考えているのかについては質問を設けなかった。

 

asahi.com98/5/3日本に密輸の覚せい剤、大半が中国製

 日本に密輸された覚せい剤の大半が中国・福建省周辺の密造工場で製造されている可能性の高いことが、警察庁など捜査当局の調べで分かった。中国の治安当局も過去5年間に40カ所以上の工場を摘発、約2トンの覚せい剤を押収している。密輸された覚せい剤は、暴力団を通じて国内の密売グループに流れているとみられている。中国からの密輸ルートが確立され、新たな供給地になっているとして、上杉光弘・国家公安委員長(自治相)が3日から訪中、警察担当の中国公安相と閣僚レベルとして初めて薬物対策などについて協議する。

 覚せい剤は戦後すぐ、「ヒロポン」として日本国内で作られ、広まった。しかし、警察の摘発や原料となる物質の規制で国内での製造はなくなったとされる。その後、1970年代は韓国、80年代は台湾と、海外で密造されたものが流入した。

 しかし、ここ数年、これまでと異なる密輸ルートが目立ってきた。同課の調べでは、過去5年間で、一度に1キロ以上が押収された覚せい剤の総量は約1145キロ。うち7割近い約780キロが中国で密造されたものと判明した。

 

***

drag’には元々「(マウスのように)重いものを引きずっていく」という意味があるが、また、最近のヒット映画‘Speed’が新しい麻薬の一種(いわゆる‘S’)を暗示して――日本にもこれをグループ名にし‘GoGoHeaven’と黄色い声を張り上げている中学生グループシンガーそれ自体チルドレンのSpeedがある――いるように、死の楽園にいたるショートカットの‘drag car race’や最高スピード超特急(カート・ヴォネガットの息子の書いた「エデン特急」)の暴走速度と密接に関係している。

埼玉新聞 特集・話題最前線 「SPEED(覚せい剤)−危うい少女たち」第1部(3部まで)

実人生そのものを掌編のショート・ショートに圧縮し、生を死と短絡させるショートカット(ヒステリー人格短絡反応こそ彼等の目指すニルヴァーナなのである。麻原オウムが自家製の麻薬を闇市場に大量に流して資金源にしていたことを忘れてはならない。日本ではヤクザがその売人であることは言うまでもない。

生と死、始めと終わり、幻想と現実とを短絡し結び付けるのが、頭がその尾を噛んで造るウロボロス蛇の近親相姦的癒着円環だからである。

麻薬は覚醒させると同時に麻痺させる。誇大自己と逆転して現われる自虐的卑小自己、生きたと思うと死が待っているウロボロス太母による矛盾の渦である。

 

この根底には生命のかかった病気についてすら死ぬ間際まで医師が患者に真実を出来るだけ知らせないでおくのが人間的で良いとする、日本の反インフォームド・コンセント偽りの信頼関係を自ら選択する「知らぬが仏」、「民は由(依)らしむべし、知らしむべからず」(論語8・9)の強力なぽっくり寺安楽死=自殺心中肯定文化伝統がある。「誰かうまい嘘のつける相手さがす」のは被害を受ける側の方だからである

「知らぬが仏」「秘すれば花」という文化伝統があるところでは成仏安楽死「ぽっくり寺」のための情報操作統制が正当化される。

真実の重さと罪の深さに耐え切れる精神の成熟こそが大人には求められるのである。それに耐え切れない未成年には、常に気休めと幻想と麻薬とが与えられる。

インフォームドコンセントどころの話ではない。死に至る病に対してのみならず、国家、組織の存否にかかわる危機的状況においても、実情と真実を何も知らずに騙されたまま偽りを信じて死んでいった方が「身のため」幸せとされるのである。
「知らない方が幸せ」「悲惨で醜悪な現実=真実を知るくらいなら、いっそウソ、美しいウソの方がいい、真実よりも美しい虚偽を選ぶ」痴人の幸せ、「真実を知ったもの、知りすぎた者には死んでもらう」これが日本における、一億総白痴化反知性主義、情報統制、隠蔽、虚偽報告の正当化の伝統とし現在も生きている。

この正当化は直接麻薬モルヒネ注射を受け、華やかなバブル期の夢を見ながら何もせず静かな安楽死、ぽっくり突然死を迎える、桜吹雪散る名誉の特攻玉砕心中戦死の文化的肯定に繋がっている。

知性と精神の幼児退行麻痺、言語秩序の混乱、崩壊は、暴力の呼び水である。

東京に長く住んでいるある人物は、「日本は、覚せい剤を必要とするタイプの社会だ」と表現している。(上記引用)

「どうせ私をだますなら、だまし続けて欲しかった」 (「おんな心の唄」)

だまされているうちは、幸福なのである。

「知らぬが仏」

一つの嘘=バブルがシャボン玉のように弾けてしまったら一刻も早く

「誰かうまい、嘘のつける、相手さがす」(「そして神戸」)のは、だまされた被害者の方である。

たとえ犯罪者加害者であっても、それがカミ、親分のなした事であれば絶対的に信頼し、「犯罪」とは呼ばず「不祥事」と言いかえることによってなおも信頼回復と忠誠を強め、ついには自分の加害者に心の救済までも求めるに至るのが古代信仰というものだからである。

「かわいそうだが死んでもらう」「早く楽にしてやるから迷わず成仏しな」「往生際が悪いぜ」というのは安楽死の殺人者の口にする常套句(殺し文句)である。

 

'98年3月19日には、理財局総務課の課長補佐から本州四国連絡橋公団東京事務所に出向していた大蔵省「ノンキャリア」官僚が私立高校教諭らと共に麻薬譲受所持容疑で逮捕された。


進歩の終焉 G・Sステント みすず科学ライブラリー 1972  

近代を用意したファウスト人間がニーチェ=シュペングラーの世代で亡び、その後からビートニク、ヒッピーが台頭して科学と芸術の終焉を迎えざるをえないことを比較的早い時期に予測した分子生物学者の、目立たないままになっていた書。彼によればそれはまるでゴーギャンが逃げ込もうとしたタヒチ島のようなポリネシアレジャーリゾートランドにおける黄金時代だという。戦後日本ヤポネシア列島のバブル母胎に実現されたのが結局それではないのか。ホテル王黒幕小佐野、ヤクザ稲川会、観光客や芸能人もハワイ進出を果した。タヒチでは原住民が勝手に麻薬を用いていたという。


オヤジは労働で子供の欲しがる商品をマーケティング生産あるいは輸入販売し、その報酬で女子高生の身体を買う。女子高生は、その商品を買う金が欲しくて自分の体に値札をつけてストリートを歩き、その身体をオヤジに売る。

同様な倫理の欠如した資本主義的構造の中で、TV、マスコミに欲望のみを煽られた少年が、地域の大人たちが生計のため無制限に販売しているナイフ、麻薬を買う、あるいはその麻薬欲しさに万引き、強盗、殺人をする。

現実感覚がなく、押さえ切れないほど膨らませられた未熟な母胎的妄想と、外国から注入された父性的ミリタリ・サバイバル・ゲーム感覚との結合が、単身ナイフで路上の警察官を襲う行為を「カッコイイ」と思わせているのである。

神戸事件の容疑者少年も神戸家裁決定によると

しかし、次第に、現実に人を殺したいとの欲動が膨らんできて、少年は、学校に通ってはいたものの、学習意欲がうせ、教師に心を開かず、友達と遊ぶこともなく、タンク山で一人で遊び、自宅でも、一人で昼間からカーテンを閉めて薄暗くして過ごし、雨の日を好み、殺人妄想にさいなまれていた。このような状況にあって、少年の母親には少年の気持ちを理解することはできなくなっていた。

と言われている。

路上で争う格闘技ものの‘ストリート・ファイター’のような設定のゲームは、飽きられる程出まわっている。

路上で身体を売るストリートガールは、享楽化、低年齢化しただけである。

欲を釣る機関の中核である、資本をスポンサーとする商品マスコミ広告が、日夜TV等で視聴者の中に注入させられ、必要を越えた購買意欲を競わせ掻き立てることこそが、資本を蓄積させ回転させるための原理的要請なのである。その次々と目の前にぶら下げられる欲望の対象となった商品を買うために、人は「人」であることを止め、勤労者、労働者となったからである。

いかに視聴率獲得競争のためとはいえ、こうした人権無視公認あるいは「欲を餌でつるペットしつけ調教芸アニマル生産飼育」TV番組に「衣食足りて」子守りされるようにして育った3歳児がどういう子供に成長するのか日本のTV局は真剣に考えたことがあるのか。

家庭内で擬人化され甘やかされ可愛いペットとして育てられた犬すらも、規範を示す上位リーダーの存在しない群れの中では、自分が代りにリーダーの地位に就こうとし飼い主の命令を無視し、暴力的に反抗するようになる。

TVに継いで資本を回転させる機関の地位を狙っているのが、wwwに接続されたPCである。現在から考えても、PCショップを開き派手なHP宣伝で信者獲得の手段としているオウム真理教は、旧世代カルトである共産党に盗聴器を仕掛けたりしていた日本の公安警察の意識と比べ数十歩先を行っていたのである。

社会統制経済主義という点では、自民(神道系国家社会主義)も共産(マルクス主義インタナショナリズム)も右から左までその価値観は一致して区別がないというのが、戦後日本を支えた基盤であった。

20世紀前半には、ナチスの他、キリスト教から破門された無神論カルト=マルクス主義独裁政治が、個人崇拝イドラトリとして中国、ロシア、北朝鮮等資本主義の遅れた段階の社会に入り込む余地があったのである。

彼等こそカルト、ヤクザやオタクとなって生き延びる者である。「オタク」は、幼女性愛、女性アイドル追っかけ、ストーカーにも通ずる母を求める母癒着的太母原理社会の産物とすれば、「カルト」、「ヤクザ」には、自分に命令を発するカリスマ的父を求める求道宗教的父権原理社会の末裔の面影がそれぞれの社会に応じた個人崇拝(死霊、祖霊、親分崇拝)イドラトリの傾向として強く残っているとも言えよう。

戦中の天皇制ファシズムも、毒ガス細菌兵器を造り、生体実験をするなどナチスと同盟を結んだ神道系国家社会主義による、オウムそっくりの、オウムを予告するカルトであった。

オウムのような20世紀後半の新興カルトはその、崩壊後にできた宗教的空白に乗じようとし、ロシアに進出していった。

コンピュータとインターネットには下手をするとどんどんのめりこみ、精神の未熟な者、幼稚な子供にとっては二度と現実に戻れなくなるほどの強烈な麻薬的自己閉鎖中毒性があること及びおなじみのアメリカパーソナルコンピュータ業界そのものが‘ドラッグ(drag)&ドロップ’の用語などでも分かるように、その筋の70年代ヒッピーカルトフラワーチルドレンドラッグ(drug)時代とカウンターカルチャ(culture cult)ドロップアウト世代の臭いをプンプンさせながら80年代以降市民社会に成人した中高年として再登場(ドロップイン?)してきたものであることを、改めて確認したほうが良い。

耳のある者は、聞くがよい。とりこになるべき者は、とりこになっていく。つるぎで殺す者は、自らもつるぎで殺されなければならない。(ヨハネ黙示録13.9〜10)

文化と言語の発信者である創造者は命令(コマンド)する主人masterとなり、その命令His Master's Voiceを素直に聞くだけの言葉なき(物言わぬ)召し使い奴隷群集にとって、現在のTV以上にPCは馬の耳に念仏のただの箱か、オウムやこのHeaven's Gateなどカルトがやりかけていたような極めて便利な仏壇型洗脳機械となろう。

戦後の日本人はラジオという箱から聞こえてくるHis Master's Voice;天皇ヒロヒトの声をきいて始めて頭を垂れかろうじて鬼畜米英と戦うのを止め、玉砕と餓死から生き延びた者たちの末裔ではないか。commandされるだけの人間は文字通りcommando(シュワルツネッガー風特殊部隊兵士、横井、小野田帰還兵を生んだかつての日本皇軍、特攻隊、オウムの「殺人マシーン」林泰男、ヤクザの鉄砲玉となる資格がある。

そのような人は自分のPersonal Computerでさえ買うのでなく、会社や上司の命令指示――His Master's Voice――買わされるのである。( 尊師の声が流れるPSIヘッドギア)組織を離れれば自分も主張も無くなる無私の個人は――公すらもなく公私未分に止まるので――21世紀のボーダーレス地球社会には生きてはいかれないだろうということを知るべきである。

あなたの父、夫あるいは子供、孫親類が、統制経済組織犯罪に関わった容疑で明日逮捕されても、あるいは学校、地域、家庭内で生じた一触即発殺し合い事件の犯人、被害者、自殺者となっても不思議はなくなっているのである。


