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Heaven's Gate、オウムとカルト

あるいはオタクの精神状況
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1997年4月15日作成

オウム真理教関係 |オウム真理教 HP

Heaven's Gateホームページ

1998年9月8日火曜日更新

§1 NHK 9時からの好番組「クローズアップ現代」でアメリカのカルト教団‘Heaven's Gate’集団自殺事件を取り上げたのを見る。ホームページで積極的に信者を勧誘、インターネットに的を絞って布教活動を展開する、パソコン利用にかけてはオウム真理教の向こうを張る教団だったようだ。

その教義は肉体を、精神を閉じ込める容器牢獄とし、徹底的な禁欲によって肉体を捨てこの汚れきった地球から、ユングの指摘したような宇宙意識的神――ヘールボップ彗星の接近とともに地球を訪れる宇宙人の乗ったUFOによって救済されるという、まあ、良くも悪くも昔からのネオプラトニズム、キリスト教神秘主義(オカルト超能力)がないまぜにされ、若い理工系PCファン、SFファンの気をひきそうなもの。

大体‘Heaven's Gate’というネーミング自体がいわゆる「天国への扉を開く狭き門」(マタイ 7:1314)

をはじめ、麻薬ドラッグ関係及び甘美なる死と楽園の入り口となる臨死体験(曼荼羅思想に関連してユングが先鞭を付け日本でも先ごろブームにすらなった「チベットの死者の書」)、終末論(特にキリスト教に強い 。ヨハネ黙示録)涅槃(ニルヴァーナ、タナトス願望)を予言する筋を連想させるありふれたものである。

そもそもチベットの山岳仏教、ラマ教には、既にインド、中国などでは亡んでいる神秘主義体験、超能力に興味を持ち、西欧文化からドロップアウトした部外者にとって、20世紀のメッカとなり易い素地が揃っていたと言える。かつてはシューペンハウアーが西欧社会に火を付け、フロイト、ニーチェ、ユングと受け継がれた思想の源泉となった場所がヒッピーを経過して今や大衆宗教の広告塔に利用されるまでに至っているのだ。

オウム麻原彰晃がダライラマに会見したことを大々的な宣伝材料にしたのは余りに有名な話である。またかつてのサイケデリックロック・ドラッグブームの真っ最中、ジョージ・ハリスンを中心としたビートルズメンバーがグルと崇めて瞑想に集まったマハリシ・ヨギのいたインドには、今や超能力で人々を救済するサイババがいる。

結局はこれが危機に瀕したカルト集団をオウムのように対外的に敵を創って必死の特攻 攻撃を仕掛けるか、ガイアナ人民寺院事件や今回のように集団自殺へと導かれるかのいずれかとなる要因を作っている。オウムは米軍機が飛来して、上九一色村の施設に上空からサリンを撒いているのだと盛んに宣伝していた。かつての鬼畜米英B29を思わせる。

そのどちらとも天皇制大日本帝国が神風特攻隊や、沖縄ひめゆり部隊でついこの間までやっていた事である。現在の北朝鮮にも、そのカタストロフ分岐路が刻々と訪れている。




§2 いかに本人の意志があろうとも問われ続けなければならない売買春同様な、自己を欠損し傷つける罪(自殺はその最たるものとして法的に禁止されるべきである)が在るのだということをいちいち指摘しなければ理解できないのは、悲しむべき文化であろう。というより、そのような文化は「悪」そのものの培養器となるのだ。自己の真の利益(国益)を識別し守り切ることができずに、やればやるほど却って自己を損傷破壊させついには死へと導いてしまう者、それが「悪」そのものの姿だからである。

これは日本人のおなじみになっている、誇大自己と裏腹の、自虐的傾向、卑小自己にも繋がっている問題である。日本では自殺はさほど犯罪行為だとみなされず、同情的に容認される傾向がある。ルール違反と集団自殺をさほどの罪と認めず、「赤信号、皆で渡れば恐くない」が実人生のスローガンとなっているような社会では、事件、事故の罪の重さの自覚、反省はまったく為されず口先だけである。

