4、幹部候補生

 昭和20年1月6日、幹部候補生採用試験を受験。 1月28日、第1期の検閲が行われる。 3月16日、初年兵の平原 豪、小田切甲子男、野村慎一、木下喜三、小林彦雄、 荻野重男達が私の内務班に入ってきた。 4月1日、幹部候補生の採用発表あり、何とか合格し同日付けで座金付きの上等兵に 進級する。 今年からわれわれ第13期幹部候補生の教育はハルビンで受けることになった。 去年までは、千葉の津田沼で行われていたが、この頃から戦況が悪化して、朝鮮 海峡の船舶輸送が危険な状態になってきたので、今年から満州で行われる様になっ て、内地へ帰って教育を受ける夢は消えてしまったのである。 内務班では古参の兵隊からはことある毎に“どうせ直ぐに将校になるんだろうか ら と、嫌味たっぷりにいびられたものである。 5月1日付で兵長に進級。 この頃から原隊は内地防衛のために本土への移動が始まり、時期を同じくしてそ の人員補充に在満の各部隊よりの編入者が多くなった。 5月始め、われわれ候補生100余名は、「緑演習」(安東、新義州間の鴨緑江 第2橋梁架設)に参加、安東へ行く。 途中、新京に寄って、久しぶりに解放感に浸る。 この演習から帰ってすぐ後に鉄道第二連隊は、九州の川内へ転出したが、3次補 充要員と一部の者は残留した。 残った者は、5月3日付けで鉄道第二連隊の転出した兵舎跡に編成された鉄道第 二十連隊(満州第4352部隊)に転属した、連隊長は石原中佐であった。 続いて、5月28日から8月6日にかけて「松演習」に参加した。 「松演習」は、霍黒線(かっこくせん)(満州北辺の町、黒河の南にある山神府から分岐し て漱江(のんじゃん)に至る軍用鉄道)200kmの撤収演習という名のもとに行われ、 隊長は井上見習士官で、私は分隊長を務めた。 われわれは緑神駅に駐屯したが、内務班は列車の中に置かれそこで生活をした。 ここに着いたその日に衛兵勤務をさせられたが、日中はともかく夜の勤務は嫌だ った。それは夜中になると狼が炊事場の残飯をあさりにくるのである。 遠くに近くに狼の鳴き声が聞こえ、近くでガサッという物音がする度に肝が縮み 上がる思いであった。 6月1日、この演習に参加して間もなく、幹部候補生の甲種、乙種の官別試験の発表 があって、禄に勉強もしなかったのに末席ながらまたまた甲種幹部候補生に合格し てしまったのである。 即日、伍長に進級する。 この日付で甲種幹部候補生は鉄道第二十連隊(満州第4352部隊)に転属にな って関川候補生達と別れて原隊へ帰る。 7月1日、われわれが入隊した大陸鉄道幹部教育隊(満州第34109部隊)は、鉄 道二十連隊の営内に置かれて、兵舎もわれわれが初年兵で入隊し時と同じ材料廠の 建物であったので何となく懐かしい思いがした。 この兵舎には下士官教育隊も同居した。 そして甲種幹部候補生の教育が始まった。 中隊長は半田少佐で、教官は仲少尉と森井少尉である。 教育は厳しかったが、この頃の外出は楽しかった。衛門を出て、まず満人の馬車 でハルビンのキタイスカヤ街へ直行するのだが、小遣いのあるときには軍人休憩所 で酒をのみ、ハルビン会館で映画を見たりしたが、金の無いときは松花江(スンガ リ−)の河畔を散策したり、ハルビン神社を参拝して帰営したものだ。 7月の半ばの日曜日に外出をした時のことである。 (結果的に、この外出がハルビンでの最後の外出になった) 将田、長谷川候補生達と一緒にハルビンの町を散歩していると、向こうから憲兵 が近付いてきたが肩章が古びていて良く判らなかった。星が3つ光っていたので上 等兵だと思って、敬礼をせずにすれ違おうとしたとき、雷が落ちてきた。 