「最初から警官を狙うつもりだった」と供述しているこのガンマニアの容疑者少年の愛読書は、「ザ・殺人術」と「完全武装マニュアル」というものであった。合法的に銃が扱える警官になれる程の学力がなかったと聞くが、しかしそれなら現実的選択肢の一つとして当然取るべき自衛隊、軍隊には入りたくないという。大体、こういう少年がやっていけるほど自衛隊も甘くはない。

要するに、勇敢に現実の敵と対峙し闘う意志というほどのものでなく、安楽な母胎の中で際限なく空回りしたマニュアル妄想に近い。バタフライナイフは、某人気タレントがTVドラマの中で使用していたものであった。

98/3/18asahi.comは、この少年を初等少年院送致と決めた東京家裁処分を次のように伝えた。

(前略)

決定は、処分理由の中で、「サバイバルゲームなどをきっかけに空想を拡大させ、短銃獲得という思いを膨らませた少年は、仮想の現実との混乱の中で、短銃を使用することによる自己存在感や自我拡大感を追い求め、さしたる規範的抵抗を感じないまま、今回の事件に至った」と指摘。「幼児的に空想的世界を拡大させ、短絡的に重大事件を実行に移した点が最大の問題点だ」と述べた。

(後略)(ボールド引用者)全文は【参考資料】

***

「死」についてホラービデオ等で妄想を巡らした挙句、生体実験を敢行した酒鬼薔薇とおなじく彼らは、ハルマゲドンの終末思想をPSIヘッドギアで脳に叩き込まれ、霞ヶ関官僚にサリンを科学実験的に撒いたつもりのオウムにも増して、闘うべき本当の敵を見失って久しい。

神戸事件の容疑者少年も神戸家裁決定によると

しかし、次第に、現実に人を殺したいとの欲動が膨らんできて、少年は、学校に通ってはいたものの、学習意欲がうせ、教師に心を開かず、友達と遊ぶこともなく、タンク山で一人で遊び、自宅でも、一人で昼間からカーテンを閉めて薄暗くして過ごし、雨の日を好み、殺人妄想にさいなまれていた。このような状況にあって、少年の母親には少年の気持ちを理解することはできなくなっていた。

と言われている。

現実との関わり合いから意識的に引きこもり(胎内回帰)、それ(敵)とたたかうことを止めた時から、作家と作品の(職人)芸能化、「エンターテイメント」化、showbiz化、劇場化、そしていわゆるゲーマーの単なるゲーム化は始まるのだ。

こうした環境がそろった中から、現代日本を代表するカルトとなったオウム、オタクの宮崎勤、そして今回の劇場型殺人ゲーマー酒鬼薔薇聖斗が紛れも無く社会が要求した当然の分泌物であるかのように現れてきたのである。


さあ、ゲームの始まりです。

・・・

僕は殺しが愉快でたまらない。

人の死が見たくて見たくてしょうがない。

(最初の挑戦状冒頭)

***

そこでぼくは、世界でただ一人ぼくと同じ透明な存在である友人に相談してみたのである。すると彼は、「みじめでなく価値ある復讐をしたいのであれば、君の趣味でもあり存在理由でもありまた目的でもある殺人を交えて復讐をゲームとして楽しみ、君の趣味を殺人から復讐へと変えていけばいいのですよ、そうすれば得るものも失うものもなく、それ以上でもなければそれ以下でもない君だけの新しい世界を作っていけると思いますよ。」

 その言葉につき動かされるようにしてボクは今回の殺人ゲームを開始した。 (第二の挑戦状)


ここにも、リアルな「死の体験」を得ようと生を死と短絡させるショートカット(ヒステリー人格短絡反応)衝動が見られる。

言語による問いかけに、何も答えずに無視し続けるというのなら、一度殴ってみて本当に生きているのかどうか生体反応を見るということになるだろう。チーマーによるオヤジ狩りも、そうした生体反応を見る聖なる実験」の悦楽に支えられているのではないか。

愉快犯の悦楽とは、ついに他人や社会とに自己の存在を知らしめ、コミュニケイションが図られた時の言語によるあの喜びと同質なのではないのか?

こうした妄想の膨れ上がっただけの子供は、さっさと通常の学校を退学し、ヨット・スクールというのも困るが、農家や漁師の跡継ぎ養子にでもなり、日々の糧を得るために思い切り身体を動かす体験をして見ればいいのである。さもなくば禅寺で雲水行脚修行するか、どこかのTV企画のように世界無銭旅行の旅にだすか、ストリートではなく本当のジャングルサバイバル実践者である小野田自然塾にでも入り、生きるということの意味を身体で学ぶがいい。但し、陸軍中野学校仕込みだが・・・。

 

ちまたのコラム 98/3/1

素朴な疑問

ニュースの伝えるところによると、'96年度中の公私立高校中退者の数がここ3年間連続して増加して11万2000人に達し、'82年度以来の文部省調査で過去最高を記録したそうです。マスコミは何処もこの話題を大きく取り上げていますが、義務教育でもない高校を中退したからと言って何故そんなに問題視して騒ぐのでしょうか?

自らの意志と能力と責任で入学した高校以上の学校生徒は、一旦料金を払って乗った列車と同様、途中下車し乗り換えする権利があるのです。これは、学校のような教育機関に限らず、会社、政治文化組織などいかなる結社についても入退会の自由として近代社会では認められている基本的人権の一つにすぎません。それが強制ではなく、自らの意志による限り退会、退学、退社は何ら問題でないはずです。

それがこうまで社会問題としてマスコミに取り上げられるのは、むしろ、もはや選別の意義を失い全入化、義務教育化した高校が、戦後日本の単線的身分制度の一部として組み込まれている現実の反映であるからにすぎません。つまり、こうした社会では、高校を中退したものは、乗り換えるべき線路のない路傍に迷う‘不良’‘落ちこぼれ’としてしか生きる道はないのだ、ということをマスコミと視聴者が暗に認めるばかりか、学校のランク付け等して日頃煽っていることの証左です。

単線しか存在せず、選択を許さない身分社会意識だからこそ、その大人たちが明治以来用意した公認出世コースから子供が自分の意志で退くことは、まるで江戸時代の下人か穢多(エタ)・非人の人生が始まるかのように部外者たちが大騒ぎするのです。彼ら戦後自由社会に生きる大人がしなければならないのは、後から来る子供たちのために、選択の効く別の線路を幾つも築いてやることのはずなのに、彼らはこの50年間それを何もしてきませんでした。

自分がやれなかったこと、できなかったこと怠けていたことを、いざ将来の進路を切り開く子供がやろうとすると、親は自分の無責任を棚に上げておたおたするのです。だから、中途退学者の増加を憂い騒ぐ大人は、自ら果すべき社会的義務の怠惰を、子供の問題に摩り替えているだけだと言えます。子供の将来が心配だ、と。では、出世コースに乗って「ノーパンシャブシャブ」にタカルようになった子供は、退学してナイフを持った子供より安心といえるのか、自問すべきでしょう。

学歴からはみ出た職人や、日雇い作業者、農漁業従事者、芸能人などを裏では蔑視し、平等な人権を持つ人間とは見ようとはしない学歴身分意識の隠微な温存こそが、彼らにいつまでも社会的権利を僅かしか持たない哀れな犠牲者、社会落伍者の前近代身分差別社会の現実を与え正当化し固定化し続けているのではありませんか?

どちらに進もうと、法の下に等しく人権が与えられ、職業の貴賎が問われることのない誇りある社会が本当に実現していれば、あるいは実現しようと努力していれば、人生を自ら選択決定する一人の人間として中途退学、中途退社はそれ自体問題行動と見られるはずはありません。戦後日本のこのような社会動向は、それがまだまだ建て前だけに終わり、実質は江戸時代からの身分差別社会が強固に残存していることを、そして大多数がそれに無自覚な自己欺瞞の上に平穏な日常を成立させていることを示しているのです。

 

運命共同体における掟やタブー、義理や人情倫理などの規範の総体は、驚異的なスピードで押し寄せる近代化の第三の波に洗われて次々とそのアナクロニズム性を露呈、摩耗消滅し嵐の過ぎ去った後に残った規範といえば、「赤信号、みんなで渡れば怖くない」という太母憑依同調原理に乗っ取った、衆愚=群集=モッブアノミー社会の利益誘導原始生物依存寄生タカリ戦略原則だけであった。

このアノミーの結果がもたらす影響は、社会倫理規範が、常に「みんな」「ふつう」「中流」「いい子」などの、客観基準を何も持たない漠然とした大多数の依存寄生タカリ生物群集行動にすりかえられてしまう、ということに現れる。その大多数が多数決の戦後民主制の中で、決定的な主権を取り「みんなで渡れば怖くない」と、法と規範を侵して突き進んでおきながら、その結果責任は絶対的に取らない群集無責任体制「ふつうファシズム」を生み出すに至った。

飢えから始まった経済至上主義、アメリカに負けた原因と誤認した物質主義、の上に、この演技虚栄の上手さを競いあう面子、見栄、世間体、体面、嫉妬による小差異の学歴競争原理が作用し、戦後の経済一元価値社会的身分序列が固定化した。見栄の競い合いでパンパンに膨らんだカエルの腹が、弾け飛んだのがバブル崩壊である。

同時にそれら「みんな」「ふつう」「中流」「いい子」の「おままごと演技」に加わらない少数者は、存在すら無視され、人間としての権利は侵害されるがままに放置され続けてきた。

宇宙的法華教の教えで岩手の農村を自立させようと奮闘した宮沢賢治が現在生きていたら何と言うだろうか?

日本社会においては、表向きの、中国の模倣による皇に仕える科挙官僚をトップとする平安朝古代律令身分体制=ひな壇型絶対主義ヒエラルヒーから外れた道は、戦後になっても、一生自嘲して陰と裏、闇の社会で生きていかざるをえない路傍の荒れ果てた〈ヤクザ=パンパン渡世〉(家、水商売ノーパンしゃぶしゃぶ、貸し座敷料亭女将にえてザブンとドボン)の世界二者択一しか用意されていないのである。

小さ子神=オメデタイエビスの足を引っ張る、足を切って去勢身動きできなくする=ヒルコ不具奇形を生むのが、「甘」と「天」と「海」の太母である。

好色で、酒食を好み官位を欲しがる「民にタカル」カミというのが、日本のアナクロニズム蒼古性(オ)カミ=ウロボロス蛇=オロチの伝統である。

そして、日本には人をカミと崇めるフェティシズム=憑依シャーマニズム=イドラトリの文化伝統が存在する。

新年毎に大量に初詣する日本人は、自らの願事を、賽銭、供物、飲食、宴会接待と引き換えにカミに叶えてもらうのを当然とする古代宗教祈願意識を保存している。普遍的倫理の善悪によって願いを叶えるのではなく、接待の豪華さや、巧緻さ如何で裁量決定を下すのが日本人の信仰する‘カミ’というものだからである。

これに賄賂、飲食、接待でもつけば完璧な談合腐敗文化構造の完成である。天下りするオカミ、御札に賽銭、まいないをやって巫女(料亭女将オカミ芸者;今回はノーパンホステスの乙姫子宮=竜宮海の家へザブンとドボンで回帰)の下で共食神人交歓酒盛り談合宴会を催し、下々の願事をかなえてもらうというのが揺るぎ無い日本の精神伝統文化だからである。

さて、そこからはるか離れた所に、おびただしい豚の群れが飼ってあった。悪霊どもはイエスに願って言った、「もしわたしどもを追い出されるのなら、あの豚の群れの中につかわして下さい。」そこで、イエスが「行け」と言われると、彼らは出て行って、豚の中へはいり込んだ。すると、その群れ全体が、崖から海へなだれを打って駆け下り、水の中で死んでしまった。(マタイ8・30〜32)

この、中国模倣の天皇=官僚絶対主義ひな壇身分社会が、さらにその上に、GHQ占領政策の圧力により本格的に民主主義、資本主義、法治主義の模倣演劇を始め屋上屋を闇市屋台小屋掛けしたのが(敗)戦後である。

「公務員倫理の確立を」と公務員が、「政治倫理の確立を」と政治家が、「企業倫理の確立を」と企業役員が叫んでいる。〔善いことは欲を餌で釣り(タカらせ)、悪いことは誰かヨソの怖いオジサンにしかってもらう。伝統的な「他人の迷惑になることだけはしてはいけません」という身内原理、「赤信号、みんなで渡れば怖くない」という危機管理意識と規範を集団で無視するアノミー社会の群集心理ふつうファシズムという以外、今までは「倫理」なし、「規範」なしでやってきたと認めているのである

