「幕合いinterlude 背景となる社会構造の分析 」改題
酒鬼薔薇聖斗を生んだ戦後日本という社会
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Artemis 1997
先ずここからご覧ください・・・緊急追加ファイル:頻発する少年ナイフ犯罪に寄せて
タブー|ペルー|空母|ヤクザ|脳死|カルト|酒鬼薔薇|神戸事件|動燃|カラ不正|ミステリ|林檎
| 1997年9月17日水曜日作成 | 1998年2月22日日曜日更新 |
これまでの関連ファイル:神戸事件ドキュメントに知られた材料だけから、現時点であえて「酒鬼薔薇
聖斗」を生むことにまでなったこの戦後50年経過した日本という社会が犯罪の背景にもつ構造的要因について、極めて簡単、粗雑な推測をたくましくするならば、おおむね以下のようになろう。
@戦後日本社会全般の構造的退廃、腐敗、カラ中空化によるアノミー化社会崩壊。
一流会社社長、役員、エリート官僚、政治家議員 、銀行頭取、自治体首長、公務員、警官、教師等々が次から次へと逮捕され止まるところを知らない社会のトップの組織的犯罪、構造的常習的腐敗が、青少年に日夜与え続けている現在の日本の状況は、異常を通りこし正に敗戦による天皇制軍国主義の崩壊期に優る戦時統制経済社会の危機アノミー状態に突入している。
日本人は「現代文明の基準ではかった場合には、彼らはわれわれが45歳であるのに対して、12歳の少年のようなものです」と解任帰国後の聴聞会でマッカーサー元GHQ最高司令官は証言した。彼によれば日本人にとっての敗戦時の精神状況とは、占領されることですらなく心に「巨大な空白状態」が生じることであった。ペリーが来たときには鎖国体制の母胎から生まれ落ちたばかりだったこの12歳の空腹と心の空白とを抱えた少年が高度経済成長で、どのように立派に成長したというのか?
その元祖は戦後の焼け跡でチャップリンの‘Kid’を真似た「東京キッド」という浮浪児あるいは戦争孤児の歌を唄った当時13歳の美空ひばりであった。
軍事大国化による世界制覇の夢(強兵)の崩壊に継ぐその50年後の戦時経済統制による経済大国(富国)の夢のバブル経済による崩壊は、エコノミックアニマルと言われても真面目に働き会社に貢献してきた企業戦士が退職を待たずに率先的に中途解雇させられる現実――丁度、大日本帝国軍隊が強制解散させられ、戦闘途中で除隊、使役退役させられた皇軍兵士あるいは今浦島となって帰ってきた横井、小野田両兵、のような魂の抜け殻と化したアノミー存在を生んだ。
日本人は未だ、個人として独立できず、寄らば大樹の陰と、一生どこか何かの組織集団の一員として、加入寄生渡り歩く(ヤクザ、渡世、渡り鳥)ことでやっと自己のアイデンティティ=日本的自我である自分(親分、子分にはさまれたヤクザ序列中の自己の身分)、自己の体面、自己の役を得ているからである。
家庭、学校卒業から、実人生と世界、宇宙、自己の存在意義について深く思い悩む思春期、青年期体験も経ることなく、――大人になることなく、意味のある成人儀式も経ず――一直線に、軍隊、企業、官公庁など組織内役職に潜りこみ、外の現実世界の荒波を被らないで一生を母胎の中で安楽に暮すことこそが卑弥呼、巫女大母と御子依り童天皇小さ子の理想なのである。
この理想の輝かしい体現者こそ平安時代の中国の模倣によってつくられた官僚律令体制以来続いている日本の官位ひな壇に登る光源氏官僚である。そして国民の公僕であった例は一度もなく、常に祭政一致劇場国家憑依シャーマニズム祭祀王小さ子天皇の忠実な僕であり続けてきたのが日本の官僚の伝統である。戦後日本は、連合国によるポツダム宣言受け入れから国の体面すなわち、天皇制を護持する国体だけは守り抜いたために国が亡ぶことから辛うじて免れたのである。劇場国家の祭祀長が天皇だからである。
戦後経済主義出世の序列トップにいる座長が大蔵官僚であり、日本の官僚とはこのお芝居のシナリオを丸暗記して同じことを繰り返すのが得意な、現実から遊離した快感原則の小さ子不具者の別称である。
国家官僚が縄張り下においた下々国民から合法的強制的に収奪したヤクザのミカジメ料にあたる年貢税金とその予算配分裁量権益一手に握っていた大蔵官僚こそが、こういう戦後国家統制経済主義日本社会では、政治家を陰から操ることで最高の権力=金権腐敗政治の実権を持ちながら、どんなに失敗、腐敗しても国民の前に責任は取らないという、陰の絶対権力の座に君臨することができたのである。この甘い汁=予算裁量権にありつこうと、寄らば大樹の陰と民が我勝ちに大蔵官僚に対し宴会接待攻勢を仕掛けて来る寄生タカリ構造が完成した。
戦前は国家、学徒出陣入隊、国家の(使)役によって得ていた個人の存在証明を、敗戦後は心にあいた「巨大な空白状態」を手っ取り早く埋めるため特に、戦争責任も何も思い悩み考えずに済む企業、官庁への順調な重役、取締役めざす就職、役所猟官にシフトしたのである。除隊した後の混乱なき収拾は「奇跡の復興」と言われるほど驚くべきものであった。彼らは戦前の国家、軍隊から、戦後の企業へと悩むことなく憑依寄生的に乗り移っただけであった。
従って、彼らにとって除隊、失業、退職は自己=日本的自我である自分(親分、子分にはさまれたヤクザ序列中の自己の身分)、自己の体面、自己の役とその所属する世界を根こそぎ失うことであり、(職、身分、役、使役がないと自分がない)その役者アイデンティティ・クライシスとアノミー状況に当たってやっと人生と自己の存在意義を思い悩む青年期に入るのである。今度こそは、家庭にも企業にも、勿論軍隊にも国家にも上手い受け皿が用意されていなかったからである。(今の青少年のアイデンティティはフェティッシュ商品の中にある。)
それまでは、戦前から戦後にかけて12歳の少年でいられた彼らが、自己の進路を深刻に考えるべき青年期を省いた報いとして成人したはずの中年期の終わり、老年期の始まりになって人生と社会の現実に直面し考え悩まなければならないのは遅きに失した感は否めないが、成人すべき人間としては当然のことではないか。
むしろ、GHQによる戦犯追求公職追放に引っかからないのと同様に、職場いじめに遭って職を失わずに済んだだけ、逮捕されないだけ、戦後の「名誉の戦死」、生命保険まで会社にとられる過労死にまで至らず命が助かっただけ幸運だと思わなくてはならない。
その結果は、現在も神戸で繰り広げられている、組と組との合併吸収離散集合、血なまぐさい対立抗争、報復に継ぐ報復の果てしなき循環拡大なのではないのか。(日本の政権交代なき、特定政党間内だけでの大政翼賛派閥抗争政治といわれるものは、その親分子分兄弟分ヤクザ抗争の舞台を国会という言論の演技場、闘武場に移しただけのものである。)(後記)
これは動物社会に見られる対他集団縄張り抗争、同じ集団内での順位制をめぐっての合併吸収離散集合兄弟分序列抗争であって、理念と思想を持った人間的な政治行動ではない。
日本人は未だ、個人として独立できず、寄らば大樹の陰と、一生どこか何かの組織集団(縄張り、**組、**一家)の一員として、加入寄生渡り歩く(ヤクザ、渡世、渡り鳥)ことでやっと自己のアイデンティティ=日本的自我である自分(親分、子分にはさまれたヤクザ序列中の自己の身分)、自己の体面、自己の役を得ているからである。
戦後闇市ヤクザから派閥政治へ伝えられた伝統は、亡国焼け跡のストリートチーマー、モッブ同志の対立抗争に移って行くのである。
総会屋への不正利益供与事件の容疑で強制捜査取り調べ中の山一証券において、トラブル処理に当たっていた顧客相談室長
樽谷紘一郎が、8月13日、何者かに待ち伏せされ腹部を刺され死亡したばかりである。(後記)
この樽谷のところに数千万分の損失補填を要求して抗議に現れ「話がつかないのなら岡村事務所に行くぞ」と脅していた山一の元顧客
山田 久が、'97年10月10日に起きた山一証券担当岡村弁護士の妻殺害事件容疑者として10月17日逮捕された。(後記)
あなたの父、夫あるいは子供、孫親類が、統制経済組織犯罪に関わった容疑で明日逮捕されても、あるいは学校、地域、家庭内で生じた一触即発殺し合い事件の犯人、被害者、自殺者となっても不思議はなくなっているのである。
経済を先ず第一に考えて、それ以外それ以上の価値についてはすべて「後回し」あるいは先進欧米にお任せという口実で無視する経済優先思考は、日本人から戦後に生きるための精神的価値を創造していく萌芽をすべて自己去勢圧殺してしまった。
現在官僚養成学校教育(カブキ劇場舞台)で教えられている教科内容の全ては、国語、社会の一部を除けば西欧父性文化のエッセンスであるといって差し支えない。にもかかわらず、子供たちが実際に生きていく日本のオタク御子小さ子ヤクザカルト的生活の場(楽屋裏)では、卑弥呼巫女以来からの、憑依シャーマニズム的縄文母性文化が息づいているという、鎖国を解いた日本文明の大矛盾の真っ只中に現代の子供は生まれながらに直面させられるのである。
バブル経済を防ぐことのできなかった日本の株主総会はそのお芝居の積み重ねのほんの一例である。
一見して儒教的伝統からは原因、動因ないものと見える少年凶悪犯罪は、たとえそれが一件でも、深い象徴的意味を持つと考えられ、極めて巨大な社会体制への不安を、日本全域に及ぼす。
彼らは薄々それが自分たちの安住する現シナリオ劇場体制に突きつけられた刃かも知れないと感じているにもかかわらず、共同体で共有する秘密を楽屋裏に隠し「みんな揃って見てみぬふりを」して劇場演技を続けている。「それを言っちゃあ(劇が)お終い」だからである。
その矛盾をTV演技の中でのみ生きているのが、最高の裁きをする裁判官僚(カミ,オカミ)が同時に肩に桜吹雪の刺青をしたヤクザ(荒ぶるカミ)でもあるという人気キャラクター「遠山の金さん」である。
| みんなの寅さん | 佐藤忠男 | 朝日文庫 | 1992 |
戦後日本の生んだ最大の大衆ヒーローが何故テキヤのキャラクターでなければならなかったのか、上掲書と合わせ読むことによって始めて理解できる。
テキヤとはヤクザになりきれない落ちぶれた、全国を放浪漂白遊行する日本の憑依シャーマチスティックな神「マレビト」の商業的一形態である。「座頭市」も含まれるその原型は「水戸黄門」にある。日本の大衆は民主主義と法を護ろうとする市民より、浜田幸一と、阿部譲二と鶴田浩二、勝新太郎、高倉健、菅原文太、渥美清、横山やすしらを支持し愛してきたのではないか。少なくとも、法を遵守して餓死した学者より、ヤクザとテキヤとパンパンの焼け跡闇市でGHQ配給流れに寄生して生き延びる方を選んだ絶対多数者(みんな)によって戦後日本が作られてきたのは事実であろう。みんなで渡れば恐くないと、法より闇を選ぶ大衆みんなが野村証券をトップとする日本経済を赤信号を無視してここまで育ててきたのである。
| 美空ひばりと日本人 | 山折哲雄 | PHP文庫 | 1984 |
男がテキヤ「寅さん」なら女の戦後日本人が生み出した代表格は「大博打打ちの姉御」(加太こうじ)である。未だに「極道の妻たち」がヒットしているように、日本の芸能人は男ならヤクザとテキヤ(スサノヲ)、女ならアネゴと女郎(アマテラス)がお似合いと相場が決まっているのである。
ひばりファンを自任する良く知られた宗教学者の山折によれば日本人を評価する分析軸として、「知性」40%、「含羞性」30%、と並んで「ヤクザ性」30%の3つをあげる方法を紹介し、これに「感服」している。あとがきでこの「ヤクザ的な論理」に「学者ですら、ヤクザ的、演歌的気質が、少なくとも30%も入り込んでいる」と駄目押ししていたのが、当時バブル経済の一翼を担った、長銀総合研究所理事長の地位にいた竹内宏であった。
フェアプレイと競争ルールを遵守する国際社会にこれから日本人が「寅さん」と「ひばり」のような戦後のヤクザ的文化遺産を携えながらも、金融ビッグバンを成功させ進出していこうとするならば、現地の一般市民が印篭の前にひれ伏さないのを不思議がる海外に出た水戸黄門のような呪物アナクロニズムの悲哀を味わうことになろう。
そして子供たちがこれらから学びとる最大の教訓は、<学校教育とは現実生活とは没交渉の、しかし出世するには必要な「お芝居」だ>ということである。学校とは晴れの舞台鹿鳴館と同じような西洋文明を模倣する劇場でありそのお芝居の上演シナリオが国家検定教科書である。
戦後出世のトップにいる座長が大蔵官僚であり、日本の官僚とはこのお芝居のシナリオを丸暗記して同じことを繰り返すのが得意な、現実から遊離した快感原則の小さ子不具者の別称である。
そして国民の公僕であった例は一度もなく、常に祭政一致劇場国家憑依シャーマニズム祭祀王小さ子天皇の忠実な僕であり続けてきたのが日本の官僚の伝統である。
劇場国家の祭祀長が天皇だからである。
国家的貧困は、人間として最低限とらねばならない他の全ての義務と責任を免除したのある。皇軍に継ぐ戦時統制経済企業戦士エコノミックアニマルの誕生であった。
敗戦の焼け野原に何より早く建ったのが、精神的価値を体現する教会や寺院ではなくて、飢餓を癒し性欲の捌け口のための闇市(エコノ)赤線(エロス)であったという歴史的事実が、その象徴である。
彼等は、「株価と景気」の動向、賃上げ闘争や失業対策には一喜一憂懸念しても、自分の子供が頭の中に、机の中に、あるいは天井裏に何を隠しているのかは無視しているか、見て見ぬふりをしている。
「公務員倫理の確立を」と公務員が、「政治倫理の確立を」と政治家が、「企業倫理の確立を」と企業役員が叫んでいる。今までは「倫理」なし、「規範」なしでやってきたと認めているのである。
経済が何とか一段落したから、今ごろになって社会倫理の確立だ、と言ってもすでに手遅れなのである。その経済発展のための犠牲になって、社会規範をつくり直していく創造的能力はすべて殺傷無化されているからである。最低限社会規範倫理の実現と、経済活動とは車輪の両輪のように、揃って前進していくのでなければならない。
社会基盤をいい加減にして、戦前から受け継いだ腐った国家統制土台の上に手っ取り早くお祭り屋台興業土建テキヤ経済だけを、常に憑依シャーマニズム祭祀王小さ子天皇を拝む祭政一致劇場国家の伝統で砂上楼閣し、自由民主体制の化粧をしてごまかそうとした結果が、社会基盤を整備したうえで経済発展に乗り出した近隣アジア諸国にも追い抜かれるようになった近頃の戦後日本バブル経済である。
戦前の内務省官僚主導戦時経済統制から、軍事色を薄め、戦後大蔵省官僚統制経済へと「なしくずし」に何の反省もなくシフトさせて来た明治以来の富国強兵国家社会主義統制経済主義の結果が、大蔵官僚の腐敗と日本経済の崩壊となって現れたのである。〔戦前天皇と軍閥を裏から操った内務官僚が、生き延びたのに使った同じ手口で戦後の大蔵官僚にシフトした。〕
国家官僚が縄張り下においた下々国民から合法的強制的に収奪したヤクザのミカジメ料にあたる年貢税金とその予算配分裁量権益一手に握っていた大蔵官僚こそが、こういう戦後国家統制経済主義日本社会では、政治家を陰から操ることで最高の権力=金権腐敗政治の実権を持ちながら、どんなに失敗、腐敗しても国民の前に責任は取らないという、陰の絶対権力の座に君臨することができたのである。この甘い汁=予算裁量権にありつこうと、寄らば大樹の陰と民が我勝ちに大蔵官僚に対し宴会接待攻勢を仕掛けて来る寄生タカリ構造が完成した。
「衣食足りて礼節を知る」菅子思想の破綻は何処よりも戦後日本の現実に明らかである。
社会統制経済主義という点では、自民(神道系国家社会主義)も共産(マルクス主義インタナショナリズム)も右から左までその価値観は一致して区別がないというのが、戦後日本を支えた基盤であった。
「衣食足りて、礼節を知る」と言っていた一億総労働者統制経済主義政治構造の上に、アメリカからさらに高度な消費大衆社会の潮流が無批判に流入してきた。わずかに残っていた伝統的な儒教社会的「礼節」はこの社会の命ずる「足ることを知らぬ」「飽くことを知らぬ」欲望の無限悪循環の迷路に引き込まれた大多数の消費者によって、完膚なきまでに摩滅してしまった。
旧社会党の高度経済成長の達成と共に始まる凋落は、国家社会主義労働者が消滅し、一億消費者に移行したことによる結果である。蓄積した遺産を気まぐれに食いつぶすだけの寄生ウィルス的消費者こそ社会の主役だというのなら、すねかじりの女子高生コギャルパンパンが時代の先端を行く体現者として浮上することになる。
オヤジは労働で子供の欲しがる商品をマーケティング生産あるいは輸入販売し、その報酬で女子高生の身体を買う。女子高生は、その商品を買う金が欲しくて自分の体に値札をつけて歩き、その身体をオヤジに売る。
この循環は一見被害者のいない消費社会のエコノ=エロティックアニマル売買春システムとしては江戸時代の幕府公認遊郭制度より遥かに完成されている。
いわば外来の遊行するカミ=占領軍GIが帰国した後に、焦土に残された闇市の巫女にして遊女パンパンから産み落とされた父親のない、御子「私生児」母も名乗らない「捨て子」「浮浪児」こそがその一部がヤクザとなって今日ある日本と日本人を形成してきたのである。このパンパンは今日の援助交際と称する売春行為を餌に、金のあるオジサンにタカル女子高生になっている。
経戦時統制済効率原則(闇市エコノカルト昼は命令された仕事の鬼)の中空戦後日本への浸透が自己疎外をもたらしたとすれば、売買春システム(エロチックオタク夜はパンパンラブホテル戦後の経済戦士用従軍慰安所)は自己未発現母胎回帰現象の現れとみることが出来よう。
こうして、エコノとエロスとに引き裂かれた戦後エコノ=エロティックアニマルは一体これからどうするのか?
