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新・アジア考

Vol.23解決のキーを秘めた大地
       〜アジアの誇り1

チベット仏教系の寺院。世界各国の宗派のなかで最も原始仏教の形態をよく残しているといわれている。
はばたきそうで、はばたききれない

 あるときチベットを訪れたカメラマンが、なつかしそうに語ってくれたことがある。
「お坊さんがね、3色の糸をよりあわせ、結び目を3つくくってから、ふっと息を吹きかけて、首に授けてくれたんですよ。旅の御守りとしてね」
薄明の逆光を背に、僧侶の姿はシルエットをなしていたという。−−こうした精神は、東アジアの仏教圏の人々であれば、決して違和感のないものだろう。そんな伝統のアジア。

 いっぽうで
「21世紀は、アジアの時代」
そう声高に言われてきたように、実際にミレニアムを過ぎるころから、朝鮮半島には雪どけが始まり、台湾では一党体制が終焉、また大陸中国の経済成長も著しい。東南アジアもようやく世紀末の金融危機を克服し……と思いきや、2003年、東アジアに「急性呼吸器症候群」が襲いかかってしまった。

 はばたきそうで、はばたききれない地、アジア。

 いや、実際にはおおかたの日本人が、いまだコンプレックスを秘めているのではないだろうか。
「いったいアジアの何を誇れと」
もちろん政治的には台湾海峡と北朝鮮という、2つの火薬庫をひかえており、経済的にも前述のアジア金融危機がトラウマとしてこびりついている。それでは文化は? すでに各国には都市「民俗」リミックス文化が花盛りであるものの、「アジアは欧米のコピー」という根強い先入観は完全に消えさったわけではない。

「それでもあなたはなぜ『21世紀はアジアの時代』と言いきれるのか」

世界最高峰の山脈から大平原、豊饒な海洋まで、あらゆる自然を秘めたアジア

集住の術と生態系的輪廻

 新しいパラダイムの種をはらむのは、ほかならぬアジアの地なのだ。−−そう断言するのは、時期尚早だろうか。いまだ萌芽を世界に提示するまではいたらないのだから。しかし前近代まで異なるシステムを営んできたからこそ、今後の国際レベルの問題を解決するキーに気づきやすい、ということがある。

 21世紀の世界的な問題とは、すでに多くの方々が認識しはじめているだろう、
1地球環境キャパシティーの限界
2物質偏重による人心の荒廃
である。米国式の消費社会一辺倒、その背後にある唯物的享楽主義は、あくまでも前世紀まで通用した方法だ。地球環境の限界が露呈する今世紀。過密対策やリサイクルといった概念が、いやおうなしに求められてくる。そのとき、あなたは?

 東アジア〜南アジアという、この地特有の人口密度ゆえに「集住の術」を知り、また仏教〜ヒンズーなど、体質的に「生態系的」輪廻を実践してきたからこそ、提示できるものがあるのではないだろうか。世界環境会議の開催地に、アジア代表としての日本、その古都である京都が選定され、「京都議定書」が発効されたのは、決して偶然ではないだろう。環境関連の具体的考察は、本連載の続編にゆずるとして、それでは国際課題2の物質偏重主義については。

 たしかにミレニアムならぬ1000年紀、1000年分の積もり積もった「ルサンチマンのシワよせ」は、やはりその末期・1900年代に、2つの大戦という形で露(あら)わとなってしまった。さまざまなかたちで1000年紀の「シメ」が−−つまりキリスト教の黙示録いわくの「裁き」や、仏教用語によれば「業の解消」といったプロセスが、形而上のレベルから具体化してしまった1900年代。精神世界から物質世界へと人間がひととき「避難」したのは、やむをえない。たとえば近代科学の発展という形で。またある圏は共産主義的な唯物論によって。また別の圏では米国式大量消費社会という方法で。こうしてひととき、形而下の世界へと人類が「逃避」していたわけなのだが。

 ミレニアムを迎えた現在。そろそろ私たちは、精神世界をとりもどす時期にさしかかっているのではないだろうか。なにも突然に信者になれというわけでない。前世紀に充実させた物質面と、それ以前に2000年以上もかけて培ってきた精神面との「バランスを回復」しようというのである。もしも人間を、神の似姿であり、同時に猿の進化したもの−−「神と獣のはざまの存在」とするならば。

 前述の2点への対策、つまり1地球環境キャパシティーの限界/2物質偏重による人心の荒廃、それぞれへの対応は、じつは不可分なものではない。たとえば神道やヒンズーといったアニミズム圏においては、1環境への見直しが、2自然信仰を喚起することもあるだろう。(1→2)