戦前の内務省官僚主導戦時経済統制から、軍事色を薄め、戦後大蔵省官僚統制経済へと「なしくずし」に何の反省もなくシフトさせて来た明治以来の富国強兵国家社会主義統制経済主義の結果が、大蔵官僚の腐敗と日本経済の崩壊となって現れたのである。〔戦前天皇と軍閥を裏から操った内務官僚が、生き延びたのに使った同じ手口で戦後の大蔵官僚にシフトした。〕

国家官僚が縄張り下においた下々国民から合法的強制的に収奪したヤクザのミカジメ料にあたる年貢税金とその予算配分裁量権益一手に握っていた大蔵官僚こそが、こういう戦後国家統制経済主義日本社会では、政治家を陰から操ることで最高の権力=金権腐敗政治の実権を持ちながら、どんなに失敗、腐敗しても国民の前に責任は取らないという、陰の絶対権力の座に君臨することができたのである。この甘い汁=予算裁量権にありつこうと、寄らば大樹の陰と民が我勝ちに大蔵官僚に対し宴会接待攻勢を仕掛けて来る寄生タカリ構造が完成した。

エコノ=エロチックパラサイトの完成である。

自治体からの‘官官接待’にも見られるように、日本のこうした飲食業盛り場水商売、料亭、貸し座敷、風俗売買春営業界は、官僚へ談合接待宴会の秘密の場を提供することによって寄生繁栄してきたという共犯の事実は隠し難いのである。官=民が焼け跡闇市赤線屋台赤提灯で酒を酌み交わして談合しながらここまでやってきたからである。

これが、敗戦後50年経った今にいたっても民主主義、資本主義、法治主義の健全な担い手としての市民階層が形成されていない日本社会の表裏二重演劇構造現実に対応する。

その古代的矛盾をTV演技の中でのみ生きているのが、最高の裁きをする裁判官僚(カミ,オカミ)が同時に肩に桜吹雪の刺青をしたヤクザ(荒ぶるカミ)でもあるという人気キャラクター「遠山の金さん」である。

ヤクザは武士を経て、政治家となり、カミは、公家を経て現在の官僚になっている。


サバイバルの流行は、アウトドア、キャンプライフ、ミリタリー感覚を伴なって既にかなり以前から広まっているものだが、その根底には、喩え文明社会が崩壊しても、その焼け跡廃虚ストリートジャングルで自分だけは生き残ろうという本能的、無意識的な備え、というものがある。

戦後の日本人はラジオという箱から聞こえてくるHis Master's Voice;天皇ヒロヒトの声をきいて始めて頭を垂れかろうじて鬼畜米英と戦うのを止め、玉砕と餓死から生き延びた者たちの末裔ではないか。commandされるだけの人間は文字通りcommando(シュワルツネッガー風特殊部隊兵士、横井、小野田帰還兵を生んだかつての日本皇軍、特攻隊、オウムの「殺人マシーン」林泰男、ヤクザの鉄砲玉となる資格がある。

彼等こそカルト、ヤクザやオタクとなって生き延びる者である。「オタク」は、幼女性愛、女性アイドル追っかけ、ストーカーにも通ずる母を求める母癒着的太母原理社会の産物とすれば、「カルト」、「ヤクザ」には、自分に命令を発するカリスマ的父を求める求道宗教的父権原理社会の末裔の面影がそれぞれの社会に応じた個人崇拝(死霊、祖霊、親分崇拝)イドラトリの傾向として強く残っているとも言えよう。

既に社会は崩壊しているのである。

つい先ごろ取られた教師のアンケートにもあったように、互いに孤立自閉しサイコパス並みに自己中心的で、直ぐ切れる子供の増加、急速な精神の退行幼児化の進展により義務教育ですら既に一定の発達段階を前提としている通常の授業および学級経営、蓄積されてきた教育技術が成り立たなくなっている。子供との対話自体が成立たないディスコミュニケイション=バビロンにおける言語の混乱バベルの兆候が現れているのだ。

家庭内で擬人化され甘やかされ可愛いペットとして育てられた犬すらも、規範を示す上位リーダーの存在しない群れの中では、自分が代りにリーダーの地位に就こうとし飼い主の命令を無視し、暴力的に反抗するようになる。

知性と精神の幼児退行麻痺、言語秩序の混乱、崩壊は、暴力の呼び水である。

言語による問いかけに、何も答えずに無視し続けるというのなら、一度殴ってみて本当に生きているのかどうか生体反応を見るということになるだろう。チーマーによるオヤジ狩りも、そうした生体反応を見る聖なる実験」の悦楽に支えられているのではないか。

愉快犯の悦楽とは、ついに他人や社会とに自己の存在を知らしめ、コミュニケイションが図られた時の言語によるあの喜びと同質なのではないのか?

職場でも互いに孤立自閉し、思い悩んだ挙句、あまりにも仕事に打ち込み過労死に至ったり(仕事への逃避)、その反動で重い神経症、うつ病になって退職せざるをえない教師は珍しくない。そのうちいくら給与を良くしても、教師を希望する教育学部生の数が激減してくる末期的事態が起るだろう。

如何に「児童心理学」などを中心とした講壇教育学を学ぼうが、親も地域も責任を放棄し手のつけられなくなったナイフを持った子供たちに面と向かって教えるのは、職業義務を越えたダイレクトな恐怖となるからである。命を懸けて襲ってくる少年に対処する教師用マニュアルのあるはずはない。

何らかの意志が明確な子供、教師は登校勤務を拒否し、学校に通ってくるのは、崩壊した地域と家庭の行き場のない子供だけということになれば、学級崩壊、学校崩壊は目前である。

そうした崩壊した学校から、細胞膜が破裂して寄生ウィルス=エコノ=エロチックパラサイトが一斉に新たな宿主求めて外部に飛び散って行くように、職なく、家庭なく、欲望だけを頭に詰め込んだストリート生活者が都市に溢れ出す。

路上で争う格闘技ものの‘ストリート・ファイター’のような設定のゲームは、飽きられる程出まわっている。

路上で身体を売るストリートガールは、享楽化、低年齢化しただけである。


路頭に迷いストリートをねぐらにしようとも、ナイフを手に自力で道を切り開き都市のジャングルを歩いていく者の方が、(見かけだけでも、若者にとっては)ノーパンしゃぶしゃぶにタカッテイル最高の教育を受けた「自称エリート」高級官僚オヤジより遥かにカッコ良く見えるのは当然ではないか!

ヤクザは武士を経て、政治家となり、カミは、公家を経て現在の官僚になっている。

法と言語を護るべき最高の規範はこうして、青少年たちの眼前で自壊したのである。しかも、それは同時に大蔵官僚主導日本経済の崩壊でもあった。知性と精神の幼児退行麻痺、言語秩序の混乱、崩壊は、暴力の呼び水である。

貨幣が信用を失った血栓社会は、物流が鬱血し呪物交換、物々交換原始経済および所有権の消失と窃盗を常習とする闇社会へと先祖帰りするように、言語と法が崩壊した社会は、麻薬で神経系が麻痺し情報が流れなくなった結果として闇のデマと狂気、暴力が蔓延る(はびこる)であろう。

知性と精神の幼児退行麻痺、言語秩序の混乱、崩壊は、暴力の呼び水である。

彼らが隠れて行っていることは、口にするだけでも恥ずかしい事である。(エペソ5.12)

彼らは、真昼でさえ酒食を楽しみ、あなたがたと宴会に同席して、だましごとにふけっている。彼らは、しみであり、きずである。その目は淫行を追い、罪を犯して飽くことを知らない。(ペテロU2.13〜14)

エコノ=エロチックパラサイトの完成である。

教育による「いい子」の最高規範とされてきた東大出身官僚「えらい人」が容疑否認の翌日には逮捕されるニュースが全国家庭の団欒時に流されるからである。

日本では社会的に地位が高くなればなるだけ、権力と共に、国民に負うべき自己責任も重くなるのだ、という近代accountability原理が欠如したまま、戦後が始まった。

逆に、「えらい人」になれば、なるほど既得権益自己裁量による少々の無責任な幼児的ワガママ=役得が許されるという古代律令身分制社会「官尊民卑」の官民暗黙の伝統しか存在しない日本では、そのためにこそ、虐げられ責任と犠牲を押し付けられた生け贄下層に属する民ほど、「出世」という身分官位獲得競争、猟官運動を自ら望むのである。

社会の指導部、上層部、雲上人に近づけば近づくほど、放縦に権力による恣意的裁量決定を振るいながら、そのくせ責任は取らなくても良いというのが、大樹にタカル虫に与えられる甘い汁である。成人に与えられる自由には、それを行使したものの自己責任が問われるが、それが欠如しているのが幼児的放縦の論理というものだからである。

他人の迷惑になることだけはしてはいけません、という日本の母親が子供に対して提起できる唯一の倫理規定は、自己の利益欠損への禁止条項を決定的に欠落している点で、重大である。それは少なくとも、自分の身内のことならば何をやろうが自分の勝手だ、とする自由と履き違えた幼児ヤクザと同じ放縦論理をもたらす。

従って日本社会では太母ウロボロス=アマテラスに抱かれる最高指導者=童子天皇に近づくほど、権力による決定に伴なう自己責任を回避する幼児無責任構造が完成している。東大出身の大蔵官僚は、戦前の内務官僚に継いで、戦後高度経済成長を続ける日本のその地位についたのである。

楽して得する」という乳幼児起き上がりこぼしキャラクタ‘ドラえもん’のTVCMの教えるところは、結局、母胎からいつまでも母乳という甘い汁を吸い続ける“タカリ”寄生ヤクザオカミ渡り鳥の人生を正当化する。受験競争に勝ち抜き、各省庁を渡り歩いて天下りし「一生楽して得する」大蔵官僚はその非の打ち所のない規範である。

これこそが、母親が幼児に植え付け、そこから育ってきた民の究極の理想とする「えらい人」のイメージである。

 

「リスクなく儲ける方法があるだろう」などと証券取引法に違反する利益提供の要求を執拗に繰り返すのが、総会屋だけでなく、自殺した政治家にも広がっていたのである。リスクなき利益というこの「ハイリスク&ハイリターン」父権的自己責任原則に完全に背馳する「ノーリスク&ハイリターン」の虫の良い態度こそ、欲望ばかり膨らんだ割には責任能力を回避しようとする「楽して得する」母胎内胎児の思考傾向である。

ここで言う「得」とは幼児に植え付けられた欲望の事である。こうした社会的土壌から、自己能力とは釣り合わないまでにじりじりと煽られた幼児的欲望を満たすためなら、出世の努力や地道な労働報酬による購入を飛び越し、人としての倫理規範までをショートカットにより楽々と踏み越えてしまう子供が大量に育ってくるのは避けられない勢いであろう。

これが、戦後国家統制経済主義日本社会では、政治家を陰から操ることで最高の権力=金権腐敗政治の実権を持ちながら、どんなに失敗、腐敗しても国民の前に責任は取らないという、大蔵官僚陰の絶対権力の座にぴったりマッチしたのである。この甘い汁=予算裁量権にありつこうと、寄らば大樹の陰と民が我勝ちに大蔵官僚に対し宴会接待攻勢を仕掛けて来る寄生タカリ構造が完成した。

〔戦前天皇と軍閥を裏から操った内務官僚が、生き延びたのに使った同じ手口で戦後の大蔵官僚にシフトした。〕

'98年2月19日、東大出身で元大蔵官僚(銀行局課長補佐)の経歴を持つ自民党若手政治家新井将敬議員は、証拠隠滅の恐れがあると利益供与要求容疑により提出された逮捕許諾請求決議が行われようとする直前、全面否定弁明記者会見を終えた前夜から妻と宿泊していたホテル、パシフィック東京の23階の一室で、浴衣の腰紐による首吊り自殺を遂げていた事が審議中の国会に伝えられ騒然となった。

金銭を愛することは、すべての悪の根である。ある人々は欲ばって金銭を求めたため、信仰から迷い出て、多くの苦痛をもって自分自身を刺しとおした。(テモテT69.10

戦前の内務省官僚主導戦時経済統制から、軍事色を薄め、戦後大蔵省官僚統制経済へと「なしくずし」に何の反省もなくシフトさせて来た明治以来の富国強兵国家社会主義統制経済主義の結果が、大蔵官僚の腐敗と日本経済の崩壊となって現れたのである。

