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安徳天皇 【あんとく てんのう】 1178〜1185
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 平安末期の天皇。
 高倉天皇の第1皇子。
 母は平清盛の娘 建礼門院 徳子。
 1180年 3歳で即位し、1185まで在位。

 源平の戦いにおいて、平宗盛に擁せられて西走。
 1185年壇之浦の戦いで、二位尼に抱かれ平氏一門とともに入水。
 その後 下関市伊崎の漁師の網にかかって引きあげられ、阿弥陀寺
(現 赤間神宮)に埋葬された。

伊藤博文 【いとう ひろぶみ】 1841〜1909
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 明治の政治家。
 名は、俊輔。 号は、春畝。
 周防国 束荷村の農家の生まれで、萩藩士 伊藤家の養子となる。
 松下村塾で学び、京都の志士と交わる。

 1863年 藩留学生として、井上馨とともに渡英。
 その近代文明の様子に驚き、攘夷論を捨て、帰郷後、下関砲撃の四国艦隊と和議を交渉に通訳として同行。
 高杉晋作の功山寺挙兵に呼応して力士隊を率いて決起、藩の主導権を握る。

 維新後は、さまざまな役職を歴任し、大日本帝国憲法立案の中心となる。
 1885年 初代 内閣総理大臣に就任し、明治政府の実権を握る。
 その後、初代 韓国統監となって日韓併合に尽力するが、中国
(満州)のハルピン駅で朝鮮民族主義者 安重根(あんじゅうこん/アンチュングン)の弾丸に倒れた。

井上馨 【いのうえ かおる】 1835〜1915
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 明治の政治家。
 通称 聞多
(もんた) 号は、世外。

 青年時代 尊攘討幕運動に献身。
 藩の命を受け、伊藤博文らと渡英。

 維新後、新政府 参与となり、大蔵大輔などを歴任したが、政府財政を批判し辞職。
 先収会社
(三井物産の前身)を設立し、1875年 大阪会議を機に、政府に復帰。
 翌年には、日朝修好条約を結び、1885年 第1次 伊藤内閣の外相となり、条約改正のために、極端な欧化政策をとり、世の非難をかった。
 以後、農相務相、内相、蔵相など歴任し、晩年は元老の一人として政界に臨んだ。

おうの 【おうの】 ?〜1909
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 高杉晋作の愛人。
 愛人と言うと、聞こえがよくないが、時には幕府の追手からの死地をともに潜り抜け、常に晋作の支えとなった女性。

 もとは稲荷町で「此の糸(このいと)」の名で芸者をしていたが、それ以前の経歴は不明。

 文久3年(1863)奇兵隊結成のため下関にやってきた晋作と出会い、常に晋作の支えとなった。

 晋作の死後、その墓の近くにあった山県有朋の無隣庵を譲り受け菩提を弔い、明治14年 曹洞宗 総本山 永平管長久我環渓禅師が長府 功山寺に訪れたときに、髪を落として出家し、「谷梅拠(たに ばいしょ)」と名乗って、初代庵主となった。

 「谷」は、晋作が晩年 藩主から授かった苗字で、晋作の死後、梅処尼に引き継がれた。

大内氏 【おおうち し】
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 南北朝〜戦国時代に中国地方に勢力をふるった豪族。
 古くは、百済の聖明王
(せいめいおう)の子孫と称し、聖徳太子より多々良の姓を与えられたと伝える。

 弘世(ひろよ)の時、足利氏に属し山口に本拠を置く。
 その子 義弘は、6カ国の守護を兼ねた。
 応永の乱で一時衰えたが再興し、日明貿易の独占で富強を誇る。
 天文20年
(1551) 31代 大内義隆の時、家臣の陶晴賢(すえ はるかた)の反逆により、長門の深川 大寧寺で自刃。

 その後 陶晴賢は、大友宗麟の弟 春英を迎え、大内義長を名乗らせていたが、両者ともに毛利氏に滅ぼされた。

大内義長 【おおうち よしなが】
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 本名は、大友春英
 豊後の戦国大名 大友宗麟
(おおとも そうりん)の弟。

 大内義隆を滅ぼした陶晴賢に迎えられ、大内義長として大内氏を継いでいたが、弘治3年(1557)毛利軍に追われ、長福寺(現・功山寺)まで敗走、仏殿において自刃した。


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