「迷走する若者たち」(1995年4月発表)
● 大河内清輝君いじめ自殺事件
● 国際家族年・失われた家庭
● 中高生に浸透するアダルトビデオ
● 女子中学生の4分の1がテレクラ利用
● 女子高生・ブルセラブームを煽るマスコミ
● 氾濫するヘアヌード・67%が反対
● ヌード写真誌・米国では犯罪行為
● 性解放を助長する規範なき性教育
● コンドームから純潔運動へ
昨年、リンチ殺人やいじめなど少年たちの「怒り」がさまざまな形で表出された。その背景には家庭や生活環境の病理がある。規範を失った社会の中で若者たちが迷走している。
W-CARP Japan(ワールドカープ・ジャパン)倫理問題調査会
■大河内清輝君いじめ自殺事件
昨年十一月二十七日、大河内清輝君が同級生からのいじめを苦に自宅で首をつって自殺した。いじめに加わったグループは十一人であったが首謀者は四人。
四人は清輝君を「パシリ一号」と呼んで、使い走りを命じ、下校時には、カバンを自宅まで運ばせた。彼を川へ落とし、その恐怖でいいなりにさせた。何度となく金を巻き上げ、その額をまき上げていった。清輝君は家族に黙って小遣いや貯金を差し出したり、やむを得ず両親の財布から抜き取ったこともあった。自殺の直前には「強盗してでも一億作れ」と要求されていた。四人は脅し取ったお金をゲームセンターやゲームソフトの購入など、遊興費に使っていたという。学校は、彼の自転車が壊れていたり、昼休みにトランクス姿でいたこと、プロレスごっこをしていたことを見聞きしていたにもかかわらず、いじめとして理解せず、逆に清輝君を問題少年とみなしていた。
マスコミは学校や家庭がなぜ「いじめ」と把握できなかったのか、有効な手立てはなかったのかなど、連日のように報道したが、いじめの原因である加害者についてはさほど触れることはなかった。加害者の少年たちが第二の被害者となることを避け、自主的に報道規制したためであろう。
一方、この事件は九年前の同様の事件を想起させた。一九八六年二月、東京都中野区立中野富士見中学二年の鹿川裕史君がいじめを苦にして自殺。担任ら四人の教師も加わった「葬式ごっこ」は、誰もが知るところとなった。この事件を通していじめの光景が社会に知らされ、多くの教訓が残った。が、今回の事件はそうした教訓がまったく活かされなかった。
いじめのリーダー格のA君は、清輝君と同じクラスで、同じ部活の剣道部員だった。家庭は経済的にも恵まれていた。
父親は電装品製造会社に勤務。母親と年子の弟の四人家族だ。父親は工場勤務で、母親はバドミントンクラブのリーダーとして熱心に活動していた。A君が小学校低学年の頃からほとんど毎日、バドミントンに出かけ、帰ってくるのは夕方だったという。留守がちな家で育ったA君は、四、五人のグループを組んで万引きをしていた。ゲームセンターに入りびたり、持参金を使いきっては、他の男子から金を巻き上げて遊んでいた。煙草を堂々と吸い、いじめも行なった。いじめられた子の親が苦情に行くと、母親は「ウチの子も小さい頃いじめられた。順番だから、ウチの子は悪くない」と平然と答えたという。また、近所の林で煙草を吸っていたところを母親に告げると、「うちの子はそんなことをしていません」と軽くあしらわれた。
B君の父親は、トヨタ系の会社員で、母親、高校一年生の兄、小学校三年の妹の五人家族。父親は夜勤のため帰宅が明け方になりがちだった。母親はスーパーでパートをしていて、昼間は子供たちだけの生活となった。B君は幼い頃から「きかん坊」で、事件後、彼の祖父母から「なんでこんなことやった」と叱られたとき、「面白いからだよ」と答えたいう。
C君は、祖父、両親、高一の兄、小六の妹の六人家族。祖父は食品工場勤務。父親は鋳物工場の工員。母親はダスキンの集金員で、この家庭も昼は親不在の空間となっていた。C君は近所では有名な不良だった。グループで神社に集まり、屋根に登ったり、煙草を吸ったりしていた。煙草が原因でボヤを起こしかけたり、賽銭箱から金を盗んだりもした。祖父に向って、「ジジイ、バカヤロー!」とよく怒鳴っていたという。