〔戦前天皇と軍閥を裏から操った内務官僚が、生き延びたのに使った同じ手口で戦後の大蔵官僚にシフトした。〕

国家官僚が縄張り下においた下々国民から合法的強制的に収奪したヤクザのミカジメ料にあたる年貢税金とその予算配分裁量権益一手に握っていた大蔵官僚こそが、こういう戦後国家統制経済主義日本社会では、政治家を陰から操ることで最高の権力=金権腐敗政治の実権を持ちながら、どんなに失敗、腐敗しても国民の前に責任は取らないという、陰の絶対権力の座に君臨することができたのである。この甘い汁=予算裁量権にありつこうと、寄らば大樹の陰と民が我勝ちに大蔵官僚に対し宴会接待攻勢を仕掛けて来る寄生タカリ構造が完成した。

エコノ=エロチックパラサイトの完成である。

かつては、美空ひばり扮する東京キッドが、空腹を抱えて見上げたビルの谷間の青い空の代り、ナイフで犯罪を犯すことを何とも思わないストリートキッズの見上げる霞が関ビルの雲の上にはノーパンしゃぶしゃぶにタカル「自称エリート」東大オヤジ世代が最高の指導者、教育者としてひな壇上に君臨するのだ。


子供を教育することが不可能になった国は、必然的に内部から亡びるであろう。「教育亡国」林竹二ちくま学芸文庫 参照。

見かけだけ内部だけ無菌状態に保ったような中身がカラッポな空疎な家庭、地域、学校、社会組織からは、悪徳や腐敗、非行、犯罪に対して事前に歯止めを掛けていた、無形に蓄積された文化遺産である社会的抑止力が、規範が失われるのと比例して急速に消滅していく。

家庭内で擬人化され甘やかされ可愛いペットとして育てられた犬すらも、規範を示す上位リーダーの存在しない群れの中では、自分が代りにリーダーの地位に就こうとし飼い主の命令を無視し、暴力的に反抗するようになる。

規範が消滅した社会に生まれ育った世代は、その規範で善悪を判断する「判断力」はおろか、理想形態としての規範に従いある程度現実からくる一時的欲求不満や小さな矛盾なら寛容し耐え忍ぶ「許容能力、忍耐力」自体が育たないまま成長する。これにはもちろん、高度経済成長以来目指してきた、欲望の一刻も早い充足を至上命令とする現代の消費社会も背景にある。

欲を釣る機関の中核である、資本をスポンサーとする商品マスコミ広告が、日夜TV等で視聴者の中に注入させられ、必要を越えた購買意欲を競わせ掻き立てることこそが、資本を蓄積させ回転させるための原理的要請なのである。その次々と目の前にぶら下げられる欲望の対象となった商品を買うために、人は「人」であることを止め、勤労者、労働者となったからである。

労働者は、労働によって、売れる商品を製造しなければならない。その商品も、「衣食足りて」の欲求の種が尽きてくると、人間の倫理を破壊してまで抑え付けられていた欲望を刺激し、消費は美徳と祭り上げなければ売れなくなるのである。その地獄へと開かれた無限の消費欲望が何れは、人の人たる根本倫理と生命までを食いつぶす浪費になるであろう事は自明である。

すべてを口を開けて食い尽くす欲望だけを持つ消費者=浪費者の誕生である。互いに煽り煽られ、騙し騙され消費者の欲望に合わせて労働、生産者が開発していくうちに、その商品は現実から遊離した幼児的なものに変質して来ざるをえない。消費だけする欲望を植え付けられた非生産的無能力者=無答責者とは本質的に神の如き全能感を持つ母胎寄生乳幼児のことだからである。

禁欲的で地道に働く労働者=勤労者タイプの父親が残業、過労死と通勤地獄とローン返済の重圧に耐え汗水たらして貯えた家計を、消費者=浪費者として育った妻と娘が、父親をオヤジと呼び寄宿人か、下使い、金を生む奴隷のように見なし、湯水のように使い尽くし、食いつぶす、というバブルの構図はこうして完成したのである。

ついにそのオヤジも、労働で子供の欲しがる商品をマーケティング生産あるいは輸入販売し、その報酬で女子高生の身体を買うようになった。娘のような女子高生は、その商品を買う金が欲しくて自分の体に値札をつけてストリートを歩き、その身体をオヤジに売る。資本主義的ウロボロス近親相姦の完成である。

悪人と詐欺師とは人を惑わし人に惑わされて、悪から悪へと落ちていく。(テモテU3.13)

実人生そのものを掌編のショート・ショートに圧縮し、生を死とさせるショートカット(ヒステリー人格短絡反応こそ彼等の目指すニルヴァーナなのである。麻原オウムが自家製の麻薬を闇市場に大量に流して資金源にしていたことを忘れてはならない。日本ではヤクザがその売人であることは言うまでもない。

だから近年の青少年は、旧世代から見ると些細とも思われることに、過激に反応し何かといえば「むかつく」、急に「切れる」突発性自己破壊的暴走行為に出るのである。これは伝統的には言語なき「ヤクザ」のヒステリー人格短絡反応であった。これはサイコパス人格にもつながるものである。

ドレスナーK・B証券の経済ストラテジスト、P・タスカは、著書「不機嫌な時代」の中で、これからの日本経済が取りうる進路のひとつとして、「安楽死」シナリオ「長いさよなら」(R・チャンドラー邦題「長いお別れ」?ほぼ同題の山崎和正「不機嫌の時代」が暗示するように、乳児性抑鬱へと日本は胎児回帰するのである)を挙げている。尤も彼はこれを最悪の場合としているが、私は既に日本社会は、後戻りできないカタストロフ・アトラクタ中空太母鎖国コースに自ら吸い込まれつつあるという認識である。だからこそ、その甘く暖かい母胎の袋からちょっとでも落されると、日本人は「不祥事」「キビシイ」と弱音を吐くのである。これに不満を抱き「プイとふくれる」「だだをこねる」「ふて腐れる」「ぐれる」(母からハグレル)反感を抱くのが、慣習化された乳児性抑鬱=ヒステリー性癇癪というものである。「プツン」と「キレル」のはその一種である。

この正当化は直接麻薬モルヒネ注射を受け、華やかなバブル期の夢を見ながら何もせず静かな安楽死、ぽっくり突然死を迎える、桜吹雪散る名誉の特攻玉砕心中戦死の文化的肯定に繋がっている。

東京に長く住んでいるある人物は、「日本は、覚せい剤を必要とするタイプの社会だ」と表現している。(上記引用)

ヤクザ自体が、いわゆる幸福な一家団欒のある家庭からグレタ者同志の共済組合のような結社「**一家」であるが、「グレる」「グレン隊」というのは私見では「母からハグレル」スサノヲがその心理的原型を成すと思われるからである。「はぐれ雲」「はぐれ刑事」の例を見よ。

忠臣蔵討ち入り、真珠湾奇襲攻撃に典型的に見られるように、昔から日本人は忍従の果ての「堪忍袋の緒」をぶちっと「切った」ヤクザ一家の殴り込み=討ち入りマスヒステリーで切腹自殺玉砕に終わる暴力行為を起こし自己正当化て来たのではないのか?

知性と精神の幼児退行麻痺、言語秩序の混乱、崩壊は、暴力の呼び水である。

女子高生が「援助交際」と称してファッションブランド物を手に入れるためなら自分の身体を売る売春行為を正当化でき当然と考えたり、流行のゲーム玩具や他人とちょっと違った運動靴欲しさに、チーマーら致強盗殺人が起こっても不思議ではなくなっているのである。ここにH・ボスの「乾草車」の現代版を見る。

そこに何かといえば「勉強しなさい」としか言えない閉塞的ごっこ演技構造を壊そうと家庭内で産みの親に対して甘えながらも言語なきヒステリー短絡爆発反応=自己破壊的暴力を振るって無意識のうちに訴える全能感を持つ無能力者「赤ん坊陛下」、空腹は満たされたが、依然として心の空白は拡大していく状態に放置して置かれた12歳の少年=小天皇=母とハグレテ高天が原で暴力を振るう小さ子にして荒ぶる神スサノヲ=子供が登場した。

子供たちの復讐 本多勝一 編 朝日文庫 1986  

「みんなで渡れば怖くない」と社会全体が病的危機に突入して「異常」になっていることに全員が見かけ上堅固に無自覚であるような社会、危機管理に愚鈍極まりない二重演劇構造社会では、アレルギーと免疫反応そして言語なきヒステリー短絡反応は、こういう自己同一性を犯す侵入者に対して我々の身体全体が備え持ち、抵抗する警告であり、拒否反応ではないのか?

「青春を返せ、人生を返せ!」と叫んで家庭内暴力をふるう子供を父親が殺した「開成高校生殺人事件」(1977)、「祖母殺し高校生自殺事件」(1979)についての裁判記録、新聞雑誌記事、対談、インタビューなど多方面からの当時の声を資料として集め、それらを「子供たちの社会に対する復讐」という視点でまとめ警告を発した日本では先駆的な書。この警告は、ほぼ10年を経過しても'96年11月東京の父親による中三長男金属バット殺害、そして'97年の神戸小学生連続殺傷へと、中学生にまで年齢をおとして繰り返されるまで無視されてきた。

asahi.com '98年4月16日付 朝日新聞朝刊 特集 悲劇の底に重い問い 金属バット殺害事件

こうした環境がそろった中から、現代日本を代表するカルトとなったオウム、オタクの宮崎勤、そして今回の劇場型殺人ゲーマー酒鬼薔薇聖斗が紛れも無く社会が要求した当然の分泌物であるかのように現れてきたのである。

路上で争う格闘技ものの‘ストリート・ファイター’のような設定のゲームは、飽きられる程出まわっている。

それが、バビロンが辿ったように何れは、言論通信が混乱消滅した都市のバベル=スラム化と、ヤクザ紛いの報復に継ぐ報復で無法化したモッブ暴動の結果に終わることになろうとも・・・。こういう近未来ストリートジャングルイメージは既にフィクションの世界では陳腐化している。

(映画「ブレードランナー」始め「マッドマックス」以下「ロボコップ」デスメタルロックバンド、果てはサッポロビール江角マキコTVCMまで。バットマンの‘Gotham City’なんかはPoeの「赤死病の仮面」暗黒の仮面カーニバル=masqueradeコスプレ道化Jokerイメージだ。何しろエラスムスの「痴愚神」より古い?伝統的な愚者の町、あるいはN.Y.のことだからね。Bat Cave=catacomb〔プラトンの洞窟〕

 


一見して儒教的伝統からは原因、動因ないものと見える少年凶悪犯罪は、たとえそれが一件でも、深い象徴的意味を持つと考えられ、極めて巨大な社会体制への不安を、日本全域に及ぼす。

彼らは薄々それが自分たちの安住する現シナリオ劇場体制に突きつけられた刃かも知れないと感じているにもかかわらず、共同体で共有する秘密を楽屋裏に隠し「みんな揃って見てみぬふりを」して劇場演技を続けている。「それを言っちゃあ(劇が)お終い」だからである。

エラスムスは、その「痴愚神礼賛」29で人生そのものを、めいめいが仮面を被って演ずる芝居だと論じ、38では劇を終わらせ夢を覚まさせた者に、熱中者が礼を言うどころか逆に食ってかかるホラティウスからの例を挙げて笑っているが(彼が言う通りこれは〔プラトンの洞窟〕の比喩にまで遡る古いものだ。暗い洞窟こそ劇場の起源であろう。確かシューペンハウアーも似たようなことを言っていたと記憶するが今は確かめていない)、

延々と役者を換えて続けられているマンネリズムの極致祖霊信仰「水戸黄門」でさえ、劇はいずれ、それが劇だと認識され我にかえり終わりを告げる時、カタストロフの時が訪れなければならない。

もしそのまま続けようとすれば、E・Aポオの「赤死病の仮面」のような華やかな仮面舞踏会の真っ只中に、必ずや招かれざる客である「死そのもの」=空虚が紛れ込むであろう。

〈地上は、すべての良心にとって、子供っぽいとともに手に汗を握る滑稽であるとともに怖るべき神秘劇」が演じられている「殿堂」である。〉というコンラッドからの引用に始まる「僧正」では、

死骸を道化芝居の道具立てに使うような冷酷な道化師にも見物人はなくてはならん。そこに、このいまわしい犯罪のひとつの弱点がある。」

BoschでなければBruegelである。

彼の描く「謝肉祭と四旬節の闘い」「ネーデルランドの諺」「子供の遊戯」などで画面に現れ始めた‘染み’のようなプレ近代の群集が絶品だ。(彼らは後にE.A.Poeの「群集の人」=孤独な群集のモデルとして描かれることになる。この時神なき市場に発生した行き場のない群集が、ストリートキッズの先祖なのだ。)

