有害環境をめぐって社会の「倫理」や「責任」が問われるようになった。若者たちを犠牲にして利益を得ようとする姿勢は、「表現の自由」以前の問題と言える。一方、粗暴化するイジメや若者たちの衝動的殺人に共通するのが、心の中に潜在する“怒り”である。現代社会や家庭の中で傷つき、真実の「愛」を渇望する声が聞こえてくる。
W-CARP Japan(ワールドカープ・ジャパン)倫理問題調査会
●規制強化のダイヤルQ2
平成元年7月のサービス開始以来、急成長したNTTの情報回収代行サービス「ダイヤルQ2」は、番組数が1万7百、情報量が月間22億円(昨年11月末現在)の大市場となった。
しかし、親の知らないうちに子供が無断で、アダルト番組や、コンピュータを用いた男女一対一の会話「ツーショット」、不特定多数の会話「パーティライン」などを利用し、高額の情報料を請求される事件が続出する一方で、他人の家に侵入してダイヤルQ2を利用し逮捕された者や、変造テレホンカードを使い情報料をだましとろうとした業者も現れた。こうした問題はNTTのサービスが裏目に出た結果である。
社会の問題児となってしまったダイヤルQ2だが、すでに米国では、10年ほど前から始まった情報提供番組「900番サービス」において、わいせつなポルノテープが多数を占めるようになりトラブルが続出した。「知らぬ間に子供が利用し、驚くような料金を請求された」と苦情が相次ぎ、規制する法律(ポルノ電話案内禁止法)も制定された。NTTはこうした前例を参考にして、問題を未然に防ぐようにせず、後手に回ってしまったのだ。
NTTでは、情報提供会社がダイヤルQ2番組を開設する際に、「全日本テレホンサービス協会」(衛藤隆吉理事長、東京都港区)による書類審査を義務づけていたが、書類上は問題がないようにみえても、実際は露骨な性表現を放送しているケースがあった。また放送後の審査も、審査基準が曖昧な上、人手不足もあって、効果的に行われず、問題が後を絶たないという実情であった。
そうした中、同協会は日本民間放送連盟の「放送基準」を参考に、「ダイヤルQ2倫理規定」を作成、昨年5月末に発表した。「NTTもダイヤルQ2契約書を変更する予定があり、過激なものは生き残ることはできない」、電話のもつ公共性を考えると、「どうしても厳しい審査をせざるを得ない」とした。
それを受けたNTTは、対策の一つとして昨年6月で「ツーショット」の新規契約と、10月で契約更新をうち切ると共に、「パーティライン」の情報料を従来の5分の1に設定し、提供者の魅力を少なくすることを決めた。この措置によって、「ツーショット」は今年6月までに全ての契約が切れ、ダイヤルQ2から姿を消すこととなる。さらにNTTは、昨年11月8日までに審査で問題とされていた249番組の回線契約を随時解除していった。
たしかにダイヤルQ2の規制強化はされたが、今なお過激な性表現を売り物としたアダルト番組などが数多く放送され、街頭や新聞でも広告が氾濫している。一度汚染された「電話」の清浄化には、長い時間を要するだろう。
●コミック本に慎重な東京都
昨年6月、西多摩地区で、高校生が婦女暴行容疑で警視庁に逮捕された。帰宅途中の女子高校生を自転車で尾行し、ナイフを突き付けて脅し乱暴した疑い。警視庁の取り調べで、少女ばかりをねらって約30件のいたずらを重ねていたことを認めた。家宅捜索では、露骨な性描写を掲載したコミック本18冊が押収され、このうち7冊は、警視庁が東京都に有害図書指定するよう未指定のものであった。あらためて、この種のコミック本が悪影響をもたらすことが浮き彫りにされた。
これらの本は、表紙にかわいいイラストが描かれ、一見ごく普通のコミック本だが、内容は中・高生の露骨な性描写が満載されている。
一昨年から和歌山の婦人グループが火付け役となって追放運動が全国に広がり、自治体の条例による有害図書指定などの措置が取られた。大手出版社も問題となったコミック本を出版していたが、事態を深刻に受け止め自粛していった。