D君の父親はA君と同じ電装品製造会社で勤務。母親、小六、小五の二人の弟の五人家族。D君が小さい頃は、父親と一緒にラジコン飛行機や自動車で遊びにいっていた。母親も気さくで面倒見がよく近所でも評判だった。ところが、母親は卓球の同好会活動に熱心になり、家を留守がちにした。
四少年の家庭環境は以上のようなものだった。「異常」というよりも、現代のありふれた家庭の光景であることに驚かされる。
■国際家族年・失われた家庭
昨年は国連が定めた国際家族年だった。家族が感情の交流、生活面での協力、教育、介護などで十分な機能を発揮できるように国や地域が家族に保護と援助を与えることを基本理念としていた。
総理府の世論調査(平成五年)では、「家庭の教育力は低下しているか」との問いで「全くそのとおりだと思う」という回答は、昭和六十三年で一六・八%だったが、平成五年には三一・二%とほぼ倍増し、家庭の教育力が低下しているという認識が広まっていることが明らかになった。
とくに大都市になるほど、その傾向が強く、地域社会が影響を与えていることが分かった。
家庭の教育力が低下している理由は、六四・九%が「過保護、甘やかせすぎな親の増加」をあげている。子供に過剰に手をかけることが、逆に子供の自主性を阻害することにもなる。また、「子供に対するしつけや教育に無関心な親の増加」(三五・〇%)、「学校や塾など外部の教育機関に対するしつけや教育の依存」(三三・一%)が続いており、親の過保護、過干渉の反面、しつけや教育に対する放任、無関心という面もあることを示している。
一方、厚生省の「平成五年人口動態統計」によると、一人の女性が一生に生む子供の数(合計特殊出生率)が一・四六と史上最低となった。先進国の中では、イタリア(一・二六)に次いで二番目に低いものだ。
子供が少ないからといって十分な教育が行き届くとは考えがたい。複雑化している家庭の問題が青少年に深く影響しているのだ。
現代の子供たちは家庭の中にいても「家庭」を知らずに過ごしている。わが国の家庭は「甘父干母」などと言われるように、優しい父親から正しい価値観を教わることがなく、生活に追われる母親からは温かい愛情を感じにくい、という傾向がある。
子供に不自由のない生活の場を提供できれば、子供は愛情を感じ、きちんと育つと思いがちだがそうではない。親子、兄弟姉妹の情的な交流が相互の信頼と子供の心を豊かにし、それを土台として規範意識が根付く。
家庭で十分な教育を受けないで育つと、善悪観念が希薄化するばかりか、情的に満たされず常に不満な心を抱く子供ができてしまう。
彼らは同じような境遇の仲間と結びついてグループを形成する。それぞれに潜在していた「怒り」は集団化すると前面に現われ、スケープゴートを探して発散しようとする。たとえ犠牲者が出たとしても心の空白を満たそうとするのだ。いじめてもさらに服従してくる存在などは、彼らを満足させる格好の材料という訳だ。大河内君をいじめた少年が「面白かった」と語っていたが、それは率直な感想なのだろう。彼らの行動は、常に愛情を渇望しているところで共通しているのだ。このような家庭の問題を根本的に改善しない限り、暴力やいじめの原因を解消することは不可能である。
それでは、家庭がその機能を果たせないとしたら、学校が代わって教育できるだろうか。現役の小学校教師がテレビで次のように語っていた。
「学校の教師は魂の救済なんかできません。悩みを学校の教師に求めること自体が間違いです。学校は一定の目的のために作られた仕事をするところですから、そこで宗教的な意味での精神的な救いみたいなものを求めること自体間違いなのです」。
実感のこもった教師の意見である。日教組は「教師は労働者」と位置付けてきたが、この風潮が蔓延するに従って、親身に指導する教師の姿は減ってきた。教師が親心をもって教育に携わるなら、生徒の話しをじっくり聞いてあげたり、必要に応じて厳しく叱り、諭すことも必要だ。だが、今はそれができない。時間的、制度的に困難という面もある。
授業中も教師が「静かに!」と注意しても、静粛になることは珍しい。教師は生徒になめられてしまっているのだ。