彼らは、真昼でさえ酒食を楽しみ、あなたがたと宴会に同席して、だましごとにふけっている。彼らは、しみであり、きずである。その目は淫行を追い、罪を犯して飽くことを知らない。(ペテロU2.13〜14)

(神々は)そこから下界を見おろして、人間の行動をごらんになるのです。神々にとって、これくらい気散じになる光景はありません。。いやまったく、なんというすばらしいお芝居でしょう!なんという騒ぎでしょうか、なんといういろいろさまざまな気違いどもがいるのでしょう!エラスムス「痴愚神礼賛」48

まるで

《見ろ。これがお前たちが大真面目に取っている世界だ。お前たちは無限に、いっそう広大な抽象世界について、何も知っていない、地球上の生活などは子供の遊びだ−−−じょうだんの種にするだけの値打ちがあるのがせいぜいだ》

とひにくられていると同じだ・・・ヴァン・ダイン「僧正殺人事件」創元推理文庫版341ページ

もちろん、これらの源は、ホイジンガも指摘し、ニーチェにも及んだ、人間と世界を洞窟の外にいる神の神聖な玩具と見るプラトンの遊戯思想によるものだが、現代では、洞窟内の巷に迷う群集は、突出した一部の諧謔的犯罪者によって弄ばれる実験対象モルモットに成り下がっている。

神の殺害された社会においては、人間が、狂気に追い込まれたニーチェの「超人」のように自我肥大したヒトラーナチス的独裁者=天地創造する全能の神となる他ないからである。

欲を釣る機関の中核である、資本をスポンサーとする商品マスコミ広告が、日夜TV等で視聴者の中に注入させられ、必要を越えた購買意欲を競わせ掻き立てる。いかに視聴率獲得競争のためとはいえ、こうした人権無視公認あるいは「欲を餌でつるペットしつけ調教芸アニマル生産飼育」TV番組に「衣食足りて」子守りされるようにして育った3歳児がどういう子供に成長するのか日本のTV局は真剣に考えたことがあるのか。

家庭内で擬人化され甘やかされ可愛いペットとして育てられた犬すらも、規範を示す上位リーダーの存在しない群れの中では、自分が代りにリーダーの地位に就こうとし飼い主の命令を無視し、暴力的に反抗するようになる。

ここでは、人間と世界は、幼児的欲望を持った独裁的支配者の玩具的ジオラマとなるのだ。麻原彰晃は、自分の子分として命令通り動く「ロボット」=リモコンの玩具が欲しかっただけ、とも言われている。

 

言語による問いかけに、何も答えずに無視し続けるというのなら、一度殴ってみて本当に生きているのかどうか生体反応を見るということになるだろう。チーマーによるオヤジ狩りも、そうした生体反応を見る聖なる実験」の悦楽に支えられているのではないか。

愉快犯の悦楽とは、ついに他人や社会とに自己の存在を知らしめ、コミュニケイションが図られた時の言語によるあの喜びと同質なのではないのか?

ここでは自己の存在証明を懸けた犯罪者が芸術家の如く機能するのである。

24日付けasahi.com「朝日新聞夕刊」によれば切断遺体頭部を中学校正門に何度も置き直した行為についても、

男子生徒は「作品を完成させるため」に高さ約2メートルのコンクリート塀の上に頭部を置こうとしたが、背が十分に届かず約2メートル南側の門扉前に移動させたという。男子生徒は調べに対して「塀の上に置けず、完ぺきな作品に仕上げることができなかった。仕方がなく門の前に移した。悔しかった」などと話しているという。

Artemis Sampler 酒鬼薔薇聖斗を生んだ戦後日本という社会


例えば、映画のエイリアンでもそうだが、‘Quake’に代表されるDoom系と言われる3D PCバトルゲームは、周りがすべて敵=化物という閉塞密室状況〔プラトンの洞窟〕を当然とし、ひたすら得体の知れない「奴ら」を、銃器やロケットランチャ、斧等の武器を使って、バラバラに身体が飛び散るまで殺害し最後まで進み切る冷酷無比なプレイヤーが、クールな勝利者となる設定である。

Dungeon Keeper(地下牢獄番人)という名の悪の支配者になることを目差す、善悪が倒錯したゲームすらE・Aビクターより発売されている。

巨大な迷宮か地下牢獄dungeon、地下墓地catacombのような閉塞密室状況〔プラトンの洞窟〕からの脱出は、E.A.Poeが、「メールシュトレームに呑まれて」、「陥穽と振子」、「早すぎる埋葬」等でそれぞれ繰り返し描いてきた古典的英雄誕生の死と再生のテーマであった。

その極限ともいうべき現代ゲームにおいては自分以外の他者、部外者は、すべて殺してもいい「奴ら」「敵」「化物」としてしかここでは現れ得ないのである。

戦後の日本人はラジオという箱から聞こえてくるHis Master's Voice;天皇ヒロヒトの声をきいて始めて頭を垂れかろうじて鬼畜米英と戦うのを止め、玉砕と餓死から生き延びた者たちの末裔ではないか。commandされるだけの人間は文字通りcommando(シュワルツネッガー風特殊部隊兵士、横井、小野田帰還兵を生んだかつての日本皇軍、特攻隊、オウムの「殺人マシーン」林泰男、ヤクザの鉄砲玉となる資格がある。

ここでは勝利の後には、至る所に転がる敵の死骸の殺伐とした光景と、自分だけは生き残ったというそれ自体虚無的な安堵感だけしかゲームの報奨はない。人間存在に意義を与える神すらも殺害されているからである。

サバイバルの流行は、アウトドア、キャンプライフ、ミリタリー感覚を伴なって既にかなり以前から広まっているものだが、その根本には、喩え文明社会が崩壊しても、その焼け跡廃虚ストリートジャングルで自分だけは生き残ろうという本能的、無意識的な備え、というものがある。

日本のアニメ、ゲーム、ファンシー界の大勢が、「ドラえもん」「マリオ」「キティ」「チビまるこ」「クレヨンしんちゃん」「アラレちゃん」あるいは宮崎勤以来のオタクロリコン幼児性愛に毛の生えたような「カワイイ!」母胎退行キャラクターを越え究極の卵回帰!「たまごっち」までに傾斜しているのに比べれば、まだ、“Quake”のようなアメリカンサバイバルシュミレーションの方がまし、とも考えられるのである。

感情的に反応してしまう大衆文化の場合においても、日常では禁止抑圧されている、異常なセックスや強姦、暴力、殺人、麻薬など暗い衝動(いわゆるフロイトのイド、エス)は、バーチャルなフィクショナルな空間において心理的には解放されることによって、むしろ正常人大衆のバランスを保ち、犯罪に至らしめる直前で未然に予防するのに役立っていると言えるからである。

3DシューティングPCゲーム‘Quake’で当てた開発メーカー id Softwareの‘id’とはフロイトのこの暗い衝動を掘り起こし解放する意味から付けられたとも考えられる。

彼等こそカルト、ヤクザやオタクとなって生き延びる者である。「オタク」は、幼女性愛、女性アイドル追っかけ、ストーカーにも通ずる母を求める母癒着的太母原理社会の産物とすれば、「カルト」、「ヤクザ」には、自分に命令を発するカリスマ的父を求める求道宗教的父権原理社会の末裔の面影がそれぞれの社会に応じた個人崇拝(死霊、祖霊、親分崇拝)イドラトリの傾向として強く残っているとも言えよう。

単なる流行するエンターテイメントと、真の歴史に残る作品、芸術、科学理論との違いは、ジャンルそのものにあるのではなく、その作家の現実との関わりかたによって発生するものだと私には思われる。

「死」についてホラービデオ等で妄想を巡らした挙句、生体実験を敢行した酒鬼薔薇とおなじく彼らは、ハルマゲドンの終末思想をPSIヘッドギアで脳に叩き込まれ、霞ヶ関官僚にサリンを科学実験的に撒いたつもりのオウムにも増して、闘うべき本当の敵を見失って久しい。

神戸事件の容疑者少年も神戸家裁決定によると

しかし、次第に、現実に人を殺したいとの欲動が膨らんできて、少年は、学校に通ってはいたものの、学習意欲がうせ、教師に心を開かず、友達と遊ぶこともなく、タンク山で一人で遊び、自宅でも、一人で昼間からカーテンを閉めて薄暗くして過ごし、雨の日を好み、殺人妄想にさいなまれていた。このような状況にあって、少年の母親には少年の気持ちを理解することはできなくなっていた。

と言われている。

現実との関わり合いから意識的に引きこもり(胎内回帰)、それ(敵)とたたかうことを止めた時から、作家と作品の(職人)芸能化、「エンターテイメント」化、showbiz化、劇場〔プラトンの洞窟〕化、そしていわゆるゲーマーの単なるゲーム化は始まるのだ。

そしてこれらのPCゲームは、次世代を担う子供=kidsと、幼稚化した大人オタク、カルトをターゲットに次々と開発競争により販売され、PCの先兵として急速に普及している。PCとゲームこそ、世界を玩具として、全能的支配感を持つ幼児に与える先兵である。

文化と言語の発信者である創造者は命令(コマンド)する主人masterとなり、その命令His Master's Voiceを素直に聞くだけの言葉なき(物言わぬ)召し使い奴隷群集にとって、現在のTV以上にPCは馬の耳に念仏のただの箱か、オウムやこのHeaven's Gateなどカルトがやりかけていたような極めて便利な仏壇型洗脳機械となろう。

これが一つの文明病であることを指摘したのがジョナス=クラインの‘Man Child’「幼稚化の時代」である。オウムやヘヴンズゲイトのような絶対的カリスマを教祖に頂くPC&ドラッグ時代のカルト教団にこれらの影響が如実に表われた。天皇崇拝、ヤクザの親分崇拝はこれを地で行っているものである以上に、戦後日本のアメリカを凌ぐお家芸となった(PC)ゲーム業界の基礎を築いた闇市ヤクザテキヤから始まったパチンコという独自の麻薬的遊戯自体が、このPC&ドラッグそのものの「パチンコ依存症」を生み出している日本の病巣は母原的にして幼稚化太母退行的という意味で根底的である。警察とパチンコ業者との癒着

R・カイヨワは日本のパチンコを彼の「遊びの4つのカテゴリー」中、「眩暈」に入れ「しかし、低次元の空虚な眩暈である」としているが、私に言わせれば巨大な迷宮メールシュトレームか地下牢獄dungeon、地下墓地catacombとともに眩暈=回転とは、太母に吸い込まれる「ウロボロス渦」アトラクタの作用でありそれこそ「幼児退行的麻薬」なのである。そしてここにもヤクザが噛んでるのは常識である。

 

[毎日新聞'98年4月11日] <パチンコ依存症>ベータ・エンドルフィンが原因、学会で発表へ


 喫煙時やスポーツなどで陶酔状態になった際に、脳内で増加するたんぱく質「ベータ・エンドルフィン」がパチンコをしている時にも大量に分泌することが、東京理科大諏訪短大(長野県茅野市)の篠原菊紀講師(38)=健康教育学=らの研究で分かった。パチンコに熱中し、車内に子供を放置、死なせてしまう事件が相次いでいるが、パチンコへの依存性のメカニズムが大脳生理の面から解明される可能性があるという。6月に東京で開催される「日本生理人類学会」で発表される。

 篠原講師らは昨年12月から今年1月にかけ、予備調査をしたうえ、パチンコをしている28〜42歳の男性6人を対象に、パチンコをしていない安静時から、パチンコを始め、大当たりし、終わるまで計5段階に分けて血液を採取し、脳内で分泌される物質を調べた。

 この結果、ベータ・エンドルフィンの分泌量がパチンコ大当たりの瞬間に、6人平均で、安静時の約1・5倍に増加したことが分かった。喫煙時など陶酔状態で多く分泌される神経伝達物質「ドーパミン」の量も大当たり終了時に最高となり、安静時の約1・6倍に達していた。

 パチンコをやる時間は、6人のうち最も多い人が週約20時間で、最も少ない人で週約1時間だが、よくパチンコをしている人ほど、分泌量の増加率が高かった。このため、パチンコをやればやるほど、快感が増し、依存性も高まると推定できた。

 エンドルフィンは、モルヒネに似た麻薬類似物質。スポーツをしている時に、急に疲労感が消えて陶酔状態になる「ランナーズ・ハイ」の際や喫煙時などに、脳内でエンドルフィンが多量に分泌されることが確認されている。しかし、ギャンブルや遊戯への依存との関連については、研究が進んでいない。

 篠原講師は「子供を死なせてしまうほどのパチンコ依存。なぜそれほど夢中になってしまうのか、そのメカニズムを早く生理学的に解明する必要がある。その一端がようやく分かった」と話している。 【太田 裕之】

