4、武装解除

 翌8月21日の早朝、初めてソ連の巨砲を搭載したT−34戦車(世界最強の7 6.2 砲を搭載)が地響きを立てて進入して来るのを見たとき、われわれはその 大きいのに驚いた。 日本軍では今までに見たこともない程の馬鹿でかい大砲を積み、馬鹿でかいキャ タビラを付けた戦車が、轟音を立てて何台も何台も続いて市内へ入ってきた。 明らかにわれわれに対する威嚇行為であり、デモンストレーションである。 軍隊当時、あんぱん(対戦車用爆弾)をキャタビラの下へ身を挺して入れて、破 壊する訓練をしたが、目の当たりにした戦車は、およそあんぱん等でぶっ飛ばせる ような代物ではないと思った。 その自走砲の前で、割腹自殺をした見習士官もいたという話も耳にした。 そのうちに武装解除の命令が出た。 “戦範令など軍に関する書類は全部焼却せよ とのことで、急いで貨車に戻った。 もう、あちらこちらに銃、剣、手榴弾などが積まれており、有りし日の軍隊で少 しでも傷を付ければ、頬が腫れるまでぶん殴られて、営倉問題にまでなった剣や銃 が無造作に投げられて山になっていった。 その脇では戦範令や操典が破られて日の丸の旗などと一緒に燃やされている。 私も操典類を焼き捨てた。 「これからどうなるか判らないので、できるだけ荷物を軽くして食料を持て」との 中隊長の話で、身の回りのものを整理した。 家を出るときに持ってきた寄せ書きの日の丸や進兄が中支から帰還したときに持 ち帰った、木綿糸のチョッキなど、愛着の有るものも涙ながらに焼き捨てた。 ただ、家族の写真3枚と渡満の折、両親が名古屋駅で渡してくれた千人針だけは 、苦境に立ったときに必ず心を慰めてくれるものと信じて雑嚢の隅にしまった。 内地なら未だしも、満州の地で明日のことも分からない状態におかれ、まさに落 ち込んだ気持ちになっていた。 整理を終え、そのどさくさに紛れて山と積まれた武器の中から拳銃と弾、手榴弾 を手にいれて、急いで大鉄指令部へ帰った。 そして将田、島崎候補生と3人準備を進めた。 ところが暫くして在満で満語の達者な島崎候補生の姿が見えなくなった。 考えてみれば当たり前のことで、満語の話せないわれわれを同行していては手足 纒といになるだけで、とても逃亡出来るわけがない。 折角、拳銃などを揃えたのに、こうなった以上将田候補生も私も満語が話せない ので、2人だけの逃亡は諦めざるを得なかった。 こうなれば成り行きに任せるしか仕方ないと思うと、われわれは気楽になった。 この頃には満語の話せる在満の兵隊のほとんどが、軍服を満鉄の作業服か背広に 着替えて民間人になり澄まして逃亡してしまった。田代上等兵もその一人である。 その頃の日本人の誰もが、このままこの辺に居れば必ずソ連の捕虜になるので、 今からすぐに南下すれば、ソ連軍に拘束されるまでには、朝鮮の南部まで逃げ伸び れるかもしれない、そうすれば何とか日本に帰る手段もできるだろうという見方を していたからである。 小柄なA見習士官は、5〜6人の初年兵とともに機関車に乗って南下していった が、その後の話で機関車は新京の付近で脱線したということであった。 こんな慌ただしい中で自決をする見習士官がいた。 われわれと同じように貨車の中で生活をしていた受川見習士官だ。 彼は日本が敗戦になってソ連軍が明日進駐してくるという8月20日、貨車の中 の兵隊を全員車外に出るように命令した後、自分独り車内に残って、内側から扉が 開かないようにして、 「この貨車に近付くな」と言うと、 「天皇陛下万歳!」を3回、大声で唱えると同時に大音響とともに爆発が起きた。 手榴弾を点火させて腹に押し当てての自爆であったが、これは全く、あっと言う 間の出来事であったと其の場に居合わせた戦友から聞いた。 この後すぐに現場へいってみたが貨車に無数の穴が空き、まだ貨車の床から鮮血 が流れ落ちていた。 そんな事件が続く中、将田候補生とともに大鉄指令部で、伝令として詰めていた が、用務は無く退屈な時間を持て余していた。 こうなれば慌てたところでどうしようもなく、開き直った気持ちになった。 二階の窓から中庭を見ると、空き地で他の部隊の者が大きな釜一杯に味噌汁を炊 いていたので、将田候補生と“当分、味噌汁も飲めんだろう と云うことで、頼ん で分けてもらった。容器がなかったので、水筒に味噌汁をいれてもらって飲んだ。 汁の実は大根の切り干しで、水筒の口から無理やりに入れ、食べるときに苦労して 箸で掻き出したことを今もはっきりと覚えている、実にうまかった。 また、大鉄指令部に居た女子事務員に頼んで、乾パンを油で揚げてもらい、砂糖 をくるめて食べたりして時間を費やしていた。 ハルビンの屯営を出発するときに貨車に満載してきた米、味噌、砂糖、乾パン、 缶詰等の食料品は誰も管理しておらず、誰でも取り放題、食べ放題であった。 缶詰などは開けて一口食べては、 「まずい」と捨てて、次の缶詰を開けて、また一口食べては捨てるという、勿体な いことをしていたが、この後すぐ抑留され満足に食べ物がなくて、栄養失調で死者 が続出する羽目になろうとは、神ならぬ身の知る由もなかったのである。 それでも今後の糧秣のことを考えて持てるだけ持ち、在満日本人にも欲しいだけ 与えた。間もなく通達がきて、鉄道第二十連隊の者は、貨車から全員吉林小学校に 集結させられたが、その頃には殆どの者が逃亡して、私のように満語の話せない者 が三分の一ぐらい残っていただけであった。 全員が集まったところで石原部隊長の訓示があった。 「わが日本軍は残念ではあるが、遂に敗れてしまった。戦えるだけ戦ったのだから 仕方ないが、何としても悔しいことである。 例え戦いに敗れても故国の土を踏むまで諸氏は団結し、協力し合って頑張らなく てはならない。これからは在隊当時以上の辛いことがあると思うが、親、妻、兄弟 達の待っている日本へ帰るまではどんなことでも我慢し耐え抜くように。 最後に在隊当時における諸氏の協力に深く感謝する」と結んだ。 校庭に並んだ兵隊達は、みんな首うなだれて部隊長の話を聞いた。 部隊長の話が終わって、ふと気が付くと、満人の叫び声、歌声が、そして汽車、 自動車の騒音がわれわれを包んでいた。 訓示も終わり移動準備をしていたら、幹部候補生教育隊の教官の森井少尉が腰の 軍刀もなく、肖然として歩いて来られた。 「森井少尉殿、いろいろとお世話になりました−」あとは言葉にならなかった。 いつも明朗だった教官も今日ばかりは元気がない。 「村井候補生、とうとう戦争も終わったなぁ、だがくよくよしたところでどう仕 様もない、元気を出すんだな、これからは予想出来ない苦労の連続に会うことと思 うが頑張って暮らせよ、どんなことがあっても日本へ帰らなくてはいかんからなぁ 」と、私の肩に手を置いて静かに云われた。


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