No.21
自律の“背筋”としての機能
〜新世紀型ナショナリズム
日韓が自国の責任をはたすことで成功をおさめたサッカー・ワールドカップ日韓共催
新世紀型のナショナリズム
あれはもう、1年以上も前のことになるのだろうか。サッカー・ワールドカップ日本戦勝利・決勝トーナメント進出の夜、渋谷・ハチ公前広場には、2つも3つも人だかりができ、次から次へとエールをくりだしていたものだ。見ず知らずの者同士も、マリンブルーのユニフォームを身につけている・ただそれだけで、声をかけあう、ガッツポーズを交わす、手をうちあい喜んでしまう。東京オリンピック後の世代である筆者としては、これほどまでに国民が熱狂したイベントを、いまだかつて目にしたことがない。おそらくは我が人生で最も多く
「ニッポン!」
の声を聞いた一夜であったと思う。
国際試合における、ルールに基づいて発動される民族エネルギー。あえて一定の距離を置いてきた「日本の愛国」なるものを間近にして以来、ひたひたと時間をかけて考えつづけてきたことがある。
「いかなる場合に“日本として・日本人として”その存在が発動されるべきなのか」
筆者自身はナショナリズムなるものを、時には韓国の“4500万人総右翼(!?)”として、または台湾の“国民党・対・台湾生まれのアイデンティティー問題”として、身近に接してきた。(これは余談ながら、水面下でアジアの右翼は=日本の左翼に連なりあっているという。)こうしたプロセスをふまえつつ、いたずらな民族主義や愛国の復活というかたちを越えた、新世紀・現代にふさわしいかたちでのナショナリズム「日本版」とは、いったい?
大和民族主張派 対 無国籍のコスモポリタン派。さまざまな葛藤がくりひろげられてきたものの、結論から先に申しあげれば、次のようなかたちになるだろうか。
「“それ”が他人のためにプラスになる場合にのみ、発動が許される。“日本”の高まりが、アジアのボトムアップや安定につながる場合において。(注:他国との足並みをそろえてとの条件付)」
新世紀型のナショナリズムとは、たとえば国際化のなかで、他国と我が国を照らしあい、自然に認識される「私たちらしさ」。自分の口から声高に主張するというよりむしろ、相手という鏡によって映しだされて見出す自らの像に近いもの。ひいては論理の破綻をきたさないよう、自国を尊重されたければ、相手国をも尊重するうえでの。−−少なくともさきのサッカー・ワールドカップ日韓共催においては、前述の状況がかなりの割合で実現されつつあったのではないだろうか。
「大和魂を、忘れたか」(右翼より)
逆に
「我々は半世紀前に犯したことを、忘れてはならない」(左翼より)
こうした片翼からの叫びはプロに任せるとして、とみに思うことがある。右翼にとっての昭和天皇崩御と、左翼にとってのソ連崩壊をへたのち、それでも最後の牙城を護る両翼をよそに、おおかたの中間層はとりあえず、世界で最も「集団コントロール」されやすい民族に去勢され、快と楽を謳歌しつつ、ときにはカラオケで歌ってみる。クラブハウスで踊ってみる……それ以外、私らなにか、ほかにやることはないんか??と。
日本人であるという選択肢
「あなたには、この国の希望を考えるゆとりは、ありますか」
「ない−55パーセント」(2002年8月6日発表「築紫哲也のニュース23」より)
1995年を境に日本の生産人口は減少を始めたため、生産力の低下、さらには資産のマイナスが導かれたのは、当然と言えば当然なのだろうか。不良債権問題もまた、縮小のさいに不可避なやむなきプロセスなのだろう。今さら壮年いや高齢者に、青少年向けの体力測定基準値を当てはめては、低下を嘆いていてもしかたない。
気になるのは空洞化、産業ではない、「心の落ちくぼみ」である。幸せとは外部から得るものでなく、心の持ちようだ、というのは精神世界での常識であるというのだが。
こころの内部崩壊を食いとめる手段として、人によっては「他者」とのもちつもたれつを選ぶだろう。逆に「自律、自ら背筋を支える」方法を取るかたもいるにちがいない。ここではまず後者、「支える背骨」を考えたいと思う。(前者については次号で)
20世紀後半に「個人主義」を刷りこまれながらも、体質的にはやはり、集団的に群れやすい私たち。いったい何の色に塗りこめられてゆくのだろう。戦前の軍国主義が去ったところで、今度は米国の大量消費(〜環境破壊)主義に染まるのみ。こうした観点からも、やはり我々は「らしさ」を取りもどすべき時期にさしかかっているのではないだろうか。
1度でも米国を訪れたことのあるかたならば、そこに必ずしも我々がめざしていたものがあふれているわけでなく、憧れてきたはずのものが、単に「地上仕様」に物質化したものが存在する、ということに気づくだろう。それを時に商品のかたちで・または芸術のかたちで、我々が幾度コピーしようとも、こがれてきたはずのものに、直接、コンタクトできるわけではない。少なくとも「創造」のコアは、そこには実在しない。前世紀、それを最も「受信」しやすい米国の地をまねることで、米国より経済水準の低い国々は、少しでもその「コア」に、アプローチしようと試みてきたのだが、それはあくまで二次・三次的な作業であった。本当の精神は、決して受信の地・米国にあるわけではない。
彼らに染められても、届くわけではない。逆に言えば、ベクトルさえ正しければ、背筋を伸ばして我々もまた、その「コア」に到達しうるのだ。
ところで米国的グローバリゼーションの荒波をまともに受ける位置において、時おり発動される大和民族主義は、一種の魔除けの「おふだ」になることもある。(そう感じたのは、ある書のなかで司馬遼太郎氏が、中国の共産主義というものを、自国を踏みにじった列強からの「魔除け」と解釈なさっていたからなのだが。)右傾化するというよりも、去勢されたまま食っちゃ寝で横たわっていた状態から、背筋を伸ばす。−−「日本の誇り」が発動されるべきとすれば、それは外部への自己主張でなく、背骨を支えるプライドとしてではないだろうか。
私たちは日本人であることを“選びつづけている”のだから。
この一文に抵抗をおぼえるかたもいらっしゃるかもしれない。しかしそのかたがもしも日本在住または日本国籍保持であれば、やはり究極では選択なさっているのだ。逆に筆者の知人には、海外に移住したライターや国籍変更者、または日本に定住しつつも外国籍を死守する人など、さまざまなかたが存在する。私自身もまた、受け皿さえ実れば海外移住していたはずの身であった。
しかし今ここにこうして存在することで、日本人であることを選んでしまったのだ。
いや日本人すらルーツは南洋島嶼に・いや中国大陸に?……ともとをたどれど、アジア人はすべて北京原人に帰すかといえば、必ずしもそうは言いきれないように。
ゆるやかなつらなりのなか、誰もがどこかで選んでいるのではないだろうか。
バックナンバー:
16
「未来に向けるベクトルの源」
17
「マインド・コントロールとメディア・コントロール」(北朝鮮1)
18
「護りのちから」(北朝鮮2)
19
「プラスサムの追求」(台湾と大陸中国1)
20
「等身大でいられるのなら」(台湾と大陸中国2)
バリエーションに富んだアジア。とてもひとことでは表しつくせないので、何冊も本を書き重ねています。
詳しくは、
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