ミステリとロック、そしてゲームは20世紀の芸術か?
―――「娯楽としての殺人」ゲームの末路―――
もしくはmystery,cult,occult,cultureの系譜
タブー|ペルー|空母|ヤクザ|脳死|カルト|酒鬼薔薇|神戸事件|動燃|カラ不正|ミステリ|林檎
神なき社会アノミーからカタストロフへ−頻発する少年ナイフ犯罪に寄せてもご覧ください。
| 1997年4月29日作成 | スタート・ページへ |推理小説教程へ(未だアップせず) |
始めにつないだのが興味のあるあなたのページでした。いいですね
同じ***だったのは偶然ですが、私も欧米の本格ミステリには強い関心があります。なぜならミステリは西欧近代文明の必然から産み落とされた豊穣な果実であり、単なる文芸を越えた文明史的意義をもっているからです。いわゆる19世紀に亡んだ文学と同じ様に、推理小説は20世紀特有の文芸形式だったのです。あなたほどにはたくさん読んではいませんが・・・。
特に、「黄金期の歴史」のような紹介及び評論はもっと盛んにした方が良いと思います。西欧の啓蒙思想の歴史を背負いE.APoeに始まったその歴史は近代の終焉である第二次世界大戦と共に、西欧の没落とともに終わったというのが私の持論です。つまり推理小説は西欧にしか存在せず、20世紀前半にその運命的な使命を終えクリスティの「そして誰もいなくなった」とともに亡ぶべくして亡んだのです。従って今現在、日本で量産されている「推理小説」と称するものは――少なくとも私の定義では、推理小説ではありません。(同じくPoeが始めたSFはこれからの文芸形式です。)
私はなかでもあなたの「アクロイドとヴァン・ダイン」の項に興味があります。ヴァン・ダインについて「この作家自体が忘れられても、その存在の巨大さが消えることは永遠にないであろう」と結ばれていますが、前半の部分を除けば私も同感です。彼の偉大な重心はそのちゃちなトリックにあるのではなく、評論もしていた神が死んだ後のニーチェ超人宗教思想とリーマン=アインシュタイン空間の父権的科学思想およびマザーグースの太母の空虚とを一つにまとめた全体の背景思想にあるからです。その西欧文明を一人で背負う巨大さが私たちを未だに感動させるのではないでしょうか。ちょうど当時の文芸=科学思想を背負ってユリイカを書いたポーが未だに感動させるように。
少し長くなりました。暇があったら読んでみて下さい。artemis(1997/5/21)
artemis
さん、はじめまして。メールをありがとうございました。私のホームページに対して貴重なご意見をありがとうございます。大変参考になりました。
ただ、私自身はあくまでも「ミステリはエンターテイメントである」と位置付けており、これこそが私のとってのミステリの大前提です。このエンターテイメントという枠を守りながら、何を描きうるのかという可能性にこそ惹かれています。
その意味で1980年代こそが、ミステリの第2期黄金期であると考えています。******その流れが80年代に一つの完成を見たわけで、ではその後何処へ進むのかというのが、90年代以降の現代のミステリの課題ではないでしょうか。そう考えています。
それでは、今後もよろしくお付き合いをお願いいたします。****(署名)
(1997/5/24)
メール差出人への事前公開承認が、メール不調のためか間に合いませんでしたので、公開しても問題はないと判断して掲載しました。****さんお許し下さい。
お手紙拝見しました。
さて、肝心のミステリの話をさせてください。
「ミステリはエンターテイメントである」ことを「大前提」とするあなたの信念には感服しますし、そう言われれば私としては引き下がらざるを得ません。しかしエンターテイメントとは本来、「余技、余興」のことではありませんか?・・・・・
