赤間神宮

平家一門の墓 七盛塚

 ― へいけ いちもん の はか ななもり づか ―

 赤間神宮境内の南奥に、前後2列にならんだ14基の塚と、その後ろに 無数の五輪塔があります。

 名前の彫られた石板状の塚は、板碑(いたび)と呼ばれる供養塔で、彫られた文字などから、1600年頃に建てられたものだと考えられています。



前列

左少將
右中將
右中將
副將能登守
参議修理太夫
大將中納言
参議中納言

平有盛
平清經
平資盛
平教經
平經盛
平知盛
平教盛

後列

伊賀平内左衛門
上総五郎兵衛
飛騨三郎左衛門
飛騨四郎兵衛
越中次郎兵衛
丹後守侍従
従二位尼

家長
忠光
景經
景俊
盛継
平忠房
平時子

 この中には、壇之浦で死んでいない者もいるため、これは本当の墓ではなく、紅石山べにしやま 赤間神宮の背後の山)に散在していた五輪塔を集め、板碑を立て供養したものと思われます。

 拝殿に向かって左手の水難供養塔の奥には、平家一門を祀った社 七盛宮もひっそりと建っています。



 この七盛塚には、ある言い伝えが残っています。

 江戸時代の天明年間(1781〜89)のある年、関門海峡に嵐が続いて、九州に渡る船や漁船の遭難が相次ぎ、商人や漁師たちは大変困っていました。

 そんなある夜、漁師たちは荒れ狂う暗い海に、泣き叫ぶ男女の声を聞きました。
 漁師たちは恐る恐る闇をすかして見ると、そこには成仏できずにさ迷っている、たくさんの平家の武者と官女たちの亡霊の姿がありました。

 漁師たちは、この災難は壇之浦に沈んだ 平家一門の祟りであると考え、それまで阿弥陀寺の裏の紅石山に散在して、供養する人もいなかった平家の墓を1ヶ所に集め、一門が帰りたかったであろう京都の方角へ向けて手厚く供養しました。
 すると翌日から、嵐は嘘のようにおさまったといわれています。

本陣 伊藤宅跡

日清講和記念館

赤間神宮

鎮守八幡宮

大連神社

紅石稲荷神社

みもすそ川公園

関門橋

関門トンネル
人道口

JH海峡プラザ

火の山

平家一杯水

.

.

.


逆路 ページ上へ 順路

q

赤間神宮 詳細

安徳天皇
阿弥陀寺陵

平家一門の墓
七盛塚

芳一堂

八咫鏡奉鎮の碑

日本西門
鎮守八幡宮

赤間神宮
紅石山樹林

紅石稲荷神社

大連神社

q

 阿弥陀寺

q
.
.

トップページへ
トップへ