家庭でも学校でも子供を善導する「親」の存在が消滅した。将来、子供たちが親になったとき、一体どれほど「非常識」な教育がまかり通ることになるのだろうか。また、どれほどの「怒り」がぶちまけられることだろうか。実に恐ろしい限りである。
■中高生に浸透するアダルトビデオ
一方、子供たちをとりまく生活環境が悪化している。
昨年七月三十一日、総務庁青少年対策本部は「青少年とアダルトビデオ等の映像メディアに関する調査研究報告書」を発表した。
調査は昨年十月から十二月にかけて、北海道、神奈川(横浜)、滋賀、大分の中学二年生と高校二年生計千九百十四人、保護者千九百十四人を対象に実施。有効回答数は各々千八百九人、千五百三十五人だった。
報告書によると、中高生男女の三七・〇%が「アダルトビデオを見たことがある」と回答し、高校生男子が七七・〇%、女子が二四・三%で、中学生男子が二五・〇%、女子が九・五%となった。特に男子高校生の場合、四人に三人がアダルトビデオに接触しており、かなり一般化していることが明らかになった。
見た後の感想は、男子は「興奮した」(中学生七二・一%、高校生八六・七%)、「もっと見たくなった」(中学生五三・八%、高校生六七・二%)、「自分もしてみたくなった」(中学生五二・九%、高校生七四・六%)という肯定的な感想が多かった。女子は「気持ちが悪くなった」(中学生五三・八%、高校生六一・三%)、「もう見たくなくなった」(中学生五一・三%、高校生五〇・九%)という否定的な感想が多かった。
さらに同世代の人がセックスをすることに肯定的なものは、ビデオを見たことがある中高生の方が、見たことがない中高生より多く、特に、男子高校生の場合、「愛し合っていればいい」、「したければしてもいい」という容認派は、見たことがないと七〇・七%だが、十本以内見ているものは九〇・七%で十本以上見ているものは九三・〇%と接触回数が多いほど高い比率を示した。
またこの調査では、ビデオを見たことがある人ほど、異性の外観を重視するものが多いほか、人を殴ったことのあるものや、のぞきや痴漢、売春などの性犯罪についての罪悪感や被害者へのつらさへの共感が薄いもの、飲酒経験のあるものが多かった。
一方、ビデオを見ている子供の保護者がそれを認知している把握率はわずか三七・五%。これは子どもが自分の家で見ることが比較的多いが、それを保護者が直接把握することがないことを示している。保護者の中で、アダルトビデオやエッチなゲームは「良いことではないが、仕方がない」とするあきらめ的容認を含む容認派は三五%前後、「やめるように注意する」注意派が五五%であった。
保護者がビデオを経験すると、子供の経験も容認する傾向がみられ、容認派が四四%、注意派が四九%となる。特に男子高校生の保護者は、子供がアダルトビデオを見てもその影響は少ないと考える傾向を示している。
ビデオを見ると「性や異性に対する考え方がゆがむ」、「性に対する興味が強くなり、性に関わることを実行したくなる」との影響を認める保護者は多かったが、非行の原因や人格形成の問題と深刻な影響を認める保護者は少なかった。
■女子中学生の1/4がテレクラ利用
全国で千五百店のテレクラ、三百四十店のツーショットダイヤルが営業中だが、これらは平成三年にNTTがダイヤルQでのツーショットを禁止して以来急増した。
日本PTA全国協議会(阿部功会長)は、中学生を対象に子供の生活意識・実態調査を実施し、八月十七日報告書を発表した。
調査は昨年六月に全国の中学二、三年の男女とその保護者(集計上は母親のみ使用)を対象としており、有効回収数は子供千二百十四人(回収率三三・七%)、保護者千百五十二人(三二・〇%)だった。
テレクラ・ツーショット(以後テレクラ等)を利用した中学生は全体で一七・二%で、四四・八%が利用経験はないがどういうものか知っていた。とりわけ中学二、三年女子の利用経験率は二七・〇%にも上がり、多くのマスコミでも大きく取りあげられた。一方、男性は七・六%だった。
