5、台城屯
その日の夕方になってどこからの命令か分からないが、直ちに台城屯の機甲部隊 まで移動せよという。 台城屯が何処なのか判らないまま、持てるだけのものを持って、吉林小学校を出 発したが、結局この行軍は、吉林から敦化迄のおよそ二百数十kmにも及ぶ気力の 限界に挑戦した行軍となった。 途中、道路の両側の商店の前には、満人が悠然と腕を組み、煙草をふかしながら 、嘲笑の目でわれわれを見ており、その頭上には新国民政府と思われる旗とソ連の 旗が交差して掲げられていた。 われわれは、背中に糧秣と被服等を入れた雑嚢や背嚢を背負って、その前を通り 過ぎた。 余りにも大きく変わった境遇と自らの姿の哀れさを感じて、黙々と歩いた。 その頃は、まだソ連軍の歩哨の姿はなかったのに、常に誰かに追われているよう な気がして、ただただ歩いた。 暑さがひどく、どれだけ歩いたか、いつの間にか市街地を離れ郊外へ出ていた。 そこの小さなコンクリートの橋の上でやっと小休止をとった。もう誰の水筒にも 水はなくなっていた。私も喉がカラカラに渇いて声も出ないくらいになっていた。 皆は小川へ降りていって、垢と埃で薄黒くなった略帽を、コップ代わりにして濁 った川の水を掬って何杯も何杯も飲んだ。口の中がちょっとジャリジャリしたが喉 に沁み透って本当にうまかった。 やっと人心地がついた。 その時は不衛生だとか汚いという観念は全然なかった。 そして次の行軍に備えて濁った水を水筒一杯に満した。 それからやっとその場へ横になる者、道の真ん中に腰を下ろして煙草を吸う者、 背嚢から乾パンを出して食べる者様々であった。 夜中の12時を過ぎていたと思うが、軍服が夜露でしっとりと濡れていた。 「集合、前へ!」の号令で、やおら起き上がって、また黙々と歩き始めた。 東の空がかすかに明るくなった頃、ちょっと小高いところに兵舎がずらりと並ん でいるところへ出た。 これが台城屯の機甲部隊と聞きホッとする。 直ちに各分隊ごとに内務班に入った、まだ新しい兵舎であったが、内務班には水 筒、略帽、食器などがあちらこちらに散らばっていた、この部隊もわれわれと同じ で、急な出動命令を受けて慌てて出発をしたのだろう。 内務班に入ってもなんだか落ち着かない、喉が渇いているためか腹は空いている のに食欲が全く無いのだ。 水筒の小川の濁った水はとっくに飲み干して無くなっていた。 そのうちに誰かが水を見つけたというので、皆に続いて私も水を求めて息もつか ずに飲んだ。 一晩中歩き続けた疲れが出て、軍靴を脱ぐ気力もなくそのままぐったりと横たわ り深い眠りに入ってしまった。 目を覚ますとすっかり夜は明けて、眩しい太陽の光が内務班に差し込んでいた。 身体の節々から足の先までひどく痛んだ。 顔を洗って腹が減っていたので乾パンをかじったが喉に通らないので水で流し込 んだ。 間もなく「全員集合」の命令が出たので、内務班に装具を置いたまま整列した。 小隊長より 「これから約1kmばかりのところにわれわれの被服、糧秣が来ているからそれを この兵舎まで運ぶ」と云うのである。 途中のなだらかな丘に潅木が茂って、麗らかないい天気であった。 貨物列車の着いていたところは、長く使用していない引込線のようで軌条が赤く 錆びていた。 何処から輸送されて来たものか知らないが、四両の貨車に米、塩、砂糖、煙草、 マッチ、被服等が満載してあった。 それを皆で肩や背中に担いで兵舎へ運んだ。 私は貨車の荷物を皆の肩や背中に載せてやっていたが、一通り終わると運搬する 兵隊も途切れたので、私達も汗を拭き煙草に火を付けて一休みしていると、 「タイジン、ヤンジロ(大人、煙草をくれ)」と汚い服というよりも、ボロを纏っ たような少年が手を出している、十歳位であっただろうか、火を付けたばかりの煙 草を呉れてやると旨そうに吸いはじめた。 余り旨そうに吸うので、極光を一箱やると大喜びで、何か大声で喋りながら走り 去っていった。 昼になったので見張りを残して兵舎にかえり、炊事当番の作った握り飯で腹を満 たした。 