さらに、TVを始めとするマスメディアの浸透が、CMによって無限の欲望を煽られた視聴者に俗悪な虚栄心を常時植え付けた。
開高健は「衣食足りて、文学は忘れられた?」と嘆いて死んだが、それどころではない。「衣食足りて、礼節を知る」という広い意味における中国文化移入習合的伝統そのものが根底から破壊された事実が戦後50年経ってやっと暖衣飽食の腐敗した身心に沁みて来たというのが、現在の日本の現実である。
軍事活動だけというのが不具であるように、豊かになっても経済活動だけ、というのは人間のやることではない。流産による一種の小さ子朱儒的奇形、不具である。
日本人の大半がもっぱら自国の軍事政治外交教育宗教文化社会思想を欠落させ、敗戦の地の経済復興だけに熱中するようになったのは戦後アメリカの占領政策極東戦略上、実に都合の良い事であった。アメリカに押し付けられた経済以外の戦後社会文化構造に絶対依存言いなりになって あまりに巧く行き過ぎた、その経済オンリーに狭められた官僚的視野狭窄戦後思考の限界が、最早戦後50年の間に当のアメリカからさえも変革するよう迫られるほどに、次々と隠しきれないボロとバブル腐敗となって構造的に出てきているのである。
皮肉にも、現在文化の伝承形態が残っているのは、親方の後ろ姿を盗み真似て自分の腕に磨きを掛ける子方職人、芸人徒弟制度の世界だけになってしまった。職人、芸人とは、戦後の全人教育の理想から言えば、ある目的遂行にだけ人工的に特化された自由も倫理もなき、命令されるだけの一種の機械的不具奴隷にほかならない。
その全人教育を担うはずだった戦後学校教育の場すら、受験合格技能に秀でた職人、芸人を輩出するだけの企業就職下請け職業訓練校になってしまった。
「昔と違って今は、何処にでもいるごくふつうの子が、ある日突然凶悪犯罪に走るケースが増えてきた」のは、「ふつう」といわれる日本の大多数の集団が最早客観的人間的には「ふつう」どころではなくなって来ていることの明白な証拠である。
その未来に対する文化規範消失、将来の生活設計のため青少年の模範とする手本〔いわゆる社会的責任を持つ大人〕が社会のどこにも無くなってしまったことの悪影響はホラービデオなどの比ではない。これが戦後大人の消失と幼稚化傾向の結果である。さらにはっきり言えば戦後「人間」は消滅したのである。
今日人間の壊れやすさを確かめるための「聖なる実験」をしました。
人間というのは壊れやすいのか壊れにくいのかわからなかったけど、今回の実験で意外とがんじょうだということを知りました。
成人儀式=極めて深い「イニシエーション」の体験が現代では失われてしまった事も、少年がいつまでも大人にならないまま年を取る社会文化的要因を形成した。
空腹は満たされたが、依然として心の空白は拡大していく状態に放置して置かれた12歳の少年である彼等子供たちにはもう「行き場所がない」「居場所がない」。良くて、一発当てるエログロナンセンスお笑いタレント芸人とスター歌手やスポーツ選手くらいが子供の目差す目標になってしまったのである。
皮肉にも、現在文化の伝承形態が残っているのは、親方の後ろ姿を盗み真似て自分の腕に磨きを掛ける子方職人、芸人徒弟制度の世界だけになってしまった。職人、芸人とは、戦後の全人教育の理想から言えば、ある目的遂行にだけ人工的に特化された自由も倫理もなき、命令されるだけの一種の機械的不具奴隷にほかならない。
その全人教育を担うはずだった戦後学校教育の場すら、受験合格技能に秀でた職人、芸人を輩出するだけの企業就職下請け職業訓練校になってしまった。
見かけだけ内部だけ無菌状態に保ったような空疎、中身がカラッポな家庭、地域、学校、社会組織からは、悪徳や腐敗、非行、犯罪に対して事前に歯止めを掛けていた、無形に蓄積された文化遺産である社会的抑止力が、規範が失われるのと比例して急速に消滅していく。一時的に無菌状態の現実には有り得ない空虚環境に置かれ育てられた生物が、免疫抵抗力を低下させていくのと原理的にはある意味で通ずるところがある。
A精神的支柱の倒壊による社会教育、学校教育の破産
戦後唯一の価値であった@の経済的地位のトップを目差す「出世」志向の、バブル経済リストラ構造腐敗による崩壊は、東大大蔵官僚を頂点として形成されてきた戦時統制経済国家社会主義、つまり本質的には戦前天皇制絶対主義内務官僚から受け継いだ国家主義管理体制に属し、GHQから民主戦後教育という名を借りた統制経済企業より下位にある就職下請け機関にすぎない学校を、敗戦時天皇制臣民教育の崩壊による「精神の空白」アノミーに継いで、よりさらに深刻に無効にし無意味化した。
戦前の内務省官僚主導戦時経済統制から、軍事色を薄め、戦後大蔵省官僚統制経済へと「なしくずし」に何の反省もなくシフトさせて来た明治以来の富国強兵国家社会主義統制経済主義の結果が、大蔵官僚の腐敗と日本経済の崩壊となって現れたのである。〔戦前天皇と軍閥を裏から操った内務官僚が、生き延びたのに使った同じ手口で戦後の大蔵官僚にシフトした。〕
国家官僚が縄張り下においた下々国民から合法的強制的に収奪したヤクザのミカジメ料にあたる年貢税金とその予算配分裁量権益一手に握っていた大蔵官僚こそが、こういう戦後国家統制経済主義日本社会では、政治家を陰から操ることで最高の権力=金権腐敗政治の実権を持ちながら、どんなに失敗、腐敗しても国民の前に責任は取らないという、陰の絶対権力の座に君臨することができたのである。この甘い汁=予算裁量権にありつこうと、寄らば大樹の陰と民が我勝ちに大蔵官僚に対し宴会接待攻勢を仕掛けて来る寄生タカリ構造が完成した。
現在官僚養成学校教育(カブキ劇場舞台)で教えられている教科内容の全ては、国語、社会の一部を除けば西欧父性文化のエッセンスであるといって差し支えない。にもかかわらず、子供たちが実際に生きていく日本のオタク御子小さ子ヤクザカルト的生活の場(楽屋裏)では、卑弥呼巫女以来からの、憑依シャーマニズム的縄文母性文化が息づいているという、鎖国を解いた日本文明の大矛盾の真っ只中に現代の子供は生まれながらに直面させられるのである。
バブル経済を防ぐことのできなかった日本の株主総会はそのお芝居の積み重ねのほんの一例である。
そして子供たちがこれらから学びとる最大の教訓は、<学校教育とは現実生活とは没交渉の、しかし出世するには必要な「お芝居」だ>ということである。学校とは晴れの舞台鹿鳴館と同じような西洋文明を模倣する劇場でありそのお芝居の上演シナリオが国家検定教科書である。
一見して儒教的伝統からは原因、動因ないものと見える少年凶悪犯罪は、たとえそれが一件でも、深い象徴的意味を持つと考えられ、極めて巨大な社会体制への不安を、日本全域に及ぼす。
彼らは薄々それが自分たちの安住する現シナリオ劇場体制に突きつけられた刃かも知れないと感じているにもかかわらず、共同体で共有する秘密を楽屋裏に隠し「みんな揃って見てみぬふりを」して劇場演技を続けている。「それを言っちゃあ(劇が)お終い」だからである。
その矛盾をTV演技の中でのみ生きているのが、最高の裁きをする裁判官僚(カミ,オカミ)が同時に肩に桜吹雪の刺青をしたヤクザ(荒ぶるカミ)でもあるという人気キャラクター「遠山の金さん」である。
| みんなの寅さん | 佐藤忠男 | 朝日文庫 | 1992 |
戦後日本の生んだ最大の大衆ヒーローが何故テキヤのキャラクターでなければならなかったのか、上掲書と合わせ読むことによって始めて理解できる。
テキヤとはヤクザになりきれない落ちぶれた、全国を放浪漂白遊行する日本の憑依シャーマチスティックな神「マレビト」の商業的一形態である。「座頭市」も含まれるその原型は「水戸黄門」にある。日本の大衆は民主主義と法を護ろうとする市民より、浜田幸一と、阿部譲二と鶴田浩二、勝新太郎、高倉健、菅原文太、渥美清、横山やすしらを支持し愛してきたのではないか。少なくとも、法を遵守して餓死した学者より、ヤクザとテキヤとパンパンの焼け跡闇市でGHQ配給流れに寄生して生き延びる方を選んだ絶対多数者(みんな)によって戦後日本が作られてきたのは事実であろう。みんなで渡れば恐くないと、法より闇を選ぶ大衆みんなが野村証券をトップとする日本経済を赤信号を無視してここまで育ててきたのである。
| 美空ひばりと日本人 | 山折哲雄 | PHP文庫 | 1984 |
男がテキヤ「寅さん」なら女の戦後日本人が生み出した代表格は「大博打打ちの姉御」(加太こうじ)である。未だに「極道の妻たち」がヒットしているように、日本の芸能人は男ならヤクザとテキヤ(スサノヲ)、女ならアネゴと女郎(アマテラス)がお似合いと相場が決まっているのである。
ひばりファンを自任する良く知られた宗教学者の山折によれば日本人を評価する分析軸として、「知性」40%、「含羞性」30%、と並んで「ヤクザ性」30%の3つをあげる方法を紹介し、これに「感服」している。あとがきでこの「ヤクザ的な論理」に「学者ですら、ヤクザ的、演歌的気質が、少なくとも30%も入り込んでいる」と駄目押ししていたのが、当時バブル経済の一翼を担った、長銀総合研究所理事長の地位にいた竹内宏であった。
フェアプレイと競争ルールを遵守する国際社会にこれから日本人が「寅さん」と「ひばり」のような戦後のヤクザ的文化遺産を携えながらも、金融ビッグバンを成功させ進出していこうとするならば、現地の一般市民が印篭の前にひれ伏さないのを不思議がる海外に出た水戸黄門のような呪物アナクロニズムの悲哀を味わうことになろう。
そして子供たちがこれらから学びとる最大の教訓は、<学校教育とは現実生活とは没交渉の、しかし出世するには必要な「お芝居」だ>ということである。学校とは晴れの舞台鹿鳴館と同じような西洋文明を模倣する劇場でありそのお芝居の上演シナリオが国家検定教科書である。
戦後出世のトップにいる座長が大蔵官僚であり、日本の官僚とはこのお芝居のシナリオを丸暗記して同じことを繰り返すのが得意な、現実から遊離した快感原則の小さ子不具者の別称である。
彼らは一度成功したシナリオの実行は、異なった時代や変化した状況内においては、却って失敗の原因となるという現実原則からの鉄則を太母に護られ決して自覚できないからである。劇場国家社会の役者は、一度当たれば死ぬまで当たり役の「二の舞」を舞う。
一体彼らは人間なのだろうか?人間の皮を被った舞台の人形なのではないか?
