4)ロシア語の勉強

  そのために少しでもロシア語を理解し、同時に自分自身も生きるための手段と して必要であると、一念発起してロシア語の勉強を始めたのである。 勉強の時間は、収容所の日本人が皆寝しずまった午後10時から作業の割り当 て日報がくる午前2時か3時頃までで、相手は当直の「狼」ことパーシカ少尉や ミーシカ、ニコライである。 場所は衛兵所の中で、最初のうちは何でも手真似と絵である。 例えば魚の絵を描いて「サカナ」と教え、相手は「リィヴァー」と教えてくれ るという具合で、それを毎日毎日作業割り当て日報が来るまで行なったが、なか なか覚えられず、時間の経つのが早く感じた。 その頃の睡眠は毎日3〜4時間だったが、眠いとも辛いとも思ったことはなか った。 おかげで1ケ月ぐらいして、何とか片言と手真似で一応相手に意思を伝えるこ とができるようになったが、その頃、京大出身の原口軍曹(候補生)がドイツ語 (ロ助の将校の中には、独ソ戦の関係でドイツ語を話す者がいた)で通訳をして おり、土井のロシア語より遥かに意思の疎通ができたため、大隊として重宝な存 在であった。 ロ助の中で一番日本語の勉強が熱心だったのは、「狼」であった。 彼は自分から積極的に日本語を習いにきたが、余り記憶力が良くないので、な かなか覚えてくれず、同じことを5回も6回も繰り返し教えなくてはならず苦労 した。 彼は一見、気が強くて負けん気な男で、気に入らないことがあると日本人や歩 哨をよく怒鳴ったりしたので皆から嫌われていたが、私と2人で話し合っている ときは、素直なとても優しい純な男であった。 時折、ソ連軍の視察団や他の収容所の将校達が来ると、決まって彼が案内役兼 通訳を買って出るのである。 外来者の手前、さも日本語が自由に話せるかのように、 「ムライさん、わたし収容所この人見る分かりますか?(村井さん、この人が収 容所の視察に来たので私が案内します)」という調子で話しかけてくるので、 「オーワカリマス」と答えてやると誇らしげに、来客に対して、 「このムライにロシア語を教えてやって、ムライから日本語を習っているので一 応話ができるのだ」と得意げに説明をしている有り様である。 「ムライさん、この収容所、働きよろしい、食べるよろしいネ」とくるので、た とえ意味が判らなくても、 「オー、よろしい分かります」と言ってやると、至極ご満悦の体であるが、彼の 日本語は私以外の人達にはちょっと通じない日本語である。 こうして必要に迫られて覚えたロシア語は、バラビリャンカを下山するころに は曲がりなりにも、何とか日常の会話には不自由のないまでになった。 おかげで在ソ中は、一般の作業にはほとんど出されず、特別な勤務(被服、糧 秣庫係、パン工場など)で過ごすことが出来た。 振り返って見て、福士隊長から副官(書記)という仕事を与えられたことと、 パーシカ少尉から習ったロシア語のおかげで、何とか抑留生活に耐えて今日まで 生き永らえられたものと、今でも心から感謝している。


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