(ボールド引用者)

 
asahi.com98/2/25 暴力団に流れる資金は年間約270億円

 東京都内の全パチンコ店が暴力団に吸い上げられていた資金は、年間約270億円にのぼっていたことが25日分かった。警視庁保安課が店ごとの調査結果を集計したもので、約1500店を数える都内のパチンコ店の全店が、同日までに暴力団排除を宣言した。暴力団の資金源になっていると批判されてきたパチンコ業界が絶縁に取りかかったのは1989年。暴力団側は発砲、放火事件などを繰り返し、全店が暴力団排除を宣言するまでには9年かかった。「長年の腐れ縁を本当に清算できるのか」と懸念する声もなおあり、保安課は暴力団の動向を今後も厳しく監視していく。

 パチンコ業界には当初から暴力団の影があった。換金システムや経理の不透明さにつけ込む形で、暴力団関係者が景品交換所を経営して法外な手数料を上乗せしたり、用心棒代として生花や消臭剤などを高値で売りつけたりして資金を吸い上げてきた。

 都内の店でつくる都遊技業協組は1989年、パチンコ業界のイメージアップを目指して「暴力団排除」を決議。暴力団系業者との取引を絶つ運動を始めた。

 警視庁も全面協力し、店ごとに暴力団との関係や上納金の実態について事情を聴き、帳簿の任意提出を受けるなど調査してきた。

 その結果、杉並区の業者が景品納入手数料として暴力団側に最高で年間2億3000万円流したり、渋谷区の業者が景品の価格に「手数料」を上乗せする形で暴力団側に毎月1400万円を渡したりしていた例が明らかになった。都内にある約1500店の大半から何らかの形で暴力団に資金が流れ、総額は年間271億円にのぼることが判明した。

 絶縁宣言の動きに対して、暴力団側の報復とみられる事件も相次いだ。91年には世田谷区の北沢地区の組合長宅に発砲したり、火炎瓶を投げつけたりしたなどとして、暴力団関係者7人が逮捕された。街宣車も140日間にわたって町中を走行し、「北沢戦争」と呼ばれた。

 東部の「墨東戦争」ではパチンコ店経営者宅にブタの頭部が置かれ、店にトラックが突っ込んだ。一連の事件で暴力団員ら計約266人が検挙された。

 報復への恐怖などが障害となり、暴力団排除が難航した地区も多かった。豊島区の巣鴨地区が最後に絶縁を宣言するまでの9年間に、都遊協は暴力団系の景品交換所計207軒を追放したという。

***


パチンコ、TVのような仏壇型洗脳機械に継いで資本を回転させる機関の地位を狙っているのが、wwwに接続されたPCである。現在から考えても、PCショップを開き派手なHP宣伝で信者獲得の手段としているオウム真理教は、(そのサリンゲーム感覚においても)旧世代カルトである共産党に盗聴器を仕掛けたりしていた日本の公安警察の意識と比べ数十歩先を行っていたのである。

路上で争う格闘技ものの‘ストリート・ファイター’のような設定のゲームは、飽きられる程出まわっている。


遊びと、実用化では単に、シュミレート予測が正確、厳密かの違い、複雑さ、リアリティの程度の違いがあるだけで、それらを一種のゲームとみなしていることではその属する世界観は全く同じである。経済に始まったゲーム理論の創始者は、現代コンピュータの創始者でもあり、量子力学をヒルベルト空間論で基礎づけしたアメリカのハンガリー移民フォン・ノイマンであった。ホイジンガも歴史的にゲームより広い人類にとっての「遊び」の意義を歴史的に基礎づけようとしたオランダの同時代人であった。

こうした人類の頭脳ともいうべき応用数学理論家から、ゲーマーには残されている現実とシュミレート・ゲームとを区別する能力を欠くことによって、あたかも「ゲームや遊びのように路上で浮浪者や通行人を簡単に殺してしまう」チーマー、オウム、そしてこの酒鬼薔薇聖斗までの存在をも紙一重に呑み込んでいるのが20世紀末というこの時代であろう。PCとゲームこそ、世界を玩具として、全能的支配感を持つ幼児に与える先兵である。

Rock around the Clockと「暴力教室」に始まった時代の波はA・バージェスが予言した「時計じかけのオレンジ」にまで確実に押し寄せて来ているのだ。1968年にA・C・クラークとS・キューブリックの予言した、スターチャイルドの宇宙的胎内回帰に終わる「2001年」まであと数年ではないのか。そしてそこにはR・シュトラウスの、神を殺した「ツアラトゥストラはかく語りき」が流れていたのである。

SFの中興の祖H・G・ウェルズは「タイムマシン」でこうした機械環境母胎回帰(熱帯の楽園退行痴呆?)による退化に終わるものとして人類の未来を描いていた。そして「ブレードランナー」(P・K・ディック原作「アンドロイドは電気羊の夢を見るか?」)で一躍ありふれたものになった、スラム化した暗黒都市と、そこにたむろする、モッブグループ、レプリカントの群れの未来イメージはH・ボスの描いた「中世の秋」の地獄絵1快楽の園の結末としての地獄絵2最後の審判、に回帰する…(これらのボスの絵画のホームWebMusium,Paris)さらには悪魔の巣窟ソドムとゴモラ、ゴグとマゴグ、大いなる母胎バビロンの亡びへと。戦後の闇市への回帰はここリムネットの「スキヤキタワー」でも繰り返されている。これらすべてをG・キリコは80年程前にそのマヌカンで透視していたのだ。

こうして都心の空きビルには、ヤクザやモッブ、ホームレス等が占拠住み着くようになり、地域住民はそこから疎開するように避難して行くだろう。都市はこうして見捨てられ、ドーナツ空洞化スラム化するのだ。

「この世界ではあなたが創造主(ゴッド)」となるフラクタル3Dシーナリー生成ソフトVISTAPROのキャッチコピーに「このソフトを使ったら、君は新しいイメージの世界に夢中になるだろう」というA・C・クラークからS・キューブリックに宛てたメッセージが使われていたのは偶然ではない。

神の殺害された社会においては、人間が、狂気に追い込まれたニーチェの「超人」のように自我肥大したヒトラーナチス的独裁者=天地創造する全能の神となる他ないからである。

ここに20世紀前半には、ナチスの他、キリスト教から破門された無神論カルト=マルクス主義独裁政治が、個人崇拝イドラトリとして中国、ロシア、北朝鮮等資本主義の遅れた段階の社会に入り込む余地があったのである。

日本もその流れが及んだ、国際社会に出遅れた資本の社会であった。

戦中の天皇制ファシズムも、毒ガス細菌兵器を造り、生体実験をするなどナチスと同盟を結んだ神道系国家社会主義による、オウムそっくりの、オウムを予告するカルトであった。

社会統制経済主義という点では、自民(神道系国家社会主義)も共産(マルクス主義インタナショナリズム)も右から左までその価値観は一致して区別がないというのが、戦後日本を支えた基盤であった。

オウムのような20世紀後半の新興カルトはその、崩壊後にできた宗教的空白に乗じようとし、ロシアに進出していった。

つまり、すべての社会資本と労働者、科学技術は、最終的に欲望だけ肥大させて育った全能感を持つ無能力=無責任者乳幼児=赤ん坊陛下に仕える結果になるのである。大人は、幼児の欲望を叶えるための従僕的存在と化すのである。(支配的依存)

もちろん、これらの源は、ホイジンガも指摘し、ニーチェにも及んだ、人間と世界を洞窟の外にいる神の神聖な玩具と見るプラトンの遊戯思想によるものだが、現代では、洞窟内の巷に迷う群集は、突出した一部の諧謔的犯罪者によって弄ばれる実験対象モルモットに成り下がっている。

ここでは、人間と世界は、幼児的欲望を持った独裁的支配者の玩具的ジオラマとなるのだ。麻原彰晃は、自分の子分として命令通り動く「ロボット」=リモコンの玩具が欲しかっただけ、とも言われている。

PCとゲームこそ、世界を玩具として、全能的支配感を持つ幼児に与える先兵である。


既に社会は崩壊しているのである。

敗戦の焼け跡に発生した幾多の浮浪児、私生児、孤児のように、あの少年も、阪神大震災後の焼け跡に立ち、同じ「社会アノミー」感、一種のカタストロフ感を味わったのではあるまいか。世界が崩壊するハルマゲドンを待望したオウム幹部の早川は地下鉄サリンなど一連の行動を「戦争」と位置づけていた。その廃虚の中から「オウムの子ら」だけが、一種の孤児として生き残るのである。

サバイバルの流行は、アウトドア、キャンプライフ、ミリタリー感覚を伴なって既にかなり以前から広まっているものだが、その根底には、喩え文明社会が崩壊しても、その焼け跡廃虚ストリートジャングルで自分だけは生き残ろうという本能的、無意識的な備え、というものがある。

こうした環境こそが、公表された家庭裁判所決定において

「また、低い自己価値感情と乏しい共感能力の合理化・知性化としての『他我の否定』すなわち虚無的独我論も本件非行の遂行を容易にする一因子を構成している。」

といわれた神戸事件の少年の、

自分は他人と違い、異常であると落ち込み、生まれてこなければ良かった、自分の人生は無価値だと思ったが、この世は、弱肉強食の世界であり、自分が強者なら弱者を殺し、支配することができる、などという自己の殺人衝動を正当化する独善的理屈を作りあげていった。」

という「善悪の彼岸」ともいうべきニーチェの「超人思想」あるいはそれに影響を受けたナチスくずれのストリートジャングルサバイバル思想の心理的背景を形成したと考えられ得る。

ここでは勝利の後には、至る所に転がる敵の死骸の殺伐とした光景と、自分だけは生き残ったというそれ自体虚無的な安堵感だけしかゲームの報奨はない。人間存在に意義を与える神すらも殺害されているからである。

〔プラトンの洞窟〕内においてDungeon Keeper(地下牢獄番人)という名の悪の支配者になることを目差す、善悪が倒錯したゲームすらE・Aビクターより発売されている。

つまり戦後日本人は能力がないか、怠惰のためかいずれにせよ近代市民社会を創造することに結果的には失敗流産したのである。「恐るべき子供たち」はそうした流産の結果できた育てる親のない戦後の不具で奇形の「鈎十字から涙を流した」「私生児」母も名乗らない「捨て子」「孤児」「浮浪児」「オヤジ狩りを楽しむストリートチーマー」の群れである。

お爺さん、お婆さんと、超越的能力=超能力をもつ童子=幼児だけしか存在せず、成人=英雄原型が希薄極まりない「***太郎」ものに代表される日本の昔話がそれを裏付ける。つまり彼ら童子は、父母なしに誕生したという意味で一種の孤児なのである。

小さ子神=オメデタイ エビスの足を引っ張る、足を切って去勢身動きできなくする=ヒルコ不具奇形を生むのが、「甘」と「天」と「海」の太母である。

神の殺害された社会においては、人間が、狂気に追い込まれたニーチェの「超人」のように自我肥大したヒトラーナチス的独裁者=天地創造する全能の神となる他ないからである。

消費者は王様とは、赤ん坊陛下にすべてが支配的に依存されるということである。

つまり、すべての社会資本と労働者、科学技術は、最終的に欲望だけ肥大させて育った全能感を持つ無能力=無責任者乳幼児=赤ん坊陛下に仕える結果になるのである。大人は、幼児の欲望を叶えるための従僕的存在と化すのである。(支配的依存)

「強い者が弱い者を殺しても罪にはならない」というのは、プラトンの有名な対話編「国家」にある「正義とは強い者の利益のこと」とするトラシュコマスの主張以来、ニーチェを経由して、「超人思想」を持つ犯人の登場するフィルポッツのミステリ、ヒトラーのユダヤ人大量虐殺の論理、近くではオウムの大乗仏教を越える立場としての金剛乗タントラ・ヴァジラヤーナの教義まで脈々と受け継がれ、流れてきた宗教、政治思想なのである。すべて打ち砕く金剛(ダイアモンド)乗の教えというのはニーチェの「ハンマーをもって哲学する道」に通じる思想である。

The Beatlesの‘Maxwell's Sillver Hammer’を聞け。

 「好きなので万引したナイフやハンマーを護身用に持ち歩いていた。」(97/9/15神戸新聞;二月の女児殴打事件についての少年供述)

 

実に失礼な言い方かもしれないが、これは「善とは何か、正義とは何か」という人間存在における宗教哲学心理倫理価値の根底に関わる法以前の、議論の絶えない大問題、あるいはキリスト教世界では「キリストとアンチ・キリスト(サタン、悪魔主義)との闘い」ゾロアスター教でいうアフラマズダ善なる光と、アーリマン悪と暗黒の永遠なる闘争(ヘラクレイトス)と人類永遠のテーマと言われるものであって一家庭裁判所の手に負えるような範囲の問題ではないのだ。

実際、「善悪の彼岸」を書いて精神に異常をきたしたニーチェの永劫回帰、超人思想=ツァラトゥストラの源泉のひとつはショーペンハウアーの他にゾロアスタ教だったし、この容疑者少年の犯行当時書いたという「バモイドオキ神」の「絵」はまさしく昼と夜、光と闇に二分された闘争が永遠に繰り返されるゾロアスタ教的世界観といえるものである。

特に神戸家裁のような国家権力の一旦を担う立場にいる裁判所が、容疑者少年の主張を、「独善的理屈」と一蹴して断罪すること自体が自己矛盾しており従って不可能なはずであろう。強い者が定めた法を弱い者が犯した国家犯罪者を罰するために犯す国家による殺人――「死刑」は罪ではないと定め、自己正当化する究極的根拠として、当の国家こそ「罪にはならない」もしくは「権力犯罪は犯罪ではない」とする政治思想を持ちださざるを得ないからである。

あるいは、兵器を敵同志で持ち合い、互いに威嚇脅迫し会うことによって均衡的な擬似平和をつくりだそうという「核兵器均衡理論」は、「強い者が弱い者を殺しても罪にはならない」ことが前提として公認されている動かしがたい現実の上にこそ全世界に採用され、日本はその米、中、露に取り囲まれた渦中にあるのである。

熊が人を襲えば喩えそれが人の側に不備過失がある正当防衛でも直ちに問答無用で射殺されるのに、人が熊の先に住んでいた居住区を荒らし続けても罪には問われないという非対称的な事態は、強くて狡猾な者の持つ自分勝手な妄想的理屈以外の何で決まるか?