部落運命共同体の中に自己を埋没させることによって、どうせ何かあったら皆一緒、捕まるのも、死ぬのも一緒と考えているからである。「皆で死ねば恐くない」という集団自殺を無意識的に肯定し、それを前提とした思考が大衆的日常生活の根底に古代から太い根を張っているのだ。

コンピュータとインターネットには下手をするとどんどんのめりこみ、精神の未熟な者、幼稚な子供にとっては二度と現実に戻れなくなるほどの強烈な麻薬的自己閉鎖中毒性があること及びおなじみのアメリカパーソナルコンピュータ業界そのものが‘ドラッグ(drag)&ドロップ’の用語などでも分かるように、その筋の70年代ヒッピーカルトフラワーチルドレンドラッグ(drug)時代とカウンターカルチャ(culture cult)ドロップアウト世代の臭いをプンプンさせながら80年代以降市民社会に成人した中高年として再登場(ドロップイン?)してきたものであることを、改めて確認したほうが良い。


北岡和義(ジャパン・アメリカ・テレビジョン社社長。在米)クリントン戦略の心臓部を支えるベンチャーの旗手たちより一部引用

(前略)・・・・
このようなアメリカの21世紀に向けての国家戦略ともいうべき情報スーパーハイウェイの;引用者〕5原則を考えるうえで、見落とせないのは、インターネットを築いてきたのは、草の根のベトナム反戦世代であるということだ(クリントン、ゴアもそうだ。

ベトナム反戦世代が生んだインターネット
  1960年代末、米国の大学キャンパスを吹き荒れた反戦運動、反体制運動のリーダーたちは、ヒッピーへと変身し、やがてパソコンを生み育てた。スティーブ・ジョブズ、ビル・ゲイツらのデジタル革命の旗手たちはみな、そんな経歴の持ち主だった。ちなみにロータスを創立したミッチー・ケイポアは、東洋思想に共鳴した瞑想教師でもあったのだ。
 情報スーパーハイウェイは、そんなヒッピーたちから生まれたベンチャービジネスの先端技術と、国防省(ペンタゴン)の軍事戦略が合体してできたところが面白い。 (ボールド引用者)

***

ちなみにいろいろ言われている‘Apple Computer’の謂れは、彼らより少し前に当時マハリシ・ヨギとの瞑想とドラッグに耽りフラワームーヴメントのトップを走っていたThe Beatlesの設立したApple Corpsとその林檎トレードマークにヒントを得ていることは争われない。林檎の一種を指すという‘Mac Macintosh’もThe Beatlesの‘The Ballad of John and Yoko’(1969)に‘The Man in The‘Mac’’と登場しているのである。

ロータス‘Lotus’のネーミングは仏教のシンボルである蓮及び英訳「妙法蓮華経=法華経」Lotus Sutraを意識したものであろう。

(ヨハネ黙示録13.10

drag’には元々「(マウスのように)重いものを引きずっていく」という意味があるが、また、最近のヒット映画‘Speed’が新しい麻薬の一種(いわゆる‘S’)を暗示して――日本にもこれをグループ名にし‘GoGoHeaven’と黄色い声を張り上げている中学生グループシンガーそれ自体チルドレンのSpeedがある――いるように、死の楽園にいたるショートカットの‘drag car race’や最高スピード超特急(カート・ヴォネガットの息子の書いた「エデン特急」)の暴走速度と密接に関係している。

埼玉新聞 特集・話題最前線 「SPEED(覚せい剤)−危うい少女たち」第1部(3部まで)

実人生そのものを掌編のショート・ショートに圧縮し、生を死とさせるショートカットこそ彼等の目指すニルヴァーナなのである。麻原オウムが自家製の麻薬を闇市場に大量に流して資金源にしていたことを忘れてはならない。日本ではヤクザがその売人であることは言うまでもない。