だとすれば本業を忘れた処には「余技、余興」すら存立するはずはないと私には思われます。
The
Beatlesがいたかつてのrock全盛期のように、一時は、音楽で世界が変わると信じられていたものが、いまや他にもいろいろある中の「エンターテイメント」あるいは金になるshowbizの一つとなっているように、ミステリもその黄金期には、現在では考えられない程、存在の輝きを放っていたのです。(このTheBeatlesについての評価はいまや中学の英語教科書!にもそのまま書かれているほどで、私だけの意見ではありません)
ミステリには「エンターテイメント」の要素が十分あることを私は否定するつもりはなく、ただ、それは西欧文明を背負えるほどに巨大で多面的な価値を包含するミステリのほんの一部であると言いたいのです。つまり本業は他にあるのです。そういう意味から、「この作家自体が忘れ去られても、その存在の巨大さが消えることは永遠にないであろう」というあなたのヴァン・ダインの評価を考えて頂きたいのです。
存在の巨大さを認めながら、「エンターテイメント」だけの価値から評価することから、ビーストンが流行って廃れたのと同じレベルでヴァン・ダインも忘れ去られるという認識になっていないか、とミステリのオールド・ファンとしては危惧するものです。「黄金期の歴史」を書くならばその評価軸だけでは黄金の黄金たる存在の輝きを見過ごしてしまうのではないでしょうか。
単なる流行するエンターテイメントと、真の歴史に残る作品との違いは、ジャンルそのものにあるのではなく、その作家の現実との関わりかたによって発生するものだと私には思われます。
現実との関わり合いから意識的に引きこもり(胎内回帰)、それとたたかうことを止めた時から、作家と作品の(職人)芸能化、「エンターテイメント」化、showbiz化は始まるのです。
長くなりました。言いたいことはまだまだありますが、メールが不調のようですので、この辺で。文字化けしていなければ、暇な時にお読み下さい。
artemis(1997/5/25)
5月28日、神戸市の須磨区にある友が丘中学校正門前で午前6時40分ころ、子供の頭部が置いてあるのが発見された。その日の午後3時になって、「竜の山」(通称「タンク山」)という近くの小高い雑木林の高いケーブルテレビアンテナ施設のフェンスの中から、頭部のない身体の部分が見つかり、両者が一致することを確認、近くに住む多井畑小学校6年生 土師(はせ)淳の遺体と断定された。
付近を通った目撃者の聞き込みから、頭部が置かれたのは、朝5時10分から20分のたった10分間の間だったらしい。
この医師の息子は、窒息死して2日経っており、24日土曜日に700mほどしか離れていない祖父の家に遊びに行くといって一人で出かけたきり、行方不明になっていたのだ。その日の夜に首を絞められて殺害されたものと思われる。
ただでさえおぞましい切断頭部の口には、赤い文字で「酒鬼薔薇聖斗」とかつての封書のように縦書きされた10×25cmの紙が挟まれていた。特殊な畳まれ方をした中には、もう一枚の紙があり「警察の諸君へ」、「私を止めることができるか」、「スクールキル」「僕は人を殺すのが愉快だ」などという挑戦的な文面がおどっていた。
この降ってわいたような猟奇的事件に付近の住民はつい2月前に起こった通り魔事件を思い出しぞっとした。3月16日に、「竜の山」の目と鼻の先にある「竜ガ台団地」で、竜ガ台小の3、4年女児二人が週末に襲われ、うち一人が死亡していたのである。同様な未遂事件も起こっていた。これらすべての事件が、およそ1km四方の狭い範囲で起きていたのだ。