今日人間の壊れやすさを確かめるための「聖なる実験」をしました。
人間というのは壊れやすいのか壊れにくいのかわからなかったけど、今回の実験で意外とがんじょうだということを知りました。
日本人は未だ、個人として独立できず、寄らば大樹の陰と、一生どこか何かの組織集団の一員として、加入寄生渡り歩く(ヤクザ、渡世、渡り鳥)ことでやっと自己のアイデンティティ=日本的自我である自分(親分、子分にはさまれたヤクザ序列中の自己の身分)、自己の体面、自己の役を得ているからである。
家庭、学校卒業から、実人生と世界、宇宙、自己の存在意義について深く思い悩む思春期、青年期体験も経ることなく、――大人になることなく、意味のある成人儀式も経ず――一直線に、軍隊、企業、官公庁など組織内役職に潜りこみ、外の現実世界の荒波を被らないで一生を母胎の中で安楽に暮すことこそが卑弥呼、巫女大母と御子依り童天皇小さ子の理想なのである。
この理想の輝かしい体現者こそ平安時代の中国の模倣によってつくられた官僚律令体制以来続いている日本の官位ひな壇に登る光源氏官僚である。そして国民の公僕であった例は一度もなく、常に祭政一致劇場国家憑依シャーマニズム祭祀王小さ子天皇の忠実な僕であり続けてきたのが日本の官僚の伝統である。
劇場国家の祭祀長が天皇だからである。
戦後経済主義出世のトップにいる座長が大蔵官僚であり、日本の官僚とはこのお芝居のシナリオを丸暗記して同じことを繰り返すのが得意な、現実から遊離した快感原則の小さ子不具者の別称である。
国家官僚が縄張り下においた下々国民から合法的強制的に収奪したヤクザのミカジメ料にあたる年貢税金とその予算配分裁量権益一手に握っていた大蔵官僚こそが、こういう戦後国家統制経済主義日本社会では、政治家を陰から操ることで最高の権力=金権腐敗政治の実権を持ちながら、どんなに失敗、腐敗しても国民の前に責任は取らないという、陰の絶対権力の座に君臨することができたのである。この甘い汁=予算裁量権にありつこうと、寄らば大樹の陰と民が我勝ちに大蔵官僚に対し宴会接待攻勢を仕掛けて来る寄生タカリ構造が完成した。
従って、彼らにとって除隊、失業、退職は自己=日本的自我である自分(親分、子分にはさまれたヤクザ序列中の自己の身分)、自己の体面、自己の役とその所属する世界を根こそぎ失うことであり、(職、身分、役、使役がないと自分がない)その役者アイデンティティ・クライシスとアノミー状況に当たってやっと人生と自己の存在意義を思い悩む青年期に入るのである。今度こそは、家庭にも企業にも、勿論軍隊にも国家にも上手い受け皿が用意されていなかったからである。(今の青少年のアイデンティティはフェティッシュ商品の中にある。)
一見して儒教的伝統からは原因、動因ないものと見える少年凶悪犯罪は、たとえそれが一件でも、深い象徴的意味を持つと考えられ、極めて巨大な社会体制への不安を、日本全域に及ぼす。
彼らは薄々それが自分たちの安住する現シナリオ劇場体制に突きつけられた刃かも知れないと感じているにもかかわらず、共同体で共有する秘密を楽屋裏に隠し「みんな揃って見てみぬふりを」して劇場演技を続けている。「それを言っちゃあ(劇が)お終い」だからである。
それまでは、戦前から戦後にかけて12歳の少年でいられた彼らが、自己の進路を深刻に考えるべき青年期を省いた報いとして成人したはずの中年期の終わり、老年期の始まりになって人生と社会の現実に直面し考え悩まなければならないのは遅きに失した感は否めないが、成人すべき人間としては当然のことではないか。
その元祖は戦後の焼け跡でチャップリンの‘Kid’を真似た「東京キッド」という浮浪児あるいは戦争孤児の歌を唄った当時13歳の美空ひばりであった。
今の社会は子供を育てているのではない。「教育」することは完全に失われている。――小杉文相は今度の事件に慌てて,文部官僚に「心の教育を」本気で取り組むよう訓示している。今までは「心の教育を」考えたこともないといっているようなものだ。(後記)
「公務員倫理の確立を」と公務員が、「政治倫理の確立を」と政治家が、「企業倫理の確立を」と企業役員が叫んでいる。今までは「倫理」なし、「規範」なしでやってきたと認めているのである。
日本人は未だ、個人として独立できず、寄らば大樹の陰と、一生どこか何かの組織集団の一員として、加入寄生渡り歩く(ヤクザ、渡世、渡り鳥)ことでやっと自己のアイデンティティ=日本的自我である自分(親分、子分にはさまれたヤクザ序列中の自己の身分)、自己の体面、自己の役を得ているからである。
もはや、子供たちを、いい子→いい学校→いい会社→いい生活→いい官公庁→えらい人→いい天下り先→いい老後→いい人生というようなイメージによる「欲を餌でつるペットしつけ調教芸アニマル生産飼育」はおろか、学園紛争、校内暴力、登校拒否、引きこもり自閉、家庭内暴力、集団いじめ殺人と深化してきたその矛盾を突き暴力、自殺行為に出る子供たちを「管理」することさえ不可能になってきたのである。
餌で釣る経済効率しつけが、一国の首相から官僚のトップにまで賄賂にタカル品性の無さを植え付けたのである。
教育による「いい子」の最高規範とされてきた東大出身官僚「えらい人」が容疑否認の翌日には逮捕されるニュースが全国家庭の団欒時に流されるからである。子供を教育することが不可能になった国は、必然的に内部から亡びるであろう。「教育亡国」林竹二 ちくま学芸文庫 参照。
見かけだけ内部だけ無菌状態に保ったような中身がカラッポな空疎な家庭、地域、学校、社会組織からは、悪徳や腐敗、非行、犯罪に対して事前に歯止めを掛けていた、無形に蓄積された文化遺産である社会的抑止力が、規範が失われるのと比例して急速に消滅していく。
規範となるべき大人が、社会のトップが教育者が次々と逮捕されるのが常態になっている社会で、子供だけには「私のしているような悪いことはするな」と、一体何処の誰が言えるのか。
そう言えるのは、決して表には出ることのできない、社会の日陰者を自任するヤクザ意識の持ち主だけである。
「あっしの真似だけはするんじゃあありませんよ」と彼らは社会の反面教師を粋がって自嘲するからである。
常に子供に対しては「私のしているように真似をしろ」と規範を示すことでしか市民は教育できないのである。親のコトバではなく「親の背中を見て(するようにして)、子供は育つ」という以外に世代を越えて伝えられる文化伝承方法は存在しないからである。
皮肉にも、現在そのような伝承形態が残っているのは、親方の後ろ姿を盗み真似て自分の腕に磨きを掛ける子方職人芸人徒弟制度の世界だけになってしまった。職人、芸人とは、戦後の全人教育の理想から言えば、ある目的遂行にだけ人工的に特化された自由も倫理もなき、命令されるだけの一種の機械的不具奴隷にほかならない。
その全人教育を担うはずだった戦後学校教育の場すら、受験合格技能に秀でた職人、芸人を輩出するだけの企業就職下請け職業訓練校になってしまった。
規範となる立場にいる者、親が「悪」をその行為で全的に体現しているならば、そこで育った子供は鏡のようにその「悪」を自分の模倣規範として直接取り入れるしかないであろう。それがそこに暮す子供にとっての「善」となるからである。
善なる規範が失われた空虚に、代償としての悪が注入され倫理の転倒がここに生じる。「悪魔の子」「ヤクザの子」が社会教育システム的に誕生する。
規範が消滅した社会に生まれ育った世代は、その規範で善悪を判断する「判断力」はおろか、理想形態としての規範に従いある程度現実からくる一時的欲求不満や小さな矛盾なら寛容し耐え忍ぶ「許容能力、忍耐力」自体が育たないまま成長する。これにはもちろん、高度経済成長以来目指してきた、欲望の一刻も早い充足を至上命令とする現代の消費社会も背景にある。
やり玉に挙げられている「ホラービデオ」にも増して、マスメディアの悪影響を言うなら、子供が見ている年齢無制限の時間帯にのべつ放送されている、立場が弱そうな特定のタレント芸人一人に的を絞り他の出演者全員でいじめることを見世物芸、エログロナンセンスな売り物としている日本のTV番組のほうが、よほど無差別に害悪を垂れ流しているといえよう。
あるいは視聴者をその場で分かるクイズや懸賞づけにし濡れ手で泡の感覚を植え付け、自己を商品化するプライバシーの自己暴露に惜しげもなく大金をばらまき与え続ける番組、「視聴者プレゼントに海外旅行、宝石、車」とか「…できたら100万円」と称しあからさまに参加者をその応募内容の価値に対して釣り合いの取れないほどの金額でつることを恥じない一獲千金番組に、臆面もなく応募、集(タカ)ってくる大人、子供、母親に付き添われた幼児の群れ。それをつけっぱなしにして面白がり見ている家庭。
真面目に働き、日々正当な社会報酬を得て暮して行くのが馬鹿らしくなり、日常的な大衆文化の中で育まれた経済金銭感覚が狂って来るのは当然のことではないか。
三面記事犯罪に「金銭感覚の麻痺」という紋切り型コメントを投げつけるTV局側が、その麻痺させる一翼を確実に担っているのである。
スタッフが創りたい企画を立ててから、独自な取材をし制作に必要な予算を請求するのではなく、(TVCMで見た商品を買うカネを目当てにタカッテ来る視聴者を呼び込みたい)CMスポンサーが出資する金をばらまくために、放送局が外部参加者を募ることによって成り行き的にTV番組を制作すれば視聴率が上がりそこにCMが流れるという、商品=カネ=欲の悪循環消費社会体制が出来上がっているのである。これは日本の官僚行政公共事業ばらまき土建腐敗構造と本質的に同一である。
プレゼントだけでページが組み立てられているサイトなど、インターネットにも登場しているこうした兆候は、卑猥なページに劣らず公共メディア衰退の証拠であり、放送の自殺行為である。
価値のない下衆な芸能文化に、公共機関に近い組織が高い値をつけて買い上げる行為が目に余る場合には、つけられた側は価値が上がったように感じて喜ぶかもしれないが、実際には、一国の通貨価値を日々下落させていると見るべきである。
著作権で護られる、公表すべき社会的価値のあるものとは違って、芸能人でさえ本来は隠すべき芸以外の私生活を売りにだす行為は、人身売買、奴隷、売買春、臓器売買と同様法で禁止され保護された基本的人権を主権者自らが売って、金に代えようとする卑劣にして違法な自己を商品化する行為であるはずである。人権は本来、分割、独占、譲渡、売買できない平等に与えられた永久固有の権利だからである。
身体の映像を売るヌード写真集の出版で自分の借金を返そうという母親の娘が、文字通り売春行為で生計を立てるようになったとしても、当然の勢いというものではないか。
これらに見られるのは江戸期の自己を商品化する芸者と芸人、春画、遊女と太鼓持ちの復活である。
自己を商品化する経済行為はここでは、法と思想と人権と文化とを完全に侵食して身体に染み付いているのである。
資本主義を生み出したピュ―リタニズムのような
宗教的バックボーンの中空欠如しているところでは、戦前の列強を模倣した日本帝国主義が、全世界を相手にした歯止めのないアモルフな侵略戦争に突入して行ってしまったのと同じ様に、戦後のアメリカ模倣経済効率原理だけの導入は、倫理と法と宗教とで護られるべき人間存在のすべてを根底から食いつぶしてしまったのである。
いわゆる芸術作品以外の「公共の場における猥褻物陳列」が明らかな犯罪行為に当たるとされているのは、一つの原因として、必ずしも人間の身体が卑猥だからなのではなくて、むしろ自己を商品化し、自分の身体を金に代えようとする行為に、芸人、奴隷と同じ浅ましき精神の卑猥性が感じられるためなのではないか。
善いことは餌で釣り(タカらせ)、悪いことは誰かにしかってもらう。これが母性原理からの教育つまりヤクザ的動物飼育経済効率原理である。
18歳どころではない。
いかに視聴率獲得競争のためとはいえ、こうした人権無視公認あるいは「欲を餌でつるペットしつけ調教芸アニマル生産飼育」TV番組に「衣食足りて」子守りされるようにして育った3歳児がどういう子供に成長するのか日本のTV局は真剣に考えたことがあるのか。
餌で釣る経済効率しつけが、一国の首相から官僚のトップにまで賄賂にタカル品性の無さを植え付けたのである。
「衣食足りて、礼節を知る」と言っていた一億総労働者統制経済主義政治構造の上に、アメリカからさらに高度な消費大衆社会の潮流が無批判に流入してきた。わずかに残っていた伝統的な儒教社会的「礼節」はこの社会の命ずる「足ることを知らぬ」「飽くことを知らぬ」欲望の無限悪循環の迷路に引き込まれた大多数の消費者によって、完膚なきまでに摩滅してしまった。
旧社会党の高度経済成長の達成と共に始まる凋落は、国家社会主義労働者が消滅し、一億消費者に移行したことによる結果である。蓄積した遺産を気まぐれに食いつぶすだけの寄生ウィルス的消費者こそ社会の主役だというのなら、すねかじりの女子高生コギャルパンパンが時代の先端を行く体現者として浮上することになる。
どこまでも増え続け、足ることを知らない物を中心とした欲望が一旦膨らみだしたら最後、自分と他人の人権を犠牲無視売買してまでもとにかく手っ取り早く実現させなければ気が済まないという気質が出来てしまったら、すでに取返しのつかない立派な犯罪予備軍というべきである。
勿論、「物を中心とした欲望」とはいっても発達した資本主義段階においては、商品に価値をつけるのは最早使用価値ではなくて、CM広告イメージによってその商品に与えられた、自己アイデンティティの無限の幻想――つまりフェティッシュ(呪物)的価値である。資本主義がいわば髪の毛や、体液、勾玉に自己(の分身)を持つ古代呪術世界に接続するのである。
幻想だからこそ、ワンポイント商品の微少差異によって欲望は無限に空回りし、資本は成長することが可能になるかのように見える。但し、物としての資源はどこまでも有限であるから、その虚栄発展発展も環境ゴミエネルギー人口犯罪治安問題の壁に突き当たるまでのことである。
連日巨費を投じて制作され流されるCMこそが、唯の物に、欲望の対象となる自己アイデンティティの価値を植え付けているからこそ割高でも売れる商品となるのである。
商品の代金を払えば才能や個性ある他人のアイデンティティを自分も持てると信じ込ませる、物から深層心理への代償交換同一視幻想を起こさせるのがCMの消費劇場社会における機能であり、その具体的役割を大半のギャラを持って行く有名タレント芸人が担っている。
スーパーモデルはこうして現れたのである。
こうした劇場社会では、それだから、芸能演劇のみを現実と認める一般大衆は幻想を与え続ける演劇CMを、「パン」の他に「サーカス」を必ず必要とし、その登場人物である役者、俳優、スポーツ選手、芸能人を彼らの唯一の我の分身=実在するVIPとしてあれほどまでに追い回し、日々の話題にするのである。
空腹は満たされたが、依然として心の空白は拡大していく状態に放置して置かれた12歳の少年である彼等子供たちにはもう「行き場所がない」「居場所がない」。良くて、一発当てるエログロナンセンスお笑いタレント芸人とスター歌手やスポーツ選手くらいが子供の目差す目標になってしまったのである。
女子高生が「援助交際」と称してファッションブランド物を手に入れるためなら自分の身体を売る売春行為を正当化でき当然と考えたり、流行のゲーム玩具や他人とちょっと違った運動靴欲しさに、チーマーら致強盗殺人が起こっても不思議ではなくなっているのである。ここにH・ボスの「乾草車」の現代版を見る。
だから近年の青少年は、旧世代から見ると些細とも思われることに、過激に反応し何かといえば「むかつく」、急に「切れる」突発性自己破壊的暴走行為に出るのである。これは伝統的には「ヤクザ」のヒステリー人格反応であった。
抑圧の下位への委譲による行き場所を失った弱者へのいじめは今回その幼稚な器質的残虐性を短期間に増幅し、劇場型アノミー性残虐行為にまで至ったと考えられる。
B近代市民社会を創造できなかった地域の崩壊
高度経済成長第一主義により、それまでの地域共同体が失われ都市に流出した大衆は、都市近郊の〔アメリカモドキの?〕閑静な新興住宅街という個々ばらばらの地域コミュニティの外形、平和でふつうの中流家庭という建築外殻劇場だけを巨費を借金して購入し、地価高騰による「中身がカラ」のバブル経済を底辺から支えた。
経済活動と消費行動だけに追われ、もはや外圧によって崩壊させられた天皇制的運命共同体に代わる、戦後憲法の理念に合致した参加の自由な法治主義に基く近代市民結社、市民団体、政党を形成するあらゆる意味における営為努力をこれら地域に住む住民たちは、隣組に毛の生えた町内会と地域ボス、親分に頼る程度でお茶を濁し常々から怠ってきた。
いわば外来の遊行するカミ=占領軍GIが帰国した後に、焦土に残された闇市の巫女にして遊女パンパンから産み落とされた父親のない、御子「私生児」母も名乗らない「捨て子」「浮浪児」こそがその一部がヤクザとなって今日ある日本と日本人を形成してきたのである。このパンパンは今日の援助交際と称する売春行為を餌に、金のあるオジサンにタカル女子高生になっている。
経済効率原則(エコノカルト昼は命令された仕事の鬼)の中空戦後日本への浸透が自己疎外をもたらしたとすれば、売買春システム(エロチックオタク夜はパンパンラブホテル戦後の経済戦士用従軍慰安所)は自己未発現母胎回帰現象の現れとみることが出来よう。
こうして、エコノとエロスとに引き裂かれた戦後エコノ=エロティックアニマルは一体これからどうするのか?