実に女子中学生の四人に一人が利用したということには驚きだ。テレクラ等を認知した経路は「学校の友達から」(七六・六%)、「チラシを見て」(四〇・二%)であった。繁華街ではテレクラのチラシ入りティッシュペーパーが多く配布されているが、学校や彼らの生活環境にその類の情報がかなり透溢しているのが分かる。また、利用した中学生の動機は、「面白そうだった」(六九・九%)、「学校の友達に誘われた」(五一・二%)、「興味があった」(四六・九%)と、周囲の情報によって好奇心が誘発されれているのがうかがえる。
子供たちの間では随分一般的になっているテレクラ等は、母親全体の九三・九%がうちの子供は利用したことがないと思っており、そう答えた親の子供の一七・四%が経験済みで、「うちの子に限って」という先入観の強いことが浮き彫りとなった。
一方、使用済みの下着などを売るブルセラショップの利用率は非常に低く全体でも〇・七%であったが、どういう所か知っているのは男子四六・八%、女子六三・八%と多い。これらも友達やテレビが情報の入手源となっている。テレクラ、ブルセラとともに母親の九七%が子供の利用に抵抗があるとしているが、その母親の心配がなかなか社会に反映されていないといえる。
また、中学生全体の一九・〇%が喫煙経験があり、男子二二・九%、女子一四・八%であった。初めて喫煙したきっかけは「どんなものか興味があった」(六九・七%)が多く、子供の喫煙への憧れがうかがえる。そして購入方法の五四・五%が自動販売機であった。
■女子高生・ブルセラブームを煽るマスコミ
テレホンクラブ、ツーショット、ブルセラショップなど性が商品化される中で、マスコミは「お金が入るなら何をしてもいい」という女子中高生の姿を追いかけ、あたかも「女子高生」がブランドであるかのような扱い方をしている。
『創』(95年1月号)で紹介されたルポライターの藤井良樹氏の言説が目を引く。彼は『宝島』(93年3月24日号)の特集で初めて本格的に「ブルセラ」を紹介した人物だ。その後、彼のもとにテレビや雑誌が殺到し、女子高生たちも編集部に、「自分のものを買ってくれる店の電話番号を教えて下さい」などの電話をかけてきた。問い合わせの電話本数では、創刊以来の数だったという。以降、様々なマスコミでブルセラを含め多くの「女子高生」を題材にした記事が後を断たないが、彼は、それらのほとんどを「クソ記事」と言い放つ。まともな取材をしないで、「今どきの女子高生」を論評し、最後に「世紀末女子高生は、かくも凄じい」「彼女たちの親は実態を知っているのか」などと呆れかえるだけ、それがクソ記事の特徴という。何の意味もないということだ。
さらに「マスコミ」と「女子高生」には、煽り・煽られる関係があると指摘する。マスコミは事実をより刺激的でウケのいいものに仕立てる。それを女子高生が見て、「現代の女子高生像」と信じる。女子高生はその虚構の女子高生像を、マスコミに向かってコメントし、それが再度情報として出回る。それを女子高生が見聞きして流行と思い込む…、との循環構造ができあがっているのだ。
大部分の真面目な声を無視して、「これが今どきの女子高生!」というように一つのイメージを受け手にプリントしていけば、本当の女子高生像は遠ざかり、マスコミがデフォルメした虚像が一人歩きしていく。女子高生たちは、「一般的」にみえるスタイルに翻弄され、それを実生活の中に取り入れてしまう。「自分のパンツを売って何が悪いの」と言う言葉の背景には、少なからずマスコミからの影響があるだろう。
■氾濫するヘアヌード・67%が反対
マスコミは「面白ければよい」という商業主義的傾向が強い。販売部数、視聴率が社員の給料に直結する世界であるため、とかく情報を提供する側としての責任が失われがちである。とりわけヘアヌード写真の氾濫には目をおおうものがある。
