3、舞鶴港
11月21日、早朝、船が揺れなくなったので、私は甲板に上がってみた。 まだ薄暗くてよく見えないが、かすかに陸が見えた、その時誰かが、
「オーイ 日本だ、日本だゾー」と叫んだ。 その声がこだまのように広がって、瞬く間に全員が、甲板に集まってきた。
そのうちに段々と夜が白んで明るくなってくると、朝靄がうっすらと靡びくなか
に、舞鶴港の入江の両側の緑が目に沁みる。 その小高い山の緑の中に、日の丸の旗が鮮やかに見えた。そしてその旗の近くで
年老いたご夫婦が畑を耕しており、ちょうど一幅の絵を見ているようで、忘れてい
た平和をしみじみと感じ、“これでやっと日本へ帰れたんだ と思った。 そんな中、滑るように船は港に入っていった。
甲板の兵隊たちは、誰ひとり声を出す者はいなかった。 船は減速して波の音も聞こえず、その静けさの中で私は待ち焦がれた日本を今、
目の前にしてその感慨に浸っていた。 そのうちに堪え切れずに、あちらこちらから嗚咽が漏れ始めた。
私も泣いた。 入港してもすぐには下船できず(検疫の関係)船の中で一日を過ごした。
11月22日、待望の下船許可が出て、日本の土を踏んだ。 われわれが入った宿舎は、戦時中、海兵団が使っていた建物で、それを改造した
ものであった。 早速入浴である。 素っ裸になって着ていた衣服を消毒に出し(入浴中に滅菌消毒を行った)、まず
手拭いと石鹸が支給されて、それを頭の上に乗せ、消毒液の満たしてある細長い槽
の中を通ってから浴室のある部屋に入った。 ここで初めて石鹸を使い日本式の風呂にどっぷりとつかった。
まさに気分は最高。 風呂を出て、支給された真新しい褌をしめ、消毒された衣服をまとい、畳の敷い
てある部屋へ入れられた、何年振りかで畳の上に寝っころがって、おもいっきり手
足を伸ばして畳の匂いを満喫した。 そして“俺は日本に帰ったんだ という実感を心の底から味わった。
11月23日、米軍(日系2世)による、在ソ中の調査や書類の作成が行われた。
宿舎には、日本各地の空襲等による被爆状況が、詳しく展示してある資料室があ
ったので、早速、故郷半田の被災地図を見にいった。 そこには中島航空機製作所への猛爆で半田市の大半が焼け野原となっていた。
さらに私の家は濃尾地震での倒壊地域にも入っていたので、家族の安否を案じる
とともに、帰ったら早速今後の生活を考えなければ、と覚悟をした。 係の人から、全国から復員者宛の郵便物がこの宿舎に留置になっているというの
で、見に行ったら母と平井の伯母からの手紙があった。 満州で現役入隊した兄の明あての手紙がまだそのままになっていたので、兄貴は
まだ帰還していないことを知った。 母からの手紙を見ると“家も家族も皆無事で、元気に過ごしている
とあり、大 いに安心すると同時に、展示資料や地図等の不正確さにいささか不信感をもった。
11月24日、昨日に続いてアメリカ軍による在ソの様子などの調査があったが、同
じことを何度も聞かれたような気がした。 家へ電報を打つ、 “ゲ ンキ27ヒアサハンダ
ツクヨテイ、ツトム (実際は26日に帰った) 11月25日、今日は調査もなく、帰郷のための手続きだけで、糧秣少々と300円
を受け取り帰郷の準備をする。 支給された300円という金額は、戦前の金銭価値しか分からないわれわれには
大金であった。 こんなにもらって、その使い道を心配したが、翌日列車に乗るため駅へ向かう途
中、露天商が皿に3個か4個の林檎を盛ったものに、300円の値札がついていた
のを見た途端、金銭感覚のずれの大きさを感じた。
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