高杉晋作の愛人。
愛人と言うと、聞こえがよくないが、時には幕府の追手からの死地をともに潜り抜け、常に晋作の支えとなった女性。
もとは稲荷町で「此の糸(このいと)」の名で芸者をしていたが、それ以前の経歴は不明。
文久3年(1863)奇兵隊結成のため下関にやってきた晋作と出会い、常に晋作の支えとなった。
晋作の死後、その墓の近くにあった山県有朋の無隣庵を譲り受け菩提を弔い、明治14年
曹洞宗 総本山 永平管長久我環渓禅師が長府 功山寺に訪れたときに、髪を落として出家し、「谷梅拠(たに ばいしょ)」と名乗って、初代庵主となった。
「谷」は、晋作が晩年 藩主から授かった苗字で、晋作の死後、梅処尼に引き継がれた。 |