刑法一七五条では、わいせつな文書、図画の頒布、販売、公然と陳列する者への刑罰を定めているが、ここでいつも問題となってきたのは「わいせつ」の基準だ。ロレンスの「チャタレイ夫人の恋人」の日本語訳がわいせつ文書にあたるがどうかが争われた裁判では、五七年の最高裁判決で、(1)いたずらに性欲を興奮または刺激し、(2)普通人の正常な性的羞恥心を害し、(3)善良な性的道義観念に反するものが「わいせつ」であるとの基準が提示された。さらに、最高裁は芸術性とわいせつ性とは判断の次元を異にする概念であり、芸術作品であるからといって、当然にわいせつ性を免れるものではないとの見解が示された。
ところが、出版者は「この位なら大丈夫」と、警察の出方をうかがいつつ、性表現の限界を押し進めていった。ときには、警察から処罰や警告を受けるものあったが、逆にそれが販売部数を上げる宣伝として利用された。
出版関係者のなかには、「警察はとても民主的」というものもいた。「わいせつ」基準は、その時代の健全な社会通念に照して判断されるものであるため、あいまいさがついてまわる。要するに多くの人々がわいせつとみなすか否かで決まるのだ。
九一年一月、驚くべき基準変えがあった。女優、樋口可南子の「Water Fruit」(篠山紀信撮影)が一般書店でも売られたが、掲載写真五十四枚のうち十五枚にヘアが写っていた。にもかかわらず、警視庁は「わいせつ性が強い」と口頭注意しただけで、出版関係者を逮捕するに至らなかった。出版業界は事実上ヘア解禁と受け止めた。以来、有名女優のヘアヌード写真集が販売されても警察の動きはなくなった。
さらに、ヘアヌードに拍車をかけたのは、「週刊現代」「週刊ポスト」などの週刊誌のグラビアだ。「週刊現代」は「ヘア・ヌード」という奇怪な言葉を流行らせた張本人だ。週刊誌は写真集と比べると、いたって一般的な媒体で、より多くの人々の目に触れる。「現代」「ポスト」とも、ヘアヌードを売り物に販売部数を急激に伸ばしていった。
ヘアヌード写真の一般化を、週刊現代の元木昌彦編集長は、「ここまで来たのかと、感慨がある」と勝ち誇ったかのような語り口だ。しかし、“恥”の自覚があるのか、「ヘア」のために販売部数を伸ばしたと言いにくいようだ。「週刊現代」は「わいせつではなく芸術」との通り一変の主張も捨て、「猥褻…」と銘打ったグラビアを掲載した。わいせつ写真を自証したのだ。
かつてのビニ本より過激な写真が満載された雑誌が堂々と書店、コンビニで陳列されるにいたり、ヘアヌード写真集も九四年だけで三百点以上が刊行された。わが国の警察機能が麻痺してしまったかのように、完全にヘアヌードが解禁となってしまった。
性表現をめぐる警察との攻防はいかなるものか。
九三年十一月、荒木経惟氏の写真展が渋谷のギャラリーで開催され、販売されていた写真集が「わいせつ図画」に当るという理由で、ギャラリー責任者の女性二人が逮捕された。警視庁は、女性性器が露出した三点の写真がわいせつ図画にあたるとみて逮捕したのだ。「ヘア」はわいせつではないが、「性器」はわいせつであるという取り締まり当局の見解を示した。
だが、大手出版社の雑誌、写真集に対しては依然として黙認状態。警視庁は「ヘアはわいせつ罪を構成する要素ではあるが、それが見えているだけで罪になるとは言えない」との基本的な姿勢を示していた。「ヘア」が刑法一七五条に触れる場合もあるし、そうでない場合もあり、それは個別に判断するというものだ。
なんとも歯切れの悪い基準である。警察はいったいどこをみて基準を立てているのだろうか。ヘアヌードを掲載した雑誌は、一般書店やコンビニで、年齢制限なく購入できるのである。明らかに青少年にとって有害環境を作りだしているのだ。
九四年七月には、加納典明氏(五二)の作品を掲載した月刊ヌード雑誌「ザ・テンメイ」八月号が、わいせつ図画販売に当たる疑いがあるとして、警視庁保安課は出版元の「竹書房」に対して警告した。
高橋一平社長は「今後は十分注意する」という趣旨の始末書を書いたが、「三、四年でヌード写真の表現は大幅に解放され、読者の意識も進んでいる。しかも、この月刊誌の読者層は四〇歳から五〇歳代が多く、青少年への悪影響は考えにくい。健康的な写真をわいせつだと言われるのは心外だ」と、反省の色はうかがえない。青少年への悪影響を心配するのなら、一般書店、コンビニへの出荷を止めなくては筋が通らない。さらに何をもって健康的というのかはなはだ良識を疑う。一方、加納氏は「刺激的な仕事をしようと心がけてきた」と開き直る一方であった。