さらに、日本雑誌協会などで作る出版雑誌協議会(議長=清水英夫)でも業界の自主規制を行い、昨年1月、少年少女に不適切と判断されたコミック本に「成年コミック」マークをつけるよう申し合わせた。しかし実際は、自治体から有害図書指定されることを怖れ、敬遠されがちのようである。
一方、東京都は表現の自由を条例で制限することには慎重で、規制は必要最小限に心掛け、基本的に、業界の自主規制を重視する立場を取ってきた。そのため条例には、37道県の条例で採用している“知事の権限をもって有害図書指定する”「緊急指定条項」がない。業界の意見を聞き、審議会に諮る段取りが必要となる。
これだと、本当に有害な本が出回ったとしても、指定するまでに1ヶ月はかかり、指定された時には、新しいコミック本が店頭に並ぶことにもなりかねない。こうした問題を解決するため、昨年の7月、約2万人の都民から、規制強化の条例改正を求める請願が都議会に出された。それを受けた議会は「不健全図書類の規制に関する決議」を可決した。
ところが昨年9月以降、こうした「ポルノコミック」規制強化の動きに対して反対する市民グループの集会が開かれるようになり、「表現の自由が脅かされる」といった反論や、「今、規制されたら何が有害なのかを議論する機会が失われる」という懸念も出され、今年1月には都は「緊急指定制度は規制のためには有効だが、表現行為を事前に抑制することになる」と、再度「表現の自由」への影響をあげ、緊急指定制度の導入には慎重な態度を示した。
●業界の自主規制の限界
業界の自主規制が、読み手の立場にたって速やかに実施されればよいのだが、実は、業界の自主規制自体に問題があることを知らなくてはならない(注1)。
まず第一点は、「憲法で保証されている表現の自由があるから、自ら規制することを含めて規制を受けることは困る」として、自主規制が守られないという問題。
第二点は、業界の判断基準と、受け手や青少年の育成を図ろうとしている側などの判断基準が大きく違うという問題である。「この表現は自主規制の条項に外れているのではないか」と抗議しても、「いや、絶対に外れていない」と押し問答が始まる可能性がある。
第三点は、関係業界の中でグループを作り自主規制を進めていこうとしても、グループに加盟しないアウトサイダーが多くあり、業界全体の歩調が合わないというもの。
第四点は、業界の自主規制といっても、「子供の意見は分からない、それは大人の意見でしょう」として、自主規制が徹底しないことである。
以上の点を考えると、自主規制を徹底させるためには、業界内に営利本位でない「倫理」と「責任」、それらを基本としたコンセンサスがなくてはならないことが分かる。「倫理」なき自主規制は無策とも言える。自主規制を主張する業界は、何よりもそうした議論に熱を入れるべきであろう。
●表現の自由以前の問題
パソコンソフトの中にも、「美少女ソフト」と呼ばれるわいせつなものが出回り、アダルトビデオを上回る過激な性描写が、大人の知らないところで子供の世界にまで広がっていた。昨年11月に2つの業者が摘発されたが、その後も同様のソフトが、有名デパートや大手有名電器店などで販売されていることが明らかになり社会問題化した。これらのソフトはパソコン情報誌に堂々と紹介され、その一つの『Oh!Dyna』(91年12月号)には「幼児誘拐ソフト」を付録で付けるなど良識を疑われる事態が発覚した。この雑誌の編集長は、「ゲームストーリーの解説について配慮の足らない表現があった」と認めつつも、「押しつけの規制が始まると、危険だと考えている」として、「表現の自由」を盾にした論理を語った。
メディアの送り手がよく主張する「表現の自由」は、倫理に欠けた飽くなき商業主義を擁護するための“隠れ蓑”となりがちである。子供たちに与える悪影響を配慮して少しでも自粛を求めようものなら、「表現の自由が侵害される」と被害者ぶって、熱のこもった反論を繰り返す。その結果として、本当の被害者である少年たちの存在が見えなくなるのである。
ポルノコミック本を出版した業界の姿勢に対して、高橋史朗氏(明星大学教授)は、「『表現の自由』などと偉そうなことを言う前に、一昔前なら恥ずかしくてとても子供向けに刊行できなかった代物を、子供たちに売りつけて大もうけしていて全く恥ずることのない自らの『いやしき商業主義』をまず反省する必要があるのではないか」(注2)と喝破し、「表現の自由」以前の問題であることを強調している。


