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アジア風物誌39 台湾編1
「味わいのある恋をしてみたい、山の麓の茶房にて 〜台湾茶」

 極上の台湾茶を一服。聞香杯から茶杯へ注ぐ瞬間

   誰しも女二十五を過ぎれば、人生これでいいのかと立ち止まることがあるだろう。その結果、転職を選ぶ者。モラトリアム留学する者。または結婚退職する者……。友人から結婚しました葉書が届くたびに、日本中に散らばった同窓生の間には、いっせいにさざ波がはしる。大卒直後の二十四〜五がかなりの大波であるとすれば、次なるピークは三十路(みそじ) 直前。二十六〜七の現在は、いわばはざまの凪の時期なのだろうか。

             *

 人気(ひとけ) の少ない山の麓のとある茶房にて。山あいには熱帯鳥(トロピカル・バード) の鳴き声がこだまして、オープンテラスの傍らを野生のリスがせわしなく行き交う。ふと一陣の南風が吹きすぎた。

「はっ……」

私はどこにいるのだろう。茶の葉がかそけき音をたて、さざめいていた。

 陽光のオープン・テラスには、あおく霞む山なみに、樹々のみどりと、手もとの杯には凍頂烏龍茶の金色が響きあい、総天然色のおだやかな風景画をなしていた。山の形やその盛りは、どこか懐かしげに、日本の山あいをもしのばせるのだが、よくよく目を凝らせば、ところどころに大ぶりの熱帯樹が顔をのぞかせ、この場所が亜熱帯地方であることを思い出させる。そう、ここは北回帰線直下の美麗島(イラー・フォルモサ) 、台湾。心やさしき島、おだやかな中華(チャイニーズ)の民国。熱帯果実も花も緑も年中絶えることがなく、夜市には屋台料理の味があふれ、故宮博物院は中華の美を守りぬいた……そんな地でもある。

 十年来のアジア・ブームにおいて、バブル時代にブランド安売りショッピングツアーが流行したのち、その張りつめに疲れたバブル崩壊後は、ややグランジ志向、バックパッカー旅行が人気を集めたのは記憶に新しい。そして経済復調中の現在、今度は個人リピーターの時代として、韓国をはじめとする近場の東アジアが再び脚光を浴びつつあるのではないかとも思う。そこで私も個人旅行の延長として滞在型の紀行を、しかも一学期程度の留学先として、中華民国・台湾を選んだのだが、実は他にも理由が存在した。

 結婚までにある程度の実績を残さなければともがく私は、それでも文筆だけで食ってはいけず、早朝には執筆を、日中にはバイトを、夜には仕事づきあいや執筆と心身を酷使する状況であり、台湾出発の前日は睡眠時間十五分というありさまであった。それらを一時OFFにする。連載を数ヵ月分まとめて提出し、交友も保留するなど、さまざまな自己の衣を人形(ひとがた)のまま、そっと脱ぎ置いてみる。こうしてつるりと生身のまま、台湾に抜け出してみよう……。

 しかしまだ生乾きのうちに、繭から自分で這い出たようなものだ。中国語の発話は小学生程度、平仮名の本名も中国式の当て字に迷い、蜜紫后(ミヅホ) だか彌紫後(ミヅホ) だか匿名的な状況で、現地の人々に助けられっぱなしの生活となることが予想される。観光地を流れてゆけばよいだけの旅人とは異なる反面、数年単位の長期留学生や駐在員、国際結婚組ほど根を張ったわけではない。一学期、金が尽きればそれ以前に帰国せざるをえないという身の上は、心もとなくもあり、また不思議に軽やかでもあった。−−こんな小さなサイズになるのは、初めてだ−−ともかくも、猪突盲進、自転車操業の生のなか、

「生にほっとひと息ついてみたい」

「寧(やす)らかな夏を過ごしたい」

そんな気持ちで台湾を訪れることとなったのである。

 この地は香港ほど強烈ではない、ほどよい中華が息づく一方、生活水準は日本レベルと言っても遜色ない。しかも世界一親日の人々が住むとあれば、“いやしのしま”としてその懐を開き、迎え入れてくれるのでは。そんな一方的な期待を抱くのもやむをえない。おりしも梅雨と台風のはざまの時節。亜熱帯地方では季節が変わるというほどの予感はないまま、白い雲天のもと、そっと椰子と熱帯花のてのひらに隠されてしまおう、ほどよくたれたまま……。

 もちろんこのときはここ数年まれにみる、山あり谷ありの数ヵ月が待ちかまえていようとは、思いもよらない。実は茶園でのひとときが、情熱の嵐の前の静けさであることも。


 中国茶を点茶するとき、ひとすじの流れに想いは集まり、はからずとも無心になる。予め熱湯で急須をあたためる。各杯均等に味が出るよう、茶海というソーサーに注ぎ置く。一杯目は流し去り、残り香のみを確かめる。繁雑で優雅な手続きひとつひとつが、茶の価値を高めるようにも思われた。