九四年十一月、「ベッピン」(英知出版)は「ヘア大爆発」との特集で三ページにわたってヘア写真を特集し、ヘアを男性が触ったりするものもあった。これに対し警視庁「描写が露骨で具体的」としてわいせつと判断。出版元の家宅捜査をして回収を手配した。この事件から、ヘアは見えても、触ってはだめという、何とも嘆かわしい「わいせつ基準」が現われた。
性表現の限界を更新しようとする出版社と退陣を強いられる警察。なぜ倫理的に問題あるものを放っておくのだろうか。このままでいくと、そのうち、性器、性交描写も一部なら構わなくなり、そして、最後はすべてOKとなるのも時間の問題だろう。
警察は公共の安全と秩序を維持するのなら、もっと広範囲な人々の意識に注目すべきである。読売新聞(九四年十一月五日付)の世論調査(有効回答数二〇二一人)で、ヘアヌードに対する調査が発表された。ヘアヌード写真を掲載した写真集や雑誌が増えている傾向について、「好ましくない」、「どちらかといえば好ましくない」という否定派が全体の六七%もいることが明らかになった。警察はこの多数の意見に目をつぶって、一部の利益集団を利する基準を示し続けていたのだ。
アメリカでは、性表現は特別な場所では完全に開放され、販売されている。だが、一般の書店では、「プレイボーイ」「ペントハウス」などの成人向け雑誌はレジの中に置くか、「十八歳以下の販売禁止」のコーナーに置いて、未成年に販売だけでなく、立ち読みもできいように注意するのが普通である。さらに、ヌード雑誌の広告は米国の新聞にはまったく掲載されない。万が一、青少年に害悪を与えるものが現われると、婦人団体、宗教団体から抗議の声があがり存続できない。これが米国の倫理が反映した社会通念である。社会の秩序を維持するためのチェック機能はいまだ健全といえよう。
日本は、これほどまでにヘアヌードが氾濫しても、誰も声をあげようとしない。何かがおかしいと感じても、行動に表わすことをしないのだ。一部の新興宗教団体が昨年十一月に大規模な反ヘアヌードデモを行なったが、目立った動きはそれくらいである。九〇年に全国の婦人グループや自治体で起こったポルノコミック追放運動の活気はどこへいっていまったのか。ポルノコミック以上の不健全な図書が子供の手の届くところに陳列してあるのだ。
■ヌード写真誌・米国では犯罪行為
これほどまでに「わいせつ物」が氾濫しきった日本だが、さすがに諸外国からは「異常」として見られていた。
ユナイテッド航空(米国)は、米国人の乗客から苦情を受け、日本の一部の週刊誌を置かなくなった。シンガポール航空も、本国の基準が厳しく、もともと堅い雑誌だけを積んでいる。また、「週刊ポスト」の記者が、取材に協力したアジアの知識人に掲載誌を送ったところ、「日本で一番売れている雑誌とは聞いたが、ポルノ雑誌に協力した覚えはない」と激怒された。
さらに、昨年九月、米国イリノイ州シカゴ郊外のアーリントンハイツにある書籍販売大手、旭屋の現地法人「米国旭屋」で、未成年のヌード写真が掲載されている雑誌を販売したとして、重罪に当たる「未成年ポルノ罪」の容疑で邦人店長(四七)が逮捕された。が、店長は雑誌の中身を知らなかったとして、比較的刑罰の軽いわいせつ罪が適用され、十二月、イリノイ州クック郡巡回裁判所は店長に罰金千ドルの支払い命令を下した。
邦人店長逮捕の際、警察は約五百点の雑誌、写真集を押収したが、そのうち五十点が十八歳以下の少女のヌード写真販売を禁じた州法に違反していた。中には十五歳の少女のヘアヌード写真集もあり、当局はヘアも性器の一部と判断した。同州では性行為を連想させるような未成年者の写真は児童ポルノとみなし、その販売を禁じている。同店では、日本で堂々と販売されている雑誌や写真集なので、違法なポルノを扱っていたという認識はなかったという。