少し休んで再び貨車のところへいくと、そこには満人が貨車の回りに大勢押しか けていて、被服や食料品をくれと騒いでいた。 その中に先ほどの少年の姿があったが多分、私がやった煙草に味を占めて、皆を 連れてきたのだ。 おかげでそのために警備を厳重にしなければならなくなった。 夕方近くになって、尚運搬を続けていると伝令がきて、また移動だという、遅れ て置き去りにされると大変なので、貨車の荷物は其の場に放置したまま急いで兵舎 へ帰った。 兵舎の前にはすでに装具を背負った者の姿もあった。 どこへ移動するのか全く分からず、そんなときには決まっていろんな話が飛び出 すのである。 「ソ連がこの兵舎を使うので他の兵舎へ移るのだ」とか、「日本へ送還されるた めだ」とか、「ソ連へ捕虜として送られる」と−−−。 そんな話をしていると、Y中尉から「部隊長が云っていた」と前置きがあって、 「われわれはこれから徒歩でウラジオストクまで行き、そこから日本船に乗って日 本に帰る」、“歩いて−− というのは、現在鉄道が麻痺状態にあるためだという のだ。 その時は、信頼する部隊長の言葉であり、日本へ帰れるという気持ちが正常な判 断力を失っていたために皆は「これで何とか日本へ帰れる」と喜びあった。 今から思えば台城屯からウラジオストクまでは直線でも400km以上あるのに 到底歩ける訳がないのだが、その時は信用していたのである。 そのために長期にわたる行軍を考慮して極力糧秣を持った。 貨車から苦労して運んだ多くの物資は、ほとんどその場に放置してしまった。 木村、村松、清家の3上等兵は好きな酒を、2本も3本もぶらさげていた。 夕方、薄暗くなって台城屯の兵舎を再び出発した、どちらの方向に進んでいるの か、当面の目的地も分からず、先頭の者について歩く行軍が始まったのである。 昼間の貨車の横を通ったが、そこの物資はもう何ひとつ残っていなかった。 全てあの満人達に持ち去られてしまったのであろう。 それでもわれわれは日本へ帰れるという希望をもっていたので、始めのうちは明 るく笑い声も交えながら歩き続けたが、暫くすると話も途切れがちになってきた。 途中、雨が降り出した、満州は昼間の暑さとは反対に夜になると猛烈に冷え込ん でくるので、身体を濡らさないように背中に雨外套をかけている者もいる。 少しの雨でも道がぬかるんで滑り、足を取られて歩き辛く困難であった。 そのうちにますます雨が激しくなって、脛の中程までも埋まりながら歩いた。 坂道を越え、沼を渡り、鉄道線路に出たが、これが何という路線かは知らないし 知る必要も無く、ただ前の者に続いて遅れないように歩くだけであった。 台城屯を出て3〜4時間も経った頃には、笑い声も話し声も聞こえなくなって、 黙々と歩いた。そのうちに歩き疲れと荷物の重さが苦痛になってきて、まず一升瓶 を捨て、次いで被服を捨て、終いには食料品まで捨ててしまう有り様である。 2〜3時間置きに小休止があったが、わずか10分間位の休憩時間にも、軌条( レ−ル)を枕にして朽ち木が倒れるように、ドサッと装具を背負ったまま、濡れた バラスの上に引っくり返った。 疲れ切っていて装具を外す労力と時間が惜しいのと、一度降ろすと再び背負う気 力が無かったからである。 隣に寝ころがっている同期の上野候補生は、 「なぁ、村井候補生、ウラジオストクも余りあてにならんなぁ、俺はもう歩くのが 嫌になったよ」と力なく言った。 私も、ウラジオトクまで歩くというようなことは難しいと思っていたが、その頃 の慌ただしい周辺の環境が、正常な思考力を失わせて、冷静な判断もできない状態 になっていたので、 「今更どうしようもない、何とか頑張って歩こう」と、励ました。 雨の降る暗闇に煙草の火が、あちこちに螢火のように光っていた。 前方から「出発!」と逓伝してくる、私も後方に向かって「出発!」と伝えて立 ち上がった。 ちょっとの休憩でも、立ち上がるときには足腰が痛く、歩き慣れるまでは一苦労 であった。 