3、バリソフカ収容所

 次に移された収容所は、ニュージンスキーからそれ程遠くないところにあって、 そこはバリソフカという村で7月28日に出発して、その日のうちにに着いた。 この収容所は、気候も暑くなってきたので、天幕生活であった。 入所したとき、“ここの生活は、仮設だから暑いうちだけで寒くなれば帰国でき るかもしれない という一縷の望みを持った。 収容所の前には、幅が5〜60m位の川があって、その河原に5〜6張りの六角 型テントが張られ、そこで生活した。炊事場もやはりテント張りであった。 ここでは通訳の真似ごとをして過ごした。 川には木造の仮設橋がかかっていて、その橋を毎日渡って作業に往き来した。 作業は、ニュージェンスキーと同じ道路補修と橋梁作業であったが、ノルマーも 軽く、割合楽な作業だった。 ここでも食べれる物は何でも食べた。特に収容所の前にかかっている仮設橋の橋 脚に川蟹が沢山いたので、捕って茹でて食べたがこれが大変旨かった。 ロ助は蟹を食べないというので、大物が沢山捕れて、結構腹の足しになった。 ある日、作業が少し遅れていたので手伝ってやろうと思い、斧で丸太の枝払いを やっていて怪我をしてしまった。 ロ助は、道具をとても大事にしており、斧は髭が刷れる位に刃が研いであって、 4〜5cmくらいの枝は一発で切り落とせるくらい鋭利であった。 私も、丸太に跨って(正しい姿勢は、丸太の上に両足を縦に揃えて乗せて行い、 跨ってはいけない)枝払いを手伝ったが、枝の付け根が2cmほど残ったので、切 り直そうとして、再度振り降ろした時、斧の刃が切り残し先に跳ね返って、右足の 脛に当たってしまったのである。 やった瞬間“しまった と思って見ると、巻き脚絆が切れてパラパラと落ちたが 、少しも痛くないので、表面の巻き脚絆だけが切れたものと思った。 ところがその下の軍跨(ズボン)も切れており、何処まで切れたんだろうとまく り上げて見ると、もう跨下が真っ赤に染まっているではないか。 途端“これはえらいことをしてしまった と思った。 恐る恐る跨下を上げて脛を見ると、傷口が5cmくらいの長さにパックリと開い て血が吹き出しており、傷の奥に白い骨が見えたので、何とか傷口を小さく閉ざし て、出血を止めようとして、傷口を手で閉じて手ぬぐいで縛ったが、見る見るうち に、手ぬぐいが真っ赤に染まってしまった。 それでも全く痛みを感じないので歩いて収容所へ帰ろうとしたが、右足に全然力 が入らないので、戦友の森田一等兵(敦賀出身で、太った明るく温厚な人)に支え られて天幕まで帰ったが、村上衛生兵も、薬は赤チンがあるだけで手の施しようが なく、それを傷口に垂らして手で押さえて包帯で縛っておくだけの処置であった。 その晩から傷口がズキズキと痛み出したので、紐で足を上のほうに吊って横にな ったが、3〜4日は痛くて眠ることができなかった。 それでも10日位でまた作業に出られるようになったが、薬もなく、消毒もでき なかったのに、化膿もせず、骨膜炎も起こさずによく治ったものだと思った。 結局、縫合出来なかった傷口は、大きく開いたままである。 この傷は復員してから、10年以上経っても冬になると、ズキズキと痛んだ。 今でもこの傷を見る度に、当時を想い、抑留時の勲章だと思っている。 この収容所は、仕事が楽だったので、暇な時間に亜鉛と鉛を溶かしてスプーンを 作ったり、木切れで箱を作ったりして過ごした。 私も、大工が本職という森田一等兵 に箱を作ってもらい。今でも思い出の 品として大事に持っている。 10月27日、突然、私達15名はウオ ロシロフ駅の構内にある自動車の清掃 に出された。 並んでいるアメリカ製のトラックを 洗ったり磨いたりしていたら、ロ助が 得意げに、 「日本にもこういう自動車はあるか」という ので、 「俺の家では全員が、乗用車を1台ず つ持っている」と、言ってやったら目を丸く していたのには、まさに愉快であった。 10月31日、その日も1日の作業が終わり、ベッドで休もうとしていたら、今から すぐにバリソフカの収容所へ帰るという。 理由を聞いてみたら“バリソフカの者と合流してダモイ(帰国)だ という。 それを聞いて取るものもとりあえず、急いで支度をして、夜中にトラックで出発し てバリソフカに帰着した。 11月1日、全員揃ってバリソフカを出発、ウオロシロフには、他所の収容所からも 大勢が来ておって、彼等と合流する。 11月4日、赤い貨車で、再びナホトカへ向かう。


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