この事件後、同店では未成年者のヌードが掲載された雑誌は撤去し、「週刊現代」、「週刊ポスト」などもすべてビニール袋に入れて販売するようにした。また、十八歳以下の未成年者は購入できないことを明示した貼り紙を提示した。
日本では誰もとがめない俗悪な販売行為が、米国では明確な違法行為だったのだ。まさに覚醒させられる思いがする。
米国での逮捕とその後の店の対応を配慮してか、九四年十一月、「週刊ポスト」は、「基本的にヘアヌード写真は載せない」(岡成憲道編集長)と路線変更を発表。「週刊現代」も「誌面内容は変えないが、ヘアという二文字の“断筆宣言”を近々誌上で行う」(元木昌彦編集長)と発表したが、今でもヘアヌード掲載は続けている。
この両誌はヘアヌードという害悪を社会にたれ流したことへの反省はなく、あくまで、諸外国の対応とヘアヌードブームだけでは売れなくなったための路線変更発表に過ぎない。
一方、今年一月二十四日、警視庁保安課は、竹書房や加納典明事務所をわいせつ図画販売容疑で家宅捜査し、二月十三日、わいせつ図画販売容疑で、加納典明氏と出版社「竹書房」社長、高橋一平氏ら三人を逮捕し、十五日、身柄送検した。東京地検は略式起訴、東京簡裁は罰金五十万円の命令を出した。問題となった月刊週刊誌「ザ・テンメイ」は四月号から臨時休刊することになった。ようやく、警察が重い腰をあげたという感じだ。
ものごとには善悪がある。それを決めるのは人々の良心だ。良心を基軸としない社会は必ず破綻する。昨今のヘアヌード氾濫は、どうみても見ても悪、邪であり、社会を淪落させる元凶である。「芸術性」、「表現の自由」をふりかざすのは、それを盾に、自分勝手な表現の権利を拡大しようとする詭弁以外のなにものでもない。表現の枠を広げれば、より淫らな強い刺激を提供できる。そして利益が転がり込むという構図だ。こうしたなりふり構わぬ利益至上主義は社会の害悪である。
第一、表現の自由は国家が個人の自由を保障するものであって、私人相互の関係に適用されるものではない。また、この自由は公共の福祉に反してはならない。出版社の「売れるものなら、何を販売してもよい」という身勝手な論理はこの原則に反するのだ。自由と放縦をすりかえ、民主主義を退歩させることは止め、もっと自重すべきである。
倫理的にもとる国家は世界の信頼を失う。不健全な国家としての汚名を挽回するため、一刻も早く「脱ヘアヌード宣言」をする日を待望する。
■性解放を助長する規範なき性教育
現代社会の病理は、倫理なき情報を提供するマスコミだけではなく、教育界にも侵入している。
平成四年、文部省の新学習指導要領の実施前後、マスコミが「性教育元年」と大々的に報道し、それに乗じて過激な性教育推進論者が、小学校から性交、性器教育を展開するため、副読本発行や講習会など全国で精力的に行動した。マスコミはその場面を取り上げ、性教育現場の最先端としてもてはやした。
その急先鋒は、山本直英氏(「人間と性」教育研究所所長)や高柳美知子氏(「人間と性」教育研究協議会代表幹事)である。両人が監修・執筆した性教育副読本からその教育の傾向がわかる。『ひとりで、ふたりで、みんなと』(東京書籍)は小学校向けのものだが、男女の性器を図で紹介し、それが結合しているものまでも載せている。通常の感覚を持ち合せていれば驚くのが普通だ。さらに、女子に対し、性器を「静かにさわってみましょう」「絵でよくわからない人は、自分で鏡でうつしてみるといいですね」と説明し、同副読本の教師用指導書では、コミュニケーションとしての性交、心や体を触れ合わせること、動物の交尾と同じものとして人間の性交等々を教えることを奨励し、規範の欠けた「性」観を広めようとしている。
また、中高生を対象とした性教育副読本の『おとなに近づく日々』(東京書籍)でも、性器が図入りで登場し、自慰や同性愛までも肯定的に扱い、「性」は自分のもの、いつ誰と性交をするかは自分で決めるように教えている。
さらに、山本氏はエイズ予防においてコンドーム使用徹底を強調している。「『コンドームに始まり、コンドームに終わる』というが性教育の王道」(『すくすく小学生』福武書店、92年9月号)、「コンドームの活用を強く訴えられないメッセージでは、全くエイズ予防には役に立たない」(『ヒューマン・セクシュアリティ』第10号)など「コンドームで全て解決」という言い方が目立つ。
