12)埋 葬

  それでも死亡者は毎日のように出た、死んだ者は衣類を総て脱がされ丸裸にさ れて慰霊室に入れられた。 慰霊室は半地下式で、入り口は頭を下げないと出入りができないくらいの低さ で、荒削りの板の扉があり、地面を1m位掘り下げた上に土饅頭のような屋根が あって、床には遺体を置くところだけに板が敷いてあった。 遺体は板の上へ安置されたが、厳しい寒さのためにすぐカンカンに凍り付いて しまうのである。 ところが、この遺体の手や足の指、時には目玉までが何物かに噛じられている ことがあった。多分ねずみの仕業だろうと推測していたが、正体を見たことはな く、酷寒の中、何処に生息しているのか不思議であった。 こんな地獄絵のような有り様は、今思い出してもゾッとするが、まして遺族の 方々には見せられるものではない。 失礼な例えで申し訳ないが、今でもテレビで冷凍マグロを見るとき、何となく 当時の嫌な思いを想起することがある。 だが、人は環境に慣らされるのか、順応してしまうのか、この頃は死人を扱う のにも慣れてしまって、夜中に遺体の数を調べるために一人で、なんのためらい もなく慰霊室へ出入りしたが、死者に対する感覚が狂っていたようで遺体を1つ の物としてしか扱わなくなっていた。 この遺体が5〜6体たまると、馬橇に乗せて無縁墓地まで運んで埋葬した。 この日本人墓地は、白樺林のある小高い丘の上にあった。 この凍りついた遺体を橇に積んで縄を掛け、収容所から2〜3km離れた丘陵 地まで運ぶ間に雪道が凸凹のために、縄が緩んで遺体が転げ落ち、慌てて乗せ直 すことも度々であった。 苦労したのが埋葬のための穴掘りである。 厳しい寒気のために地面はカンカンに凍りついて、ショベルは全く受け付けな いのでバールや斧を使って地面をはつるのだが、凍土が石の様に堅く跳ね返るた め、手に響き道具をしっかりと持つことができず、なかなか捗らず、ロ助の歩哨 には怒鳴られるので、誰もが嫌った。 このように土を一片一片削りながら穴にする作業のため、2〜3人で一生懸命 に掘っても一日がかりで1人分の穴を掘ることがやっとで、棺のような長方形に 掘る余力はなく、何とか人が入るぎりぎりの大きさにしか掘れなかった。 そのため浅くて小さな穴に無理やり遺体を押し込んで、その上から凍った小石 のような土を掛けるだけで、十分に埋めることはできなかった。 それでも遺体の数だけ掘らなくては帰ることができないので、歩哨の監視のも と夜遅くまで掘らされた。 それぞれの墓標は、長さ1m位の細い丸太に小さな板切れを十字型に打ち付け たもので、板切れには“何分の何 と数字が書き込んであるだけのものだった。 分母の数字は時々変わったが、分子の数字は一連番号であったように思った。 埋葬した後、明日は我が身かも−−と思いつつ遺体の上にその杭を置いた。 このようにソ連の名も知れない山奥の丘に埋葬されているのに、故国の家族は 何も知らずに、まだ元気でいるものと信じて、その帰りを待ち侘びていることと 思うと、心が痛んだ。 新潟の新井さんという年配の上等兵もこのバラビリャンカの丘に眠っている。 この地で亡くなった62名の戦友も、そのほとんどが出身県と名前だけしか分 からずに忘れられていったのである。 当時、私は書記としてこれらの人に関係していた責務上、この地で逝った戦友 の名前と出身県を出来るかぎり記録に残して、若し自分が生きて帰った時に、何 とか遺族の方々へお知らせしようと思い、メモを大切に持っていたのだが、その メモもナホトカ集結時の検査でソ連側に取り上げられてしまい、未だにこのこと が、年月を経るほどに、大きく心のしこりとなって残り今日に至っている。 この収容所に一つの井戸があった。 炊事場の横にあって日本の田舎にもあるような地上に1m位の四角の木枠で囲 われたもので、深さはそれほど深くはなかった。 綱の付いた桶で汲み上げるのであるが、汲み上げる度にその水がこぼれて木 枠の周囲に凍り着いて、汲み上げ口がやっと桶の通るぐらいしか開いておらず 足場も滑るので井戸水を汲み上げるのはとても危険であった。 そのために時々使役が出て、斧でこの氷を取り除いたが数日もするとまた使 役を出さねばならず、水は誠に貴重であった。 その頃、寒くて疲れていたので顔を洗う者はほとんど居なかった。 だが、夜の明かりは松脂のしっかり沁みている木を裂いて燃やしていたので 、誰の顔もその煤で真っ黒になって見分けがつかないくらいであった。 私は、毎日ソ連との交渉があったので一応顔を洗っていた、しかし水が少な いので飯盒の蓋に一杯の水(コップ1杯程度)で顔を洗うことを覚えた。 歯を磨いたかどうかよく覚えていないが、まず一口の水を口に含み、その水 を徐々に吐き出すと同時に手で受けて顔を洗うのである、だからコップ一杯の 水があれば充分顔を洗うことが出来たのである。 しかし、今から思えば余り綺麗な方法ではないが、当時としては十分にそれ で用を足していたのである。


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