一見するところ意味不明な「酒鬼薔薇聖斗」という漢字の羅列には、「さかきばら せいと」と読める手紙の差し出し人の署名なのではないか、あるいは「サッキ、セイト、バラ(した)」のアナグラムの暴走族風漢字による当て字とする意見が出ている。誰でもが宮崎 勤の出した「今田 勇子」名義の告白文を考えているようだが、私にはマザー・グースの歌にのって全く無意味な連続劇場犯罪殺人が展開する「僧正殺人事件」が、その風土に合わせて残虐屏風絵、横溝正史風劇画コミック的になり、ほぼ70年後の日本オタク的大衆社会に現われた醜悪な姿のように思われる。
〈地上は、すべての良心にとって、子供っぽいとともに手に汗を握る、滑稽であるとともに怖るべき「神秘劇」が演じられている「殿堂」である。〉というコンラッドからの引用に始まる「僧正」では、誘拐監禁された「かわいいマフェット嬢ちゃん」がもう少しで惨殺されるところで救われ大団円を迎える事になっているからである。
「死骸を道化芝居の道具立てに使うような冷酷な道化師にも見物人はなくてはならん。そこに、このいまわしい犯罪のひとつの弱点がある。」とヴァンスがいうのはその通りなのである。
あるいは被害対象が子供とか猫のような弱者に向けられることについては私は、「黄色いなめくじ」を代表として(宮崎勤でもそうだが、それ自身子供である両親〔アダルト・チルドレン〕による)幼児虐待を好んで取り上げたレジー・フォーチュンの生みの親H・Cベイリーを思い出す。レジーはファイロ・ヴァンスのモデルとなったキャラクターである。
artemis(1997/5/29)
この項未完; 以後仮名によるVisitorメール投稿も出来れば入れて、リレー対話形式で続きをやっていきたいと思っています。インターネットの特性を生かしリアルタイムに限りなく近い形で思いもかけないインタラクティブな議論展開になることを期待します。続きに興味のあるミステリ好きな方は下のメールにどしどし参加投稿願います。但し、あまり多いと対応し切れないかもしれません…。
必ず、件名の冒頭に「ミステリ」とお書きになり、誌上公開を前提にした仮名を指定して下さい。
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ゲームというのはPCソフトの中では実用上無くてもいいようなものと言えば言えるジャンルだが、これがインストールされていないと華やかさに欠けるというのも事実だ。デモでも何でも、とにかくこれといって役に立たないくせに、起動するのに未だDOSプログラムが幅を利かせていたり、さまざまなファイル、ドライバをきちんと揃えないとびくとも動ず、インストール難易度だけは一人前というのが他のソフトと際立って目立つ大きな特徴だ。
DirectX、MMXとか高解像度、重低音サラウンドなどの最新技術を常にいろいろ要求してくるのもこれら3Dゲームだ。いいかえると最新3Dゲームが美しくフルスクリーンでストレスなく稼動しているPCはおおむね性能が良く、ユーザーの技量も良い(だろう)という風に、PCの総合能力を試す試金石ともなっているからこそ、PCショーではビジネスソフトそっちのけで一番人目を引くデモンストレーションに使われるのだ。
但し、このCD-ROM〔ISDN TA Aterm IT55DSUについてくるおまけ「ASCIIらくらくインターネット」〕にも入っているジグソウパズルでもそうだが、オセロ、将棋、カード、ルーレットのような既存の古典ゲームは手筋の分析とかは別にすればほとんどPCでやるほどの意味がない。それらは元のシチュエイションでできるのだから、そちらでプレイした方がムードがあり楽しいだろう。Virtual Poolでもコンピュータに軌道表示をさせオートプレイすることが出来るが、それでは入って当たり前で勝つのは決まっており面白くも何ともない。
PCでなくては出来ないというもので無くては困る。カーレースゲームは実際にはそんなにスピードが出せない通常の公道を走る――高速で料金取られて渋滞!!にも――文句一つ言わない日本のドライヴァーにとっての、日頃のストレス解消にいいかもしれない。