敗戦の焼け跡に発生した幾多の浮浪児、私生児、孤児のように、あの少年も、阪神大震災後の焼け跡に立ち、同じ「社会アノミー」感、一種のカタストロフ感を味わったのではあるまいか。世界が崩壊するハルマゲドンを待望したオウム幹部の早川は地下鉄サリンなど一連の行動を「戦争」と位置づけていた。その廃虚の中から「オウムの子ら」だけが、一種の孤児として生き残るのである。
その元祖は戦後の焼け跡でチャップリンの‘Kid’を真似た「東京キッド」という浮浪児あるいは戦争孤児の歌を唄った当時13歳の美空ひばりであった。
敗戦の焼け野原に何より早く建ったのが、精神的価値を体現する教会や寺院ではなくて、飢餓を癒し性欲の捌け口のための闇市(エコノ)赤線(エロス)であったという歴史的事実が、その象徴である。
経済を先ず第一に考えて、それ以外それ以上の価値についてはすべて「後回し」あるいは先進欧米にお任せという口実で無視する経済優先思考は、日本人から戦後に生きるための精神的価値を創造していく萌芽をすべて自己去勢圧殺してしまった。
新興住宅地で、地域住民共同体の精神的紐帯として後に残ったのは、結局、白々しい憑依シャーマニズムの盆踊りと、闇市譲りの夜店という、形骸だけで誰もその意味を自覚できないお祭り屋台興行、祖霊崇拝盆習俗古代信仰だけではないか。
食うこと身なりだけに気を配り、教育文化は人任せ、という行動様式は、女と母のものである。公衆の場で悪いことをした我が子をしかるのに日本の母は、「悪いことだから止めなさい」とは絶対言わない。
「衣食足りて礼節を知る」菅子思想の破綻は何処よりも戦後日本の現実に明らかである。
「ほらほら、そこの怖いおじさんにしかられますよ(、だから止めなさい)」といえばましな方ではないか。
子供をしかる、特に他人の子供を公共の場で「叱る」という行為は、それ自体社会的に叱った者に社会的責任の伴なう高度な公共規範教育行為である。自分で叱るより、どこかのおじさんに叱ってもらう依存寄生の方が、失敗した自己責任を取らなくてもいいだけ、いざとなったら「怖いおじさん」にすべてを責任転嫁できるだけ親は楽なのである。
子と同じ立場で何が悪いのかと言わんばかりの母が黙って放置していれば、母子癒着にとっての邪魔物、他人の子供に注意すれば悪者にされかねないうるさいヨソのおじさんさえいなければ、しかられなければ良いのである。
言い換えれば「母子癒着を切り離し、子供を成人へと導く」「父」の教育者、指導者としての役割が最初から日本では除外視、無視されているということである。
この図式は、国際的に日本の戦争責任を追求するような日本人の世論を促す場合にも、「欧米は(日本を)こう非難している」「中国は反発している」「アジア諸国は懸念を示している」と、常に自分からは表立った批判をせず諸外国からの外圧を利用して意図を達成しようとする日本のマスコミ報道に沁みついた「及び腰態度」でも繰り返されている。
そもそも、日本の戦後民主化が、日本人の民主勢力によるものではなく、戦後日本の父マッカーサーと戦勝国アメリカGHQの力によって推進されたものであり、戦後日本は用心棒としてかつての敵アメリカ軍を「思いやり予算」で雇うことによって護られて来た〔つもりな〕のである。
国家的貧困は、人間として最低限とらねばならない他の全ての義務と責任を免除したのある。皇軍に継ぐ戦時統制経済企業戦士エコノミックアニマルの誕生であった。
運命共同体における掟やタブー、義理や人情倫理などの規範の総体は、驚異的なスピードで押し寄せる近代化の第三の波に洗われて次々とそのアナクロニズム性を露呈、摩耗消滅し嵐の過ぎ去った後に残った規範といえば、「赤信号、みんなで渡れば怖くない」という太母憑依同調原理に乗っ取った、衆愚=群集=モッブアノミー社会の利益誘導原始生物依存寄生タカリ戦略原則だけであった。
このアノミーの結果がもたらす影響は、社会倫理規範が、常に「みんな」「ふつう」「中流」「いい子」などの、客観基準を何も持たない漠然とした大多数の依存寄生タカリ生物群集行動にすりかえられてしまう、ということに現れる。その大多数が多数決の戦後民主制の中で、決定的な主権を取り「みんなで渡れば怖くない」と、法と規範を侵して突き進んでおきながら、その結果責任は絶対的に取らない群集無責任体制「ふつうファシズム」を生み出すに至った。
時が変わればどちらに向くか誰にもわからない流行としての「みんなと同じ」群集規範は、「世間、人様と同じ、ごくごくふつう、みんなやっている」大多数から常に外れないため、無視されないための憑依シャーマニスティックな母胎ふつうファシズム演技を生み出す。
ここで「ふつう」であることは、如何に非人間的なことをやっても、それがその時点で「ふつう」に属する限りどこからもそれに対しての有効な抑制が働かないということである。戦前では皇軍の侵略地での軍事行動とはもはや言えないアノミー性残虐行為、上から下まで見事に蔓延している今日の日本における汚職賄賂、ユスリ、タカリ、ヤクザ腐敗構造がその一例である。
飢えから始まった経済至上主義、アメリカに負けた原因と誤認した物質主義、の上に、この演技虚栄の上手さを競いあう面子、見栄、世間体、体面、嫉妬による小差異の学歴競争原理が作用し、戦後の経済一元価値社会的身分序列が固定化した。見栄の競い合いでパンパンに膨らんだカエルの腹が、弾け飛んだのがバブル崩壊である。
同時にそれら「みんな」「ふつう」「中流」「いい子」の「おままごと演技」に加わらない少数者は、存在すら無視され、人間としての権利は侵害されるがままに放置され続けてきた。
今までも、そしてこれからも透明な存在であり続けるボクを、せめてあなた達の空想の中でだけでも実在の人間として認めて頂きたいのである。それと同時に、透明な存在であるボクを造り出した義務教育と、義務教育を生み出した社会への復讐も忘れてはいない
これは西欧近代文明の浸透による一般的な自己疎外の結果であると共に、特に戦後日本人にとっては、警告を無視しすべてを破壊して突き進みついには自己をも破壊する「岸和田だんじり祭」のような原始寄生祭政一致憑依ヒステリーシャーマニズム心性への退行自我未発現型<先祖帰り>でもあった。
戦時統制経済効率原則(エコノカルト昼は命令された仕事の鬼)の中空戦後日本への浸透が自己疎外をもたらしたとすれば、売買春システム(エロチックオタク夜はラブホテル戦後の経済戦士用従軍慰安所)は自己未発現母胎回帰現象の現れとみることが出来よう。
こうして、エコノとエロスとに引き裂かれた戦後エコノ=エロティックアニマルは一体これからどうするのか?
原始心性だけが、アメリカから輸入された非武装民主社会自由体制の外形の中に残されたのである。
それがエコノ=エロティックアニマルといわれGNP一、二を争う「経済的富」を外部世界に誇りながら、一生働いても借金地獄のウサギ小屋にしか住めず、働き蟻のような「貧困なる精神」しか持たない奇形で不具な流産したエログロナンセンス日本人、国際自由市場から締め出しを食らい、従軍慰安婦問題で国連からも警告を受けかつての満州引揚げのように、海外進出支店から撤退を余儀なくされたバブル経済「闇市ヤクザ資本主義」の今日ある日本の姿となって現れたのである。
日本人の大半がもっぱら自国の軍事政治外交教育宗教文化社会思想を欠落させ、敗戦の地の経済復興だけに熱中するようになったのは戦後アメリカの占領政策極東戦略上、実に都合の良い事であった。アメリカに押し付けられた経済以外の戦後社会文化構造に絶対依存言いなりになって あまりに巧く行き過ぎた、その経済オンリーに狭められた官僚的視野狭窄戦後思考の限界が、最早戦後50年の間に当のアメリカからさえも変革するよう迫られるほどに、次々と隠しきれないボロとバブル腐敗となって構造的に出てきているのである。
敗戦の焼け野原に何より早く建ったのが、精神的価値を体現する教会や寺院ではなくて、飢餓を癒し性欲の捌け口のための闇市(エコノ)赤線(エロス)であったという歴史的事実が、その象徴である。
小さ子ドラえもんと、戦前風俗を引きずる海野太母サザエさん、「大博ち打ちの姐御」美空ひばりと、テキヤにしてフーテンの寅、祖霊信仰水戸黄門、蛾の祖霊モスラ程度で、知識情報化ボーダーレス社会で生き抜く国際的競争力を持てるような子供の教育ができるわけはない。
明治以来の「富国強兵」が、どちらも失敗と崩壊に終わった挙句の果てに、江戸時代の自閉鎖国まで退行、母胎回帰しても無駄である。いまさら永井荷風を見習えとでも言うのか。
少なくも明治から戦後に至るまで日本人が自ら提出し得た価値の選択枝は、強兵(海外進出国家主義権力大名)、富国(エコノミックアニマル商社商人企業戦士)、江戸時代もしくは縄文時代への自閉退行(母胎回帰町人職人、芸人文化オタク)の三つしかないように思われる。強兵、富国についでこれから日本国家と日本人が、その未曾有な歴史的体験から合意しやすい「戦争放棄による恒久平和の道」については、国際社会に向けて訴えかけて行こうとするのなら犯してはならない、加害責任を認めない虚偽意識によって未だその説得力を持ち得ていない。
現在官僚養成学校教育(カブキ劇場舞台)で教えられている教科内容の全ては、国語、社会の一部を除けば西欧父性文化のエッセンスであるといって差し支えない。にもかかわらず、子供たちが実際に生きていく日本のオタク御子小さ子ヤクザカルト的生活の場(楽屋裏)では、卑弥呼巫女以来からの、憑依シャーマニズム的縄文母性文化が息づいているという、鎖国を解いた日本文明の大矛盾の真っ只中に現代の子供は生まれながらに直面させられるのである。
バブル経済を防ぐことのできなかった日本の株主総会はそのお芝居の積み重ねのほんの一例である。
一見して儒教的伝統からは原因、動因ないものと見える少年凶悪犯罪は、たとえそれが一件でも、深い象徴的意味を持つと考えられ、極めて巨大な社会体制への不安を、日本全域に及ぼす。
彼らは薄々それが自分たちの安住する現シナリオ劇場体制に突きつけられた刃かも知れないと感じているにもかかわらず、共同体で共有する秘密を楽屋裏に隠し「みんな揃って見てみぬふりを」して劇場演技を続けている。「それを言っちゃあ(劇が)お終い」だからである。
その矛盾をTV演技の中でのみ生きているのが、最高の裁きをする裁判官僚(カミ,オカミ)が同時に肩に桜吹雪の刺青をしたヤクザ(荒ぶるカミ)でもあるという人気キャラクター「遠山の金さん」である。
そして子供たちがこれらから学びとる最大の教訓は、<学校教育とは現実生活とは没交渉の、しかし出世するには必要な「お芝居」だ>ということである。学校とは晴れの舞台鹿鳴館と同じような西洋文明を模倣する劇場でありそのお芝居の上演シナリオが国家検定教科書である。
戦後出世のトップにいる座長が大蔵官僚であり、日本の官僚とはこのお芝居のシナリオを丸暗記して同じことを繰り返すのが得意な、現実から遊離した快感原則の小さ子不具者の別称である。そして国民の公僕であった例は一度もなく、常に祭政一致劇場国家憑依シャーマニズム祭祀王小さ子天皇の忠実な僕であり続けてきたのが日本の官僚の伝統である。劇場国家の祭祀長が天皇だからである。
彼らは一度成功したシナリオの実行は、異なった時代や変化した状況内においては、却って失敗の原因となるという現実原則からの鉄則を太母に護られ決して自覚できないからである。劇場国家社会の役者は、一度当たれば死ぬまで当たり役の「二の舞」を舞う。
従って、彼らにとって除隊、失業、退職は自己=日本的自我である自分(親分、子分にはさまれたヤクザ序列中の自己の身分)、自己の体面、自己の役とその所属する世界を根こそぎ失うことであり、(職、身分、役、使役がないと自分がない)その役者アイデンティティ・クライシスとアノミー状況に当たってやっと人生と自己の存在意義を思い悩む青年期に入るのである。今度こそは、家庭にも企業にも、勿論軍隊にも国家にも上手い受け皿が用意されていなかったからである。(今の青少年のアイデンティティはフェティッシュ商品の中にある。)
皮肉にも、現在文化の伝承形態が残っているのは、親方の後ろ姿を盗み真似て自分の腕に磨きを掛ける子方職人芸人徒弟制度の世界だけになってしまった。職人、芸人とは、戦後の全人教育の理想から言えば、ある目的遂行にだけ人工的に特化された自由も倫理もなき、命令されるだけの一種の機械的不具奴隷にほかならない。
その全人教育を担うはずだった戦後学校教育の場すら、受験合格技能に秀でた職人、芸人を輩出するだけの企業就職下請け職業訓練校になってしまった。
それまでは、戦前から戦後にかけて12歳の少年でいられた彼らが、自己の進路を深刻に考えるべき青年期を省いた報いとして成人したはずの中年期の終わり、老年期の始まりになって人生と社会の現実に直面し考え悩まなければならないのは遅きに失した感は否めないが、成人すべき人間としては当然のことではないか。
夏目漱石がその作品上で繰り広げた神経症的苦闘は現在酒鬼薔薇 聖斗のような子供によってリアルタイムで実演されていると言えるかもしれない。
日本人は未だ、個人として独立できず、寄らば大樹の陰と、一生どこか何かの組織集団の一員として、加入寄生渡り歩く(ヤクザ、渡世、渡り鳥)ことでやっと自己のアイデンティティ=日本的自我である自分(親分、子分にはさまれたヤクザ序列中の自己の身分)、自己の体面、自己の役を得ているからである。
家庭、学校卒業から、実人生と世界、宇宙、自己の存在意義について深く思い悩む思春期、青年期体験も経ることなく、――大人になることなく、意味のある成人儀式も経ず――一直線に、軍隊、企業、官公庁など組織内役職に潜りこみ、外の現実世界の荒波を被らないで一生を母胎の中で安楽に暮すことこそが卑弥呼、巫女大母と御子依り童天皇小さ子の理想なのである。
この理想の輝かしい体現者こそ平安時代の中国の模倣によってつくられた官僚律令体制以来続いている日本の光源氏官僚である。そして国民の公僕であった例は一度もなく、常に祭政一致劇場国家憑依シャーマニズム祭祀王小さ子天皇の忠実な僕であり続けてきたのが日本の官僚の伝統である。劇場国家の祭祀長が天皇だからである。
戦後経済主義出世のトップにいる座長が大蔵官僚であり、日本の官僚とはこのお芝居のシナリオを丸暗記して同じことを繰り返すのが得意な、現実から遊離した快感原則の小さ子不具者の別称である。
一体彼らは人間なのだろうか?人間の皮を被った舞台の人形なのではないか?
今日人間の壊れやすさを確かめるための「聖なる実験」をしました。
人間というのは壊れやすいのか壊れにくいのかわからなかったけど、今回の実験で意外とがんじょうだということを知りました。
つまり戦後日本人は能力がないか、怠惰のためかいずれにせよ近代市民社会を創造することに結果的には失敗流産したのである。「恐るべき子供たち」はそうした流産の結果できた育てる親のない戦後の不具で奇形な「鈎十字から涙を流した」「私生児」母も名乗らない「捨て子」「孤児」「浮浪児」「オヤジ狩りを楽しむストリートチーマー」の群れである。
戦前の体制と自己の戦争責任とを深刻に反省謝罪することのない彼等親たちは、戦前から受け継いだ古い遺産を、新しい自由社会に合致した文化へと発展的に創造していく能力に欠如し、戦後になってもそのまま使い続けひたすら食いつぶしただけであった。
見かけだけ内部だけ無菌状態に保ったような中身がカラッポな空疎な家庭、地域、学校、社会組織からは、悪徳や腐敗、非行、犯罪に対して事前に歯止めを掛けていた、無形に蓄積された文化遺産である社会的抑止力が、規範が失われるのと比例して急速に消滅していく。
ここで「ふつう」であることは、如何に非人間的なことをやっても、それがその時点で「ふつう」に属する限りどこからもそれに対しての有効な抑制が働かないということである。戦前では皇軍の侵略地での軍事行動とはもはや言えないアノミー性残虐行為、上から下まで見事に蔓延している今日の日本における汚職賄賂、ユスリ、タカリ、ヤクザ腐敗構造がその一例である。
「昔と違って今は、何処にでもいるごくふつうの子が、ある日突然凶悪犯罪に走るケースが増えてきた」のは、「ふつう」といわれる日本の大多数の集団が最早客観的的には「ふつう」どころではなくなって来ていることの明白な証拠である。
人間というのは壊れやすいのか壊れにくいのかわからなかったけど、今回の実験で意外とがんじょうだということを知りました。
だから既に成人した「いい子」で「エリート」の息子や娘が、「産んだ私と家」を捨ててカルトのオウムに取られたなどと、精神的には何ひとつ子供に与えるものを持たなくなった親とはいえないその親が被害者として訴え現われる事になったのである。
C家庭の崩壊
仮面夫婦がその物件に同居し、家のローンを返済するために労働しながら「幸福な家庭」の劇場演技=おままごと・ごっこをした。子供を産んだが、彼等は親になる意志も、能力も知識も伝統も欠いていたので子供を育てることは出来なかった。
多くの思春期の子供たちにとって父親は父親でなく、家に寝に帰る居候か、金を運ぶだけの粗大ゴミであり、――これは自らを「人間」ではなく単なる労働者と存在規定した彼ら父の望みどうりの結果でもあった――母親は母親でなく、家政婦か口うるさいだけのクソババア――太母の反面であり子供を呑み込む蛇「母親は首に巻きつく蛇」といわれる「山姥、鬼婆」である。
その父親の稼いだ金も、トップが逮捕されるような反社会的な行為命令を一流の会社、銀行、官公庁という組織の一員となって指示通り働かなければ一円たりとも得られない給料によるものであり、「ごくふつう」の専業主婦となった母親の気にかけるのはすべて、夫と我が子とを出汁にした世間への体裁と見栄という「自分の人生を生きていない自己」、夫に対する良妻、子供に対する賢母を勝手に演じて結局は、「自分自身のない一人の女」の隠微な欲望満足のためである。
父は経済活動をするだけの労働者だから、子供の教育は、母にすべて任せた。だいいち、日本全国父は始終家にいない「母子家庭」が実現したのである。父はいなくなってしまった。
これは、父、夫が自ら出征志願、あるいは戦争に取られて帰宅しないというのと同じ延長上にある結果である。
女は、人間である男と結婚するので、単なる国家の兵士や会社の労働者を夫とすることは出来ない。彼らは組織の歯車であり過労死で駄目になれば次のと交換可能な消耗品でしかない存在であるからである。
一体彼らは人間なのだろうか?人間の皮を被った舞台の人形なのではないか?
