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豊饒の楽土[中国東北部]風物誌 1
戦跡 〜あれから100年 /旅順

旅順はもともと清朝の北洋艦隊の拠点だったが、その後、ロシアが進出、主力艦隊を結集させていたため、日露戦争では封鎖作戦の成功が必須となった。
*汝の霊の山にて
中国東北地方の最南端、遼東半島の先端にある「旅順」。この地は日本人にとって、日露戦争のイメージが強いだろう。ところが現地の中国人にとっては、意外にも国家級の自然保護区であり、「国家重点風景名勝エリア」に指定されているという。
「大連(近郊の大都市)に来て、旅順で遊ばなければ、大連に来た意味がないよ」
そんな声も聞かれるこの場所。はるか元の時代には「獅子口」と呼ばれていたところが、のちに明朝の船が航海の途中、順風を受けたことから「旅順口」と名づけられた。風の強い高台から旅順港を一望すれば、
「ああ、あの岬が」
日露戦争の旅順港封鎖地点が地図のように広がっていた。
「旅順口というものは、その半分が近代史なのです」
そう言われているように、この地は近代戦争として、世界で最もよく戦跡が残された場所であり、屋外博物館の異名をとる。とは言うものの、中国人にとってはあくまで日露でなく露日。観光コースは、ロシア軍烈士の陵園や露日監獄(現地の本には、「帝国主義者が中国人民や進歩人を監禁・虐殺した場所」とある)。なぜか日清戦争の中国人殉国者をまつった万忠墓までラインナップされているのではないか。なんとなく居心地の悪さを感じながらも、日本人は日本人向けに一般公開された場所、二O三高地や水師営会見所を、マイペースでめぐることにしよう。

中国側の看板には次のように表示されている。「ここは、日露戦争の時期、旅順西部の重要な戦場となった。(中略)1904年9月19日から始まって、日本軍第一・第七師団は、前後4回の総攻撃を、203 高地に向かって発動した。最後に、1万人以上の死傷者を代価として、12月6日に制高点を占領した。」(サイト「旅順要塞を見に行こう」より)
二O三高地。この地は、できれば日本人だけで参らせてほしい。−−予め中国人ガイドさんには、そう頼みこんであった。
「そこのお姉ちゃん、記念バッジいらない? 」
「写真撮影、ありますよ〜」
(今ちょっと、そんな気分じゃないのだけれど)
私の辞退に、売店の呼びこみさんたちは、けげんな顔を見せるかと思いきや、意外にもすんなりとうなずき、そのまま観光地化した二O三高地の一風景におさまった。
頂上には爾霊塔が、前世紀と変わらぬ姿でりんとたたずむ。ほのかな銅のみどり色は、その日の空より心もちあおい。二O三(アール・リン・サン)と見事に韻を踏んだ爾霊山(アール・リン・シャン)。「汝の霊の山」と(日露)戦後に名づけられた高台の上から、360
度を見渡せば、雲の向こうに遠く旅順港をのぞむことができる。数々の要塞跡や山頂の塔を目印に、あらためて攻略地図を重ねあわせて……いや、平面図を越えて、その後100
年という歳月(とき)の流れまで含め、少しだけ天に近い視点から、しみじみと想いをはせる。日本の〜日中の〜東アジアの平和に。そういえば旅順の地は同時に、日清戦争の地でもあったのだ。
水師営の会見所。向かって右が日本軍のひかえ室、左側が会見室兼ロシア軍ひかえ室。会見用のテーブル(復元)は、手術台を活用したもの、というのが生々しい。
*100 年ののちに
ところで「水師営の会見所」、日露両将の講話の館を訪れたとき、壁面に飾られた両国将軍のワンショットを前に、ふと思うことがあった。
「この時代には、まだこうして、戦(いくさ)を終えれば、ひとつの写真におさまることができたのだ」
そういえば日本海海戦後に、元帥が捕われの敵将を見舞われたというエピソードも残っている。非人間同士の殺しあいでなく、武士と騎士の営みとして……。
これも1世紀の後だからこそ想うことをゆるされるのだろうか。戦いのさなかにあっては、地獄の戦場なのだから。二O三高地のこの坂道、時おりあらわになる岩肌。当時は木1本もはえない、はげ山であった傾斜を、砲弾の雨をくぐりぬけ、同胞たちが駈けあがっていたのだろう。今ではうっそうとした林と化し、松の樹が妙に生々しく、まるで兵士たちの悶え苦しむ指のように見える。その多くが私より幾歳も下の、弟たちほどの年齢で、さぞ……。
気づいたら、泣いていた。死者1万5400余人、傷者6万人という規模。あまりの重さに、この地では、ともすると過去にひきとどめられざるをえない。しかし「ノスタルジーを越えて」−−これは中国東北部紀行を貫く方針であり、幾度もそう自分に言いきかせてきた。未来に向けて、とらえなければならない。
高地の斜面を踏みしめながら、かみしめるように実感したことがある。もしも日露戦争に負けていたら? ロシアのさらなる南下により、中国東北部のみならず、親露路線も唱えられていた李氏朝鮮まで併せて、極東はロシア下に。また中国大陸中原地方は欧米列強の分割統治下に。こうして東アジアそのものが、跡形もなくなっていたかもしれない。アジアは「インドアラブ」とでも呼ばれていただろうか。
今では一般的に日露戦争は、軍国主義台頭のきっかけと位置づけられているものの、もうひとつの側面がある。あのとき「彼ら」が身を呈したすえ、結果的に21世紀のアジアの私たちまでをも、護っていた、ということ。だからこそアジアはこうしてアジアとして、形をたもつことができたのだ、彼らのおかげで。−−たとえこうした見解を持つのは、中国のみならず、日本でもまれだと言えども、私はあえて断言しよう。
おりしも2004年は、日露戦争から1世紀の後、日本海海戦100 周年にあたる。戦争というものは、あまりにも多くの命がかけられているだけに、少なくとも戦後100
年をへなければ、客観的に把握することは、難しいのかもしれない。そう考えれば、アジア太平洋戦争もまた、過大でも過小でもない、等身大の姿が現れるには、あと半世紀は要するのだろうか?
あまりに長い見学に、ガイドさんは山をひとめぐりして、捜しまわっていたらしい。待ちくたびれた運転手さんは、車に乗りこむ私に、なかばあきれ顔で、
「いったいどうしたの」
「いろいろと考えることが多くてね」
「たとえば」
「……平和とは何か……とか」
その答えに、彼はひとこと「ウン」とうなずいたきり、それ以上、むやみに追及しなかった。

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