3)収容所のロ助
監視塔にはマンドリン銃を抱えた歩哨が寒さを凌ぐため、こつこつと足踏みを
したり、時には大声で訳の分からないロシア語の歌をうたっりして、われわれの
見張りをしていたが、凍るような深夜にこの靴音や歌声が妙に冴えて聞こえて、
空腹の辛さと虜囚の身の寂しさに堪えられず、床にもぐり声を殺し頬を濡らした
ものであった。 ここの収容所長は時々顔を出すだけであったが、ワーシカ、パーシカという2
人の将校が24時間交替で収容所に詰めていた。また下士官は3名いたが1名が
24時間勤務で、あとの2名は昼間という勤務を3人交替でやっていた。 下士官の中にカンドバイという蒙古系の男がいたが、この収容所の中では一番
の悪者で喋り方も下品だが、何よりもその歩き方がちょうどゴリラのように前か
がみの蟹股で風貌容姿ともに好感の持てない男であった。また性格が凶暴で日本
人に対してちょっとしたことでもすぐに棒で殴りつける事がよくあった。 そのために誰からも嫌われていた。
下士官のミーシカ(皆はワンパと呼んだ)は、脊の高い痩せた男で早口によく
喋る男で、普段はおとなしいが時々カンドバイの真似をして、棒を振り回すこと
があったがカンドバイのように殴りつけるようなことはしなかった。 下士官ニコライは、やや太り気味で小柄な色の白い、専ら炊事場の担当であっ
たが、われわれと喧嘩をしても泣き出してしまうような気の弱い男であった。
将校の中で特記すべきはパーシカという23歳の少尉で、彼には「狼」という
仇名を付けた。痩身で目が細く目尻が吊り上がって、見るからに意地の悪そうな
面相をしていたので、日本人からは好かれていなかったが、私は、彼を単純な性
格でなかなか愛すべき男であると思っている。 この“狼 が、私のロシア語の先生であり、同時に日本語の生徒であった。
次にワーシカ中尉は、やや年をとった何でも事なかれ主義で済ます痩せた男で
、小肥りした鼻っぱしらの強い嬶天下のマダムと3人の女の子がいた。 所長のニコライフ中尉は、白髪の品のいい将校で息子が高校生で英語(ソ連で
は外国語といえばドイツ語が多く、英語を習う者は余りいない)を勉強している
ことを自慢している子煩悩な男であったが、彼は日本人を良く理解してくれて、
われわれの要求をよく聞いてくれた。 時々一緒に彼の宿舎へ行って、息子の英語の勉強の相手をさせられた。
私の英語は単語を並べる程度のものであったが、結構楽しかった。 終わると小麦粉で焼いたあまりうまくないクッキーのようなものとお茶を出し
てくれた。 私は、この収容所では書記(ソ連の将校や兵たちには「ピーセル」と呼ばれて
いた)として山を下りるまで、ソ連側と作業別による使役人員の割り当てや連絡
係として働いた。 毎日、ソ連側からの作業割り当て日報は、いつも午前2時から3時の間にくる
のが常であった。 そのために割り当て日報が来るまでに日本側の作業可能人員を掌握しておくた
めに、その日の夕食後、各中隊から翌日の作業可能人員の連絡をもらうことにし
ていたが、困ったのはソ連側の作業割り当て日報の人員が、日本側の作業可能人
員を上回ったときの話し合いである。 伐採作業がきつく、食糧事情が悪い為の栄養失調者、酷寒の為に凍傷で歩行困
難な者等、作業に出られないものが毎日増えており、これを幾ら説明しても納得
してもらえず、ついつい大声になり終いには、ロ助はロシア語で、私は日本語で
怒鳴り合う始末であった。 ここで合意すれば、練兵休(身体が悪くて休業している者)まで作業に引っ張
り出されるから簡単に降りることはできなかった。 時には朝の作業整列の時間まで話が付かないことがあった。
そんなときにはカンドバイが棒を振り回しながら、兵舎の中で寝ている兵隊を
叩き起こして、病気や凍傷の程度を見て、自分の判断で作業に引っ張り出してい
くのである。 幾ら抵抗しても実力で病人を連れていかれてはどうしようもなく、自分の無力
さが心底から情け無く思い歯ぎしりを噛んだ。 通訳の土井は、日中の作業や糧秣受領等の仕事があるため、どうしても私がソ
連側との話し合いをしなければならなかったのである。 ロシア語は、抑留の身になって初めて耳にした言葉で、全くの文盲だった。
言葉が通じなければ当然意思の疎通ができず、そのための影響は、すぐに労働
条件や作業人員の割り当ての食い違いに大きく現れてきたのである。 500名の大隊に片言通訳の土井が1名だけでは、ソ連の一方的で横暴な要求
に対して何の抗議もできないのが実情であった。
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