「お前達は、何処の部隊の候補生だ!上官に対する敬礼を知らんのか!官姓名を 名乗れ。!」と怒鳴られた、よくよく肩章を見ると3つ星の下によれよれの金筋が 一本通っている、曹長である。 当然、道路の真ん中で散々絞られ、その揚げ句に教育隊に連絡するというので、 平謝りに謝って何とか許してもらったが、その日は一日中気分が悪かった。 ところが、この日はまだ悪いことが続いた。 帰営して、その日も一日が終わって、消灯ラッパで眠りについて暫くしたときに 、突然火災呼集がかかった。ラッパと衛兵の連打する鐘に眠気眼をこすりながら営 庭のほうを見ると、炎で窓が真っ赤に染まっているのである。 よく休日に行われるいつもの訓練だと思っていたが、本物の火事であった。 急いで装備を整えて営庭へ出てみると、火事は教育隊の向かい側にある“組立て 整備工場(機関庫) である。 機関庫は、機関車や百式鉄道牽引車の車庫兼修理工場になっていた。 ハルビンから消防車が何台も何台も駆けつけてきたが、火勢が強くて手のつけよ うもない。 工場の中には、百式鉄道牽引車や機関車が何台も格納されているので、それらを 外へ引き出すのに全員でかかったが、何しろ火勢が強いのと、重量物ばかりでなか なかはかどらず、多くの車両や機器が搬出できずに焼けてしまった。 そのうちに工場の中にある油のドラム缶などの可燃物に火が入り、次々に爆発し て夜空に向けて大きな火柱が立った。 こうなると消火どころか、近付く事もできずに、ただ眺めているだけであった。 煉瓦建て工場の鉄の窓枠や、窓硝子が飴のように溶け落ちて、明け方近くまで燃 え続け、下火になってからも、焼けた煉瓦の残温で当分は近付くことができなかっ た程であった。 その頃は、すでに戦況が悪くなっていたので、スパイによる放火ではないかとの 噂もあったが、本当のことは判らない。 その後、数日は後片付けの使役が続いた。 8月1日、軍曹に進級。 2個小隊の教育隊の訓練は厳しかったが、ある日、架橋演習の途中で、仲少尉が 全員を集めて、 「今次大戦は、或いは日本が敗れるかも知れない」との旨の話をされたが、われわ れは肯定も否定もできないその頃の戦況を感じていた。 8月8日の未明、南門営兵所の非常呼集の鐘が連打されて叩き起こされた。 眠い目をこすりながらも、素早く装備を整え、完全軍装て営庭へ出たところ、飛 行機の爆音が聞こえた。 暗闇の空に照明弾が数発、連隊を昼間のように明るく照らしていた。 最初、アメリカ空軍による空襲かと思ったが、照らし出されて目に入ったのは、 ソ連のマ−クを付けた飛行機が4機、それも旧式の複葉機である。 その飛行機が、ゆっくりと屯営の上空を飛んでいるのである。 当時、ソ連とは不可侵条約が結ばれていたので、ソ連と戦争に入るとは思っても いなかったが、ソ連機の飛来で嫌な予感がした。 ソ連機が連隊の上空を旋回している間、われわれはただ照明弾の明かりに照らさ れてのんびりと飛んでいる飛行機を口を開けて眺めていただけであった。 ソ連機が、何の目的でハルビンの我が鉄道隊の上空に飛来してきたのか判らない が、低空をゆっくりと旋回し、そのうちに北の空に去っていった。 この頃、“内地がアメリカ軍の特殊爆弾の猛爆(当時、われわれはそれが原子爆 弾であるとは知らなかった)によって、焼け野が原になった との情報も入ってき た。 戦況は明らかに不利な様相を呈してきていた。 そんな中でまんじりともせずに不安な一夜を過ごす。





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