どうしても現実には実行不可能、可視化不能な次元のバーチャル・シュミレーションこそがPCゲームにふさわしい。そうすると題材はモデリングフォーメイションのしっかりした蓄積のある数学(微分方程式、ポテンシャル、エントロピー、カタストロフ、マンデルブロ集合、カオス、フラクタル)、科学(宇宙、天体、人体、原始生物、神経系、大脳、細胞、遺伝子、分子、原子、素粒子、電磁場、重力場、形態形成場)、およびそれらを利用したSF(アドヴェンチャー、ファンタジー、ホラー、シュミレーション)のようなものに限定されてくる。
いわば他のものでは不可能な3Dシュミレーション・ゲームはPCの華であるという一般常識を飛び越えてむしろ、生物学や生態学に例を採ったゲーム理論が利己的遺伝子理論を補強する根拠として盛んに使われていることからもわかるように、機械と生命と人生すべてを一種の「ゲーム」と見なしてある程度シュミレート出来るようになったのは、高速コンピュータあってのことであったといえるのだ。数学としては比較的新しい思考形態である確率にしたところでやっと近代のカジノになって、カードやルーレットゲーム必勝法の研究から生まれたのではないか。これは今世紀初頭に発見されていながら、つい最近の高速PCの登場まで計算、可視化、理論化されなかったフラクタル、マンデルブロ集合についても同じである。ガス、雲の拡散のように自由経済株式市場などの複雑極まる動きも、ある程度までシュミレート予測出来るデリバティブがある。
遊びと、実用化では単に、シュミレート予測が正確、厳密かの違い、複雑さ、リアリティの程度の違いがあるだけで、それらを一種のゲームとみなしていることではその属する世界観は全く同じである。経済に始まったゲーム理論の創始者は、現代コンピュータの創始者でもあり、量子力学をヒルベルト空間論で基礎づけしたアメリカのハンガリー移民フォン・ノイマンであった。ホイジンガも歴史的にゲームより広い人類にとっての「遊び」の意義を歴史的に基礎づけようとしたオランダの同時代人であった。
こうした人類の頭脳ともいうべき応用数学理論家から、ゲーマーには残されている現実とシュミレート・ゲームとを区別する能力を欠くことによって、あたかも「ゲームや遊びのように浮浪者や通行人を簡単に殺してしまう」チーマー、オウム、そしてこの酒鬼薔薇聖斗までの存在をも紙一重に呑み込んでいるのが20世紀末というこの時代であろう。
感情的に反応してしまう大衆文化の場合においても、日常では禁止抑圧されている、異常なセックスや強姦、暴力、殺人、麻薬など暗い衝動(いわゆるフロイトのイド、エス)は、バーチャルなフィクショナルな空間において心理的には解放されることによって、むしろ正常人大衆のバランスを保ち、犯罪に至らしめる直前で未然に予防するのに役立っていると言えるからである。
3DシューティングPCゲーム‘Quake’で当てた開発メーカー id Softwareの‘id’とはフロイトのこの暗い衝動を掘り起こし解放する意味から付けられたとも考えられる。
Rock around the Clockと「暴力教室」に始まった時代の波はA・バージェスが予言した「時計じかけのオレンジ」にまで確実に押し寄せて来ているのだ。1968年にA・C・クラーク とS・キューブリックの予言した、スターチャイルドの宇宙的胎内回帰に終わる「2001年」まであと数年ではないのか。そしてそこにはR・シュトラウスの、神を殺した「ツアラトゥストラはかく語りき」が流れていたのである。 Stanley Kubrick's Clockwork Orange