●大新聞が全裸広告の掲載
昨年の宮沢りえ写真集『santa Fe』(朝日出版社)の騒動も、その典型的な事件と言える。
昨年10月の読売、朝日新聞のヌード広告掲載をきっかけに、日本中が「宮沢りえ」に過熱していったが、日本を代表する大新聞に、人気絶頂のアイドルの全裸写真が全面で載るなど、全く驚きの事件であった。広告掲載以来、朝日出版社には全国から予約の電話とFAXが殺到。回線はパンク状態となった。スポーツ紙や夕刊紙はこの話題を取り上げ、週刊誌も軒並み写真集発売についての記事を掲載、りえさんの写真が表紙を飾ったものも多かった。
数百部が毎日、宅配で家庭に届けられる両新聞は、子供の目に簡単に触れ得るものだ。にもかかわらずヌード広告を掲載とは、読者の「見たくない権利」や「見せられたくない権利」(注3)を侵害したことになる。
ドイツでは、「ポルノグラフ的文書を18歳未満の者に提供し、引き渡し、もしくは見聞きさせた場合は、1年以下の自由刑または罰金に処する」という規定がある。米国でも同様の法律があり、違反すれば営業停止処分にもなる。両新聞は、この写真集を“芸術的”だと判断したようだが、子供への悪影響にあまりにも無配慮だったと言わざるを得ない。
茶の間のアイドルである未成年の「宮沢りえ」がオールヌードで登場したり、裸が商品になるという事実は子供にとって有害である。幼い時から「性」に対して歪んだ印象を抱かせてしまう。
日本新聞協会が昭和51年に定めた新聞広告掲載基準では「性に関する表現で露骨、わいせつ」「その他風紀を乱したり、犯罪を誘発するおそれがある」広告の掲載を禁止しているが、今回の広告は、明らかにこれを逸脱している。
特に読売は、昨年2月2日の社説「露骨な『性』漫画の洪水を憂う」の中で、コミック本の性表現を取り上げ、出版社の「売れさえすればよい」姿勢を批判。表現の自由は保障されるが、問われるのは自由や権利以前の「品性」だとしたが、今回の広告掲載はその主張と大きく矛盾した結果となった。一方の朝日は、これまでもヌード写真の掲載に寛容で、倫理基準は読売より低い。さらに、折しも日本新聞協会は「教育に新聞を」というキャンペーンの最中であったが、自ら教育的役割を放棄した行為となった。

●「日本人はヌード狂」
外国からも批判の声があがっている。米紙「ニューヨーク・タイムズ」は昨年10月30日付の記事で次のように語っている。
「この国の青少年と伝統的に慎み深いアイドルタレントは、こう振る舞うべきという不文律が破られた」「日本のスポーツ紙やイギリスのゴシップに満ちたタブロイド紙ならば予想できることだったが、真面目な政治論説を誇りとしている新聞としては初めてのことであった」「日本のリーディングペーパーが、厳格な基準を実に急に変更したり、ほとんどの米紙が拒むような写真を掲載することは、誰も予想していなかった」と、驚きをもってこの事件を大きく取り上げている。
一方、韓国の朝刊紙「京郷新聞」は10月16日、「日本人はヌード狂……十代女性も脱がせた」という見出しで写真集出版を非難した。
同様の内容は英紙「ザ・タイムス」(昨年11月9日付)をはじめ、多くの海外のマスコミで取り扱われた。海外から見ると、まさに異様な騒ぎようだったのである。
アメリカでは、性表現が解放されているのは特定の場所に限られ、子供への配慮から、新聞やテレビに女性の裸が登場することはない。万一そのようなことがあれば、キリスト教団体や消費者団体から、不買運動やスポンサーに提供を中止させるといった激しい抗議運動が起こる。マスコミはそうしたリアクションを予め考慮して自制せざるを得ないという。
●マスコミのミスリード
宮沢りえ写真集は昨年11月13日に発売され、書店には予約者が詰めかけ長い列を作り、マスコミも過熱した報道を繰り返した。
発売当日にはテレビで特集が組まれ、「いやらしくない」「きれいだからいい」など、写真集を肯定する街の声を流して、あたかも“それが当然”であるかのようなイメージを植え付けていった。反対意見はその中で軽視ないし無視され、この騒動を批判した評論家が、集中非難されたということも聞かれるほどだ。
