1、満州領
9月22日に移動命令が出て、近くの沙河沿まで歩き、そこで 初めて1,000名単位の
抑留者大隊に編成され、第234大隊と呼ばれるようになった。 9月23日、再び列車に乗せられて出発をしたが行き先は依然不明であり、沙河沿を
出た列車は、やがて懐しい哈爾浜(ハルビン)に着いた。 屯営を慌ただしく出発して以来すでに1ケ月半が経っていた。
列車の中ではいろんなデマが飛び交った。 “いよいよウラジオ回りで日本へ送還される
とか“ソ連で終身労働だ とか“ ソ連では、独ソ戰で男が戦死して足りないのでロ助の女と強制結婚させられて一生
帰れない とか“去勢させられて死ぬまで働かされる 等々、いずれも根拠がない
にもかかわらず真実性をもって、誠しやかに囁かれた。 何かに頼ろうと“こっくりさん
の占いが盛んに行われたのもこの時である。 そんな噂よりもまず生きんがための食べ物捜しが優先した。
その頃はソ連軍からの食料の支給は、全く無かったので、各自が調達することに
必死であった。 列車のところまで満人が煙草、マントウ、油菓子(ユ−ピン)や蒸しパンなどを
持ち切れない程、篭にいれて売りにくるのである。 その頃はまだ若干のお金や物をもっていたので、買ったり交換などして食べ物を
入手することができた。 私も故障していて時々止まる精工舎の腕時計を食べ物と交換したが、この時母が
名古屋駅を通過のときに届けてくれた千人針の腹巻きも交換しようと、腹から外し
たところ、芯がごわごわしているのに気付き何だろうと糸を解いてみたら、中から
油紙に包んだ100円紙幣が出てきたのである。 “若しもの時に と縫い込んでおいてくれた母の一念が通じたのであろう。
その時の100円は本当にありがたかった。 その頃の100円は大金で、幹部候補生のとき1ケ月14〜15円の手当だった
と記憶している。 (復員して母にこの時のことを話したら“お前が気が付かないのではないかと心
配をしていたが、役に立ってよかった と喜んでくれた) 母の思いやりに心から感謝した、だがこの100円も瞬く間に戦友と私の胃袋に
収まってしまったが、千人針の腹巻きだけは売らずに済んだ。 列車は見慣れたハルビン駅に約1週間停まっていた。
満州の鉄道も終戦後、ソ連の進駐によって短期間に軌間(レールの幅)が、満鉄
の1.435mからソ連の1.524mに改修されて、ハルビン以北はシベリア鉄道に直結さ
れたのである。 われわれはここで客車から降ろされて、ソ連の大型機関車に連結された一回り大
きな貨車(両側を上下2段に板で仕切った2階建で、中央にスト−ブが置かれて、
1両当り50人)に乗り替えさせられた時、この設備では長距離輸送になるなと思
った。 そんな思いには関係なく、列車は再び出発した。 私達の貨車の班長は、久保軍曹(新潟県出身)で、とても物静かな人であった。
扉は外から鍵をかけられて、自由に開けることができず、大小便は貨車の片隅の
床に切ってある穴から用を足したが、その臭気にも数日で慣れてしまった。 皆は“さらばハルビンよ、また来るまでは−−
と大声で合唱した。 満州を走っている間は、その地方に詳しい者もいて、「ここは斉斉哈爾(チチハ
ル)だ」とか、「ここは海拉爾(ハイラル)だ」とか教えてくれた。 それでもまだ、昼は太陽、夜は星を仰いで、列車の進行方向に、一喜一憂し、ウ
ラジラオストク経由日本へ帰る僅かな望みを抱いていたが、その希望も段々と無く
なってきた。 途中、貨車の隙間から外を覗くと、満蒙開拓団の人達であろう、日の丸を振って
いる日本人達が目に入ったが、その後あの人達はどうなったのだろうか。
| ホームに戻ります | 目次に戻ります | ||
| 敦化へ | ソ連領へ |