今日人間の壊れやすさを確かめるための「聖なる実験」をしました。
人間というのは壊れやすいのか壊れにくいのかわからなかったけど、今回の実験で意外とがんじょうだということを知りました。
魅力のない、生きてもいない機械部品を愛するものは(オタク、カルト以外)誰もいない。相手となる男のいない女は、社会的な女とも母ともなれずに子供だけは産む。彼女らが、家に存在しない夫への愛の渇きを自分の子供にすべて注ぐことで癒そうとした乳母(山姥、オバタリアン)になって生まれたのが戦後日本の母子癒着家庭である。
その夫のいない妻によって育てられた母子家庭の子供が、現在の母子癒着、母源病、母胎回帰のオタク、その反動形成のカルト及び売春行為を自己正当化する女子高生となって社会の表面に現れてきたのである。
企業戦士となっている日本の男たちは、アメリカ占領文化と、企業帰属とで去勢され、人間であることはおろか、男ですらなくなっている以上、家庭の妻には拒否され、成熟した女を相手にはできず、幼女、人形しか愛せなくなっている当然の結果として近親相姦的に自分の娘のような女子高生を、自分に残された唯一の手段である「稼いだ金」で買うのである。
この父=娘近親相姦は、こうした男達を産んだ母親との間に保存された強い母子癒着、母=息子近親相姦と表裏鏡映一体の関係にあり、世代を重ねるに連れ互いが互いを循環的に生み出し強化し合っている。
オヤジは労働で子供の欲しがる商品をマーケティング生産あるいは輸入販売し、その報酬で女子高生の身体を買う。女子高生は、その商品を買う金が欲しくて自分の体に値札をつけて歩き、その身体をオヤジに売る。
この循環は一見被害者のいない消費社会のエコノ=エロティックアニマル売買春システムとしては江戸時代の幕府公認遊郭制度より遥かに完成されている。
戦時統制経済効率原則(闇市エコノカルト昼は命令された仕事の鬼)の中空戦後日本への浸透が自己疎外をもたらしたとすれば、売買春システム(エロチックオタク夜はパンパンラブホテル戦後の経済戦士用従軍慰安所)は自己未発現母胎回帰現象の現れとみることが出来よう。
こうして、エコノとエロスとに引き裂かれた戦後エコノ=エロティックアニマルは一体これからどうするのか?
一体彼らは人間なのだろうか?人間の皮を被った舞台の人形なのではないか?
今日人間の壊れやすさを確かめるための「聖なる実験」をしました。
人間というのは壊れやすいのか壊れにくいのかわからなかったけど、今回の実験で意外とがんじょうだということを知りました。
母は自分では子供を教育することは出来なかったので、学校、TVなどのマスメディア、ヨソのおじさんにすべて任せ、それと共に家庭から教育する主体と義務、責任が消失した。唯一父にはなれない彼女らに出来たことといえば、教育ではなく、子供たちを、いい子→いい学校→いい会社→いい生活→いい官公庁→えらい人→いい天下り先→いい老後→いい人生というようなイメージによる「欲を餌でつるペットしつけ調教芸アニマル生産飼育」だけであった。
食うこと身なりだけに気を配り、教育文化は学校任せメディア任せ人任せ、という行動様式は、女と母のものである。公衆の場で悪いことをした我が子をしかるのに日本の母は、「悪いことだから止めなさい」とは絶対言わない。
「ほらほら、そこの怖いおじさんにしかられますよ(、だから止めなさい)」といえばましな方ではないか。子と同じ立場で何が悪いのかと言わんばかりの母が黙って放置していれば、母子癒着にとっての邪魔物、悪者にされかねないうるさいヨソのおじさんさえいなければ、しかられなければ良いのである。
善いことは餌で釣り(タカらせ)、悪いことは誰かにしかってもらう。これが母性原理からの教育つまりヤクザ的動物飼育経済効率原理である。
そこにこうした閉塞的ごっこ演技構造を壊そうと家庭内で産みの親に対して甘えながらも自己破壊的暴力を振るって無意識のうちに訴える「赤ん坊陛下」、空腹は満たされたが、依然として心の空白は拡大していく状態に放置して置かれた12歳の少年=小天皇=母とハグレテ高天が原で暴力を振るう小さ子にして荒ぶる神スサノヲ=子供が登場した。
大層立派な建前的演技が完璧すぎる余り、みじめな現実本音との間でコミュニケイションが完璧に切断されている劇場社会、国家においては、暴力と犯罪こそが言語に替わる唯一にしてぎりぎりの突発メディアとして働くしかないであろう。俗に言う「この野郎、殴られなければ分からないのか」というやつである。
一体彼らは人間なのだろうか?人間の皮を被った舞台の人形なのではないか?
今日人間の壊れやすさを確かめるための「聖なる実験」をしました。
人間というのは壊れやすいのか壊れにくいのかわからなかったけど、今回の実験で意外とがんじょうだということを知りました。
言語による問いかけに、何も答えずに無視し続けるというのなら、一度殴ってみて本当に生きているのかどうか生体反応を見るということになるだろう。チーマーによるオヤジ狩りも、そうした生体反応を見る「聖なる実験」の悦楽に支えられているのではないか。
つまり戦後日本人は能力がないか、怠惰のためかいずれにせよ近代市民社会を創造することに結果的には失敗流産したのである。「恐るべき子供たち」はそうした流産の結果できた育てる親のない戦後の不具で奇形な「鈎十字から涙を流した」「私生児」母も名乗らない「捨て子」「孤児」「浮浪児」「オヤジ狩りを楽しむストリートチーマー」の群れである。
自分の子供から殴る蹴るの家庭内暴力を受けるがままにして、太母的に引きこもり応答せず対処していたつもりの父親は‘96年11月に、その中3の息子を金属バットで殺す最終応答に出た。
| 子供たちの復讐 | 本多勝一 編 | 朝日文庫 | 1986 |
「青春を返せ、人生を返せ!」と叫んで家庭内暴力をふるう子供を父親が殺した「開成高校生殺人事件」(1977)、「祖母殺し高校生自殺事件」(1979)についての裁判記録、新聞雑誌記事、対談、インタビューなど多方面からの当時の声を資料として集め、それらを「子供たちの社会に対する復讐」という視点でまとめ警告を発した日本では先駆的な書。この警告は、ほぼ10年を経過しても去年11月東京の父親による中三長男金属バット殺害、そして今年の神戸小学生連続殺傷へと、中学生にまで年齢をおとして繰り返されるまで無視されてきた。
今までも、そしてこれからも透明な存在であり続けるボクを、せめてあなた達の空想の中でだけでも実在の人間として認めて頂きたいのである。それと同時に、透明な存在であるボクを造り出した義務教育と、義務教育を生み出した社会への復讐も忘れてはいない
父は母に任せ、母は学校に任せ、学校は教育委員会に任せ、委員会は文部省に任せたが、その文部官僚は戦前の「墨塗り教科書」と「国体の本義」を書いたナチス的国家社会主義を、深い自己反省や戦争責任を取ることなしに戦後まで持ち込んだ勢力であった。
民主制の今現在ではなお更に、文部官僚は「教科書検定」により隠微な国家権力を行使しておきながら教育の破綻に責任を取る意志や覚悟はかけらもない。
現在官僚養成学校教育(劇場舞台)で教えられている教科内容の全ては、国語、社会の一部を除けば西欧父性文化のエッセンスであるといって差し支えない。にもかかわらず、子供たちが実際に生きていく日本の御子小さ子ヤクザ的生活の場(楽屋裏)では、卑弥呼巫女以来からの、憑依シャーマニズム的縄文母性文化が息づいているという、鎖国を解いた日本文明の大矛盾の真っ只中に現代の子供は生まれながらに直面させられるのである。
バブル経済を防ぐことのできなかった日本の株主総会はそのお芝居の積み重ねのほんの一例である。
その矛盾をTV演技の中でのみ生きているのが、最高の裁きをする裁判官僚(カミ,オカミ)が同時に肩に桜吹雪の刺青をしたヤクザ(荒ぶるカミ)でもあるという人気キャラクター「遠山の金さん」である。
そして子供たちがこれらから学びとる最大の教訓は、<学校教育とは現実生活とは没交渉の、しかし出世するには必要な「お芝居」だ>ということである。学校とは晴れの舞台鹿鳴館と同じような西洋文明を模倣する劇場でありそのお芝居の上演シナリオが文部省が書き上げた検定教科書というものである。
一見して儒教的伝統からは原因、動因ないものと見える少年凶悪犯罪は、たとえそれが一件でも、深い象徴的意味を持つと考えられ、極めて巨大な社会体制への不安を、日本全域に及ぼす。
彼らは薄々それが自分たちの安住する現シナリオ劇場体制に突きつけられた刃かも知れないと感じているにもかかわらず、共同体で共有する秘密を楽屋裏に隠し「みんな揃って見てみぬふりを」して劇場演技を続けている。「それを言っちゃあ(劇が)お終い」だからである。
芝居のシナリオに何の責任があるか。あるいはシナリオ作家に近代的な国家責任が取れるか。
民主制の最終責任は主権者国民が、そういう劇場シナリオを支持した観客全員が、身を以って取るものだからである。
相互依存責任回避による堂々巡りの悪循環がここに生ずる。
よそ様の子には表向き反対しながらも、我が子にはすべてを任せる代り親の責任を転嫁しようとした学歴主義学校教育管理体制は音を立てて崩壊し始め、見栄を張り合うだけで内実は出世の競争相手として憎み合っている似た者同志の地域社会も退廃し、帰るべき故郷は既に消え失せていた。
子供にも暴力を振るわれ、家族は離散、家計は破産、バブルが去った後残ったのは、庭もない土地に建った二束三文の欠陥住宅というスラム化した都市の外箱――「家庭」のない中身がカラの家と巨額の返しきれない借金だけである。
D空虚アノミーを埋める代償としてのカルト、オタク文化マスメディアの侵入
その空隙に青少年層を主とした対象としてアメリカを中心とした西欧文化のカウンターカルチャというべき自己疎外型オカルト、カルト、ホラー、ゲーム文化が侵入し、内側からは日本に伝統的にあったエログロナンセンス的町人自我未発現型オタク町人文化が台頭してきた。
今や、子供の教育を事実上引き受けている――というより、親も、学校も、地域も義務と責任を放棄した結果、引き受けざるを得なくなっているのは、大本のアメリカとこれらを伝えるマスメディアとなっているのである。
しかもアメリカには、これらをカウンターとする、ピュ―リタニズムという宗教的バックボーンが存在しその無制限な侵入は、教会の力、両親の監督、成熟した市民社会の成人指定など細かい年齢制限にも助けられ水際で食い止められているため、それほど直接的害悪を及ぼすものではない。
資本主義を生み出したピュ―リタニズムのような
宗教的バックボーンの中空欠如しているところでは、戦前の列強を模倣した日本帝国主義が、全世界を相手にした歯止めのないアモルフな侵略戦争に突入して行ってしまったのと同じ様に、戦後のアメリカ模倣経済効率原理だけの導入は、倫理と法と宗教とで護られるべき人間存在のすべてを根底から食いつぶしてしまったのである。
戦後日本には、抑止するのに必要なそのどちらの力も欠如しているでのある。
オウムなど幾多のカルト宗教が、共産党独裁、他宗教の抑圧禁止から解放されたペレストロイカ情勢下のロシアに生じた精神的空白を、あたかも埋めるかのようにどっと流れ込み、ある程度の成功を収めたていたのは記憶に新しいところである。
共産主義自身がキリスト教から出た無神論分派カルトである。
元々、カルトはそうした社会アノミーにできた宗教心の空白に必要物として入り込むからである。
やり玉に挙げられている「ホラービデオ」にも増して、マスメディアの悪影響を言うなら、子供が見ている年齢無制限の時間帯にのべつ放送されている、立場が弱そうな特定のタレント芸人一人に的を絞り他の出演者全員でいじめることを見世物芸、エログロナンセンスな売り物としている日本のTV番組のほうが、よほど無差別に害悪を垂れ流しているといえよう。
あるいは視聴者をその場で分かるクイズや懸賞づけにし濡れ手で泡の感覚を植え付け、自己を商品化するプライバシーの自己暴露に惜しげもなく大金をf与え続ける番組、「視聴者プレゼントに海外旅行、宝石、車」とか「…できたら100万円」と称しあからさまに参加者をその応募内容の価値に対して釣り合いの取れないほどの金額でつることを恥じない一獲千金番組に、臆面もなく応募、集(タカ)ってくる大人、子供、母親に付き添われた幼児の群れ。それをつけっぱなしにして面白がり見ている家庭。
真面目に働き、日々正当な社会報酬を得て暮して行くのが馬鹿らしくなり、日常的な大衆文化の中で育まれた経済金銭感覚が狂って来るのは当然のことではないか。
三面記事犯罪に「金銭感覚の麻痺」という紋切り型コメントを投げつけるTV局側が、その麻痺させる一翼を確実に担っているのである。
スタッフが創りたい企画を立ててから、独自な取材をし制作に必要な予算を請求するのではなく、(TVCMで見た商品を買うカネを目当てにタカッテ来る視聴者を呼び込みたい)CMスポンサーが出資する金をばらまくために、放送局が外部参加者を募ることによって成り行き的にTV番組を制作すれば視聴率が上がりそこにCMが流れるという、商品=カネ=欲の悪循環消費社会体制が出来上がっているのである。
プレゼントだけでページが組み立てられているサイトなど、インターネットにも登場しているこうした兆候は、卑猥なページに劣らず公共メディア衰退の証拠であり、放送の自殺行為である。
これは日本の国家予算官僚行政による公共事業ばらまき土建腐敗構造と本質的に同一である。ただその財源は結局、自由売買市場によるのではなく、強制的に国民から徴収される税金だというだけである。
価値のない下衆な芸能文化に、公共機関に近い組織が高い値をつけて買い上げる行為が目に余る場合には、つけられた側は価値が上がったように感じて喜ぶかもしれないが、実際には、一国の通貨価値を日々下落させていると見るべきである。
著作権で護られる、公表すべき社会的価値のあるものとは違って、芸能人でさえ本来は隠すべき芸以外の私生活を売りにだす行為は、人身売買、奴隷、売買春、臓器売買と同様法で禁止され保護された基本的人権を主権者自らが売って、金に代えようとする卑劣にして違法な自己を商品化する行為であるはずである。人権は本来、分割、独占、譲渡、売買できない平等に与えられた永久固有の権利だからである。
身体の映像を売るヌード写真集の出版で自分の借金を返そうという母親の娘が、文字通り売春行為で生計を立てるようになったとしても、当然の勢いというものではないか。ここに見られるのは江戸期の芸者と春画、遊女の復活である。
オヤジは労働で子供の欲しがる商品をマーケティング生産あるいは輸入販売し、その報酬で女子高生の身体を買う。女子高生は、その商品を買う金が欲しくて自分の体に値札をつけて歩き、その身体をオヤジに売る。
自己を商品化する経済行為はここでは、法と思想と人権と文化とを完全に侵食して身体に染み付いているのである。
資本主義を生み出したピュ―リタニズムのような
宗教的バックボーンの中空欠如しているところでは、戦前の列強を模倣した日本帝国主義が、全世界を相手にした歯止めのないアモルフな侵略戦争に突入して行ってしまったのと同じ様に、戦後のアメリカ模倣経済効率原理だけの導入は、倫理と法と宗教とで護られるべき人間存在のすべてを根底から食いつぶしてしまったのである。
この循環は一見被害者のいない消費社会のエコノ=エロティックアニマル売買春システムとしては江戸時代の幕府公認遊郭制度より遥かに完成されている。
戦時統制経済効率原則(闇市エコノカルト昼は命令された仕事の鬼)の中空戦後日本への浸透が自己疎外をもたらしたとすれば、売買春システム(エロチックオタク夜はパンパンラブホテル戦後の経済戦士用従軍慰安所)は自己未発現母胎回帰現象の現れとみることが出来よう。
こうして、エコノとエロスとに引き裂かれた戦後エコノ=エロティックアニマルは一体これからどうするのか?