麻薬は覚醒させると同時に麻痺させる。誇大自己と逆転して現われる自虐的卑小自己、生きたと思うと死が待っているウロボロス太母による矛盾の渦である。



これにはクリントン大統領が自分の生い立ちでも認め、最近日本でも話題になっている「アダルト・チルドレン」が関係する。

絶対主義的権威者(カリスマ)のもとで彼を親(分)のようにして生きてきた者が、薬物依存症と同じ様な拘禁状態を好み、いくら暴力など彼からひどい被害を受けていることが明らかであるに関わらずそれを拒否して受け入れようとしないばかりか、却って自由にしようとすると禁断症状を起こして元の拘束状態に自ら戻ることを要求するのは、そのせいである。

ここにしばしばマゾヒスティックなものと混同される日本人のヤクザ的自虐的傾向(太母とらわれ)心理的基盤要因がある。被害対象が子供とか猫のような弱者に向けられることについては私は、「黄色いなめくじ」を代表として(それ自身子供である両親〔アダルト・チルドレン〕による)幼児虐待を好んで取り上げたレジー・フォーチュンの生みの親H・Cベイリーを思い出す。

いかに本人の意志があろうとも問われ続けなければならない売買春同様な、自己を欠損し傷つける罪(自殺はその最たるものとして法的に禁止されるべきである)が在るのだということをいちいち指摘しなければ理解できないのは、悲しむべき文化であろう。というより、そのような文化は「悪」そのものの培養器となるのだ。自己の真の利益(国益)を識別し守り切ることができずに、やればやるほど却って自己を損傷破壊させついには死へと導いてしまう者、それが「悪」そのものの姿だからである。

これは日本人のおなじみになっている、誇大自己と裏腹の、自虐的傾向にも繋がっている問題である。

真実を隠し抑圧することによっては、自虐的性格は直すことは出来ない。逆に隠す、否認するという――この場合には、依存とらわれの対象である親(太母)が自分を愛してやっていることであって、決して弄んでいるのではないという――虚偽意識(自己自身を騙す詐欺行為)によってその上に自虐的=誇大的に反転する不安定な双価性自我が形成されているからである。

自らの真実を直視することによってしかそのような自我を自虐性誇大の絶えざるウロボロス太母の泥沼から救い出すことはできない。真実の重さに耐え切れる自我こそが自虐的でも誇大的でもない、歴史的現実を含む現実に目覚めた安定した性格を創り出すのだ。(MD1997 /21)



§3 これが一つの文明病であることを指摘したのがジョナス=クラインの‘Man Child’「幼稚化の時代」である。オウムやヘヴンズゲイトのような絶対的カリスマを教祖に頂くPC&ドラッグ時代のカルト教団にこれらの影響が如実に表われた。天皇崇拝、ヤクザの親分崇拝はこれを地で行っているものである以上に、戦後日本のアメリカを凌ぐお家芸となった(PC)ゲーム業界の基礎を築いた闇市ヤクザテキヤから始まったパチンコという独自の麻薬的遊戯自体が、このPC&ドラッグそのものの「パチンコ依存症」を生み出している日本の病巣は母原的にして幼稚化太母退行的という意味で根底的である。

彼等はPCと同じにカリスマ性の父から命令される「コマンド」を待つ奴隷拘束状態を自ら望むのである。commandされるだけの人間は文字通り良きcommando(シュワルツェネッガー風特殊部隊兵士、横井、小野田帰還兵を生んだかつての日本皇軍、特攻隊、オウムの「殺人マシーン」林 泰男、ヤクザの鉄砲玉)となる資格がある。

いわば自由とは、あらかじめ決められていたデフォルトの初期化設定を一旦、「クリア」して、新たに自分に合った設定を自己決定し一からやり直すことによって、そのつど得られてくるものなのだが彼等はこれを拒むのだ。

奴隷Slave21世紀にはPCとロボットという機械に置き換えられることによってついに消滅するのだ。主権者master一人々がPCという召し使い、ロボットという奴隷を持つことによって、人間が奴隷となる必要がなくなり、いわば人間の地位がすべて一段上の主権者へと向上するのである。必要がないのに奴隷のままに止まる人間がいるならば、よほどの変人か、芯から変えようのない本質的な奴隷人間であることを自ら告白するか、のいずれかということになる。

