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新・アジア考

Vol.24“精神世界”の母なる大地
       〜アジアの誇り2

ジャスミンの芳香剤・兼・交通安全御守り。ミャンマーにて
物質生活ひとそろえにとどまらず

 台湾観光協会のキャッチフレーズに、カツを入れられて、はっとした。

「ニッポンの疲れに、TAIWAN!」

そう他者から言われて、あらためて気づくこともある。そういえば、どこか心が疲弊していると。同じように数年前、韓国人にも指摘されたことがあった。

「なんだか東京、先回、来たときよりも、元気がないみたい」

 たしかにチャンネルをまわせば、ニュースは犯罪づくし、エンターテイメントはグルメぜめ、つまりは暴力と食欲? そう、それが獣の本性なのだから。……しかしそれがすべてなのだろうか。

「なにかが違う」

まるで「ストレス」のように漠然と、そう感じているかたが、いらっしゃるのではないかと思う。おおかたの人々もまた、はっきり認識できないよう、「麻痺」させられているだけで、多かれ少なかれどこかでお気づきかもしれない。

 グローバリゼーションに一律化された生活に、どこか息づまりをおぼえるのは、それがあくまで物質的な欧米の模倣どまりであるからだろう。もちろん生活水準の「ある程度」の向上は、かまわない。(注・ここで伝統回帰派と、「進歩」の是非そのものについて、議論の余地はあるものの、個人的には時代の趨勢としてとらえている。)しかしいくら物理的に「現代都市生活ひとそろえ」を備えても、私たちアジア人は、本来、精神の人々なのだ。

 宗教の産地としてのアジアがある。
 

スクーターに漢字ステッカー。(注・暴走族の団体名ではありません)。またはリアウインドに「南無阿弥陀仏」と貼ることもある。台湾にて
「天滴」エネルギーチャージなしで?

 民族宗教といえども、信者数からすれば世界宗教に匹敵する、ヒンズー、道教、神道。さらに世界宗教として、仏教、イスラム。キリスト教ですら、エルサレムは地理的にアジアに位置している。信者の大多数は、伝播した先・欧米にいながらも、アジアにもフィリピンや韓国など、キリスト教が浸透した国も少なくない。

 そんな彼らから見れば? たとえば韓国人に、ある年のクリスマス、いぶかしがられたことがある。

「日本人は無宗教なんですって!」

同じように、南伝仏教やイスラムの東南アジア人もまた、どうやって信仰なしで生きていけるのだろうと、首をかしげていた。貧困ででも、逆に飽食でも、いずれにせよ物質面が何らかの行きづまりを見せるとき、信仰というパイプが、点滴ならぬ「天滴」としてエネルギー・チャージをほどこしてくれることもあるのだ。

 必ずしも「無宗教」は国際レベルで一般的ではない。そこには日本の特殊事情が秘められているようだ。近代化の開始時期・明治維新を進めた時代は、ちょうど科学が飛躍的に発展・もしくは偏重されてゆく時期にあたり(理由は本連載の前回参照)、それが近代化であるようにも見えた。ここで一段、仏教や民間信仰が後退する。さらに第二段階。結果的に国家神道が東アジア進出の精神的なバックアップとなったことから、敗戦とともに神道は、その威力を外部から「去勢」されてしまう。だめ押しのように第三段階・前世紀末には、一部の新興宗教教団が社会問題となり、人々の心に「宗教アレルギー」が、なすりつけられた。こうしてすっかり芽をつまれた「日本人の信仰心」であるのだが。

 無宗教にとどまるには、あまりに惜しい豊富な土壌、神秘世界の源という大地に、私たちは生きながらえているはずだった。


精神世界をもゆるす「ゆとり」

仏教団体・仏光山の経営するテレビ局。台湾にて

 しかしながら、突然に「カミニ、イノリナサイ」と言われても、困るだろう。

 もちろんせっかく前世紀に充実させた、物質面を否定する必要はない。たとえば東洋思想の活かされた現代のライフスタイルから、その奥にひかえる雄大な神秘世界をかいま見る−−のもまた楽し。実際にアジアには、それらの息づく風物が少なくないのだ。たとえば健康法としての気功術。またはアジアン・ヒーリングとしての民間療法。インテリアのかたちで入る風水もある。漢民族だけでない。タイでは仏陀のレリーフがファッションとして若者の首もとを飾るのを目にしたことがある。彼らを見ながら思うのは、

「これは決して、妄信ではない」

もちろん迷信でもない。科学のほかに、精神世界をもゆるす「ゆとり」のように見えるのだ。

 これらの伝統的な要素は、現代化の波のなかで、したたかに生き残り……と思いきや、新しいメディアとともに、進化をとげるケースもあるではないか。たとえば台湾の仏教宗派「仏光山」は、テレビ局やレコード会社を設立。より市民に親しみやすい存在となっている。レコード大賞には、宗教音楽部門が設けられたこともあるようだ。また韓国では、プロテスタント最大の純福音教会が、礼拝を聖歌の一大コンサートとしている。伝統的な儒教のほうも最近では、ソウル市がネットを用いた先祖祭祀「サイバー追悼」サービスなるものをおこなっているという。

 こうした精神世界と、現代ライフスタイルとの「リ・ミックス」が可能なのも、東アジアや東南アジアでは、「圧縮された経済発展(短期間の発展)」によって、伝統要素の後退(現代都市文化の浸透)と、伝統要素の再評価(現代都市文化としての復活)との間に、日本ほどタイムラグがないせいだろう。必ずしも伝統復古と進歩開国とが、対立するものでなく、混沌としたまま同時進行していることも少なくない。民族的なものが新しいシステムに乗りやすいのだ。

 そんな彼らのありかたが、ときおりまぶしく、うらやましくすら見えることがある。


(to be continued...)

バックナンバー:
16「未来に向けるベクトルの源」
17「マインド・コントロールとメディア・コントロール」(北朝鮮1)
18「護りのちから」(北朝鮮2)
19「プラスサムの追求」(台湾と大陸中国1)
20「等身大でいられるのなら」(台湾と大陸中国2)
21「自律の“背筋”としての機能」(アジア)
22「今だからできること」(アジア)
23「解決のキーを秘めた大地」(アジア)

バリエーションに富んだアジア。とてもひとことでは表しつくせないので、何冊も本を書き重ねています。
詳しくは、既刊紹介

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