Vol.42
「広大な風景の片隅で
〜アジア現代文化らしさの萌芽2」

台湾の黒檀インテリア・玄門「モダン・タイワニーズ」インテリアより
*余韻・余白・静謐感
「アジアの映画監督は、西欧の映画が作り出す速度を離れて、速度の余白をつくり、それを埋めたり再び空白にしたりする創造を重ねていかなければならないと思います。」(『福岡アジア文化賞の人々』より)
これは韓国映画の巨匠・林権沢監督の言葉だ。林監督作品でなくとも、アジア芸術映画をいくつか鑑賞したことのあるかたならば、なんとなくうなずけるものがあるのではないだろうか。台湾映画の最高峰と言われる『悲情城市』もまた、セリフが少ないことで有名だ。そもそも主人公が口の不自由な青年なのだから。古くは小津監督の『東京物語』など、見る者は「静寂に耳をかたむける」といった鑑賞をすることになる。
こうしたアジア芸術映画(注・エンターテイメント映画でない)の特徴である「余韻・余白・静謐感」は、我々はそうしたものとしてありのままを受けいれるのだが、おそらくは欧米人から見れば、「禅の心意気」(!?)などと評されてしまうのだろうか?? それはともかく、古くは水墨画の余白づかいや、茶道・茶室の静謐感にいたるまで、すべてを表現しつくしはしない、余白によって今度は、受け手の側の想像力を開くという方法がある。
対照的な例をあげれば、その特性が明らかになるだろうか。米国のTVCMには、うるさいほどに「この商品を使えば、こんなに便利になります!」と連呼されてるものが多い。そのせいだろうか。日本は広告業界の発達のわりに、CM作品の欧米での受賞が少なかったという。イメージを重視するCMが多いためだ。そのようななか、珍しく受賞しをはたした作品は、効果や機能を前面におしだしたもの。かのアロンアルファが微小のもの同士を接着、怪力で引っ張ってもはずれないことを証明した−−という効能重視のものだった。
かく言う日本の広告業界も、現在ではずいぶんとせわしなくなっているようだが、これに対してそれほど現代文化の爛熟の極まっていない台湾において、筆者は驚かされたことがあった。「広告の健全さ」である。色づかい、空間づかい。朗らかな色あいに、にこにことした表情の人々、シンプルなキャッチフレーズ。こんなにすかすかして…いや、すがすがしくていいのか?と一瞬、思いはしたものの、いや、あの金あまり国・ソフト大国に金や技術がないわけはない。たんにそこまでしつこく表現する必要がないだけなのだ。暴力・性暴力ぎりぎりの表現など使わなくとも、消費者たちは正常に購買を選択できるのだと気づかされた。
たとえば一から十まで効能を説明しきらない奥ゆかしさ。または余白・余韻に受けての判断を任せてしまう、奥ゆかしさ。こうした特性を、たんなる東洋趣味にとどめる必要はない。それはそれで我々らしさ、ときには魅力すら発揮しうる特性であると、胸をはっても良い時期が、そろそろ訪れようとしている。数々の秀逸な作品・商品の登場はこうした時代の訪れを感じさせてくれる。
*自然との一体感
ところであれはたしか、シンガポールをおとずれたときのこと。英国系外資のパブ&ライブハウス「ハードロックカフェ・シンガポール支店」に連れられたことがある。店内での風景は、はじめは客たちが思い思いに歓談を楽しむという、他国とさほど変わりのないものであった。ところがひとたび、人気アーチストのライブが始まるやいなや、光景は一変した。フロアには、押すな押すなと客が集まり、テーブル席をおかさんばかり。アーチストのかけ声にあわせて、シンガポールの若者たちは、一斉に腕をあげ歓声をあげ…とそれこそ大観衆の会場一体が一糸乱れず、一体化をはじめたのだ。
しかしそんな光景を、奇異に感じなかったのは、筆者が日本出身であるせいだろう。私自身もまた、90年代、有名ディスコ「ベルファーレ」において、雇われダンサーでもない娘たちが、あるふりつけ(当時はいわゆる「パラパラ」)を、恍惚と、しかも一糸乱れずくりかえしているさまを、目のあたりにしたことがあったからである。一糸乱れぬ集団の爽快感というものは、古くはアイドル集団「おにゃんこクラブ」、また最近の例では「モーニング娘」などにも観察されるだろう。
これら集団の一体感を、たとえば中華圏の朝の体操、数十人〜ときには100人以上におよぶ太極拳と比較するのは、飛躍があるだろうか。しかしたとえばディスコ「ベルファーレ」の娘さんたちと、早朝の公園の太極拳の高齢者たちの間に、私はさほど違いがあるようには思えない。自分だけふりつけを違えるのは恥である。逆に限りなく正確に「型」を披露する自分を誇りに思う、自分のような小さき者も何か自分以上のものに繋がる気がする−−こうした心情は、欧米人にとってはともかく、我々東アジア人には、さほど違和感がない。