あなたが今朝食べた食事はすべて「強い者が弱い者を殺し」た結果得られたものである。

一体どこの誰が、何の根拠をもってそれら動植物の命を奪う、日常組織的大量虐殺カンニバリズムに満ち溢れた食卓を「罪ではない」と「自己正当化」し日々これを許しているのか?

ある時期には、熊を殺してその肉を食べても良いという許可を、アイヌは宗教儀式を執り行う「聖化」によって得ている。食われる側の立場からいえば「自己正当化」である。

彼等こそカルト、ヤクザやオタクとなって生き延びる者である。「オタク」は、幼女性愛、女性アイドル追っかけ、ストーカーにも通ずる母を求める母癒着的太母原理社会の産物とすれば、「カルト」、「ヤクザ」には、自分に命令を発するカリスマ的父を求める求道宗教的父権原理社会の末裔の面影がそれぞれの社会に応じた個人崇拝(死霊、祖霊、親分崇拝)イドラトリの傾向として強く残っているとも言えよう。

宮崎勤は、雑誌「創(つくる)」のインタビューに獄中から答えた2回目の書簡の中で、「ニセの父が死んだ時はスッとした」と答えながらある種の血統妄想を抱いていることを窺わせ、「私に本当の両親を教えろ」と「ニセの両親」に食ってかかっている。手紙全体の中でもこの部分は、異様な迫真性に満ちているのである。

これは、様々に考えられるが、一つには、川端康成の文学が「孤児の文学」と称されるのと同じ次元から発する日本的「孤児妄想」に原因があると言っても良いのではないだろうか。

お爺さん、お婆さんと、超越的能力=超能力をもつ童子=幼児だけしか存在せず、成人=英雄原型が希薄極まりない「***太郎」ものに代表される日本の昔話がそれを裏付ける。つまり彼ら童子は、父母なしに誕生したという意味で一種の孤児なのである。

 


(神戸事件容疑者の)少年の犯行動機には祖母の死を経験したことが「人間の死に関心を持つ」主なきっかけを与え(宮崎勤の犯行が祖父の死をきっかけとして始まったのと相似が認められる)それが小動物解剖を楽しみ、殺人実験と遺体切断の欲望を持つに至るまでになったもので、特に家庭、マスメディア、学校などに問題や直接的影響はなかったとしている検察による異例の発表が唯一の公式見解として残った。

(中略)

第一に、祖母との関係である。

小学校入学と同時に、一人暮らしだった祖母と同居し始めた。自分を大事にしてくれた祖母だけが大切な存在だった。

これだけでは断定しかねるが、かなりこの少年の家庭自体が、日本に良くありがちな祖父母が実権を持っている祖霊崇拝的伝統を根強く保持していたのではないかと伺わせる供述である。

宮崎勤の家庭では、それが祖父であり、祖父の死に伴ない一連の異常な犯罪行為に傾斜して行くのだが、この事件では祖母という太母がそれに当たる疑いが出てくる。

1997年のいわゆるエリート家庭に起った「祖母殺し高校生自殺事件」がその典型と思われる。(本多勝一「子供たちの復讐」第4章以下参照;特に5章「全社会構造への復讐」斎藤茂男の祖父母の役割喪失発言p443;河合隼雄のユング心理学を緩用した6章<「正夢」と化した儀式>p491〜;「母性原理と父性原理の対立の犠牲者たち」p548は今回の事件の核心を突いている)

Artemis Samper神戸小学生惨殺事件を追う


小さ子神=オメデタイ エビスの足を引っ張る、足を切って去勢身動きできなくする=ヒルコ不具奇形を生むのが、「甘」と「天」と「海」の太母である。

ヤクザ自体が、いわゆる幸福な一家団欒のある家庭からグレタ者同志の共済組合のような結社「**一家」であるが、「グレる」「グレン隊」というのは私見では「母からハグレル」スサノヲがその心理的原型を成すと思われるからである。「はぐれ雲」「はぐれ刑事」の例を見よ。

神戸事件での犯行声明に書かれた例の謎めいたシンボルは、ナチスの鈎十字にそこから流れ出る涙を組み合わせたもので、少年を含む近所の遊び仲間集団のマークとして北須磨公園などによく落書きしていたものであったという。――受験体制によって生産された「知的でナチス的であれば、誠実でない」子供(「子供たちの復讐」本多勝一編p489)から落ちこぼれた涙とも考えられる。

あるいは、宮崎勤のように本当の母も父もいない家庭で育てられたことへ流した涙なのかも知れない。少年は逮捕後も、両親との面会を一貫して拒否していると伝えられている。

ある者はカルトに入会し、ある者はひたすらオタクに閉じこもり自閉化孤立し、またある者は家庭、学校、地域を社会全体に対する憎悪と暴力で満たした。

いわば外来の遊行するカミ=占領軍GIが帰国した後に、焦土に残された闇市の巫女にして遊女パンパンから産み落とされた父親のない御子「私生児」母も名乗らない「捨て子」「浮浪児」こそがその一部がヤクザとなって今日ある日本と日本人を形成してきたのである。このパンパンは今日の援助交際と称する売春行為を餌に、金のあるオジサンにタカル女子高生になっている。

その結果は、現在も神戸で繰り広げられている、組と組との合併吸収離散集合、血なまぐさい対立抗争報復に継ぐ報復の果てしなき循環拡大なのではないのか。(日本の政権交代なき、特定政党間内だけでの大政翼賛派閥抗争政治といわれるものは、その親分子分兄弟分ヤクザ抗争の舞台を国会という言論の演技場、闘武場に移しただけのものである。)(後記)

これは動物社会に見られる対他集団縄張り抗争、同じ集団内での順位制をめぐっての合併吸収離散集合兄弟分序列抗争であって、理念と思想を持った人間的な政治行動ではない。

神戸事件始めこれら少年らが持ち歩いていたという小型ナイフにしたところで、「護身用だ」と言われれば、その自己申告を否定することはできなくなるのである。チーマーたちは既に釘打ちこん棒、メリケン、ナイフなどで武装している。

すべて打ち砕く金剛(ダイアモンド)乗の教えというのはニーチェの「ハンマーをもって哲学する道」に通じる思想である。

The Beatlesの‘Maxwell's Sillver Hammer’を聞け。

 「好きなので万引したナイフやハンマーを護身用に持ち歩いていた。」(97/9/15神戸新聞;二月の女児殴打事件についての少年供述)

戦後闇市ヤクザから派閥政治へ伝えられた伝統は、亡国焼け跡のストリートキッズ、チーマー、モッブ同志の対立抗争に移って行くのである。

ヤクザは武士を経て、政治家となり、カミは、公家を経て現在の官僚になっている。法と言語を護るべき最高の規範はこうして、青少年たちの眼前で自壊したのである。エコノ=エロチックパラサイトの完成である。しかも、それは同時に大蔵官僚主導日本経済の崩壊でもあった。

知性と精神の幼児退行麻痺、言語秩序の混乱、崩壊は、暴力の呼び水である。

耳のある者は、聞くがよい。とりこになるべき者は、とりこになっていく。つるぎで殺す者は、自らもつるぎで殺されなければならない。(ヨハネ黙示録13.9〜10)

つまり、もはや、いかなる施策、言論、力によっても、神にさえも、この道を引き返し元の姿に戻すことはできないのだ。我々は、引き返しうる分岐点を50年前に、何も考えないまま経済発展に浮かれて通り越したその報いを、この世の地獄図として、今受けているのである。

一旦警告を無視して暴走しだしたこの道は、亡びるところまで進むしか止まるところを知らない。途中下車も乗り換えもできずブレーキも切り替えポイントもない単線レールの上をひたすら突き進む列車<Speed!>のように「死」と「自滅」が、終着点なのである。

忠臣蔵討ち入り、真珠湾奇襲攻撃に典型的に見られるように、昔から日本人は忍従の果ての「堪忍袋の緒」をぶちっと「切った」ヤクザ一家の殴り込み=討ち入りマスヒステリー切腹自殺玉砕に終わる暴力行為を起こし自己正当化て来たのではないのか?

大人の退行胎児化、子供の早期自殺、奇形不具、精神異常傾向と歩調を合わせるようにかなり以前から始まっている、少子化傾向どころか結婚しても子供を産まないNo Kidsの選択、そしてそもそも結婚生殖しないセックスレス人生を選ぶ世代の登場は、人工生殖クローン移植テクノロジーによるこの社会カタストロフを生物本能的に予兆する生理変化適応=幼形進化と言うべきである。

小さ子神=オメデタイエビスの足を引っ張る、足を切って去勢身動きできなくする=ヒルコ不具奇形を生むのが、「甘」と「天」と「海」の太母である。

彼等こそカルト、ヤクザやオタクとなって生き延びる者である。「オタク」は、幼女性愛、女性アイドル追っかけ、ストーカーにも通ずる母を求める母癒着的太母原理社会の産物とすれば、「カルト」、「ヤクザ」には、自分に命令を発するカリスマ的父を求める求道宗教的父権原理社会の末裔の面影がそれぞれの社会に応じた個人崇拝(死霊、祖霊、親分崇拝)イドラトリの傾向として強く残っているとも言えよう。

Rock around the Clockと「暴力教室」に始まった時代の波はA・バージェスが予言した「時計じかけのオレンジ」にまで確実に押し寄せて来ているのだ。1968年にA・C・クラークとS・キューブリックの予言した、スターチャイルドの宇宙的胎内回帰に終わる「2001年」まであと数年ではないのか。そしてそこにはR・シュトラウスの、神を殺した「ツアラトゥストラはかく語りき」が流れていたのである。

つまり、すべての社会資本と労働者、科学技術は、最終的に欲望だけ肥大させて育った全能感を持つ無能力=無責任者乳幼児=赤ん坊陛下に仕える結果になるのである。大人は、幼児の欲望を叶えるための従僕的存在と化すのである。(支配的依存)

21世紀にサバイバルしようとする者はその覚悟を決めておかねばなければならない。

毎日畑や漁に出て働いている人々と、ノーパンしゃぶしゃぶに行きたいとタカル「自称エリート」エコノ=エロチックパラサイト官僚と、どちらが高潔な人間といえる資格があるのか、あなたは心から自分の子供に教えることができるのか。

 

単線しか存在せず、選択を許さない身分社会意識だからこそ、その大人たちが明治以来用意した公認出世コースから子供が自分の意志で退くことは、まるで江戸時代の下人か穢多(エタ)・非人の人生が始まるかのように部外者たちが大騒ぎするのです。彼ら戦後自由社会に生きる大人がしなければならないのは、後から来る子供たちのために、選択の効く別の線路を幾つも築いてやることのはずなのに、彼らはこの50年間それを何もしてきませんでした。

一旦警告を無視して暴走しだしたこの道は、亡びるところまで進むしか止まるところを知らない。途中下車も乗り換えもできずブレーキも切り替えポイントもない単線レールの上をひたすら突き進む列車<Speed!>のように「死」と「自滅」が、終着点なのである。

自分がやれなかったこと、できなかったこと怠けていたことを、いざ将来の進路を切り開く子供がやろうとすると、親は自分の無責任を棚に上げておたおたするのです。だから、中途退学者の増加を憂い騒ぐ大人は、自ら果すべき社会的義務の怠惰を、子供の問題に摩り替えているだけだと言えます。子供の将来が心配だ、と。では、出世コースに乗って「ノーパンシャブシャブ」にタカルようになった子供は、退学してナイフを持った子供より安心といえるのか、自問すべきでしょう。

学歴からはみ出た職人や、日雇い作業者、農漁業従事者、芸能人などを裏では蔑視し、平等な人権を持つ人間とは見ようとはしない学歴身分意識の隠微な温存こそが、彼らにいつまでも社会的権利を僅かしか持たない哀れな犠牲者、社会落伍者の前近代身分差別社会の現実を与え正当化し固定化し続けているのではありませんか?

