3)パン屋

 そこで私は生まれて初めてパンを作ることになった。 何も分からず、一から覚えることになったが、国分さんがとても親切な人で、 細かいことまでよく教えてくれたので意外と早く仕事を覚えることができた。 もっとも、それ程難しいことはない、粉の練り具合(柔らかさ)、発酵の程度 と釜の焼け具合位に気を付ければ何とか焼けるのである。 彼の故郷は 三重県鈴鹿の出身で、家業は豆腐屋とのことである。 彼は、若くて大柄で色の白い好男子だったので一部の者が、バーブチカが彼に 惚れており、私が入ってくると邪魔になるので、拒んだとも云われていた。 私が勤めるようになって、最初のうちはバーブチカも厳しかったが、そのうち に段々と親切にしてくれて勤めも楽しくなってきた。 看護婦のマーシャのお陰で重労働から逃れることができたことを、心から感謝 した。 彼女はその後も時々様子を見にパン工場へやってきては話し込んでいった。 パン屋のバーブチカは、50歳前後で痩せて小柄で、背中をちょっと丸めて歩 くので年齢より、やや老けた感じがしていた。 彼女には自慢の一人息子がいて、やはりプラウダ車両工場で働いていた。 主人は亡くなって息子と2人で、収容所の東側の道路沿いの家に住んでいた。 小さな家で時々遊びにいって息子とも仲良くなった。 ここで作るパンは、収容所の日本人向けの黒パンとロ助の将校向きの白パンで 、毎日の数は大体決まっていて、ひと釜で1個3kgのパンを50個程焼いた。 ここでは、黒パンでも白パンでも、勝手にいくら食べてもいいが、持ち出すこ とはいけないと決められていたが、事実パンを持ち出すことは、バーブチカの監 視が厳しくてなかなかできなかった。 パンを作るには、長さ2m、幅80cm、深さ60cm位の木槽にパン粉(大 麦、小麦、裸麦、燕麦、ライ麦、トウモロコシ粉の混ざったもの)、発酵剤(ド ロジといって、パン粉を水に溶いてそれに一種の草を入れて発酵させた若干アル コ−ル分があって、酸味があり日本のどぶろくのようなもの)それに水を加えて 、槽の隅まで均一になる様に練って、1次発酵させるのだが、この工程が1番き つかった。1次発酵したものを、今度は鉄板で出来たパン型にいれて更に2次発 酵をさせるのだが、この時点でバーブチカが員数点検をして、更に出来上がった パンをもう一度数えるのである。 そこで国分さんと相談の上、一計を考えた。 それは、パン型にいれて発酵させるときに、員数外を作ってパン棚(天井近く まで5〜6段ある)の一番上の奥のほうに置けば、バーブチカは背が低く、死角 となって見えない位置になるので、そこへ隠すことにした。 次に焼き上がったパンも、同じようにそこへ放り上げておくのである。 ここまでは何とか旨く行ったが、外へ持ち出す方法に困った。 バーブチカはいつも定位値に座っているので、大きなパンを抱えて持ち出せば すぐに見つかってしまう。 そこでまた持ち出す方法について考えた末、水を運ぶ桶を使うことにした。 パン工場では、毎日夕方仕事が終わると、天秤桶で運んで部屋の隅においてあ る水槽を満パイしておくのだが、その桶を使って持ち出すことにしたのである。 直径が35cm、深さが60cmくらいの水桶を天秤棒で前後に担いで、毎日 6〜7回は炊事場から運ぶのであるが、その水桶は、ちょうどパンより少し大き く、底にすっぽりと入るお誂えの大きさである。 バーブチカの居ないすきに、水桶の底へ員数外のパンを入れておいて、夕方の 水運びのときに持ち出すのである。 この方法は成功した。 持ち出したパンは、炊事場へ持っていき給食の足しにしたり、劇団“全線座 (後述)の練習が夜遅くまで行われるので、座員の夜食用になった。 パン粉も運びだして、団子汁を作って食べたり、また役者の化粧用に用いた。 そのうちにドロジも持ち出して飲んだ。 お陰で皆に喜ばれ、私も国分さんも盗み出す苦労も忘れて、いい顔をした。 その“いい顔 を随分長い間続けたが、これも遂にバーブチカに見つかってし まったのである。 ある日、バーブチカが水槽の水を飲もうとしたが、空だったので、運び桶のほ うの水を汲もうとして柄杓を入れて、底にあったパンが見つかって仕舞ったとい う次第である。 当然のことながら、国分さんと私は物凄い勢いで怒られた。 その後、時々水桶の底を覗き込むバーブチカの姿が続いた。


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