いわゆる芸術作品以外の「公共の場における猥褻物陳列」が明らかな犯罪行為に当たるとされているのは、一つの原因として、必ずしも人間の身体が卑猥だからなのではなくて、むしろ自分の身体を金に代えようとする行為に、奴隷と同じ浅ましき自己を商品化する行為、精神の卑猥性が感じられるためなのではないか。
善いことは餌で釣り(タカらせ)、悪いことは誰かにしかってもらう。これが母性原理からの教育つまりヤクザ的動物飼育経済効率原理である。
18歳どころではない。
いかに視聴率獲得競争のためとはいえ、こうした人権無視公認あるいは「欲を餌でつるペットしつけ調教芸アニマル生産飼育」TV番組に「衣食足りて」子守りされるようにして育った3歳児がどういう子供に成長するのか日本のTV局は真剣に考えたことがあるのか。
餌で釣る経済効率しつけが、一国の首相から官僚のトップにまで賄賂にタカル品性の無さを植え付けたのである。
どこまでも増え続け、足ることを知らない金銭で買える物を中心とした欲望が一旦膨らみだしたら最後、自分と他人の人権を犠牲無視売買してまでもとにかく手っ取り早く実現させなければ気が済まないという気質が出来てしまったら、すでに取返しのつかない立派な犯罪予備軍というべきである。
勿論、「物を中心とした欲望」とはいっても発達した資本主義段階においては、商品に価値をつけるのは最早使用価値ではなくて、CM広告イメージによってその商品に与えられた、自己アイデンティティの無限の幻想――つまりフェティッシュ(呪物)的価値である。資本主義がいわば髪の毛や、体液、勾玉に自己(の分身)を持つ古代呪術世界に接続するのである。
幻想だからこそ、ワンポイント商品の微少差異によって欲望は無限に空回りし、資本は成長することが可能になるかのように見える。但し、物としての資源はどこまでも有限であるから、その虚栄発展も環境ゴミエネルギー人口犯罪治安問題の壁に突き当たるまでのことである。
連日巨費を投じて制作され流されるCMこそが、唯の物に、欲望の対象となる自己アイデンティティの価値を植え付けているからこそ割高でも売れる商品となるのである。
商品の代金を払えば才能や個性ある他人のアイデンティティを自分も持てると信じ込ませる、物から深層心理への代償交換同一視幻想を起こさせるのがCMの消費劇場社会における機能であり、その具体的役割を大半のギャラを持って行く有名タレント芸人が担っている。
こうした劇場社会では、それだから、芸能演劇のみを現実と認める一般大衆は幻想を与え続ける演劇CMを、「パン」の他に「サーカス」を必ず必要とし、その登場人物である役者、俳優、スポーツ選手、芸能人を彼らの唯一の我の分身=実在するVIPとしてあれほどまでに追い回し、日々の話題にするのである。
空腹は満たされたが、依然として心の空白は拡大していく状態に放置して置かれた12歳の少年である彼等子供たちにはもう「行き場所がない」「居場所がない」。良くて、一発当てるエログロナンセンスお笑いタレント芸人とスター歌手やスポーツ選手くらいが子供の目差す目標になってしまったのである。
女子高生が「援助交際」と称してファッションブランド物を手に入れるためなら自分の身体を売る売春行為を正当化でき当然と考えたり、流行のゲーム玩具や他人とちょっと違った運動靴欲しさに、チーマーら致強盗殺人が起こっても不思議ではなくなっているのである。ここにH・ボスの「乾草車」の現代版を見る。
だから近年の青少年は、旧世代から見ると些細とも思われることに、過激に反応し何かといえば「むかつく」、急に「切れる」突発性自己破壊的暴走行為に出るのである。これは伝統的には「ヤクザ」のヒステリー人格反応であった。
抑圧の下位への委譲による行き場所を失った弱者へのいじめは今回その幼稚な器質的残虐性を短期間に増幅し、劇場型アノミー性残虐行為にまで至ったと考えられる。
経済を先ず第一に考えて、それ以外それ以上の価値についてはすべて「後回し」あるいは先進欧米にお任せという口実で無視する経済優先思考は、日本人から戦後に生きるための精神的価値を創造していく萌芽をすべて自己去勢圧殺してしまった。国家的貧困は、人間として最低限とらねばならない他の全ての義務と責任を免除したのある。皇軍に継ぐ統制経済企業戦士エコノミックアニマルの誕生であった。
「記号論」の流行とか「オヤジ狩りを楽しむストリートチーマー」「ヤンキー」のようなものでも何でも、いわゆる若者文化サブカルチャから、思想にいたるまで「かっこいい先進国の外見、物まね」をマクドナルドやジーンズと同じレベルで一時的にしてみただけの風俗流行にすぎず、言うまでもないが、これらは日本という国が始まる以前から続いている憑依寄生占領植民地文化の形態である。
唯、その外来文化の取り込みが、明治以来、夏目漱石に顕著に顕れたような急性分裂症状を引き起こすまでに病的に亢進してきたことが、特に敗戦時の奇蹟の復興から50年間の高度経済成長においては極めて大きな背景となる問題である。
現在官僚養成学校教育(カブキ劇場舞台)で教えられている教科内容の全ては、国語、社会の一部を除けば西欧父性文化のエッセンスであるといって差し支えない。にもかかわらず、子供たちが実際に生きていく日本のオタク御子小さ子ヤクザカルト的生活の場(楽屋裏)では、卑弥呼巫女以来からの、憑依シャーマニズム的縄文母性文化が息づいているという、鎖国を解いた日本文明の大矛盾の真っ只中に現代の子供は生まれながらに直面させられるのである。
バブル経済を防ぐことのできなかった日本の株主総会はそのお芝居の積み重ねのほんの一例である。
一見して儒教的伝統からは原因、動因ないものと見える少年凶悪犯罪は、たとえそれが一件でも、深い象徴的意味を持つと考えられ、極めて巨大な社会体制への不安を、日本全域に及ぼす。
彼らは薄々それが自分たちの安住する現シナリオ劇場体制に突きつけられた刃かも知れないと感じているにもかかわらず、共同体で共有する秘密を楽屋裏に隠し「みんな揃って見てみぬふりを」して劇場演技を続けている。「それを言っちゃあ(劇が)お終い」だからである。
その矛盾をTV演技の中でのみ生きているのが、最高の裁きをする裁判官僚(カミ,オカミ)が同時に肩に桜吹雪の刺青をしたヤクザ(荒ぶるカミ)でもあるという人気キャラクター「遠山の金さん」である。
そして子供たちがこれらから学びとる最大の教訓は、<学校教育とは現実生活とは没交渉の、しかし出世するには必要な「お芝居」だ>ということである。学校とは晴れの舞台鹿鳴館と同じような西洋文明を模倣する劇場でありそのお芝居の上演シナリオが国家検定教科書である。
現在でも小学校低学年までの特に田舎の運動会、学習発表会には、この地域共同体における晴れの舞台感覚が残されているのではないか。そしてそれはお祭り屋台縁日小屋がけ興行の伝統に繋がっている。
新興住宅地で、地域住民の共同体精神的紐帯として後に残ったのは、結局、白々しい憑依シャーマニズムの盆踊りと、闇市譲りの夜店という、形骸だけで誰もその意味を自覚できないお祭り屋台興行、祖霊崇拝盆習俗古代信仰だけではないか。
例えば現在の日本で、「国民主権」、「基本的人権の尊重」、「戦争の放棄」の憲法三原則が教科書通り護られていると本気で考えている国民、それを実現するために日夜行動によって努力しなければならないという国民が、この国に何人いると思うのか。
一夜漬けで合格するのに必要な官僚試験の紙の上だけ、外国に見せるときのお芝居の脚本の上だけ、体裁を繕う口の中の「お題目」だけの台詞だと大多数は思っているのではないか。
楽屋裏の役者には、何も言わなくとも実際の体験から(阿吽の呼吸で)「官僚国家主権(官尊民卑)」、「基本的人権の無視」、「戦争責任の否認」で常々通っているからである。
更に実際には、父性文化社会構造の基盤である、法治主義、自由主義、民主主義、資本主義その何れをとっても、それらが明治以来輸入した「芝居上、舞台上、形の上」の母胎憑依シャーマニズム演技お祭り屋台縁日小屋がけ興行であることがますます露になってきたのが戦後50年経った日本の現状である。
社会基盤をいい加減にして、戦前から受け継いだ腐った国家統制土台の上に手っ取り早くお祭り屋台興業土建テキヤ経済だけを、常に憑依シャーマニズム祖霊崇拝祭祀王小さ子天皇を拝む祭政一致劇場国家の伝統で砂上楼閣し、自由民主体制の化粧をしてごまかそうとした結果が、社会基盤を整備したうえで経済発展に乗り出した近隣アジア諸国にも追い抜かれるようになった近頃の戦後日本バブル経済だからである。
戦前の内務省官僚主導戦時経済統制から、軍事色を薄め、戦後大蔵省官僚統制経済へと「なしくずし」に何の反省もなくシフトさせて来た明治以来の富国強兵国家社会主義統制経済主義の結果が、大蔵官僚の腐敗と日本経済の崩壊となって現れたのである。〔戦前天皇と軍閥を裏から操った内務官僚が、生き延びたのに使った同じ手口で戦後の大蔵官僚にシフトした。〕
国家官僚が縄張り下においた下々国民から合法的強制的に収奪したヤクザのミカジメ料にあたる年貢税金とその予算配分裁量権益一手に握っていた大蔵官僚こそが、こういう戦後国家統制経済主義日本社会では、政治家を陰から操ることで最高の権力=金権腐敗政治の実権を持ちながら、どんなに失敗、腐敗しても国民の前に責任は取らないという、陰の絶対権力の座に君臨することができたのである。この甘い汁=予算裁量権にありつこうと、寄らば大樹の陰と民が我勝ちに大蔵官僚に対し宴会接待攻勢を仕掛けて来る寄生タカリ構造が完成した。
新興住宅地で、地域住民の共同体精神的紐帯として後に残ったのは、結局、白々しい憑依シャーマニズムの盆踊りと、闇市譲りの夜店という、形骸だけで誰もその意味を自覚できないお祭り屋台興行、祖霊崇拝盆習俗古代信仰だけではないか。
外部の観客においても西欧はもちろんのこと、アジア諸国にしたところで、戦後日本を経済発展の一つのモデルにしようとはしても、法治主義、自由主義、民主主義、資本主義が完備され文字通り「国民に主権があり」、「基本的人権が尊重された」、唯一「戦争の放棄」まで進んで空前の繁栄を迎えた模範文化国家とみる国はない。
オリンピックや万博高度成長――近年では中止に追い込まれた世界都市博、バブルと金融犯罪のお祭り土建テキヤ興行芝居の薄い書き割りを通してどこか可笑しく哀しい島国の楽屋裏が透けてみえるからである。
一体彼らは人間なのだろうか?人間の皮を被った舞台の人形なのではないか?
今日人間の壊れやすさを確かめるための「聖なる実験」をしました。
人間というのは壊れやすいのか壊れにくいのかわからなかったけど、今回の実験で意外とがんじょうだということを知りました。
一見して儒教的伝統からは原因、動因ないものと見える少年凶悪犯罪は、たとえそれが一件でも、深い象徴的意味を持つと考えられ、極めて巨大な社会体制への不安を、日本全域に及ぼす。
彼らは薄々それが自分たちの安住する現シナリオ劇場体制に突きつけられた刃かも知れないと感じているにもかかわらず、共同体で共有する秘密を楽屋裏に隠し「みんな揃って見てみぬふりを」して劇場演技を続けている。「それを言っちゃあ(劇が)お終い」だからである。
| みんなの寅さん | 佐藤忠男 | 朝日文庫 | 1992 |
戦後日本の生んだ最大の大衆ヒーローが何故テキヤのキャラクターでなければならなかったのか、上掲書と合わせ読むことによって始めて理解できる。
テキヤとはヤクザになりきれない落ちぶれた、全国を放浪漂白遊行する日本の憑依シャーマチスティックな神「マレビト」の商業的一形態である。「座頭市」も含まれるその原型は「水戸黄門」にある。日本の大衆は民主主義と法を護ろうとする市民より、浜田幸一と、阿部譲二と鶴田浩二、勝新太郎、高倉健、菅原文太、渥美清、横山やすしらを支持し愛してきたのではないか。少なくとも、法を遵守して餓死した学者より、ヤクザとテキヤとパンパンの焼け跡闇市でGHQ配給流れに寄生して生き延びる方を選んだ絶対多数者(みんな)によって戦後日本が作られてきたのは事実であろう。みんなで渡れば恐くないと、法より闇を選ぶ大衆みんなが野村証券をトップとする日本経済を赤信号を無視してここまで育ててきたのである。
| 美空ひばりと日本人 | 山折哲雄 | PHP文庫 | 1984 |
男がテキヤ「寅さん」なら女の戦後日本人が生み出した代表格は「大博打打ちの姉御」(加太こうじ)である。未だに「極道の妻たち」がヒットしているように、日本の芸能人は男ならヤクザとテキヤ(スサノヲ)、女ならアネゴと女郎(アマテラス)がお似合いと相場が決まっているのである。
ひばりファンを自任する良く知られた宗教学者の山折によれば日本人を評価する分析軸として、「知性」40%、「含羞性」30%、と並んで「ヤクザ性」30%の3つをあげる方法を紹介し、これに「感服」している。あとがきでこの「ヤクザ的な論理」に「学者ですら、ヤクザ的、演歌的気質が、少なくとも30%も入り込んでいる」と駄目押ししていたのが、当時バブル経済の一翼を担った、長銀総合研究所理事長の地位にいた竹内宏であった。
フェアプレイと競争ルールを遵守する国際社会にこれから日本人が「寅さん」と「ひばり」のような戦後のヤクザ的文化遺産を携えながらも、金融ビッグバンを成功させ進出していこうとするならば、現地の一般市民が印篭の前にひれ伏さないのを不思議がる海外に出た水戸黄門のような呪物アナクロニズムの悲哀を味わうことになろう。
従って、彼らにとって除隊、失業、退職は自己=日本的自我である自分(親分、子分にはさまれたヤクザ序列中の自己の身分)、自己の体面、自己の役とその所属する世界を根こそぎ失うことであり、(職、身分、役、使役がないと自分がない)その役者アイデンティティ・クライシスとアノミー状況に当たってやっと人生と自己の存在意義を思い悩む青年期に入るのである。今度こそは、家庭にも企業にも、勿論軍隊にも国家にも上手い受け皿が用意されていなかったからである。(今の青少年のアイデンティティはフェティッシュ商品の中にある。)
皮肉にも、現在文化の伝承形態が残っているのは、親方の後ろ姿を盗み真似て自分の腕に磨きを掛ける子方職人芸人徒弟制度の世界だけになってしまった。職人、芸人とは、戦後の全人教育の理想から言えば、ある目的遂行にだけ人工的に特化された自由も倫理もなき、命令されるだけの一種の機械的不具奴隷にほかならない。
その全人教育を担うはずだった戦後学校教育の場すら、受験合格技能に秀でた職人、芸人を輩出するだけの企業就職下請け職業訓練校になってしまった。
一見して儒教的伝統からは原因、動因ないものと見える少年凶悪犯罪は、たとえそれが一件でも、深い象徴的意味を持つと考えられ、極めて巨大な社会体制への不安を、日本全域に及ぼす。
彼らは薄々それが自分たちの安住する現シナリオ劇場体制に突きつけられた刃かも知れないと感じているにもかかわらず、共同体で共有する秘密を楽屋裏に隠し「みんな揃って見てみぬふりを」して劇場演技を続けている。「それを言っちゃあ(劇が)お終い」だからである。
こうした劇場社会では、それだから、芸能演劇のみを現実と認める一般大衆は幻想を与え続ける演劇CMを、「パン」の他に「サーカス」を必ず必要とし、その登場人物である役者、俳優、芸能人を彼らの唯一の我の分身=実在するVIPとしてあれほどまでに追い回し、日々の話題にするのである。
空腹は満たされたが、依然として心の空白は拡大していく状態に放置して置かれた12歳の少年である彼等子供たちにはもう「行き場所がない」「居場所がない」。良くて、一発当てるエログロナンセンスお笑いタレント芸人とスター歌手やスポーツ選手くらいが子供の目差す目標になってしまったのである。
それまでは、戦前から戦後にかけて12歳の少年でいられた彼らが、自己の進路を深刻に考えるべき青年期を省いた報いとして成人したはずの中年期の終わり、老年期の始まりになって人生と社会の現実に直面し考え悩まなければならないのは遅きに失した感は否めないが、成人すべき人間としては当然のことではないか。
夏目漱石がその作品上で繰り広げた神経症的苦闘は現在酒鬼薔薇 聖斗のような子供によってリアルタイムで実演されていると言えるかもしれない。
日本人は「現代文明の基準ではかった場合には、彼らはわれわれが45歳であるのに対して、12歳の少年のようなものです」とマッカーサー元GHQ最高司令官は解任帰国後の聴聞会で証言した。彼によれば日本人にとっての敗戦時の精神状況とは、占領されることですらなく心に「巨大な空白状態」が生じることであった。ペリーが来たときには鎖国体制の母胎から生まれ落ちたばかりだったこの空腹と心の空白とを抱えた12歳の少年が高度経済成長で、どのように立派に成長したというのか?