 何かのためではない、まして見学する目的ではない、無為のために存在する。ただただ茶を愉しむ。これほどの贅沢があろうかと思う。何かを生産しなければ気の済まない日本人であることをひととき忘れ、名もない異邦人として、この地にたゆたうのも悪くない。金色の烏龍茶と、山鳥のつぶやきと。亜熱帯の陽光はほどよいぐあいに降りそそぎ、異郷の地でこわばった心をほどいてくれる。

 ふだんは台湾人の無償のやさしさのなか、むやみに寂しさを感じることはない。到着して一週間、それでも次第にどこかが硬化するのを止めることはできなかった。午前中は教科書一式を、午後はカメラ&取材メモで武装したまま、自力で衣食住をマネージすべく、いつのまにか、か細く孤独にまとまっていたようだ。それにしてもなぜ今回は出会いがことごとく一期一会なのだろう。まるで身辺にガードが張られているように。それとも無意識のうちに貞操帯でも装着しているのだろうか。ディスコに単身、乗りこむまで試みたが、パスポート不所持のために入口で追い返されるありさまだ。−−隣に誰かいてくれれば−−愛に飢えるというよりむしろ、愛情を注ぐあてが必要だった。ひとりきりでは、茶の葉が煮出されすぎてしまう。おそらくふたりぶんくらいが、ちょうど良いと思う。

 男ならば酒で想いをまぎらわすというけれど、女は例えば衝動買い、またはヤケ食い、私の場合はひたすらの喫茶めぐりである。一服の空気を呼吸すれば、徐々に体内の濁りは浄化されてゆく。なにせ、中華数千年分の“ふうとひと息”が重ねられた行為なのだ。良質の烏龍茶は、缶入りのような茶色ではない、金色のひざしのいろである。なかでも高級台湾茶の凍頂烏龍茶は(注釈;各種茶) 、残り香の杯・聞香杯に鼻先をよせた瞬間、ふとフラッシュバックのようによぎるものがある。まだ青々とした若葉のころ、大地の水をいっしんに吸いあげた、または天日干しの時にさんさんと陽光を浴びたころ……。煎られ、揉まれ、乾かされ、半発酵茶に至るまで、数々のプロセスを経たうえで、ようやくたどりついたこのかたち。それまでの日々は“喝杯茶(茶を飲む)”のこの一瞬のためであった。

 いつの日か、そんな一日が訪れるかもしれない。誰かと杯を重ねるかもしれない。−−昼さがりの陽光さしこむ茶房にて。見えないほどの速さで西日は傾いているものの、ひととき気づかぬふりをして、敢えて互いの未来を見ず、過去も問わないまま、ただただ目の前の人に微笑みかける。茶受けを唇にさしだしあう。幸福を口に含むような一杯。凍頂烏龍茶はそれほど煮出さなくても十分に香り高く、しんと琥珀色のものが頭上を吹きぬけるような心地好さが溶け去ったのち、じっくりと沈思するような味わいの底にも、どこか陽光の輝きが息づくような馨しさをたたえていることだろう。(注釈;形容)

 手元の一杯も、渋みは全くない、にもかかわらず着実な味わいの印象を残している。同じ葉と言えども、例えば野菜類を食べるときには、その歯ざわりや調理法ゆえに、味覚が前面に押し出されてしまうが、茶という、自然の素材に天然流の加工を加えたものを、純粋に抽出された形で味わうとき、味覚・嗅覚・視覚さらにはその先の第六感とも言うべき部分が開かれてゆくのを感じる。そしてまた茶を育んだ陽光も大地も水をもありのままに味わうことができるのだ。

 できればそんな味わいのある恋をしてみたい。

 

バックナンバー;
(内モンゴル風物誌)
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14「昭君墓 〜おしどり夫婦は和平シンボル」
13「フフホト(呼和浩特) 〜北のはての青い街」
12「ナーダム 〜男子三技、民族の祭典」
11「相撲 〜死人すら出た無制限自由型」
10「寝台列車 〜眠りの密集」
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8「ラクダ 〜キャメル毛布どころか砂漠の舟」
7「馬頭琴 〜草原のチェロは亡き愛馬」
6「酒〜モンゴルウォッカに馬乳酒」
5「乳製品 〜白い食べ物、神聖なもの」
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3「羊肉料理 〜日本進出の味」
2「蒙古馬 〜大草原のトレッキング」
1「草原 〜天の神さま、地の神さま」
(ミャンマー風物誌)
14「八曜式占星術の世界にようこそ」
13「誕生曜日と八方位の相関」
12「曜日に司られた人生」
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10「癒し&ヒーリング」
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1「着るアート、腰巻きタイトスカート『ろんぢー』」

(『豊饒の楽土』中国東北部風物誌)
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「水晶、ガラス、クリスタル/大連」
「蛇の島 〜まむし王国 /旅順」
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