彼等こそカルト、ヤクザやオタクとなって生き延びる者である。「オタク」は、幼女性愛、女性アイドル追っかけ、ストーカーにも通ずる母を求める母癒着的太母原理社会の産物とすれば、「カルト」、「ヤクザ」には、自分に命令を発するカリスマ的父を求める求道宗教的父権原理社会の末裔の面影がそれぞれの社会に応じた個人崇拝(死霊、祖霊、親分崇拝)イドラトリの傾向として強く残っているとも言えよう。

(ヨハネ黙示録13.10

文化と言語の発信者である創造者は命令(コマンド)する主人masterとなり、その命令His Master's Voiceを素直に聞くだけの言葉なき(物言わぬ)召し使い奴隷群集にとって、現在のTV以上にPCは馬の耳に念仏のただの箱か、オウムやこのHeaven's Gateなどカルトがやりかけていたような極めて便利な仏壇型洗脳機械となろう。

戦後の日本人はラジオという箱から聞こえてくるHis Master's Voice;天皇ヒロヒトの声をきいて始めて頭を垂れかろうじて鬼畜米英と戦うのを止め、玉砕と餓死から生き延びた者たちの末裔ではないか。commandされるだけの人間は文字通りcommando(シュワルツネッガー風特殊部隊兵士、横井、小野田帰還兵を生んだかつての日本皇軍、特攻隊、オウムの「殺人マシーン」林 泰男、ヤクザの鉄砲玉となる資格がある。

そのような人は自分のPersonal Computerでさえ買うのでなく、会社や上司の命令指示――His Master's Voice――買わされるのである。( 尊師の声が流れるPSIヘッドギア)組織を離れれば自分も主張も無くなる無私の個人は――公すらもなく公私未分に止まるので――21世紀のボーダーレス地球社会には生きてはいかれないだろうということを知るべきである。

すべてユーザーの選択によりソフトをインストールして独自のMy Computerを創ることはおろか、好みのハードパーツさえ揃えば自作さえ可能となるPC/AT互換機の長所をすべて無にして、我も々とオールインワンタイプのPCを買い込む日本人はその個性もオールインワンなのである。彼等は自らその権利を放棄している「企業戦士」と呼ばれる奴隷なのだ。commandされるだけの人間は文字通りcommando(シュワルツネッガー風特殊部隊兵士、横井、小野田帰還兵を生んだかつての日本皇軍、特攻隊、オウムの「殺人マシーン」林 泰男、ヤクザの鉄砲玉)となる資格がある。

彼等はPCと同じにカリスマ性の父から命令される「コマンド」を待つ奴隷拘束状態を自ら望むのである。いわば自由とは、あらかじめ決められていたデフォルトの初期化設定を一旦、「クリア」して、新たに自分に合った設定を自己決定し一からやり直すことによって、そのつど得られてくるものなのだが彼等はこれを拒むのだ。「仕事をくれ」と就職することを当然の権利のように要求する労働者の群れは、起業するだけの力もない、「命令をくれ」 と自ら主張する家畜なのである。





(ヨハネ黙示録13.10


§4 ちなみに、地下鉄サリン事件で流れたのと同様な、HIV薬害エイズ事件を関係者の写真、実名入りでシュミレートするゲームがパソコン通信に流れ物議を醸し出している。医薬品メーカーの立場に立ったプレイヤーが、大量に在庫する非加熱製剤を、警察などに賄賂を贈ったりしながら世論の抵抗妨害をクリアーし出来るだけ多く販売すれば勝ちというゲームらしい。

遺族感情を逆なでする反社会的ゲームとして非難の対象とされパソコン通信の登録からも排除されたというが、――未だにインターネットに流れているHeaven's Gateのホームページを反社会的だから即刻削除せよという声に対してもそうだが――今一つ賛成できない。

ゲームやシュミレーションにまでも遺族、時代感情、勧善懲悪、公序良俗などの現実社会で通用考慮される倫理的価値規範が文字通り適用されるならば、実際の戦闘に題材を採った戦争ゲームは勿論、ほとんどの人気あるSFバーチャル戦闘(シューティング)ゲームまでその無倫理かつしばしば無意味ともいえるそれ自体が目的化した暴力流血殺人破壊性で、禁止対象になるのではないかと思われるからである。

