16)下 山
昭和21年(1946年)2月のある日、カンドバイがやってきて例の調子
で、「ムライ、近いうちにダモイ(帰国)だ!」という。 しかしわれわれは過去に何回となく同じ言葉で瞞されているので“又か
と、 信用できなかったが、それでも一縷の望みを抱いてパーシカ中尉に聞いたら、
「ここの仕事(伐採)は冬の間だけだから、これで終わって次の収容所へ移る
事になった」とのこと、やはり今度も駄目であった。 だが、何処へ行くのか知らないが、それがどんな処であろうとこの収容所から
出られることは嬉しかった。 そして2月23日に下山することが決まった。 その日は朝からラーゲルの掃除を済ませてから、パーシカ小尉の了解を得て、
私は出発までの僅かな時間を、この地に眠り再び会えないであろう戦友達に、永
遠のお別れをするために日本人墓地へ行った。 墓地は、雪で真っ白に覆われた、なだらかな白樺林の丘の上にあって、よく見
るとやはりあちらこちらに、埋め切れなかった手や足が露出していた。 なんとも悲しい場景である。
この山の中で悲運にも命を落として埋められた者も、体力の限界の中でその穴
を掘って埋めた者も同じ釜の飯を食べた仲間であり、お互いが生きるか死ぬか紙
一重の環境の中で辿ってきた悲しい現実の姿であった。 われわれがバラビリャンカを去ったあとは、多分、誰からも忘れ去られてしま
うであろう彼等を思うとき、吐けぐちのない悲しさと、やりきれない想いで胸が
一杯になった。 冥福を祈り、出発に遅れないように急いで収容所に戻ったが、あの時の地獄絵
のような様子が今も瞼に焼きついている。 午後、カンドバイとワンパが、いつものように棒切れを振り回しながらやって
きて、彼等の口癖になっている、 「ダワイ、ビストリー!(早く、急げ!)」の怒鳴り声に急かされて、ポペアチ
(5列横隊)に並んで点呼をうけ、出発することになった。 そして多くの戦友を失い、ひもじくて、悲しくて、辛い思い出ばかりの3ケ月
を過ごした“死のバラビリャンカ収容所 を後に下山した。 そんなに嫌な村であったが、いざ去るとなると、生死をさまよったこの収容所
での数々の出来事への思いと、亡くなった多くの戦友を永久に置き去りにするこ
とへの心の苛惜のため、後ろ髪を引かれる思いであった。 まだ積雪が深く、上野候補生や近藤伍長達の病人は他の荷物などと一緒に、馬
橇に乗せられて出発をしたが、橇は丸太を組み合わせて作った頑丈な作りの為に
クッションが無く、その上橇の轍に、はまりこんで大きく揺れるので、かえって
病人には辛いのではないかと心配した。 去年の11月に戦友500名とともに、不安一杯の気持ちで登ってきた同じ道
を、62名の帰らざる戦友を残して、全員が栄養失調の身体でのろのろと足元も
不確かに、倒れては起き、雪にまみれながら駅へ出る迄カンドバイ達の罵声と鞭
の音に急かされながら歩く20kmの道乗りは、バラビリャンカの悲劇をしめく
くるような、厳しくもまた苦しいものであった。 とっぷりと日の暮れた頃、やっと駅にたどり着き、列車に乗ったとき、訳の分
らない安堵感を覚えた。 そして列車は間もなく出発した。
| ホームへ戻ります | 目次へ戻ります | ||
| 便所へ | ビースク収容所 |