一方、朝日出版社は、篠山氏による樋口可南子さんの写真集『Water Fruit』(朝日出版社)で“ヘア”を掲載したとき、警視庁から警告されたにも関わらず、宮沢りえ写真集で再び“ヘア”を掲載した。これは警察に対する挑戦的な姿勢だと言ってよい。出版者側は警察の出方をうかがいながら、じわじわと性描写の幅を広げようとしているのだ。
大新聞のヌード広告掲載、未成年者のヌード写真集出版、それを煽るマスコミのフィーバーぶりは、社会への配慮が欠けていたと言わざるを得ない。
かつてマスコミは左翼的傾向に大衆をミスリードしてきたが、共産主義が終焉を迎えた今日、その過ちは白日のもとに晒されている。それにも関わらず、いままた、性の開放化を含めた倫理の低下という新たなミスリードを起こしているのだ。
写真集を買って、「宮沢りえが裸になったことは素晴らしい」という人も、「自分の娘だったら問題だ」というように、他人を家族の延長として見ることのできないところに心の貧しさがある。同様のことは、「我が子には見せたくない」ものを社会に送り出す前にも当てはまる。結果として、今回の「宮沢りえ」騒動では、受けてと送り手の両者に、享楽主義や利益至上主義を超える「倫理」がないことが露呈されたのである。
●日本人の場の論理
ここで日本人が古来から持っている「倫理」を理解しなくてはならない。愛と性という面では、キリスト教は“汝姦淫することなかれ”という厳しい戒律があったが、日本の宗教である仏教各派や神道はいたって寛容であったため、日本人はその時の支配階級が設定した道徳や法律や制度に従うところがあった(注4)。
さらに別の見方では、日本人は「与えられた『場』の平衡状態の維持に最も高い倫理性を与える」(注5)といわれるように、善悪ではなく、形成された「場」を保とうとする「場の倫理」を持っているのである。「赤信号みんなで渡れば恐くない」もこれに通じる。皆との一体感の中で、悪いこともできてしまうのが特徴である。しかし、恥をかくことは「場」に属し難くなるため極めて慎重であり、「場」に属さずにすむ旅では「恥はかき捨て」となる。
日本は幸運に恵まれながら戦後の国家再建を成し遂げてきたが、社会全体には“なりふり構わぬ”商業主義が浸透し、精神面への配慮が軽んじられていった。
日本は世界でもまれに見る性産業解放国と言われるが、昨年4月6日の「朝日新聞(夕刊)」の推計によると、アダルトビデオ、ダイヤルQ2、ラブホテルなどの欲望産業の年間売り上げは4兆2千億円。これは驚くことに防衛予算とほぼ同じ、GNPの1%に迫る大市場である。
このような欲望に付け込む産業が若者のまわりに溢れたり、正邪善悪の分別がつかない人間関係やマスコミによって、興味本位な性情報が広められると、“開放的な性意識は当然”という「場」を形成する。そこに若者たちが巻き込まれていくのである。「宮沢りえ」フィーバーも、“それが当然”という「場」が作られ、多くの人が巻き込まれていった。
●異性間感染が上回るエイズ
世界的な性の乱れに警告を与えているのはエイズである。
WHO(世界保健機関)によると、世界のエイズ(後天性免疫不全症候群)感染者数は800万から1千万人。今世紀末には4千万人になるという。日本でも血液製剤による感染者を含め、昨年末までに患者453人、感染者1,955人(厚生省発表)と広がっている。
昨年11月、米国のバスケットボールのスーパースター、マジック・ジョンソン選手がエイズに感染していることを告白し、米国をはじめ世界中に衝撃を与えた。彼は政府のエイズ対策全国委員会のメンバーとして活動するなど、正直と勇気を美徳とする米国民の感動を呼んだ。しかし感染経路は、独身時代のガールフレンドや女性ファンとの異性間性接触であったため非難の声もあがっている。
さらに同じ月には、英国のロックバンド「クイーン」のリードボーカル、フレディ・マーキュリー氏が、エイズのためロンドンの自宅で死亡した。その前日、エイズに感染していると宣言したばかりだった。