ゲーム、シュミレーションはすべてのフィクション人為的無形文化、宗教、芸術、学問、科学と同じで――むしろそれらの基礎となる、日常的感情や価値規範からの自由が保証されなければ始めから成り立ち得ない知的客観的なものであることを良く考えなければならない。それがフィクションである限りにおいていちいち内容に対し感情的、倫理的に反応すべきものではないのである。

日常生活の上で発揮すべきであるそれらの感情、規範を、次元の異なるフィクションの世界に持ち込むのは、ドラマと役者の実生活を混同する視聴者大衆――彼等自信が現実と夢、演技とを区別出来ない天然演技者なのである――が愚かしいという以上に、端的なルール違反なのである。

「この番組はフィクションであり実在のいかなる団体とも云々…」と断らないと何も放送出来ないとか、首や五体がちょん切れる特撮シーンがある映像を暴力的、残酷だから放映禁止にせよとかいう者は流石にいなくなっただろうが、未だに裸婦の絵を見て大衆が性的に反応するから猥褻だというのも、芸術の意味を始めから取り違えているのである。

すべてが日常規範の枠内に収められたフィクション、学術に何の存在価値が有るのか。日常とは、かけ離れた別世界、別次元を一応倫理の枠を離れてシュミレーション疑似体験、追体験できるからこそ、未来を予言したり、過去を反省したり迫り来る危険や破綻を回避警告したりすることができるのである。

感情的に反応してしまう大衆文化の場合においても、日常では禁止抑圧されている、異常なセックスや強姦、暴力、殺人、麻薬など暗い衝動(いわゆるフロイトのイド、エス)は、バーチャルなフィクショナルな空間において心理的には解放されることによって、むしろ正常人大衆のバランスを保ち、犯罪に至らしめる直前で未然に予防するのに役立っていると言えよう。

3DシューティングPCゲーム‘Quake’で当てた開発メーカー id Softwareの‘id’とはフロイトのこの暗い衝動を掘り起こし解放する意味から付けられたとも考えられる。

いわばこれらは大衆の夜な夜な見る人為的な(白昼)なのである。その日常次元での実現はオウムのように立派な犯罪になっても、ゲームを作ったりプレイしたりする行為まで、それだけで反社会的異常なオタク――今や国際語となった日本のカルト――とみなすのは広い意味での合理性に欠け視野狭窄と言わざるをえない。一概に巷にあふれるエロ雑誌、AVポルノやロリコン雑誌ビデオ販売が禁止出来ないのはそういう一面も在る。

何百万というこれらの製作販売者、購買者が何の罪にも問われないのに、一人宮崎 勤だけ犯罪者扱いを受けているのは、その現実と夢、フィクションとの区別がつかなくなってしまった紙一重の差からこそである。幼児性愛だけに限っても、ダンテ、E.Aポーやルイス・キャロルから川端康成、谷崎純一郎、宮崎勤へと至る道のりは、ある意味では長かったといえるかもしれない。



§5 「オタク」は、幼女性愛、女性アイドル追っかけ、ストーカーにも通ずる母を求める母癒着的太母原理社会の産物とすれば、「カルト」には、自分に命令を発するカリスマ的父を求める求道宗教的父権原理社会の末裔の面影がそれぞれの社会に応じた個人崇拝イドラトリの傾向として強く残っているとも言えよう。

現実と夢の未分癒着、夢遊病者、天然演技者、役者

天然ボケならぬ現代の天然自己欺瞞=習俗的詐欺がこのアナクロ古代信仰から始まる。誇大自我にはそもそも嘘をついているという自覚自体がないからである。ある意味では、KKCと同じで、腹芸腐敗発酵臭い物には蓋と腹話術で無意識に抑圧した自分の嘘(言葉狩り墨塗り要求、報道管制検閲大本営発表)に自分自身も騙され熱に浮かされ酔いしれている誇大自我詐欺師(腹話術天然サギ、カブキ者)が最も恐ろしい。

