11月25日、早朝、ソ連兵の怒声で眠りから覚めると列車はすでに止まっており、 外はまだ暗かった。 貨車から出て、まず目に映ったのはナンと大きな原木の山と、それを覆う一面の 雪である、暖房のない貨車の中では寒いはずである。 下車してから子供のようなソ連兵に 「ダワイ!ポペアチ−−ヴィストリェ(早く5列に並べ、急げ!)」と追い立てら れるままに山奥へ向かって歩いた。 およそ20kmの道のりを雪に足を取られながら歩き、夕方薄暗くなって、彼方 にぽつんと明かりが見えた。 やっと着いたところが、これからの3ケ月の間に誰もが予想できないほどの多く の悲惨な犠牲者を出した「死のバラビリャンカ収容所」であった。 この収容所は、周囲に4〜5m位の高さに丸太を並べて立てた塀と、その内側と 外側にそれぞれ3m位の幅を置いて、高さ3m位の有刺鉄線を張り巡らした本格的 な収容所であった。 各建物は、板張りの2段の居住方式で以後何処の収容所でも同じであった。 窓は小さくて薄暗く、獄舎のような陰気なところで、各棟には裸電球とペチカが 一個ずつあるだけで、暗いために松脂を燃やして明かりを取った。 寝るときは寒いので服は着たままで、シューバー(防寒外套)を布団代わりに引 っかぶって足を縮めて寝た。 収容所の敷地広さは、100m×80m位で、その四隅には高さ5〜6mの監視 塔が置かれ、少年のような歩哨が24時間交替でわれわれを監視していた。 ロ助の宿舎は、収容所に隣接して建っていた。 この収容所は以前、ソ連の囚人が伐採をやっていた時の建物で、その跡へわれわ れを入れて同じ伐採作業をやらせたのである。 われわれがこの収容所へ着いたその日から抑留中、もっとも苦しい地獄のような 日々が始まったのである。 それはこの収容所での90日間の労働で62名もの戦友が射殺をされたり、過労 や栄養失調、或いは事故などで死亡した事実からも想像できる。 そのもっとも大きな原因は食糧事情の悪さによる栄養失調が第一で、次いでそん な状況下での過酷な重労働であった。 ソ連側のスタッフは、将校が、収容所長のニコライフ中尉(50歳位)とワーシ カ中尉、パーシカ少尉の3名と下士官はカンドバイ、ミーシカ、ニコライの3名で 、あとは子供のような歩哨が10名程であった。
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