やはり大いなる何かへと帰依して、自らは一歯車と化すことに、慣れ親しんでいるせいなのだろうか。いくら個人主義うんぬんと言われようとも、少なくとも旧世代の場合、やはり所属先(たとえば長年つとめた会社や官庁)の重要性というものは、退職後の彼らの心情に思いをはせれば、理解できる。
いや、そもそもある種の風俗自体、自然との一体感があるからこそ、存在するとでもいえようか。昨今、疲れたOLたちを癒しているのが、ダイエット気功や現代風のヨガ、また健康を3要素のバランスととらえるアーユルヴェーダであるという。これらはそれこそ、大地の気なり超自然力なりの効力を借りることで、なりたっているものである。そこでは人間は、大いなる世界をとりこむ小さな窓口にすぎない。人間が必ずしも最上位ではない…。そんな態度は、東洋の伝統画にもしばしば観察される。広大な山水画のなかで、人間の存在はおしなべて「超・微細」に描かれてきた。2メートルもあるかという掛け軸の、片隅の庵の窓から、ひょいと悠々自適な顔がのぞく…という構図は、好まれて繰り返しえがかれている。都市を題材にした風景画、たとえば何々上洛図のようなものすらも、街をうめつくす人々は豆のように小さく、余白を金色の雲が埋めつくしている。
こうした謙虚さは、もしかしたら人間第一主義のルネッサンス以降の欧米人から見れば、後進性とすら誤解されるかもしれない。しかし狩猟よりも農耕、つまり「獲得」よりは「賜り」の歴史の長い東〜東南アジアの人々には、それなりの存在のありかた、分相応をわきまえた態度というものがある。逆に自然に対する敬意というものがある。そこでの自然とは、決して克服すべき相手でない、機械論的世界観の対象ではない。アジア各地には、たとえば北はモンゴルから日本、タイ、ミャンマーなど、アニミズムの影響をかいま見ることができる地が少なくない。
日本のように万物に八百神(やおろずのかみ)を認めるありかた、ご飯を食べるときは、「私が食べましょう」でなく「(私はそれを)いただきます」とするやりかた。韓国では食前のあいさつに直接、該当するものはないものの、何か言うなら「チャール・モッゲッスムニダ」−−これは「よ〜く、食べましょう」。よくよく、というあたりに、そこはかとない感謝の意が感じられる。ところかわって中華圏には、農耕の神様というものがあり「神農大帝」として台湾などには廟も現存しているようだ。
ただし現在の我々が「アニミズム」を通じて、自然との一体感を味わおうと思っても、観光の対象にはなっても、実感するのは難しい。しかしそれがたとえば「自然派志向のインテリア雑貨」を通じてであれば? 今はやりのウーロン茶の茶芸館、黒檀をふんだんに使ったインテリア。またはバリなどリゾート風、籐や麻をあしらったスタイル。ベトナムの竹の家具。韓国の伝統茶の茶房には、木肌をあらわにした造りの店が少なくない。日本で・または現地にて、コンクリート砂漠に疲れた「ちょっと一杯」のお茶から、アジア風自然との一体感を体感するのも、悪くない。
(つづく)
(05/02)
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39「亜洲(アジア)とともに、アジア人として」
38「上海と台北 〜ふたつのパワースポット」
37「共通アイデンティティーの獲得」
36「折衷≠ニいう才能〜汎アジア表象文化の萌芽3」
35;「タイムラグののち花開くもの〜汎アジア表象文化の萌2」
34「グローバル画一化とのせめぎあい〜汎アジア表象文化の萌芽1
33「受信から発信へ〜アジア都市表象文化のなかで3」
32「「国境を越えた、現代文化の相互作用〜アジア都市表象文化のなかで2」」
31「越境放送の力〜アジア都市表象文化のなかで1」
30「ネットワーク型の交流 〜アジアのリーダーシップとは」
29「共生・繁栄の試み 〜東アジア共同体1」
28「アジアのグラデーション 〜東アジア共同体1」
27「アジア文化のメジャー化 その1 〜日台交流その2〜」(アジア)
26「南隣とのおつきあい」(台湾)
25「オーガニックなエイジア」(アジア)
24「精神世界≠フ母なる大地」(アジア)
23「解決のキーを秘めた大地」(アジア)
22「今だからできること」(アジア)
21「自律の“背筋”としての機能」(アジア)
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19「プラスサムの追求」(台湾と大陸中国1)
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