どちらに進もうと、法の下に等しく人権が与えられ、職業の貴賎が問われることのない誇りある社会が本当に実現していれば、あるいは実現しようと努力していれば、人生を自ら選択決定する一人の人間として中途退学、中途退社はそれ自体問題行動と見られるはずはありません。戦後日本のこのような社会動向は、それがまだまだ建て前だけに終わり、実質は江戸時代からの身分差別社会が強固に残存していることを、そして大多数がそれに無自覚な自己欺瞞の上に平穏な日常を成立させていることを示しているのです。

子供たちの登校拒否も、中途退学も問題だと言う者は、「赤信号、みんなで渡れば怖くない」と考え自分の乗っている列車が一体猛スピードで敷かれたレールの上を赤信号を無視し何処へ向かって突き進んでいるのか良く考えて見るべきだろう。「みんなで渡れば怖くない」という群集心理における真実は、赤信号による警告が誤報でない限り「みんな一緒に心中玉砕安楽死」というやがて来るカタストロフの自己破滅的結末まで消し去ることはできない。

「みんなで渡れば怖くない」という人生を選んだ者は、必然的に危機の予測認識も、予防も、事前回避も原因の究明も、反省も償いもしないまま「黙ってみんな一緒に心中玉砕安楽死」という結末を迎えなければならない。

というより、

われわれは絶壁が見えないようにするために、何か目をさえぎるものを前方においた後、安心して絶壁の方へ走っているのである。前田陽一、由木康訳 パスカル「パンセ」183

そのカタストロフの事実を意識的に振り払い考えなくするための思考停止幼児退行麻痺抑圧作用として、このような西欧に追いつき追い越すための「驚異的なスピード」で復興してきた社会では絶え間なく「サーカス」と「気晴らし」「お祭騒ぎ」による劇場〔プラトンの洞窟〕そして究極的に「知らぬが仏の安楽死」と「煙草とパチンコとバクチ」「麻薬」が必要とされるのである。知性と精神の幼児退行麻痺、言語秩序の混乱、崩壊は、暴力の呼び水である。

 

東京に長く住んでいるある人物は、「日本は、覚せい剤を必要とするタイプの社会だ」と表現している。

「暮しは単純だがスピードがあり、人はそれについていくために、覚せい剤を使うのだ。」

(前傾書)

楽して得する」という乳幼児起き上がりこぼしキャラクタ‘ドラえもん’のTVCMの教えるところは、結局、母胎からいつまでも母乳という甘い汁を吸い続ける“タカリ”寄生ヤクザオカミ渡り鳥の人生を正当化する。受験競争に勝ち抜き、各省庁を渡り歩いて天下りし「一生楽して得する」大蔵官僚はその非の打ち所のない規範である。

ドラえもんの腹にある「なんでも〔幼児の願いをかなえてくれる幼児的欲望;出てくる魔法の〕ポケット=袋」は、乳幼児が慕って入りたがるカンガルーの袋そのものである。

カンガルーの子供でもあるまいし、個人の隅々に至るまでの自己責任と罪、真相の正当な社会的追求を「キビシイ」などと言っていられるのは乳幼児だけである。母乳という「甘い汁」を吸える袋=お袋=オメデタイ福袋から既に独立し乳離れした成人には当然の義務ではないか。

 

「リスクなく儲ける方法があるだろう」などと証券取引法に違反する利益提供の要求を執拗に繰り返すのが、総会屋だけでなく、自殺した政治家にも広がっていたのである。リスクなき利益というこの「ハイリスク&ハイリターン」父権的自己責任原則に完全に背馳する「ノーリスク&ハイリターン」の虫の良い態度こそ、欲望ばかり膨らんだ割には責任能力を回避しようとする「楽して得する」母胎内胎児の思考傾向である。

ここで言う「得」とは幼児に植え付けられた欲望の事である。こうした社会的土壌から、自己能力とは釣り合わないまでにじりじりと煽られた幼児的欲望を満たすためなら、出世の努力や地道な労働報酬による購入を飛び越し、人としての倫理規範までをショートカットにより楽々と踏み越えてしまう子供が大量に育ってくるのは避けられない勢いであろう。

これが、戦後国家統制経済主義日本社会では、政治家を陰から操ることで最高の権力=金権腐敗政治の実権を持ちながら、どんなに失敗、腐敗しても国民の前に責任は取らないという、大蔵官僚陰の絶対権力の座にぴったりマッチしたのである。この甘い汁=予算裁量権にありつこうと、寄らば大樹の陰と民が我勝ちに大蔵官僚に対し宴会接待攻勢を仕掛けて来る寄生タカリ構造が完成した。

〔戦前天皇と軍閥を裏から操った内務官僚が、生き延びたのに使った同じ手口で戦後の大蔵官僚にシフトした。〕

公費で、私的で卑猥な楽しみが得られる公共タカリの一生を送れることが、堪えられない官僚オカミの隠微な役得なのである。ということは、一旦摘発公共の光に曝されてしまえば、闇に生きる吸血鬼のように,私費では絶対にそのような場末には-−もしくは、単なる吝嗇で−−通えなくなってしまうということである。闇で輝いていた赤提灯の火が消えるということである。

私的でありながらしかも公費が使えるタカリというのは近代である限り両立しない公私未分の(公私混同ではない)古代的ウロボロス矛盾を引き起こす。これは、公務員を騙る者だけが言える、公務員倫理など見たことも聞いたこともない前近代土民オカミの化けの皮が剥がれた時のせりふなのである。盗人猛々しいにも程がある。

エコノ=エロチックパラサイトの完成である。

官庁の中の官庁の‘トップエリート’がやる一流企業タカリの種が場末と同じであり、それを一流場末の民が場所を提供支持している一億裏長屋場末屋台の腐敗環境が構造的にできていたことはもはや否定できないであろう。

ヤクザ自体が、いわゆる幸福な一家団欒のある家庭からグレタ者同志の共済組合のような結社「**一家」であるが、「グレる」「グレン隊」というのは私見では「母からハグレル」スサノヲがその心理的原型を成すと思われるからである。「はぐれ雲」「はぐれ刑事」の例を見よ。

日本社会においては、表向きの、中国の模倣による天皇に仕える科挙官僚をトップとする平安朝古代律令身分体制=ひな壇型絶対主義ヒエラルヒーから外れた道は、戦後になっても、一生自嘲して陰と裏、闇の社会で生きていかざるをえない路傍の荒れ果てた〈ヤクザ=パンパン渡世〉(海の家、水商売ノーパンしゃぶしゃぶ、貸し座敷料亭女将ザブンとドボン)の世界二者択一しか用意されていないのである。

これが、敗戦後50年経った今にいたっても民主主義、資本主義、法治主義の健全な担い手としての市民階層が形成されていない日本社会の表裏二重演劇構造現実に対応する。

その古代的矛盾をTV演技の中でのみ生きているのが、最高の裁きをする裁判官僚(カミ,オカミ)が同時に肩に桜吹雪の刺青をしたヤクザ(荒ぶるカミ)でもあるという人気キャラクター「遠山の金さん」である。

ヤクザは武士を経て、政治家となり、カミは、公家を経て現在の官僚になっている。

だからこそ、その甘く暖かい母胎の袋からちょっとでも落されると、日本人は「不祥事」「キビシイ」と弱音を吐くのである。これに不満を抱き「プイとふくれる」「だだをこねる」「ふて腐れる」「ぐれる」(母からハグレル)反感を抱くのが、慣習化された乳児性抑鬱=ヒステリー性癇癪というものである。「プツン」と「キレル」のはその一種である。

「公務員倫理の確立を」と公務員が、「政治倫理の確立を」と政治家が、「企業倫理の確立を」と企業役員が叫んでいる。今までは「倫理」なし、「規範」なしでやってきたと認めているのである

彼等は、「株価と景気」の動向、賃上げ闘争や失業対策には一喜一憂懸念しても、自分の子供が頭の中に、机の中に、あるいは天井裏に何を隠しているのかは無視しているか、見て見ぬふりをしている。

かつては、美空ひばり扮する東京キッドが、空腹を抱えて見上げたビルの谷間の青い空の代り、ナイフで犯罪を犯すことを何とも思わないストリートキッズが見上げる霞が関ビルの雲の上にはノーパンしゃぶしゃぶにタカル「自称エリート」東大オヤジ世代が最高の指導者、教育者としてひな壇上に君臨するのだ。

子供からの問いかけに親たちが何も答えたくないのなら、亡国の焼け跡に、凶悪化した浮浪児の群れが行き交うのをじっと眺めているしかないと覚悟を決めるべきだろう。

知性と精神の幼児退行麻痺、言語秩序の混乱、崩壊は、暴力の呼び水である。

大蔵官僚は、金属バットを隠し持ち、自分の息子からナイフで殺られないよう常に気をつけるべきだろう。

運命共同体における掟やタブー、義理や人情倫理などの規範の総体は、驚異的なスピードで押し寄せる近代化の第三の波に洗われて次々とそのアナクロニズム性を露呈、摩耗消滅し嵐の過ぎ去った後に残った規範といえば、「赤信号、みんなで渡れば怖くない」という太母憑依同調原理に乗っ取った、衆愚=群集=モッブアノミー社会の利益誘導原始生物依存寄生タカリ戦略原則だけであった。

「赤信号、みんなで渡れば怖くない」という危機管理意識と規範を集団で無視するアノミー社会の群集心理ふつうファシズムを暗黙のうちに行動原理とすることに同意してここまで生きて来た者は、その「ふつう」であること、「みんなで渡れば怖くない」と赤信号危機の警告を無視することに同意した報いを自己責任として現在受けなければならないのである。

 

敗戦とともに始まった無宗教日本社会のアノミーは、大蔵官僚主導護送船団経済のバブル破綻と、アメリカを先兵とする外圧からの経済金融ビッグバンの押し付けとにより急性カタストロフへと突入したのである。これに、とどめを差すように,コンピュータネットワーク電子マネー社会デジタルマルチメディア革命を迫る世界共通の第三の波がバブルの後始末だけでもあたふたしている日本列島に容赦なく襲い掛かる。

 

この戦後経済社会バブル破綻とカタストロフの実態及び第三の波が何処まで来ているかの概要については、

Artemis Sampler 日本のヤクザ資本主義構造

Artemis Sampler 林檎は食われて生き残るか

をメインとする各ファイルをそれぞれ参照されたい。

日本社会はこのままだと、電子マネーとともにドルに乗っ取られる円、米語文化に乗っ取られる日本語、日米ガイドライン強化で不沈空母にされ乗っ取られる日本列島、と経済、言語文化、軍事外交、のいずれもが闘わずしてアメリカ世界戦略に丸ごと取り込まれていく事態を旗を振って自ら招くことになろう。しかも、大多数の日本人が乗っ取られ植民地化するという事実に無自覚なのは、「敗戦」といわず「終戦」と言い続け平穏無事にここまで戦後日本を支えて来た自己欺瞞の上塗りである。

日本の植民地化の進行状況については

Artemis Sampler米空母インディペンダンス小樽寄港の意味

の特に後半部を参照。

 

あなたがたは、終わりの時にいるのに、なお宝をたくわえている。(ヤコブ5.3)

これはキリスト教中世世界における、永遠なる来世信仰に満たされた修道院内部の、俗世を捨てた禁欲的合理的活動が、来世の信仰を持たないその外部にまで流出浸透したその馴れの果てから来る偉大な錯誤に他ならない。

・・・もはや、彼らの商品を買う者が、ひとりもないからである。(ヨハネ黙示録18.11)

これは警告はなく、引導である。

(98/2/14)

 


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