2)食糧事情
われわれはこの収容所に入って「衣」 「食」「住」について誰からも見放され
たような生活を送ったが、抑留された最 初の冬にもっとも多くの死亡者が出たの
13−1 は、ソ連側の受け入れ態勢が不備の上、 抑留された日本人も厳寒のソ連の生活が
初めてで順応できないなど、悪条件が重 なったからである。 その中で特に「食」の不足が、生死を大きく左右した。
収容所に入った最初のうちは、糧秣が届かず1日分の食事として配給されたの
は塩湯のなかに数粒の高梁が浮いているスープが、飯盒の掛盒に1パイと300
g(実際には100g程度であったと思う)の黒パンだけであった。 その後徐々に増えてはきたが、何としても大人が1日の重労働に耐えられるだ
けの栄養はとても得られるものではなかった。 そんな状況のために栄養失調者が続出したのは当然である。
福士大隊長は土井通訳を立てて何度となくソ連側との交渉に当たり、糧秣の増
配を申し入れたがその回答はいつも、「ニエット(駄目だ)」であった。 そのうちにスープの中に、アメリカ製(軍用)のコンビーフが入るようになっ
たが、500人に対して缶詰が1〜2缶支給されただけで、栄養の足しになるよ
うなものではなかった。
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