6)バザールと少女

そのおかげで仕事の暇なときには、ミッシャに断ってよく町へ出かけた。 ビースクの町のバザール(市場)へ行く時には、いつも町を走っているトラッ クを利用したが、今になって思うに乗用車や路線バスなど一般市民の足となるよ うな乗り物を見た記憶がない。 町へ行く時には、そちらの方向へ走っているトラックに手を挙げてると、どの 車も気軽に止まってくれるので、荷台に飛び乗り、目的地まできて降りるときは 運転台の屋根をドンドンと叩くと、どこでも止まってくれる。 不定期便であるが、無料で誠に便利な交通機関である。 町中に店はあまりなかったが、レストラン等はあったように記憶している。 それでも人出は結構賑やかで、多くの若者達が用事もないのに2〜3人ずつ連 れだって、ぶらぶらと歩いていた。 その日も町へ出ての帰りに、一人の少女とトラックに乗り合わせた、ソ連の娘 は概して大柄でとてもませているが、彼女は15歳か16歳くらいの可愛い子で 荷台で声を掛けたら、人なつっこい笑顔で話に応じてきた。 その娘の家は、収容所から歩いて5分くらいのところにあるアパートに、母親 と2人で生活をしており、父親はドイツとの戦争で戦死、1人の兄も独ソ戦へ行 ったまま、まだ帰ってこないという。 収容所の前でトラックから降りて、話をしながら彼女をアパートまで送ってい き、帰ろうとしたら、是非、母親に逢っていけと誘われて部屋を訪れた。 2部屋のこぢんまりした家で、ガランとしていて調度品はあまり無かった。 娘が紹介してくれたお袋さんは、40〜45歳位であったろうか、娘に似て色 白で大柄な温厚そうな人であった。 娘から、私の年齢が21歳で日本人の捕虜であることを聞いたお袋さんは、収 容所の食事では腹も空くだろうと、早速彼女等にもゆとりのない配給の黒パンを 切って、ジャガイモを茹で、塩を振って、 「腹いっぱい食べよ」と出してくれた。 ちょうど、夕食前で腹が減っていたので遠慮なく頂いた。 お袋さんは、私が食べるのを目を細くして眺めながら、その間私達の収容所の 生活や待遇など、いろいろと聞くので、様子などを話すと、一々頷きながら真剣 な眼差しで、私の顔を覗き込むようにして聞いてくれた。 その目にキラリと光るものを見た。それは愛する亡き夫と行方の知れない息子 の姿を、私に重ねて思い浮かべていたのであろう。 民族は違っても、夫婦の愛、子への愛情は変わらないものだと思った。 その後も度々この家庭を訪ね、彼女等を慰めたり逆に慰められたり、日本とソ 連の違い、私の親兄弟や家庭の話などをして楽しい一時を過ごすことができた。 後日、ビースクから次のアルタイスカヤへ移動するとき、この母親から、 「娘と結婚してソ連に残ってほしい」と泣きつかれたが、私にも日本に両親が待 っているからと断った。 この頃のソ連では、独ソ戦で多くの男性が戦死したために、工場でも、街を歩 いていても女性が多く、男性の姿は余り見かけない状態だった。 (事実、この頃、戦前から満州にいて日本へ帰っても身よりの居ない者で、ソ 連の女性と結婚して残留した抑留者が多くいたのである)


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所長のマダムへ 石灰の横流し