山本直英氏の性教育講義に参加した女子学生(医学系専門学校生)は倫理的な感性が踏みにじられるようで絶えきれず教室を飛び出した。幼い小学生ならば、その影響は深刻だ。しかし、そういう指摘に対し「小学生は目を輝かせながら聞いていた」と反論するが、嫌悪感をもつ生徒・学生がいることは真実なのだ。
■コンドームから純潔運動へ
果たして、このような性教育が生徒に与える影響はどのようなものか。
まず、米誌『ファミリー・プランニング・パースペクティブ(第24巻1号)』(九二年)によれば、コンドームが外れたり、破損する割合は一五・一%で、二十歳以下の場合だと二〇%と報告している。さらに、エイズ感染防止におけるコンドームの失敗率は避妊よりも高い。その理由は次の三つだ。(1)妊娠は女性のみだがエイズウイルス感染は男女両方、(2)女性の妊娠可能な期間は年間六十日だが、ウイルス感染可能期間は365日、(3)ウイルスの大きさは精子の四百五十分の一で、コンドーム使用中に傷つけるなどして小さな穴があれば通過しやすい、とコンドーム使用には不安要因が付きまとう。実際、八七年の第三回エイズ国際会議でも、十八人のエイズ患者が、性交渉の場合コンドームを着用するように指示されていたにもかかわらず、十八カ月のうちに三人のパートナーが感染した例が報告された。
このようにコンドーム使用でエイズウイルスから身を守れる保証はどこにもないのである。
一方、コンドーム配布などのプログラムがもたらした弊害は多々報告されている。例えばテキサス州ダラス市の報告でも、コンドーム配布を実施している学校の方が、そうでない学校より生徒の妊娠率が一・四七倍高かった。
欧米では七〇年代から九〇年代まで、性器、性交、避妊の性教育が主流であったが、その結果、もたらしたものは十代少女の妊娠増加であり、エイズ及びSTD(性感染症)の蔓延、さらには、家庭崩壊、犯罪増加なのだ。
この社会問題を背景にして、九〇年代からは、精神面を重視した性教育、さらには純潔教育が見直されてきている。
例えば、ワシントンDCで実施している自己抑制教育として「ベスト・フレンズ」プログラムがある。恐怖心をあおるものではなく、様々な問題を引き起こす性交をしないで、十代の若者がどのようにして喜びを体験できるかを強調している。これを五百人の生徒(市街地と郊外)に受講させたのち、市街地の二つの学校で調査した結果、女子生徒が一人も性交渉をしていないことが分った。一方、このプログラムを実施しなかった二つの中学校の性交渉率は三七%であった。また、このプログラムに参加した九〇%の女子生徒は、愛と性の違いが分かったのに対し、参加しなかった中学校では二五%しか分からなかった。
その他、カリフォルニア州のセントマルコス統一学区で採用されている「ティーン・エイド」などが成功をおさめている。
この流れを隠蔽して、日本で古い欧米流性教育を展開しようとするのは、性のゆきすぎた開放をもたらし、社会に大きな傷跡を残すだけである。『ニューズウィーク日本版』(94年10月26日号)で「今や純潔がトレンド」を特集したように、アメリカの青少年の純潔を求めようとする性意識の変化が根底にあるといえるだろう。まだまだ全米で行われている性教育には、従来のコンドーム教育が多いが、それが明確な効果を表さず、エイズが爆発的な増加をみせる中、純潔教育が注目されはじめているのは事実である。
とかく現代社会は、氾濫する性商品、倫理に欠けたマスコミ、性教育問題にみられるように、善悪正邪が混在し、見分けにくい環境が蔓延している。大多数であるかのように見えるのは「悪」「邪」であるから厄介だ。こうした中で若者たちは翻弄されつつも、真実なものをつかもうと迷走している。
二十一世紀を前にして、米国の純潔運動のように、今までの問題を根本的に見直そうとする動きが出てきた。「善」と「正」の息吹きを感じる。それらが大きく成長することを切願する。