WHOの最新データによると、エイズ感染者の4分の3は異性間の性交渉が原因で、同性愛者や麻薬常習犯など特殊な人たち以上となり、エイズ感染がフリーセックスを通して一般家庭に広がる危険性が増大している。
すでに13万人以上がエイズで死亡している米国では、十年近く姿を消していた避妊具のコマーシャルがよみがえり、ニューヨーク市内の公立高校などでは避妊具を無料で配布するようになった。
これに対し「エイズ防止に役立つ」という賛成派(教育委員会など)と、「青少年の性を乱すおそれがある」「配布は親の権利と宗教的信念を侵害するもの」という反対派(父母団体やカトリック教会関係者などの宗教界)との間で激しい議論が続いている。いずれにせよ、教育責任者が「道徳を云々している場合じゃない、生死に関わる問題だ」として避妊具使用の徹底を訴えるほど現状は深刻化しているのだ。
日本でも感染者の半数以上が異性間接触によるものである(図)。また、患者・感染者が二十歳前後の若者に集中していることから、文部省は3月に入って、エイズ予防の高校生用教材を作成し、秋には全国すべての高校に配布することを決めた。

米国のようにフリーセックスが蔓延すれば、エイズが燎原の火のように広がるのは明らかである。さらに今後は、東南アジアの感染者が急増すると予測されていることから、海外での奔放な性行動はこれまで以上に危険な命を捨てる行為となる。
例えば、タイ国内のエイズ感染者は民間調査機関の推定によると40万人である。観光が外貨収入のトップである国にも関わらず、同国の観光担当の国務大臣は、「タイの売春宿へ突っ込んでエイズで死ぬようなカミカゼ自殺ツアーは馬鹿げている」と戒めるほど事態は深刻だ。
一連の有名人のエイズ感染や死亡などが影響して、昨年12月は、東京都内の保健所、都立病院でエイズ抗体検査を受けた人が5年ぶりに千人を越え、このうち5人から陽性反応が検出された。また、エイズ予防財団のフリーダイヤルには、相談の電話が殺到した。
エイズは愛の秩序は性倫理が乱れた現代社会に対して大きな警告を与えている。特効薬開発などの対症療法も必要であろうが、より大切なのは、人間の性のあり方について真正面から向き合って取り組むことなのである。
●小学校から性教育開始
最近、「性」の教育が注目されるようになった。今年の4月より小学校5、6年の保健体育と5年の理科の授業で性教育が行われるからである。
これまで小学校の授業で性教育は行われていなかったが、性に対する刺激的な情報が、マンガや雑誌やテレビなどで流れている現在、早いうちから施す必要があるとして、文部省の新指導要領に盛り込まれた。以前より低学年の内から積極的に性教育を実施していた小学校もあるが、一般の小学校では、教師たちが「どう教えればよいか」という戸惑いを持っているようだ。教材となる性教育ビデオは、海外で制作されたアニメの日本語版だが、父母の性器を露出したセックスシーンまで登場し、「性器教育」「セックス教育」と批判する声もある。
学校の性教育は、責任ある「性」を教えられるかどうかにかかってくるのだが、今の教育事情では、方法だけを伝えて、どのように受けとめ解釈するかは子供まかせになるだろう。生命の尊さや人間としての生き方、男女の愛、家庭のあり方を知らずして、性に関する過剰な知識を与えることは危険といわざるを得ない。このままでは、遊び感覚で性に走る子供が増えないとも限らない。
第一、性教育の実施が、現代社会に蔓延する性情報を心配してのことを言うならば、その様な現状を黙認するのではなく、環境の清浄化に力を注ぐべきではないだろうか。
●若者たちに潜む“怒り”
昨年7月、未明の東京・渋谷の繁華街で、「渋カジ」と呼ばれるグループが、大学生ら二人を襲い、大学生一人に殴る蹴るの暴行を加え死亡させた。
仲間7人と居酒屋を出て金も使い果たし、午前2時過ぎセンター街を歩いていた。「もっと飲みたい」など、うっぷんがたまり、「カモを探しに行こう」となった。はじめに男女4人組を襲おうとして失敗。その後、通りがかったディスコ帰りの2人を襲い、大学生は意識不明となり、6日後に死亡した。