SFの中興の祖H・G・ウェルズは「タイムマシン」でこうした機械環境母胎回帰による退化に終わるものとして人類の未来を描いていた。そして「ブレードランナー」(P・K・ディック原作「アンドロイドは電気羊の夢を見るか?」)で一躍ありふれたものになった、スラム化した暗黒都市と、そこにたむろする、モッブグループ、レプリカントの群れの未来イメージはH・ボスの描いた「中世の秋」の地獄絵1、快楽の園の結末としての地獄絵2、最後の審判、に回帰する…(これらのボスの絵画のホーム;WebMusium,Paris)さらには悪魔の巣窟ソドムとゴモラ、ゴグとマゴグ、大いなる母胎バビロンの亡びへと。戦後の闇市への回帰はここリムネットの「スキヤキタワー」でも繰り返されている。これらすべてをG・キリコは80年程前にそのマヌカンで透視していたのだ。
こうして都心の空きビルには、ヤクザやモッブ、ホームレス等が占拠住み着くようになり、地域住民はそこから疎開するように避難して行くだろう。都市はこうして見捨てられ、ドーナツ空洞化スラム化するのだ。
「この世界ではあなたが創造主(ゴッド)」となるフラクタル3Dシーナリー生成ソフトVISTAPROのキャッチコピーに「このソフトを使ったら、君は新しいイメージの世界に夢中になるだろう」というA・C・クラークからS・キューブリックに宛てたメッセージが使われていたのは偶然ではない。
神なき社会アノミーからカタストロフへ−頻発する少年ナイフ犯罪に寄せてもご覧ください。
単なる流行するエンターテイメントと、真の歴史に残る作品、芸術、科学理論との違いは、ジャンルそのものにあるのではなく、その作家の現実との関わりかたによって発生するものだと私には思われる。
現実との関わり合いから意識的に引きこもり(胎内回帰)、それとたたかうことを止めた時から、作家と作品の(職人)芸能化、「エンターテイメント」化、showbiz化、劇場化、そしていわゆるゲーマーの単なるゲーム化は始まるのだ。
ゲームにおいては、とにかく最小の労力で、自己の利益を最大にすることがクリア、乃至勝利として認められる。
いかに本人の意志があろうとも問われ続けなければならない売買春同様な、自己を欠損し傷つける罪(自殺はその最たるものとして法的に禁止されるべきである)が在るのだということをいちいち指摘しなければ理解できないのは、悲しむべき文化であろう。というより、そのような文化は「悪」そのものの培養器となるのだ。自己の真の利益(国益)を識別し守り切ることができずに、やればやるほど却って自己を損傷破壊させついには死へと導いてしまう者、それが「悪」そのものの姿だからである。
例えば日本の戦後創設された「自衛隊」は一体、何からなら、何を守ることができるのか。北朝鮮からの核ミサイル攻撃から国土を守れないことはもとより、直下型地震、タンカー重油流出、原発からの放射能漏れ災害、オウムサリン事件、国際テロ事件どれを取っても国民生活を自衛するのになすすべはないではないか。自己の利益を勘案出来ない者は、自滅と自殺(自決)、自己損失損傷、組織解体、自己崩壊に追い込まれる他ないのである。
そして倫理を除外したカテゴリであるゲームで最も重い犯罪は、ゲームに勝敗以外の倫理あるいは感情、敗者への同情、プレイヤーの身分を持ち込むこと、そのゲームのルールについてのプレイヤー自身の無知及びそれを破ることである。
ゲームの中に勝敗以外の原理を持ち込むことは、勝敗(自由競争)の公平性を著しく損ねることになるからである。
野村証券のような総会屋利益供与事件
――野村は一般客とは明らかに異なる差別待遇をするこうした特別扱いの顧客を1万件あまりの「VIP」口座として名簿に登録していた。この構造の上に「99%がヤクザだ」と言われる総会屋が暗躍し「野武士のようだ」と言われる経営手法の野村証券を業界トップにするような日本の株式会社組織が乗っかっているのである。野武士とはいわゆるモノノフハタモノヤクザゴロツキの類である。野村との関わりは、小池隆一が分厚い質問状を出していた昭和59年12月頃にまで遡り、株主総会で追求する構えを見せたのを裏で金を渡す示談で乗り切ろうとしたことから、部を挙げての利益供与を「いやとはいえない」特別扱いVIPの腐れ縁になっていったらしい。一般株主カタギ衆に対し公明正大であるべき日本の株主総会が、特別な株主顧客親分衆だけを差別優遇する示談和解の隠れみのとしての単なる学芸会であるにすぎないことがここで最も明確に示されている。株式市場と証券会社は、日本のこのような構造上においては従って、八百長が罷り通るヤクザのイカサマ賭場である他はないのだ。
