8)死者続出
作業は第1、2中隊が伐採作業、第3中隊はその材木の積載作業であったが、
これはすべてノルマで働かされた。 食糧事情が最悪の中で、ノルマによる労働が無理を生じさせた。
ソ連側からは、作業能率のいい者はハラショラボーター(優良労働者)として
食事の増配があったが、このノルマ制度がさらに死亡者を増加させたのである。
それは僅かばかりの食事の増配を得るために労働過重となって、さらに自らの
体力を消耗させる結果になるという悪循環によるものであった。 ノルマの判定は、ロ助の現場カマンジール(監督)が行ったので、兵隊たちは
彼のご機嫌を取って、一口でも多くのスープを貰おうと無理な作業にも耐えて働
いた。 結果は、摂取カロリーと労働のための消費エネルギーとのバランスが取れずに
過労と栄養不足に拍車がかかった。 さらに特定のハラショラボーターに増配をすれば、収容所に配給される全体の
量は変わらないために、それだけ他の者への給与量は当然減ることになって、結
果的にこれが死亡者を多く出した最も大きな原因であった。 ◎橋本候補生(奈良市出身)の試算によると、当時の支給量は1人/日
673K calで、成人の1日の必要量 2,500Kcalの1/3にも満たないもので
あった。 伐採の作業現場への昼食は、毎日馬橇で運ばれたが、いつも昼を過ぎていたの
で空腹も限界に達しており、飯盒に配られたスープに雪を入れて量を増やして少
しでも満腹感を得ようと工夫をした。 また黒パン(大麦、小麦、裸麦、燕麦、ライ麦、トウモロコシを混ぜて焼いた
パンで、味は酸味がある)は、1個丸のまま来るので、現場で1個250gに切
り分けるのであるが、どうしても大きさが幾分違ってしまうので、手製の天秤ば
かりを使って計り さらにジャンケンで勝ったものから順番に取ることとしたが
、切るときに出た切り屑の処分にまで、皆の血走った目が注がれていた。 ロ助の歩哨達が、一番早く覚えた日本語は「ヤポンスキ−、ジャンケンポイ」
だった。 死亡者のほとんどは栄養失調であり、その進み具合を見ているうちに彼等の死
期はわれわれにも判別できるようになった。 それはまず顔色が青白くなって何となく浮腫んだようになり、続いて今度は腹
部がふくれてくると動作が極端に鈍くなってきて、さらに進行すると話をしてい
ても、その内容が理解できなくなり、何を言っているのかよく分からないような
状態になってくるのである。 そうなるとあと数日の命であった。 さらに、それに拍車をかけたのが虱(しらみ)である。毎日の作業を終えて帰
ってからの重要な日課が虱取りである。その数は並大抵の数ではない。 シャツの縫い目に一列に並んでいるうちは、まだ爪で潰せるが、下着にびっし
りと付くととても手に負えなくなり、シャツをペチカの煙突に巻き付けたり、焦
げるほど炎にかざしてバチバチと焼き殺すのである。 それ程大量な虱に、常に血を吸い取られているのだから、極端に体力が消耗す
るのも当然である。 仕事を終えて、ささやかな黒パンとスープの夕食を済ませ、虱を取った後は、
狭い板張の2段ベッドにごろりと横になって、お互いが家族や故郷のこと、食べ
物のことなどを話し合うのが日課になっていた。 ところが、その話相手をしていた隣の戦友が、翌朝の起床時刻になっても、飯
あげ(給食)時刻になっても起きてくる気配がないので見に行くと、すでに冷た
くなっているのである。 多分本人にしてみれば、死に至る苦痛は何もなかったのではないかと思った。
その安らかな死顔が、ただ一つの救いであった。 また或る時は、作業を終えて収容所への帰り道で、急に枯れ木が倒れるように
ばったりと倒れて、そのまま息を引き取ってしまう者もいた。 その誰もが苦痛の無さそうな温和な顔に見えたが、それは多分顔が浮腫んでい
て、ふっくらしていたためであろう。 これらは特別な出来事ではなく、日常当たり前の出来事として繰り返されてい
たのである。 伐採作業中の事故者も多く出た。 作業は2名で組んで、直径1m位の大木を切り倒すのである。
零下30度から40度の気温で伐採中、斧で倒れる方角を決めてから鋸で切る
のだが、風が強いときには半分近くまで切ったときに凍結している樹が縦にビシ
ッと数mも裂けて、それがTの字型になって頭上に叩き付けてくるのだから、ひ
とたまりもない。 作業に入る前に、雪を掘って避難路を作る様に義務づけられていたが、疲労と
ノルマアップのための時間が惜しくてやらない者が多かったので、咄嗟に逃げ出
すことができず命を失う者もいたが、栄養失調のために体力が消耗していて、行
動が鈍くなっていたせいもあった。 愛知県豊橋市に隣接している二川町出身で近藤伍長という人が一緒にいたが、
彼もこの作業で自分の切った樹の下敷きになって、腕と足を骨折し頭部も頭蓋骨
にひびが入るという重傷を負った。 血塗れの近藤伍長は、戦友達が白樺の小枝を組んで作った急造の担架に乗せら
れて収容所へ運ばれてきたが、柴田軍医と山田衛生兵は、医薬品の何もない中で
骨折個所に添え木を当てたり出来る限りの手当てをテキパキと手際よく行った。
彼を手当てした後、柴田軍医は首をかしげて、 「ちょっと回復は難かしい」と、小声で云った。
それでも2人は懸命な看護を続けた。 その後一時小康状態を保った彼も次のビースク収容所で不帰の人となった。
近藤伍長も自分の余命を予知していたのか、同県人の私に家族の写真を見せて
「もし自分が帰れなくなったら、この写真を家族に届けて、様子を知らせて欲し
い」と繰り返し云った。 こんな生活では、私自身の明日の運命すら分らないと思いながらも、
「そんなことを云わないで一緒に帰ろう」と、励ますしかなかった。 幸い私は無事復員することができたので、すぐに遺族(留守宅は、味噌か醤油
の醸造藏元で、彼のお母さんと奥さんと子供さんが2〜3人居られたと記憶して
いる)を尋ねて、遺品の写真などを渡して、当時の状況や様子など詳しくお知ら
せしたが、生きて帰れたことへの負い目を感じながらの辛い訪問であった。 その後、通知をいただいたので、葬儀(神道)にも列席させていただき、ご冥福をお祈りした。
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