東京の雑踏のただなか、瑞紀は一枚の旅行パンフレットの前で思わず足を止めた。そこにはシンガポールの象徴、マーライオンが噴水をあげていた。かつてこの風景を、どこかで見たことがある。あれは2年前のこと、友とふたりでシンガポールの地を訪れたのだ。炎天下のもと、年中夏祭りかとも思われるような街並をぶらつきながら昨晩の出来事を思い出してみる。
その晩、ライブを楽しみに集まった若者たちの合間に一人、二階席からカクテルを傾ける青年がいた。あれはキール・ロワイヤル? それともシンガポール・スリング? 賭けのつもりで自らがオーダーしたものが、彼のカクテルと一致したならば、思いきって声をかけてみようか。そんな気持ちで目と目のコンタクトを交わすうちに、想いが通じたのだろうか、彼が階下に降りてくることとなる。しかし今宵は時間切れ。名刺を受け取るだけで精一杯であった。裏にはひとこと、“有縁千里”〜縁さえあれば千里を超えても会うことができるよ……
結局、彼とは帰国前のひとときを利用して、再会を果たすこととなった。並んで眺めたマー・ライオン像。シンガポールの夕焼けを、いまだに忘れることができずに、今でも時々シンガポール・スリングの紅色をいつくしむことがある。
青年は熱帯花をモチーフにしたバテイ ック(染物)工場経営の実業家。日本の電気製品を見るたびに、ある少女の存在を思い出してしまう。彼女は取引先の日本企業の令嬢で、父の単身赴任先であるマレーシアにやって来たのだ。こうしてふたりは一日半だけ観光を楽しむことになる。観光途中の果樹園での出来事。階段につまずいた少女を支えた瞬間に、一度だけ、素肌と素肌が触れあった。
熱帯花を浮かべたトロピカル・カクテルをひとくち飲むと恋に落ちるという言い伝えがある。あの日、媚薬を飲ませたのは青年の方であったが、なぜ恋に落ちてしまったのだろう。厳格なイスラム教戒律のもとでは、告白すらもままならないのに。
ふたりが共に過ごした時間は、たったの一日半であったにもかかわらず、それから一年半の時を経たのちにも、思い出はなかなか消えようとしない。最後の電話の記憶が痛みとともによみがえる。青年は思わず事業も放棄して、少女を追いかけようかと思いつめるが。……
一夫多妻制の王国ブルネイ。別名、安寧の国。この地を訪れた日本人元DJが、寡黙な婦人に出会った。彼女は若くして余生を送る、いわば富豪の第二婦人であった。富裕な一方、心の空洞を隠しきれない。本当の豊かさとは何か? 同じく飽食の時代を生きる日本男性は、彼女の心の洞に迷いこんでしまったようだ。
夜のジャングルをドライブする途中、スコールに直撃されて、ふたりは車のタイヤをとられたまま、密室に降りこめられてしまう。
静かに充足したように見える彼女の心を、揺り起こすべきか否か。思い悩む彼の心によみがえったのは、つい先ほどの浜辺の風景。海風に吹かれたムスリムのヴエ ールの下には時が止まったかのように無垢な素顔がのぞいていたっけ。結局、彼は彼女に指一本も触れないまま、日本に帰ろうと決意する。楽園にも廃墟にも見えるこの国ブルネイのように穏やかな、彼女の生活を乱さないように。