6、紅密峰

  8月24日、夕方近くになってやっとある部落に入ったが、誰もが疲れ切っていたの でその場に崩れるように横になった。 そこは紅密峰といった。 暫くして、この小学校に宿営することになったが何よりもまず食事である。 それも長い間乾パンと水だけだったので、米の飯と味噌汁の食事がしたかった。 私は衛兵司令を命ぜられたので背負っていた荷物から米、乾燥味噌、乾燥野菜な どを出して野村一等兵に調理を頼んだ。 衛兵司令といっても銃も剣もない衛兵なんて、およそ格好が取れないが、それで も一応衛兵と名が付く以上は不寝番の真似ごとでもしなくてはならなかった。 紅密峰で不安な落ち着かない2日間を過ごした。 それでもカボチャを満人のところでもらってきて、焼いて塩をつけて食べたが、 ちょうど芋と栗の合の子のような味でとても旨かった。 また近所の民家で豆腐を買ってくる者もあって、食べること以外にはやることが なく、この2日間のお陰で体力を若干なりとも回復させることができた。 8月26日の午後、再び内地へ帰るという話で移動をすることになったが、またあの 辛い行軍を予想して十分な支度をした。 小学校を出て少し行くと紅密峰の駅に出た。そこには貨車が着いていてそれに乗 るように指示があった。歩かなくて済むなら貨車でも、リヤカーでもよかったので 嬉しかった。一車両に40〜50名ずつ詰め込まれたが、なかには「貨車なんかに 乗せやがって荷物と間違えていやがる」と、口では文句をいう者もいたが、結局全 員乗り込んだ。 私達は、ここで初めて間近にロシア人を見た。一人は将校でその後ろに猿のよう な顔をして、汚れた服を着た兵隊が自動小銃を首からぶらさげてついていた。 われわれはその2人のソ連人を珍しさと怒りの入り交じった目で見た。それでも 将校はこちらを向いてニッコリ笑って愛嬌を振りまいて通り過ぎていった。 われわれは、ソ連人を“ロ助 と呼んだが、ロシア人のことをロシア語で“ルゥ スキ− と言い、日本語の“ロスケ と発音がよく似ていたので、彼等に“ロ助 という言葉が聞こえると、「シト−?(何だ?)」と振り返った。 やがて列車は動き出したが、少し走っては止まって、なかなか進まなかった。


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