――は、端的に自由経済市場ゲームのルール違反だからこそ、国際的非難の対象になるのであって取り立てて倫理によって取引停止されているわけではない。ゲームにおけるルール違反,フェアプレイ精神の欠如、無自覚は断じて「不祥事」ではなく、如何に無知から、文化の違いからであろうと繰り返せば退場あるいは出場停止、プレイヤー資格剥奪、業界追放を命じられる立派な犯罪行為であるという自覚は、日本にはマスコミを含め皆無であると言っていい。だからこそ日本ではどこからとも無く流れてくる「赤信号、皆で渡れば恐くない」という、自己破滅、集団自殺に終わる集団ルール違反をやけっぱちで喜ぶような古代ワザオギのフレーズが冗談ではなくオモテ向きの法治主義に隠れた暗い現実を追認するものとなっているのだ。
これは日本人のおなじみになっている、誇大自己と裏腹の、自虐的傾向にも繋がっている問題である。日本では自殺はさほど犯罪行為だとみなされず、同情的に容認される傾向がある。ルール違反と集団自殺をさほどの罪と認めず、「赤信号、皆で渡れば恐くない」が実人生のスローガンとなっているような社会では、事件、事故の罪の重さの自覚、反省はまったく為されない口先だけである。部落運命共同体の中に自己を埋没させることによって、どうせ何かあったら皆一緒、捕まるのも、死ぬのも一緒と考えているからである。「皆で死ねば恐くない」という集団自殺を無意識的に肯定し、それを前提とした思考が大衆的日常生活の根底に古代から太い根を張っているのだ。
日本でバブル地上げ乱開発環境破壊の一翼を担ったゴルフ場でも、そこで日常的に行われているのは、(岡光 前厚生事務次官に対するような)地位、身分序列によって対戦相手子分が上役、親分には故意に負けなければならない社用「接待ゴルフ」という日本以外では通用しない特殊な習俗であって断じてフェアプレイで勝負するゲーム、スポーツではない。最近話題となった日本プロ野球界初のアメリカ人,M・ディミューロ審判抗議の辞任事件(6/5日米審判交流で来日3ヵ月)が起ったのも、審判から受けた「退場命令」に対する不服を選手やコーチ、監督までもが暴力で観客のまえで表すという日本の常態が、国際スポーツ‘baseball’としては通用しない「野球」習俗だからである。
ゲームにおけるルール違反,フェアプレイ精神の欠如、無自覚は断じて「不祥事」ではなく、如何に無知から、文化の違いからであろうと繰り返せば退場あるいは出場停止、プレイヤー資格剥奪、業界追放を命じられる立派な犯罪行為であるという自覚は、日本にはマスコミを含め皆無であると言っていい。
法治国家としての裁判における審判に権威がないだけではない。オーケストラにおける指揮者の意味も存在価値も不明な日本では、議論をする際の議長、司会の権限ルールを無視してする喧嘩腰の勝手な発言がなんと横行していることだろうか。だいたい日本には議長はいない。ウロボロス的に誰が長だかわからないぐるっと取り巻く「座と和」の文化にはカブキ芝居一座の「座長」がいるのである。
だからこそ総会屋というヤクザに億単位で金を払ってでも、株式総会という議論の場をあらかじめ仕組まれた「学芸会」「カブキ芝居」の「シャンシャン総会」にして乗り切らなくてはならなくなるのである。銀行の「頭取」というのはもとはといえば、カブキ芝居の楽屋を取り仕切る役のことらしい。劇場国家日本!
