青春の足跡

 今の自由で平和な時代に、過去の戦争を批判するのは容易であるが、その戦争で親兄弟を失い、家を焼かれ、ひもじさの中で終戦を迎えた私たちには、戦争批判の意識を持つことはできなかったし、ましてそれを行動に移せる時代ではなかった。 そして私も、現役召集を受けたのである。


一、軍 隊


1、入 隊

  昭和19年(1944年)9月15日 午後、「現役兵証書」が届く、ついに来たか と思い、すぐに市役所へいく。 夜、寝床に入ってこれからの軍隊生活に思いを巡らせる。 翌日、名古屋の聯隊区指令部へ行き、入隊先が決まる。 (10月1日に千葉津田沼東部第87部隊へ入隊せよ)9月29日、晴れ、召集令状を受け取ってから15日目、今日はいよいよ現役入隊の ため故郷の半田を出発する日である。 入隊通知を受け取ってから友人や近所への挨拶や壮行会のため、忙しい日々を過 ごしたので、この日は朝から殆ど一日中、両親や兄、弟、妹と過ごす。 夕方、17時45分の汽車で国鉄半田駅を出発するために家を出る。 すでに玄関には、見送りの方々が多く来られていたので挨拶をする。 国民服に戦闘帽、日の丸の旗をたすき掛けにして、手には奉公袋をぶらさげて、 「死をもって国に尽くす覚悟、後に残った家族を宜しくお願いします」と、その頃 の誰でもが言うような挨拶をしたような気がする。 家を出て本町通りを通って、見送りの方たちと軍歌を歌いながら駅まで歩く。 半田からは、私のほかにも半田第1尋常高等小学校の同級生で、ブリキ屋の富田 丑造君、魚屋の荒川君、成岩の沢田君達7名が、一緒に同じ千葉津田沼の鉄道連隊 に入隊するので、それ程寂しいとは思わなかったが、このあといつ両親や兄弟に会 えるのかと思い胸が詰まった。 昭和15年に次男の孝兄を戦病死で失っているので母の顔を見るのが辛かった。 列車は17時45分汽笛を鳴らし、黒い煙を吐きながらゆっくりとホームを離れ た、多くの見送りの人達の万歳の声と“勝って来るぞと勇ましく− の軍歌に送ら れて出発した。 多くの親友たちが、東海道線への乗換駅、大府まで送ってきてくれてた。 そこから先は半田市役所の係員と、私のためにミシン屋の小林さんのおじさんが 付いてきてくれた。夜行列車で翌30日朝、東京に着く。 その日は学生の頃に世話になった飯田橋の下宿の根本さんや春木の姉さんの所な どへ挨拶に回る。 10月1日は、入隊の日である。 時間に遅れないように千葉津田沼東部第87部隊の営門前へ集合した。 営門をくぐると担当の下士官が一人ずつ名前を読み上げ、呼ばれた者は大きな声 で返事をして前へ出た。ところがいつまで経っても私の名前が呼ばれず、とうとう 一人だけ残ってしまった。 そこで下士官に、その旨を申し出たところ、 「お前は入隊延期になっているから入隊しなくてもよいから、すぐに帰郷せよ」と 言われたが、万歳と歓呼の声に送られて故郷を出てきたのに今更帰るわけにもいか ず 再度頼み込んで何とか入隊させてもらった。 これは7月に無線の学校を卒業したとき東海汽船 への入社が決定しており、会 社が通信士確保のために入隊延期の申請を出していたためだと思ったが、私のとこ ろへの通知が遅れた為、知らずに現役入隊をしたのである。 しかし、今になって思えば入隊延期して徴用船に乗った学友の大半が戦死してい るので、私のように願い出て入隊し、終戦と同時に抑留されてもこうして生きて帰 れたことは結果的にこの選択は良かったと思っている。 さて、やっと入隊して軍服に着替えて、私物は全てミシン屋の小林さんに持ち帰 ってもらった。 古年兵に教えられながら身の回りの整理や衣服に記名をしたりしていたが、何故 か「1つ星(二等兵)」の階級章は支給されなかった。 この日も翌日も軍務なしで古参の下士官が軍隊の規律の話をしたり雑談などで時 間を潰していた。 そのうちにわれわれは満州の関東軍要員で、明3日満州に転属することになって おり、それまではお客様だということが判った。 その日の夕食は入隊祝いなのか、渡満のための歓送のためなのか、赤飯が出され たがその赤飯が柔らかくてグチャグチャで、それでいておこげの混じったものを箸 でちぎって食べたことが記憶に残っている。


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