大東亜共栄圏といい八紘一宇といい万世一系といいこうした大風呂敷きを宣伝していた側が最初から文字通り信じていたとは思われない。しかしKKCと同じで、苦し紛れで一度ついた嘘は雪達磨式に膨れ上がり引き返すことすら出来なくなって、百万遍も繰り返しているうちに詐欺師自身にも本当らしくなってくるのだ。

虚偽意識(自己自身を騙す詐欺行為)被害が明らかになった時、腹話術師、詐欺師自身も君たちの仲間だ、被害者だといってそのつど責任逃れすることができるからである。

普段何気なく「普通」に暮している前者のような健常者といえども、いつ何時そのきわどいバランスが崩れて、昼と夜の顔が全く違う、表裏ある古代ヤヌス的ウロボロス双面神、近代的二重人格症的分裂者になるか分からない危険が潜んでいるのである。前者のような表と裏の使い分け2重構造的人格は何等異常とは認めないものとして扱ってきたのが日本文化であると言えよう。

記憶が連続していない人格を多重人格というからである。五〇年ほど前の記憶歴史も自己同一性も持たない人格(同一人物の中でさえ戦前と戦後は別人で互いに自覚記憶されないであろう。 )はそれ自体一つの多重人格というより他ない

では、どこにその許容範囲が引けるかということになるが、時間的にいえば、関係者遺族が感情的に反応せずに済ませられるようになるには、事件後3年とかで許されるとは思えない。すくなくとも生存中は禁止ということになるのではないか。だが、傷痍軍人、遺族やユダヤ人の生存している現在でも第二次世界大戦やナチスを題材としたゲームはいくらでも子供相手にまで出されているのだ。これらのゲームは現存する遺族の感情を逆なでしてはいないのか?どこにその許容範囲を引いたらいいのか?

題材が、あまりに実際の事件を露骨に匂わせるものでないようにしさえすればいいのか。エイズではなく喩えペストあるいはエボラ伝染ゲームとしたところでその内容の残虐非道性に変わりはない。ペストで死亡した遺族が世界にいないとは言えないだろう。

戦後特撮映画で東京は何度焼け跡の廃虚にされたことかと叫んてみても、誰も未曾有と言われる東京大空襲の被害者遺族に対しその精神的苦痛を償おうというものはいない。死者の数だけから言えばこちらの方がHIVやサリン事件の比ではないのである。

数万人規模で人間と文化を殺傷破壊する近未来戦争シュミレーションゲームの開発販売者に「ノーモアヒロシマ、ナガサキ」と抗議する者がいようか。オウムの地下鉄サリン事件をシュミレートしたゲーム作者にだけ、なぜ非難が向けられるのか。「これはゲームであり、実在のいかなる団体とも…」という「ご両親、プレイヤーへのお断り」ができる、実名を隠した程度の内容であればいいのか。

早い話が、日本への原爆投下そのものが、ソ連への牽制や真珠湾報復、本土上陸作戦のためだけではなく、一種の市街地シュミレーション代わりの人体実験ではなかったのかという疑惑を持たれているのである。アメリカの核調査団は敗戦した本土に直ちに入り、カメラを回し、被害者を、食や代価を払ってまで呼んで入念な聞き取り調査を行っている。もしこの時代にスーパーコンピュータがあったら、実験は行われなかったかもしれないのだ。

フランスがムルロア環礁で国際世論の非難をよそにあれほど核実験を強引に推し進めたのも、コンピュータ・シュミレーションに最低限必要な実験データを蓄積するためだったという。これ以上アメリカの核実験データの蓄積独占をむざむざと許容する核実験禁止条約の罠に引っかからないという国家的意思表示であったとも言える。オウムの松本サリン事件においてさえも、捜査上その発生地点を特定するために、サリン・ガス拡散のコンピュータ・シュミレーションが行われていたのである。


