5、ナホトカへ
昭和22年(1947年)4月24日に出発が決まった。 いよいよ“ダモイ(帰国)だ
、ロ助の誰に聞いても皆“ダモイだ という。 今度こそ間違いないと、みんなは小躍りして喜んだ。
私もパン屋のバーブチカ、看護婦のマーシャなど親しかった多くのロ助たちと別
れて、9ケ月を過ごしたアルタイスクを出発、ナホトカへ向かった。 昭和20年10月、抑留者としてシベリア鉄道を、暗澹たる気持ちで送られてき
が、今は逆にわくわくしながら故国日本に向かっている。これでもう労働からも解
放されるし、奴隷のように“ダバイ!、ヴィストリー! で、追い立てられること
も無くなるのだ。 今、その時を振り返って、アルタイスク収容所から乗車した駅までどのくらいの
距離を歩いたのか、輸送中の列車の中で何があったのか、また車中で何を食べたの
か、などが全然思い出せないのは、“心はすでに日本に−−− の心境であったこ
とと思う。 アルタイスクを出て、14日目の5月7日に海が見えた。 沖に日の丸を掲げた大きな貨物船が停泊しているのを見て、今度は間違いなく日
本海だ、と確信した。そこは砂浜の広がる抑留者送還基地のナホトカであった。
すでに多くの抑留者が天幕生活をしていて、われわれもそこへ仲間入りした。
ここでもまだ帰還船に乗せられるまでの間、労働から解放されず、煉瓦積みの作
業に出された。 ナホトカでは、民主教育が盛んに行われていて、2度にわたって、ソ連側の思想
調査が行われ、所持品の検査を受けた。 この時、バラビリャンカ収容所で死亡した戦友の名前と出身地を書いたリストや
ミッシャの書いてくれた住所のメモなど、全て没収されてしまった。 特に彼等は、書いたものについては、どんなものでも徹底的に取り上げた。
バラビリャンカでロ助から貰ったよれよれの紙に、ちびった鉛筆で書き残した亡
き戦友のリストを持ち帰れなかったことを、今でも時々思い出して、“何のための
書記だったのか と、その責務を全うできなかったことで自ら呵責の念にかられて
いる。 ナホトカでは、抑留者の中にソ連側への密告者がいて、軍国主義の抜け切らない
者や反社会主義者などをソ連側に通告して、帰国を延期させられたり、再教育に送
り込まれたりした。 だからわれわれも日常の会話や、行動に随分と気を使った。
少しでも早く帰りたいために、ロ助やアクティブにおべっかをつかう者もいた。
一方、収容所からは毎日、次々と帰国組の戦友達が帰還船に乗るために、船が停
泊している入江まで隊伍を組んで出ていった。 入江の手前に少し小高い丘があって、われわれは“ダモイの丘
と呼んでいた。 収容所からその丘の隊列が、丁度蟻が歩いて行くように見えた。
それを眺め、いつ自分たちがあの丘を越えて帰還船に乗れるのだろうかと、首を
長くして、今日か今日かと 毎日待ち続けていた。 ここで私は厚生部長をやらされて、民主運動の片棒を担く羽目になったが、少し
でも早く帰りたいのは誰でも一緒、私もプラカードや赤旗を振りかざして、インタ
ナショナルの歌を大声で歌った。 ソ連にしてみれば、少しでも社会主義思想を教育し、洗脳して日本へ帰したかっ
たのである。
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