その元祖は戦後の焼け跡でチャップリンの‘Kid’を真似た「東京キッド」という浮浪児あるいは戦争孤児の歌を唄った当時13歳の美空ひばりであった。
いわば外来の遊行するカミ=占領軍GIが帰国した後に、焦土に残された闇市の巫女にして遊女パンパンから産み落とされた父親のない御子「私生児」母も名乗らない「捨て子」「浮浪児」こそがその一部がヤクザとなって今日ある日本と日本人を形成してきたのである。このパンパンは今日の援助交際と称する売春行為を餌に、金のあるオジサンにタカル女子高生になっている。
オヤジは労働で子供の欲しがる商品をマーケティング生産あるいは輸入販売し、その報酬で女子高生の身体を買う。女子高生は、その商品を買う金が欲しくて自分の体に値札をつけて歩き、その身体をオヤジに売る。
この循環は一見被害者のいない消費社会のエコノ=エロティックアニマル売買春システムとしては江戸時代の幕府公認遊郭制度より遥かに完成されている。
戦時統制経済効率原則(闇市エコノカルト昼は命令された仕事の鬼)の中空戦後日本への浸透が自己疎外をもたらしたとすれば、売買春システム(エロチックオタク夜はパンパンラブホテル戦後の経済戦士用従軍慰安所)は自己未発現母胎回帰現象の現れとみることが出来よう。
こうして、エコノとエロスとに引き裂かれた戦後エコノ=エロティックアニマルは一体これからどうするのか?
敗戦の焼け跡に発生した幾多の浮浪児、私生児、孤児のように、あの少年も、阪神大震災後の焼け跡に立ち、同じ「社会アノミー」感、一種のカタストロフ感を味わったのではあるまいか。世界が崩壊するハルマゲドンを待望したオウム幹部の早川は地下鉄サリンなど一連の行動を「戦争」と位置づけていた。その廃虚の中から「オウムの子ら」だけが、一種の孤児として生き残るのである。
見かけだけ内部だけ無菌状態に保ったような中身がカラッポな空疎な家庭、地域、学校、社会組織からは、悪徳や腐敗、非行、犯罪に対して事前に歯止めを掛けていた、無形に蓄積された文化遺産である社会的抑止力が、規範が失われるのと比例して急速に消滅していく。
こうした環境がそろった中から、現代日本を代表するカルトとなったオウム、オタクの宮崎勤、そして今回の劇場型殺人ゲーマー酒鬼薔薇聖斗が紛れも無く社会が要求した当然の分泌物であるかのように現れてきたのである。
E模倣儀式化
日本人は「現代文明の基準ではかった場合には、彼らはわれわれが45歳であるのに対して、12歳の少年のようなものです」とマッカーサー元GHQ最高司令官は解任帰国後の聴聞会で証言した。ペリーが来たときには鎖国体制の母胎から生まれ落ちたばかりだったこの空腹と心の空白とを抱えた12歳の少年が高度経済成長で、どのように立派に成長したというのか?
その元祖は戦後の焼け跡でチャップリンの‘Kid’を真似た「東京キッド」という浮浪児あるいは戦争孤児の歌を唄った当時13歳の美空ひばりであった。
いわば占領軍GIが帰国した後に、焦土に残された闇市のパンパンから産み落とされた父親のない「浮浪児」「私生児」母も名乗らない「捨て子」こそがその一部がヤクザとなって今日ある日本と日本人を形成してきたのである。敗戦の焼け跡に発生した幾多の浮浪児、私生児、孤児のように、あの少年も、阪神大震災後の焼け跡に立ち、同じ「社会アノミー」感、一種のカタストロフ感を味わったのではあるまいか。世界が崩壊するハルマゲドンを待望したオウム幹部の早川は地下鉄サリンなど一連の行動を「戦争」と位置づけていた。その廃虚の中から「オウムの子ら」だけが、一種の孤児として生き残るのである。
規範と教育、手本、モデルが学校、家庭、社会のどこからも与えられない環境に産み落とされたエログロナンセンス焼け跡戦後社会の「孤児」「浮浪児」というべき子供たちは、それらサブカルチャをマスメディアから代償として模倣し受け入れ、最低の自己存在を確認するための規範の儀式とするより生きる道はなかった。
今までも、そしてこれからも透明な存在であり続けるボクを、せめてあなた達の空想の中でだけでも実在の人間として認めて頂きたいのである。それと同時に、透明な存在であるボクを造り出した義務教育と、義務教育を生み出した社会への復讐も忘れてはいない
特に今回の事件で表面化した首の切断が、本当に供述どうり何らかの意味のある「儀式」であったとするならば、弥生人の先祖の一つと目されている古代倭族の稲作儀礼における「首狩り」にまで、先祖返りしたものとも考えられる。
(成人儀式=現代では失われてしまった極めて深い「イニシエーション」の体験)
1997年のいわゆるエリート家庭に起った「祖母殺し高校生自殺事件」がその典型と思われる。(本多勝一「子供たちの復讐」第4章以下参照;河合隼雄のユング心理学を緩用した6章<「正夢」と化した儀式>p491〜は今回の事件の核心を突いている)
1950年代まで首狩りを実際に行なっていた現中国雲南倭族でも、その一部はいまだ邪馬台国さながらの古代母系性社会であり、稲作豊饒祈願呪術として近隣他部族の首を、たとえ子供でも殺して狩るといい、池でその首を洗うのである。
「稲作儀礼と首狩り」鳥越憲三郎p105〜参照。
運命共同体における掟やタブー、義理や人情倫理などの規範の総体は、驚異的なスピードで押し寄せる近代化の第三の波に洗われて次々とそのアナクロニズム性を露呈、摩耗消滅し嵐の過ぎ去った後に残った規範といえば、「赤信号、みんなで渡れば怖くない」という太母憑依同調原理に乗っ取った、衆愚=群集=モッブアノミー社会の利益誘導原始生物寄生戦略原則だけであった。タカリの原理がこれである。
これは西欧近代文明の浸透による一般的な自己疎外の結果であると共に、特に戦後日本人にとっては、警告を無視しすべてを破壊して突き進みついには自己をも破壊する「岸和田だんじり祭」のような原始寄生祭政一致憑依ヒステリーシャーマニズム心性への退行自我未発現型<先祖帰り>でもあった。
その原型が、いわゆる全国どこにでも「お祭り野郎」に見られる「ヤクザな兄さん」「イナセな姐御」である。
いわば占領軍GIが帰国した後に、焦土に残された闇市のパンパンから産み落とされた父親のない「浮浪児」「私生児」母も名乗らない「捨て子」こそがその一部がヤクザとなって今日ある日本と日本人を形成してきたのである。このパンパンは今日の援助交際と称する売春行為を餌に、金のあるオジサンにタカル女子高生になっている。
戦時統制経済効率原則(エコノカルト昼は命令された仕事の鬼)の中空戦後日本への浸透が自己疎外をもたらしたとすれば、売買春システム(エロチックオタク夜はラブホテル戦後の経済戦士用従軍慰安所)は自己未発現母胎回帰現象の現れとみることが出来よう。
こうして、エコノとエロスとに引き裂かれた戦後エコノ=エロティックアニマルは一体これからどうするのか?
つまり戦後日本人は能力がないか、怠惰のためかいずれにせよ近代市民社会を創造することに結果的には失敗流産したのである。「恐るべき子供たち」はそうした流産の結果できた育てる親のない戦後の不具で奇形の「鈎十字から涙を流した」「私生児」母も名乗らない「捨て子」「孤児」「浮浪児」「オヤジ狩りを楽しむストリートチーマー」「ヤンキー」の群れである。
宮崎勤は、雑誌「創(つくる)」のインタビューに獄中から答えた2回目の書簡の中で、「ニセの父が死んだ時はスッとした」と答えながらある種の血統妄想を抱いていることを窺わせ、「私に本当の両親を教えろ」と「ニセの両親」に食ってかかっている。手紙全体の中でもこの部分は、異様な迫真性に満ちているのである。
これは、様々に考えられるが、一つには、川端康成の文学が「孤児の文学」と称されるのと同じ次元から発する日本的「孤児妄想」に原因があると言っても良いのではないだろうか。
ヤクザ自体が、いわゆる幸福な一家団欒のある家庭からグレタ者同志の共済組合のような結社「**一家」であるが、「グレる」「グレン隊」というのは私見では「母からハグレル」スサノヲがその心理的原型を成すと思われるからである。「はぐれ雲」「はぐれ刑事」の例を見よ。
例の謎めいたシンボルは、ナチスの鈎十字にそこから流れ出る涙を組み合わせたもので、少年を含む近所の遊び仲間集団のマークとして北須磨公園などによく落書きしていたものであったという。――受験体制によって生産された「知的でナチス的であれば、誠実でない」子供(「子供たちの復讐」本多勝一編p489)から落ちこぼれた涙とも考えられる。
あるいは、宮崎勤のように本当の母も父もいない家庭で育てられたことへ流した涙なのかも知れない。少年は逮捕後も、両親との面会を一貫して拒否していると伝えられている。
ある者はカルトに入会し、ある者はひたすらオタクに閉じこもり自閉化孤立し、またある者は家庭、学校、地域を社会全体に対する憎悪と暴力で満たした。
これがオウムのような、あるいは例えば各地に散在する暴走族ヤンキーくずれが手を組んだカルト暴力的広域組織、大都市大阪あたりから遊び半分、ナンパ半分に週末になると夜から車を走らせ地方に乗り込むのを習慣にしている小人数ストリートチーマー犯罪だったら警察はどう対処するのか。
F残虐殺人ゲーム化、劇場化
@からEまでの結果が現実とフィクションとの区別が十分でない青少年の心、空腹は満たされたが、依然として心の空白は拡大していく状態に放置して置かれた12歳の少年の心に大量に流されて彼等はここまで「イメージだけ、身体だけ育った」。この12歳の少年が高度経済成長で、どのように立派に成長したというのか?
その元祖は戦後の焼け跡でチャップリンの‘Kid’を真似た「東京キッド」という浮浪児あるいは戦争孤児の歌を唄った当時13歳の美空ひばりであった。
今の社会は子供を育てているのではない。「教育」することは完全に失われている。――小杉文相は今度の事件に慌てて,文部官僚に「心の教育を」本気で取り組むよう訓示している。今までは「心の教育を」考えたこともないといっているようなものだ。(後記)――自分の人生を生きてこなかった親の、「欲を餌でつるペットしつけ調教芸アニマル飼育」にすぎない「早期教育」と称する叶えられなかった欲望満足の手段として、親の気に入る奇形のペット、言うことを素直に聞く不具の人形を大量に生産し、刻一刻と自分の首を絞めているのである。
皮肉にも、現在文化の伝承形態が残っているのは、親方の後ろ姿を盗み真似て自分の腕に磨きを掛ける子方職人芸人徒弟制度の世界だけになってしまった。職人、芸人とは、戦後の全人教育の理想から言えば、ある目的遂行にだけ人工的に特化された自由も倫理もなき、命令されるだけの一種の機械的不具奴隷にほかならない。
その全人教育を担うはずだった戦後学校教育の場すら、受験合格技能に秀でた職人、芸人を輩出するだけの企業就職下請け職業訓練校になってしまった。
一体彼らは人間なのだろうか?人間の皮を被った舞台の人形なのではないか?