死者、被害者、遺族の感情が何を差し置いても、生きている者の人権より第一に優先権を持つというのは、古代の死者崇拝、祖先崇拝宗教習俗の大きな特徴である。

生存している人間の人権が先ず第一に優先されなければならない近代においては、表現の自由が遺族被害者感情によって左右され侵害されるべきではない。でなければ靖国神社問題に批判的な言辞を使うことは英霊と遺族との逆鱗に触れるから不謹慎であり、自粛禁止されて当然という不敬罪の復活のような事態をどうして食い止められるのか。日本人が未だに得意とする、血縁地縁身内から出た死者に対しての弔問、慰霊、墓参、盆という古代宗教祖先崇拝の習俗に、靖国神社公式参拝は繋がっているのである。

その被害者遺族に事件を思い出させ感情を逆なですること無しに、実際に起きた事件を公表し、言論議論の対象としメディアに流し娯楽ゲーム化することは出来ないのである。




§6 では全くゲームの題材を現実とは無関係な抽象的な物にしてしまえばこの問題は無くなるのかと言えばそれは間違いであろう。なぜならば余りに現実とかけ離れたゲームは逆に、プレイヤーにはちっともやって面白くなくなるという矛盾をゲームやシュミレーション自体が抱えているからである。どこかで現実とリンクしているという生理的感覚が残されているから熱中するのだし、シュミレーションの意味も保たれることにもなるのである。

また題材がわざわざ実際の被害に対して向けられる傾向のあることについては、残念だが人間の行動動機には、古人も言ったように〔ルクレティウス「物の本性について」2・1ショーペンハウアー主著4・58〕他人の不幸を対岸から眺めて喜ぶ野次馬根性が極めて強烈に残っているという事実を認めないわけにはいかない。

「たった今台風が**を避けて××地方へ抜けました」と伝えながらも、興奮して喜びを隠し切れない**在住の現場実況アナウンサーは××地方の住民のことはすっかり忘れているのだ。これはゲームですらない。フィクションでもない真実を伝える(ノンフィクション)ジャーナリズム報道自体がこの野次馬根性を基礎として成立しているのである。

ではまた同じ題材をあつかったとしても、途中どんなに残酷非道な場面が展開されようと結末が勧善懲悪ハッピーエンドになっていさえすれば許されるのか。しかしその途中においてプレイヤーは残虐非道のアクションを正義の名の下に擬似的に体験して楽しめることには何の変わりもないのである。むしろ途中の快感こそが実際上のゲームの売りであり、最後の結末は単なる付け足しの気休めになっていることをメーカーも、プレイヤーも承知の上というほうが、一般的ですらあるといえるのではないのか。

あるいはゲームの感情移入するプレイヤーがいわゆる正義の側、最後には勝利を収める側に立っていさえすれば、いかなる残虐な行為も許されるのか。アメリカ製の戦争ゲーム、アクション映画ではヒーローがアメリカ系の白人、ナチスやロシア、日本などが悪役になると相場が決まっているように、その正義とは、製作する立場が違えばいとも簡単に逆転してしまうような代物ではないのか。これだけが正義だと誰が決めるのか。

大体ゲームに正義などを持ち来んだら最後、勝つのは必ず正義の側でなければならないということになる。そんなゲームのどこが面白いのか。いかに正義でも、力がなかったり、作戦がだめだったら現実には負けること、死ぬことすらありうるということを疑似体験で教えるのがゲームの真価なのであるから最早ゲームをする意味が無くなると言わなければならない。ゲーム、バーチャルシュミレーションはスポーツ同様勝負事であり、正邪の倫理外のカテゴリに属するものだからである。

私自身は、このようなサリンやHIVを題材とするゲームを創ったり、プレイ、シュミレートすることにそれほど社会的価値があると考えて、以上擁護しているのではないことを最後に付け加える。あくまでも、一般的な人権の問題として捉えてのことであり個人の趣味で言っているのではない。

私ならこうしたゲームは趣味が良いとは思わないし、プレイしたいとも思わないであろう。被告側に付いた弁護士がそれだけで非難される謂れのないように、権利をはじめ可能性を擁護するということと、それを実行することとは又別次元の問題であり分離されているというのが近代の大きな特徴である。個人的な趣味好悪感情だけで、発表された表現作品の削除を要求する権利までは誰にもないのである。 (1997/4/15)



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