日本には議論はない。あるのはヤクザの喧嘩なのである。岐阜県産業廃棄物施設建設で揺れる木曽川中流の御嵩(みたけ)町で、この問題を住民投票にかけようと準備していた「よそ者」柳川喜郎町長が'96年10月30日何者かにバットのようなもので襲撃され、頭蓋骨陥没で瀕死の重傷を負うという事件がその一例である。すべての面において優れた才能、個性は、部落共同体内では正しく評価育成されないどころか、周囲の「和」を壊す存在として煙たがられ嫉妬と怨嗟の的になって外部に追いやられ潰されるのである。(出る杭は打たれる)
【前町長との間で町民には無断で施設建設許可の見返りに町に35億の資金提供する密約が交わされていたらしい。上水道さえ通っていない山間の産廃予定地に古くから住む地元住民は、多額の立退料が手に入ることに目が眩んで既にその金を当てにして新居を建ててしまった者もいる。この産廃業者と取引のある不動産会社が柳川町長宅の電話を盗聴したテープを所持していた容疑で逮捕されている。】
ゲーム、スポーツのルール無視は、法治主義と契約の文化を無視したところに当然の如く現われるのだ。
日本には近代ルールはない。明晰に言語化公開され、意識化された変更可能な客観的ルールの替わりに、無意識なままに集団化蓄積された暗黙の呪術的タブーと固定化して自然強制される部落共同体の掟という内部のものにしかわからない習俗があるのだ。
歴史的には、ルールのある「スポーツ」という概念を生んだ唯一の文化である西欧文化において、究極的「審判」とは「最期の審判」を与える「父なる神」であること位知っておく必要がある。
むしろアメリカで大きな反響を呼んだ審判辞任劇について、マスコミを前にした当の米政府報道官が、まあ、大リーグでは使いものにならない選手を大金はたいて引き抜いてくれる替わりに、日本は(野茂、伊良部、のような)最高の豪腕投手をもてあまし簡単にこちらに手放してくれるのだからいいじゃないかというような意味の発言をしていたのが、印象的であり、また象徴的でもある。
すべての面において日本の優れた才能、個性は、国内では正しく評価育成されないどころか、周囲の「和」を壊す存在として煙たがられ嫉妬と怨嗟の的になって外部に追いやられ潰されるということを、(出る杭は打たれる)そして結局は自己の利益を損うことになるその日本的自己損失自滅行動パターンをアメリカが読み取り自覚し、様々な局面において国家利益のために積極的に利用さえしているということを暗示しているからである。
ゲームを避け、競争を避け、勝敗を避け敗者に同情すること――いわば勝者を抑圧する逆差別――によって保たれる日本文化の太母的公平性の概念は、少なくとも日本が所属している自由経済市場の株式ゲーム中に持ち込むわけにはいかないのである。アスキーと並ぶ日本PCベンチャー業界の雄、大型企業買収で何かと話題になるソフト・バンクの孫 正義は韓国人であることによって手痛い差別を受けた日本を去ってアメリカに身を投じた理由の一つに、日本における経済ゲーム感覚の欠如を挙げている。
勝者に対し敗者的怨念を抱き日常的に抑圧するということは、それだけゲームにおいてルールを守りその中で自己利益を獲得した才能を評価せずにないがしろにして時には殺傷してしまう一方、その分、ルールも守らず自己を救い損ねた敗者、自虐者、自嘲者に勝者と同等あるいはそれ以上の権利を与えるということである。元々自己の利益すら勘案できない敗者にそのような不適格な支配を与えたら最後、一旦何か危機的な分岐点(カタストロフ)に差し掛かった場合、最早その危機を乗り越える能力のある勝者は誰一人指導的立場には存在しないということになり、その自己利益を守れない自嘲者にして日陰者(ヤクザとテキヤ)をトップに頂くわけの分からない組織は、自己利益という方向すら見失って、野村証券や動燃のように太母の虚無の子宮穴(アトラクタ)に吸い込まれるように、自滅と自殺(自決)、自己損失損傷、組織解体、自己崩壊へと自ら転落していくより他ないのである。だからこそ日本ではどこからとも無く流れてくる「赤信号、皆で渡れば恐くない」という、自己破滅に終わる集団ルール違反をやけっぱちで喜ぶような古代ワザオギのフレーズが冗談ではなくオモテ向きの法治主義に隠れた暗い現実を追認するものとなっているのだ。
これは日本人のおなじみになっている、誇大自己と裏腹の、自虐的傾向にも繋がっている問題である。日本では自殺はさほど犯罪行為だとみなされず、同情的に容認される傾向がある。ルール違反と集団自殺をさほどの罪と認めず、「赤信号、皆で渡れば恐くない」が実人生のスローガンとなっているような社会では、事件、事故の罪の重さの自覚、反省はまったく為されない口先だけである。部落運命共同体の中に自己を埋没させることによって、どうせ何かあったら皆一緒、捕まるのも、死ぬのも一緒と考えているからである。「皆で死ねば恐くない」という集団自殺を無意識的に肯定し、それを前提とした思考が大衆的日常生活の根底に古代から太い根を張っているのだ。
(1997/4/29)
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