そしてわれわれは再び線路の両側を2列になって黙々と歩き続けた。 最後尾には、福士曹長(北海道出身)、久保軍曹(新潟出身)がいて落伍者のな いように見張っていたが、さすが長いこと軍隊で鍛えられてきただけあって余り疲 れた様子も見せていなかった。 道なき道や線路を歩き続け、ぬかるみに足を取られ靴の中まですっかり濡れてい たので、足が蒸れてしまってとても歩き難く、中にはマメが出来たために靴を脱い で肩や腰にぶらさげて、素足で歩いている者もいたが、やはり最初にバテ出したの は初年兵であった。 疲れ果てて蹲る者も出たが、お互い声をかけ合って歩き続けた。 それは皆から遅れることが、生死の分かれ目になるからである。土地勘も地理も方向も判らない満州の荒野で、もし1人ぼっちになったが最後で 、飢えた満人の襲撃を受けて身ぐるみ剥がされて殺されるか、力尽きて野たれ死に するかのどちらかである。 しかし体力の限界を越え力尽きた者は、段々と隊列から遅れ、ついには合流する ことが出来なくなってしまうのである。 3 彼等を助けようにも、自分自身も同じ様な体力の極限にあるために、どうするこ ともできず、だから誰もが歯を食い縛って隊列に付いていったのである。 そのうちに段々と夜も明け東の空が白々としてきた。 よく見ると隊列は物凄く長くなっており、先頭を歩いているのは石原部隊長であ るが後尾はどこか分からない程長くなっていた。 先頭が名も判らない駅のところで止まっていて、あちらこちらに疲れ果てた兵隊 たちがごろごろと死んだように横たわっていた。 その駅は小さい駅であったが売店も便所も付いていた。 駅と並行して大きな河が流れていて、われわれは昨夜から一晩中その河と並行し て歩いていたらしいのだが暗くて判らなかったのだ。 その河には立派な鉄橋が架かっていたが、この橋も日本人の手で架けられたんだ な、と思いながらそこで食事を摂った。また乾パンと水である。 そのうちに最後尾の福士曹長達の一行が到着した。 その駅の周辺で3〜40分の長い休憩を取って再び出発した。 その駅の裏手の山の麓に沿って坂道を少し上がり小高い所に出た。 下を眺めると川が流れていて、すでに先頭の石原部隊長が長靴を手にぶらさげて ザブザブと浅瀬を渡っているので、われわれも後に続いた。靴の中まで汚れていた ので、洗いがてら巻脚絆を解いて靴を脱ぎ水に入った。冷たくて気持ちは良かった が、行軍で足を冷やすと後で疲れが出るので40m位の川を急いで渡った。 先ほどの休息で皆は相当生気を取り戻していたが、3〜4kmも歩かないうちに 再び無言の行軍となった。 護身用にと持ってきた拳銃や手榴弾の入った雑嚢が重く、時々上へ押しやりなが ら、その日もまた一日中黙々と歩き続けた。 体力的には完全に参っていたが、ただ“どんなことがあっても何とか日本へ帰り たい という気持ちが歩かせていた。 途中、部落はないと思ったが、疲れ果てて周囲に気を配る力も考える力も無く、 半ば放心状態で下を向いて黙々と歩いていたので、気付かなかったのだろう。 その日も太陽が容赦なく照りつけ、汗は背中を通して荷物までぐっしょりと濡ら して服は埃と汗で黒ずみ塩を吹き、誰の顔も日焼けして黒くなって白いのは歯と目 だけであった。 昼間は暑く、夜になっても歩いているうちはまだいいが休憩すると汗が冷えて寒 くてなるので、ただ歩く機械となったように歩き続けた。 そして歩きながら寝た。 寝るといっても完全に熟睡するわけではないが、目は瞑って時々うっすら開ける 程度で、足は勝手に歩き、聴覚だけがわずかに働いているのである。 それでも凹みに足を取られてハッと目を覚ましたりするうちはいいが、うっかり 寝過ぎて、隊伍から外れたら最後、そこには死が待っているのである。 今、70年のわが人生を振り返って見て、これ程にまで体力の限界と、精神力の 極限に挑んだ経験をしたことはない。
| ホームへ戻ります | 目次へ戻ります | ||
| 武装解除へ | 紅密蜂へ |