 逆に後者2の「精神の回復」が、たとえばヒンズーや神道など、アニミズム的な風習を持つ地では、自然を尊重するかたちで。また仏教圏では不殺生として。イスラムでは食生活の戒律として。キリスト教圏においてすら、他者への愛として、いずれも環境対策に遠く・近くつらなるのではないかと思う。(2→1)


精神世界の源として・エスニックの宝庫として
チベット仏教寺院の仏塔。仏教的な共生システムが21世紀を救うのか

「受け入れから、送り出しのアジアへ」

 これは筆者がここ10年、さまざまな論文のなかで、くりかえし示してきたものだ。大衆文化の作品や、都市「民俗」リミックス文化、衛星放送など。こうしたレベルにとどまらず、より根本的な要素について、再認識しておきたいものがある。

「世界宗教の産地、精神としてのアジア」(注・エルサレムも地理学上はアジアに位置)

「アジア民族をして、世界の偉大な宗教の一切(いっさい)を生み出さしめたものであり」(『東洋の理想』より)
とすでに100 年も前、岡倉天心先生が指摘なさっている。(「アジアと宗教」についての考察は、続編に譲るとして)

 良くも悪くもグローバリゼーションの現代。まるで「一国フルセット型」経済のように、先進国の持ち物をコピー、ひと揃えするだけには、とどまらない。国際競争力のある要素を世界に提示する。まるで東アジアの奇跡という経済成長を成功させた輸出志向型工業のように。「一芸の勝負」、世界水準で比較しても秀でる事柄を、海外に送りだす。−−アジアは現在、そのような時期にさしかかりつつあるのではないだろうか。

 たとえば精神世界の源として。
 またはエスニックの宝庫として。

 とりわけ後者は、グローバル仕様のライフスタイルに、オリエンタルなモチーフを提供するだけにはとどまらない。こうして産みだされた都市「民族」リミックス的な要素は、より豊饒な現代文化を世界が享受するうえで、おおいに貢献しうることと思う。

 アジアの魅力とは、その多様性にあるのだから。

 かつて「アジアが1つ」と唱えられたものの、出典に記された文章の真意は、決して一元的にアジアの地を塗りこめるというものではなかった。これに続く文章が、ひとつの証明だろう。

「孔子の共同主義をもつ中国人と、ヴェーダの個人主義をもつインド人とを、ヒマラヤ山脈がわけ隔てているというのも、両者それぞれの特色を強調しようがためにすぎない」(『東洋の理想』岡倉天心 先生)

 同時にそれが(ここではヒマラヤ山脈に譬えられる地理的広がりが)、「アジア民族にとっての共通の思想遺産、普遍的なものに対する広やかな愛情を妨げることはできない」とも言われる。

 バリエーションをくりひろげつつも、精神や美といった概念のもとに、つらなりあうアジア。

 海外事情の浸透や海外旅行の隆盛、さらに外国人との接触など、時代的な恩恵によって、ようやく現在、戦時中のように曲解されたスローガンでなく、真意のほうが、我々に実感しうるかたちで、ようやく顕現しつつあるようだ。『東洋の覚醒』(岡倉天心先生)という名作もあった。いずれにせよ、自己をも、同じアジア人をも、卑下する必要はない。自尊と他者の尊重もまた、決して対立するものではない。

 精神世界の源として・エスニックの宝庫として。アジアの魅力を認識することが、ひいては平和共存につながる……と言えば、一段、論理の飛躍があるように思われるかもしれない。しかしこのあたりは現実から御想像いただければ幸いである。朝鮮半島について、2002年までに日韓の間で一応の和解がなされたことで、その後の北朝鮮問題と、日韓問題が区別された−−つまり起こりえた日・韓朝戦争が回避されたという事実がある。

 アジア人としての誇りが・それゆえのアジアへの共感が、紛争を、予防する。

 これは余談ながら、冒頭のチベット入りしたカメラマンが、こんな言葉をつぶやいていたように思う。
「ああして山ごしに同じエスニックが共存するのを見ると、国境は人が作ったものなのだと、いやおうなしに実感してしまうんです」



(to be continued...)

バックナンバー:
16「未来に向けるベクトルの源」
17「マインド・コントロールとメディア・コントロール」(北朝鮮1)
18「護りのちから」(北朝鮮2)
19「プラスサムの追求」(台湾と大陸中国1)
20「等身大でいられるのなら」(台湾と大陸中国2)
21「自律の“背筋”としての機能」(アジア)
22「今だからできること」(アジア)

バリエーションに富んだアジア。とてもひとことでは表しつくせないので、何冊も本を書き重ねています。
詳しくは、既刊紹介

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