今日人間の壊れやすさを確かめるための「聖なる実験」をしました。
人間というのは壊れやすいのか壊れにくいのかわからなかったけど、今回の実験で意外とがんじょうだということを知りました。
明らかに、先の世界大戦で亡んだフィクションと芸術としての推理小説は、現実と夢との境界が定かではない現代のオタクカルト的青少年の手によって、命を懸けた現実のゲーム犯罪に取って代わられたと言えよう。核爆弾を使用する国家組織間世界大戦が、あるいは公害、構造腐敗、組織犯罪、国家犯罪がフィクションとしての推理小説(個人の犯罪!)の限界を軽々と越えてしまったように、残念ながら、あらん限りに知恵を絞って書かれたどんな優れた現在の推理小説よりも、この犯罪を報道するニュースやワイド・ショーで送られる毎日の一時間、30分のほうがスリリングであり、リアルタイムにおける犯人との対決や謎解きの面白さがあるのである。
犯人がマスコミ報道を前提とした犯行を計画時点から持っていたことは、この再度にわたる「殺人ゲーム」宣言からも明確だろう。この事実に今更のように驚いていた某TV関係者は、現代のジャーナリストとしての資格が疑われるといわなくてはならない。現代の犯罪は否応無しに、血が流れ首が転がる生々しい現実であると同時にこうしたマスコミに現場報道された瞬間、茶の間でくつろいで見る視聴者にとっては否応無くショーアップされた一種の小説のようなフィクション、現実とはかけ離れたゲームのような劇場犯罪と化してしまうのだ。
こうした劇場社会では、それだから、芸能演劇のみを現実と認める一般大衆は幻想を与え続ける演劇CMを、「パン」の他に「サーカス」を必ず必要とし、その登場人物である役者、俳優、芸能人を彼らの唯一の我の分身=実在するVIPとしてあれほどまでに追い回し、日々の話題にするのである。
空腹は満たされたが、依然として心の空白は拡大していく状態に放置して置かれた12歳の少年である彼等子供たちにはもう「行き場所がない」「居場所がない」。良くて、一発当てるエログロナンセンスお笑いタレント芸人とスター歌手やスポーツ選手くらいが子供の目差す目標になってしまったのである。
ここでは場合によっては大衆に支持されれば凶悪犯罪すらもスターを生み出すのである。カブキ芝居とは元々そうしたキワモノから始まった演劇ではないか。
現実に生じた信じれない事件や進んだ事態について人は未だに「まるで夢のようだ」「SF(サインス・フィクション)のようだ」というではないか。夢やフィクションを創造する能力の無い者は、日頃から現実をフィクションと分離することが出来なくなって夢と現実が未分になっており、フィクションの極限をめざすSF的シュミレーション思考を常々馬鹿にして憚らない。
しかし、その様な態度では、新しい事態が現実と化した時の心的準備がなにも為されず無防備なままになっている。だからいざ彼等にとって信じがたい事件が起ると、フィクションあるいは可能性が現実化したのではなく逆に現実をフィクション=劇場演技、冗談と見なすことによってしかその心的ショックを軽減しようとするほかはないである。
一見して儒教的伝統からは原因、動因ないものと見える少年凶悪犯罪は、たとえそれが一件でも、深い象徴的意味を持つと考えられ、極めて巨大な社会体制への不安を、日本全域に及ぼす。
彼らは薄々それが自分たちの安住する現シナリオ劇場体制に突きつけられた刃かも知れないと感じているにもかかわらず、共同体で共有する秘密を楽屋裏に隠し「みんな揃って見てみぬふりを」して劇場演技を続けている。「それを言っちゃあ(劇が)お終い」だからである。
さあ、ゲームの始まりです。
愚鈍な警察の諸君、僕を止めてみたまえ。
そこでぼくは、世界でただ一人ぼくと同じ透明な存在である友人に相談してみたのである。すると彼は、「みじめでなく価値ある復讐をしたいのであれば、君の趣味でもあり存在理由でもありまた目的でもある殺人を交えて復讐をゲームとして楽しみ、君の趣味を殺人から復讐へと変えていけばいいのですよ、そうすれば得るものも失うものもなく、それ以上でもなければそれ以下でもない君だけの新しい世界を作っていけると思いますよ。」
その言葉につき動かされるようにしてボクは今回の殺人ゲームを開始した。
…………………………………………………………………………………………………
ボクはこのゲームに命をかけている。捕まればおそらく吊るされるであろう。だから警察も命をかけろとまでは言わないが、もっと怒りと執念を持ってぼくを追跡したまえ。
つまり戦後日本人は能力がないか、怠惰のためかいずれにせよ近代市民社会を創造することに結果的には失敗流産したのである。「恐るべき子供たち」はそうした流産の結果できた育てる親のない戦後の不具で奇形の「鈎十字から涙を流した」「私生児」母も名乗らない「捨て子」「孤児」「浮浪児」「オヤジ狩りを楽しむストリートチーマー」の群れである。
例の謎めいたシンボルは、ナチスの鈎十字にそこから流れ出る涙を組み合わせたもので、少年を含む近所の遊び仲間集団のマークとして北須磨公園などによく落書きしていたものであったという。――受験体制によって生産された「知的でナチス的であれば、誠実でない」子供(「子供たちの復讐」本多勝一編p489)から落ちこぼれた涙とも考えられる。
「みんなで渡」ることによって誰一人取ろうともしない「息苦しい」家庭、地域、学校、社会における「教育の破産」の責任は、親の「早期教育」に見合った、残虐極まる犯罪行為をする子供の側のさらなる「低年齢化」によって更新され問われ続けていくであろう。
法と言語による警告を理解する能力がないか、集団で渡ればと無視し続ける者、見て見ぬふり演技をどこまでも続けて行こうとする者に対しては、「子供たちの復讐」という実力行使が必ずやそこに及ぶであろう。
今までも、そしてこれからも透明な存在であり続けるボクを、せめてあなた達の空想の中でだけでも実在の人間として認めて頂きたいのである。それと同時に、透明な存在であるボクを造り出した義務教育と、義務教育を生み出した社会への復讐も忘れてはいない。
酒鬼薔薇聖斗
「夜空を見るたび思い出すがいい」
(これも10年前に流行った暴走映画「マッド・マックス」からの引用であるとも言われている)
「ボクの名はサカキバラ セイト」
そうするとここに述べられているのは先ず第一に、日本の社会が自分のかけがえの無い存在を無視したことへの極めて強い復讐心である。それが「酒鬼薔薇
聖斗」を「本命」と自称する名前を誤読され、国籍も無く、特に義務教育によって「透明な存在」にされてしまった「積年の大怨」を形成した今の――へたをすると犯行後でも警察やマスコミにすらその存在を「もみ消され」かねない――「ボク」なのだと言っているようである。
当時まだ14歳であった少年が書いたというこの文章を、彼の言う通り日本人は長く記憶と歴史に止めなければならない。 「劇場国家日本」においてはこれに対する犯罪も、オウムや三島のようにこれ見よがしの見栄を切った憑依シャーマニズム歌舞伎型劇場犯罪である他はないとも思われる。
魂を揺り動かす芸術やフェアな自由ゲームプレイ文化が、醜悪な現実を隠し覆う、飾りだけの虚栄的表層に止まり、実質的な深い社会的機能を果たしていない建て前社会では、そこに刃を突き立てる犯罪が逆に、抑圧された結果昇華しきれなかった芸術としての「芸術犯罪」「劇場犯罪」「ゲーム犯罪」的性格を持ちつつ現われざるを得ない。
こうした劇場社会では、それだから、芸能演劇のみを現実と認める一般大衆は幻想を与え続ける演劇CMを、「パン」の他に「サーカス」を必ず必要とし、その登場人物である役者、俳優、芸能人を彼らの唯一の我の分身=実在するVIPとしてあれほどまでに追い回し、日々の話題にするのである。
空腹は満たされたが、依然として心の空白は拡大していく状態に放置して置かれた12歳の少年である彼等子供たちにはもう「行き場所がない」「居場所がない」。良くて、一発当てるエログロナンセンスお笑いタレント芸人とスター歌手やスポーツ選手くらいが子供の目差す目標になってしまったのである。
ここでは場合によっては大衆に支持されれば凶悪犯罪すらもスターを生み出すのである。カブキ芝居とは元々そうしたキワモノから始まった演劇ではないか。
現在官僚養成学校教育(カブキ劇場舞台)で教えられている教科内容の全ては、国語、社会の一部を除けば西欧父性文化のエッセンスであるといって差し支えない。にもかかわらず、子供たちが実際に生きていく日本のオタク御子小さ子カルトヤクザ的生活の場(楽屋裏)では、卑弥呼巫女以来からの、憑依シャーマニズム的縄文母性文化が息づいているという、鎖国を解いた日本文明の大矛盾の真っ只中に現代の子供は生まれながらに直面させられるのである。
バブル経済を防ぐことのできなかった日本の株主総会はそのお芝居の積み重ねのほんの一例である。
一見して儒教的伝統からは原因、動因ないものと見える少年凶悪犯罪は、たとえそれが一件でも、深い象徴的意味を持つと考えられ、極めて巨大な社会体制への不安を、日本全域に及ぼす。
彼らは薄々それが自分たちの安住する現シナリオ劇場体制に突きつけられた刃かも知れないと感じているにもかかわらず、共同体で共有する秘密を楽屋裏に隠し「みんな揃って見てみぬふりを」して劇場演技を続けている。「それを言っちゃあ(劇が)お終い」だからである。
その矛盾をTV演技の中でのみ生きているのが、最高の裁きをする裁判官僚(カミ,オカミ)が同時に肩に桜吹雪の刺青をしたヤクザ(荒ぶるカミ)でもあるという人気キャラクター「遠山の金さん」である。
そして子供たちがこれらから学びとる最大の教訓は、<学校教育とは現実生活とは没交渉の、しかし出世するには必要な「お芝居」だ>ということである。学校とは晴れの舞台鹿鳴館と同じような西洋文明を模倣する劇場でありそのお芝居の上演シナリオが国家検定教科書である。
こうした劇場社会では、それだから、芸能演劇のみを現実と認める一般大衆は幻想を与え続ける演劇CMを、「パン」の他に「サーカス」を必ず必要とし、その登場人物である役者、俳優、芸能人を彼らの唯一の我の分身=実在するVIPとしてあれほどまでに追い回し、日々の話題にするのである。
空腹は満たされたが、依然として心の空白は拡大していく状態に放置して置かれた12歳の少年である彼等子供たちにはもう「行き場所がない」「居場所がない」。良くて、一発当てるエログロナンセンスお笑いタレント芸人とスター歌手やスポーツ選手くらいが子供の目差す目標になってしまったのである。
戦後経済主義出世の序列トップにいる座長が大蔵官僚であり、日本の官僚とはこのお芝居のシナリオを丸暗記して同じことを繰り返すのが得意な、現実から遊離した快感原則の小さ子不具者の別称である。
従って、彼らにとって除隊、失業、退職は自己=日本的自我である自分(親分、子分にはさまれたヤクザ序列中の自己の身分)、自己の体面、自己の役とその所属する世界を根こそぎ失うことであり、(職、身分、役、使役がないと自分がない)その役者アイデンティティ・クライシスとアノミー状況に当たってやっと人生と自己の存在意義を思い悩む青年期に入るのである。今度こそは、家庭にも企業にも、勿論軍隊にも国家にも上手い受け皿が用意されていなかったからである。(今の青少年のアイデンティティはフェティッシュ商品の中にある。)
それまでは、戦前から戦後にかけて12歳の少年でいられた彼らが、自己の進路を深刻に考えるべき青年期を省いた報いとして成人したはずの中年期の終わり、老年期の始まりになって人生と社会の現実に直面し考え悩まなければならないのは遅きに失した感は否めないが、成人すべき人間としては当然のことではないか。
夏目漱石がその作品上で繰り広げた神経症的苦闘は現在酒鬼薔薇
聖斗のような子供によってリアルタイムで実演されていると言えるかもしれない。
大層立派な建前的演技が完璧すぎる余り、みじめな現実本音との間でコミュニケイションが完璧に切断されている劇場社会、国家においては、暴力と犯罪こそが言語に替わる唯一にしてぎりぎりの突発メディアとして働くしかないであろう。俗に言う「この野郎、殴られなければ分からないのか」というやつである。
こうした劇場社会では、それだから、芸能演劇のみを現実と認める一般大衆は幻想を与え続ける演劇CMを、「パン」の他に「サーカス」を必ず必要とし、その登場人物である役者、俳優、芸能人を彼らの唯一の我の分身=実在するVIPとしてあれほどまでに追い回し、日々の話題にするのである。
空腹は満たされたが、依然として心の空白は拡大していく状態に放置して置かれた12歳の少年である彼等子供たちにはもう「行き場所がない」「居場所がない」。良くて、一発当てるエログロナンセンスお笑いタレント芸人とスター歌手やスポーツ選手くらいが子供の目差す目標になってしまったのである。
ここでは場合によっては大衆に支持されれば凶悪犯罪すらもスターを生み出すのである。カブキ芝居とは元々そうしたキワモノから始まった演劇ではないか。
一体彼らは人間なのだろうか?人間の皮を被った舞台の人形なのではないか?
今日人間の壊れやすさを確かめるための「聖なる実験」をしました。
人間というのは壊れやすいのか壊れにくいのかわからなかったけど、今回の実験で意外とがんじょうだということを知りました。
言語による問いかけに、何も答えずに無視し続けるというのなら、一度殴ってみて本当に生きているのかどうか生体反応を見るということになるだろう。チーマーによるオヤジ狩りも、そうした生体反応を見る「聖なる実験」の悦楽に支えられているのではないか。
つまり戦後日本人は能力がないか、怠惰のためかいずれにせよ近代市民社会を創造することに結果的には失敗流産したのである。「恐るべき子供たち」はそうした流産の結果できた育てる親のない戦後の不具で奇形な「鈎十字から涙を流した」「私生児」母も名乗らない「捨て子」「孤児」「浮浪児」「オヤジ狩りを楽しむストリートチーマー」の群れである。
こうした精神の貧困、飢餓を訴える少年、孤児の群れに従来通り「パンをやるからいい子にしていろ」とは言えないのである。日本の戦後文化の総体が、その飢えと貧困とに的確に答えを出さねばならないのであり、法の条文で答えるべき問題ではない。
こうした劇場社会では、それだから、芸能演劇のみを現実と認める一般大衆は幻想を与え続ける演劇CMを、「パン」の他に「サーカス」を必ず必要とし、その登場人物である役者、俳優、芸能人を彼らの唯一の我の分身=実在するVIPとしてあれほどまでに追い回し、日々の話題にするのである。
空腹は満たされたが、依然として心の空白は拡大していく状態に放置して置かれた12歳の少年である彼等子供たちにはもう「行き場所がない」「居場所がない」。良くて、一発当てるエログロナンセンスお笑いタレント芸人とスター歌手やスポーツ選手くらいが子供の目差す目標になってしまったのである。
もし日本の戦後文化の総体が、この訴えを聞く耳を持たず、あるいは、(サーカスと新たなお芝居お祭り興行以外に)答える能力がないというならば、そのような子供からの命懸けの問いかけに対してすら応答のない文化は、文化ではなく、太母的空虚だというべきだろう。
言語による問いかけに、何も答えずに無視し続けるというのなら、一度殴ってみて本当に生きているのかどうか生体反応を見るということになるだろう。チーマーによるオヤジ狩りも、そうした生体反応を見る「聖なる実験」の悦楽に支えられているのではないか。
自分の子供から殴る蹴るの家庭内暴力を受けるがままにして、太母的に引きこもり応答せず対処していたつもりの父親は‘96年11月に、その中3の息子を金属バットで殺す最終応答に出た。酒鬼薔薇を死刑にせよというのは、こうした短絡応答と同じである。
一体彼らは人間なのだろうか?人間の皮を被った舞台の人形なのではないか?
今日人間の壊れやすさを確かめるための「聖なる実験」をしました。
人間というのは壊れやすいのか壊れにくいのかわからなかったけど、今回の実験で意外とがんじょうだということを知りました。
子供からの問いかけに親たちが何も答えたくないのなら、亡国の焼け跡に、凶悪化した浮浪児の群れが行き交うのをじっと眺めているしかないと覚悟を決めるべきだろう。
一見して儒教的伝統からは原因、動因ないものと見える少年凶悪犯罪は、たとえそれが一件でも、深い象徴的意味を持つと考えられ、極めて巨大な社会体制への不安を、日本全域に及ぼす。
彼らは薄々それが自分たちの安住する現シナリオ劇場体制に突きつけられた刃かも知れないと感じているにもかかわらず、共同体で共有する秘密を楽屋裏に隠し「みんな揃って見てみぬふりを」して劇場演技を続けている。「それを言っちゃあ(劇が)お終い」だからである。
エラスムスは、その「痴愚神礼賛」29で人生そのものを、めいめいが仮面を被って演ずる芝居だと論じ、38では劇を終わらせ夢を覚まさせた者に、熱中者が礼を言うどころか逆に食ってかかるホラティウスからの例を挙げて笑っているが(彼が言う通りこれはプラトンの洞窟の比喩にまで遡る古いものだ。確かシューペンハウアーも似たようなことを言っていたと記憶するが今は確かめていない)、
延々と役者を換えて続けられているマンネリズムの極致祖霊信仰「水戸黄門」でさえ、劇はいずれ、それが劇だと認識され我にかえり終わりを告げる時、カタストロフの時が訪れなければならない。
もしそのまま続けようとすれば、E・Aポオの「赤死病の仮面」のような華やかな仮面舞踏会の真っ只中に、必ずや招かれざる客である「死そのもの」=空虚が紛れ込むであろう。
〈地上は、すべての良心にとって、子供っぽいとともに手に汗を握る、滑稽であるとともに怖るべき「神秘劇」が演じられている「殿堂」である。〉というコンラッドからの引用に始まる「僧正」では、
「死骸を道化芝居の道具立てに使うような冷酷な道化師にも見物人はなくてはならん。そこに、このいまわしい犯罪のひとつの弱点がある。」
言語による問いかけに、何も答えずに無視し続けるというのなら、一度殴ってみて本当に生きているのかどうか生体反応を見るということになるだろう。チーマーによるオヤジ狩りも、そうした生体反応を見る「聖なる実験」の悦楽に支えられているのではないか。
愉快犯の悦楽とは、ついに他人や社会とに自己の存在を知らしめ、コミュニケイションが図られた時の言語によるあの喜びと同質なのではないのか?
ここでは自己の存在証明を懸けた犯罪者が芸術家の如く機能するのである。
24日付けasahi.com「朝日新聞夕刊」によれば切断遺体頭部を中学校正門に何度も置き直した行為についても、
男子生徒は「作品を完成させるため」に高さ約2メートルのコンクリート塀の上に頭部を置こうとしたが、背が十分に届かず約2メートル南側の門扉前に移動させたという。男子生徒は調べに対して「塀の上に置けず、完ぺきな作品に仕上げることができなかった。仕方がなく門の前に移した。悔しかった」などと話しているという。
と報道された。赤字部分引用者(後記)
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