渋谷センター街では、数年前から高校生を中心とした10代前後の若者達が、夜明けまでとりとめのない話に花を咲かせ、たむろしている。そして、彼らのカジュアル・ファッションから「渋カジ」と呼ばれるようになった。
彼らはサラリーマンや大学生をパンピー(一般ピープル)と呼び、社会に反発することで一体感を深めあっていた。しかしその連帯感は、ちょっとしたきっかけで“怒り”へと転化するものでもあった。今回の殺人事件の場合も、仲間同士で形成された“ノリ”の感覚と、潜在的な“怒り”とがあいまって、殺人にまで至ったのである。
それは、今日社会問題になっている「いじめ」にも共通するものである。
いじめはここ数年減る傾向にあるが、「陰湿化」「恒常化」「粗暴化」したと指摘する人も多い。また、学校教育者の間では、「学校が問題になるのを恐れて報告しないだけで、実際は増えている」という声もある。
昨年の11月、大阪府の校内で中学3年の4人の男女生徒が、同級の女子生徒に暴行し死亡させる事件が起こった。「自分たちの顔を見るといつも逃げたりするので、うっとうしい生意気なやつだと思った」という。
また今年2月、沖縄県の公園で、中学1、2年生9人が2年の男子生徒に集団暴行を加え死亡させた。彼らは殴る順番をジャンケンで決めていた。
同一校でいじめの追跡調査をした宮崎大学教育学部の滝充助教授は、「毎日新聞」(91年11月26日付)で「いじめ行為は恒常化していると見るべきだ。また、いじめをする子は一部の問題児だけではなく、誰でもなりうる。厳しい校則とか、受験競争で満たされない気持から来るストレスが背景にあると思う」と指摘している。
●真実の愛を渇望する声
若者の衝動的な犯罪やいじめで共通しているのは、彼らの心の中に潜在する言いしれぬ“怒り”である。さらには、それを見境無くぶちまけようとする規範意識の欠如と、被害者への思いやりを持てない無情緒性である。
青少年犯罪に関し詳しいジャーナリストの佐藤稔氏は、89年の「女子高生コンクリ殺人事件」や88年の「名古屋アベック襲撃事件」などの犯人である少年たちに「共通するのは、途方もない憤怒。しかも、憤怒の固まりを点検すると、奇怪なことに『愛』の細かな粒子がキラキラと光っている」(注6)と鋭く分析している。彼らは幼い頃から、愛されるべき時に愛されず、かえって家庭や社会に強烈な憎しみを抱いてしまったのである。真実の愛が存在しない現代の家庭や社会の犠牲者といえる。そして「愛」に飢えて叫びつつ犯行に走ったのだ。それは犯罪者に限ったことではなく、今日、誰もが持っている心の叫びなのである。
しかし、このような「愛」を求める若者たちには、“いやしき商業主義”が巧みに歩み寄り、刹那的な刺激を提供して心を蝕んでいく。彼らが異性を求めても、互いに愛されることを望み、愛を奪い合うために、真実の幸福を得ることはできない。また、寂しいものたちが集まって慰め合ったとしても、それはかりそめの連帯でしかなく、すぐに怒りへと転化し、ある時は暴力へと発展する。中には薬物に走り、身の破滅を知りながらも現実から逃避しようとする者もいる。
3月5日、高知市の高校1年の女子学生が、「陽気な妹」をねたみ、中学1年の妹を包丁で刺し殺した。その翌日6日には、千葉県市川市で、19歳の少年が一家4人を惨殺した。少年の家庭は、彼が小学校低学年の頃、ギャンブル好きの父親が多額の借金を作って両親が離婚。祖父と母親は彼を溺愛して育てた。しかしその溺愛は、「愛」として少年の心には届かなかったのだろう。
「愛」を渇望し迷走する苦渋に満ちた声ならぬ声が、病める現代社会の隙間から漏れ聞こえてくる。彼らに救いを与える者は何であろうか。それは、家庭を中心として、社会にまでも通じる「真実の愛」と正しい価値観、倫理観なのである。(1992年4月)
注1 上村文三『法律時報』日本評論社、1985、6
注2 高橋史朗『諸君!』文藝春秋、1992、1
注3 加藤久雄『警察研究』良書普及会、1991、11
注4 暉峻康隆『日本人の愛と性』岩波新書、1989
注5 河合隼雄『母性社会日本の病理』中央公論社、1976
注6 佐藤稔『うちの子が、なぜ!』草思社、1990